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歴史の参考書で、鎌倉時代に、よく下図の二元政治が出てきます。質問なのですが、

(1) 「公家と武家がそれぞれに統治していた」とありますが、これは、「それぞれ別の地域の公領・荘園を、朝廷は国司を通じて、幕府は地頭を通じて統治をしていた」ということですか?それとも、同じ公領・荘園を両方が統治していたということですか?

(2) また、それぞれ別の地域を統治していたということであれば、朝廷と幕府の「すみわけ」はどのようになっていたのでしょうか?

(3) 「承久の乱」によって、朝廷と幕府による二元政治が終焉した、とあるのですが、このとき「国司」はどうなったのですか?

「公武の二元政治(鎌倉時代)」の質問画像

A 回答 (2件)

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%81%B7%E3%81%AE% …

この辺をざっくり理解しておかないと、現代的な支配の色メガで見ちゃうのでなんだかわからない。


1)一つのところにイロイロな職(徴税権)が存在ていた

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8B%E5%8F%B8

時代が下って武士化した下司の中には鎌倉幕府に従って地頭の地位を獲得して現地に勢力を伸ばす者もいた。

下司として公家の家来であっても、地頭として鎌倉幕府の家来であるほうが自分にとって有利なら、地頭に(も)なっていた。

副業・兼業なんでもありの時代ですので。

2)適当
朝廷と幕府とを対立的に見ようというのは、後の世というか現代的な視点であって、補完しあっていた

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E5%9B%BD% …
東国独立国家論 まで進めば、二元政治になるだろうけど

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A8%A9%E9%96%80% …
こっちに 振れれば そうでもない。

3)国司というか国衙領は太閤検地まである
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E8%A1%99% …
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。

(2)については、「すみわけ」があったように図で示している参考書もありますが、単純ではなさそうですね。

「なんでもあり」ということと、「相互補完的」というご回答が印象に残りました。もちろん「なんでもあり」……「副業・兼業に限らず」と勝手に解釈させていただいて、……ですから、「相互対立的」なものもあったのでしょうね。このことを頭に置きながら、もう少し「鎌倉時代」を読み進めてみたいと思います。

お礼日時:2014/11/09 07:44

鎌倉幕府の守護と地頭の設置は義経を捜索逮捕するために朝廷に認めさせた「日本国総追捕使・日本国総地頭」の任を頼朝が得たことに始まるのです。

その任の代理人として配下の御家人を国司領や荘園ら配置させたのです。その任を「総追捕使・地頭」として全国に警察権を一手に掌握したのです。
しかし、実際の支配権は東国のみで、西国は朝廷の支配権にあったのです。したがって、東国の支配権と徴税権を総追捕使と地頭によって国司からむしり取ったのです。西国ではむしり取ることはできなかったが、軍事行動費として1反当たり5俵の米を取り立てる権利を得て年貢米としていた。これには西国の地頭が関与していた。

「承久の乱」の鎌倉勝利で東国のような支配権が西国までの及ぶことになるのですが、九州においてはまだ十分ではなかった。それが元寇の時に朝廷が国土防衛の義務を放棄したことから鎌倉幕府は有力御家人を九州に配置して国土防衛を果たして、その結果として全国支配を果たしたのです。
後に「総追捕使・地頭」の総追捕使が警察権を持っているので守護になってゆくのです。地頭は年貢に当たる徴税権であり支配権としては弱かったのです。地頭の中にも守護になった者もいるが、主に総追捕使の守護が後の守護大名に成長していったのです。
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この回答へのお礼

 いろいろと教えていただきましてありがとうございました。

お礼日時:2014/11/08 06:32

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