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臆病な将官を連合艦隊司令長官に据えたから、日本は戦争に負けたのではないだろうか。

日露戦争の日本海海戦では、東郷平八郎連合艦隊司令長官は、旗艦「三笠」の艦橋に陣取って全軍を指揮した。指揮官が危険な艦橋にいるということで、全将兵の士気は大いに上がった。日本海海戦の勝利の一因として見落とせない。

しかし、日米戦争で山本五十六連合艦隊司令長官は、旗艦で全軍を指揮したことがあるのだろうか。

劈頭のハワイ海戦(真珠湾奇襲作戦)では、空母機動部隊の旗艦「赤城」に座乗せず、指揮を南雲中将に任せて遥か後方の九州佐伯湾の戦艦「長門」にいた。また、ミッドウェー海戦でも、空母「赤城」に座乗せず、「赤城」の後方300キロメートルの安全な「大和」ホテルにいた。

結局、山本五十六は臆病だったのではないだろうか。そんな山本を連合艦隊司令長官に据えるような海軍の人事システムが、敗戦の原因だったのではないだろうか。

A 回答 (15件中1~10件)

真珠湾攻撃、ミッドウェー作戦、山本長官が陣頭指揮するほどの作戦ではなかったのではないでしょうか?ミッドウェー作戦の大和は、行かないと論功行賞で勲章もらえないからくらいのノリだったようです。


おかしな人事なら南雲さんのほうで、飛行機の運用は全くのシロウト、源田参謀の言いなり機動部隊でした。兵学校の卒業順だったのでしょ。
6機の護衛で前線視察に赴いたのは、死に場所を探しに行ったとも思えますね。

この回答への補足

>真珠湾攻撃、ミッドウェー作戦、山本長官が陣頭指揮するほどの作戦ではなかったのではないでしょうか?

そういう見方もあるのですね。

>ミッドウェー作戦の大和は、行かないと論功行賞で勲章もらえないからくらいのノリだったようです。

南雲忠一中将の「赤城」が率いる空母機動部隊の後方、300キロメートルの安全な海域にいた戦艦「大和」の山本五十六は、長官室で将棋を指したりしていました。

ところで、空母「赤城」の通信傍受隊と偵察機が敵空母の捜索していたとき、戦艦「大和」の通信傍受隊が既に敵空母の位置をキャッチしていたにも拘らず、「赤城」の南雲に知らせませんでした。山本が無電を発信するなと命じたようです。もし発信していれば、ミッドウェー海戦の惨敗はなかったのに、と悔やまれます。


>おかしな人事なら南雲さんのほうで、飛行機の運用は全くのシロウト、源田参謀の言いなり機動部隊でした。兵学校の卒業順だったのでしょ。

南雲忠一中将は、真珠湾奇襲作戦に批判的だったようですね。


>6機の護衛で前線視察に赴いたのは、死に場所を探しに行ったとも思えますね。

私も、そう思います。

補足日時:2014/11/15 22:56
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hinode11さん、こんにちは。



そうですね。日露戦争に勝利してそのおごりから、もう日本に対する脅威がなくなったと錯覚していたのかもしれませんね。俄然緊張感がなくなり、事なかれ主義が横行しだしたのでしょう。ある意味こういう組織にはうるさ型の人材は煙たがられて出世ができません。そこそこの実績さえ残せば、クラスヘッドは無論、次の階級に上がれるし、不祥事は困るというような組織になったと思います。たとえば、戦争が遠のくと、次の問題は予算です。つまり、戦争で勝利する計画よりも政府からいくら予算が増額されるかによって出世が決まってくるようになったのです。
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>山本長官が視察のために一式陸攻の乗ってラバウル基地を発進したとき、長官機を護衛するために同行したゼロ戦は、何と6機に過ぎなかった。

この、異常に少ない護衛機数をどのように解釈するのか。連合艦隊司令長官が最前線を視察するのに、ですよ。

あまり大軍ひきつれて動くと、相手にこちらの動静を察知されて移動中もラバウルも相手の猛攻にあいます。
まああえてそうやって敵を引きつけて戦うのもありでしょうが、それだと視察じゃないですしね。
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まず山本提督臆病論ですが、それは失礼ながらトンチンカンです。

なぜなら、他ならぬハワイ奇襲作戦そのものが臆病者ではとてもできない作戦だったからです。
敵の本拠地に虎の子の空母主力をすべてつぎ込むなんてのは一か八かどころの騒ぎではない超万馬券狙いの大作戦で、もしアメリカが事前に察知して待ち伏せをされたらそこで機動部隊は全滅、開戦1日目にして敗北が確定するというとてつもないリスキーな作戦だったのです。

だから、軍令部はハワイ奇襲作戦を一度却下しています。理由は「あまりにリスキー」だからです。しかし常々「俺ァ海軍辞めたらモナコに行ってバクチ打ちになるんだ」と公言するほどにギャンブル好きだった山本提督がゴリ押しして実現しました。
山本提督よりはるかに「慎重な」タイプである南雲提督はそのハワイに行く道すがら草鹿参謀に「僕はとんでもないことを引き受けてしまった」と現場の独断による作戦中止を示唆して草鹿参謀に「今さらそういうことをいわないでください」と引き留められたのです。

戦国武将の蒲生氏郷は大変に勇猛な武将で、新しい家臣がやってくると「戦場では鯰尾の兜を被った武将が先頭に立っているからそいつに遅れないように」といっていたそうですが、その鯰尾の兜を被った武将こそが氏郷本人だったのです。彼はいつも戦場の先頭に立っていました。
天下人になった豊臣秀吉が、家臣たちに「(織田)信長さまと蒲生氏郷が合戦をしたらどっちが勝つと思うか」と問いました。秀吉の答えは「信長さまが勝つ」。その理由は「もし1万の兵のうちの2千の損害があったら、氏郷はその2千の中に入っている。しかし1万の兵に8千の損害が出ても信長さまはその中に入っていない」でした。

スポーツチームも、企業も、強い組織は役割分担がしっかりしていて監督や社長(CEO)は後ろでどっしりと構えています。指揮官が先頭に立たないといけないのは若い組織のときくらいです。
かつてはラリー界で常勝軍団であったスバルもラリーから撤退する寸前は低迷しました。そのときにテレビ局がチームに密着していたのですが、その番組の中で、あるレースのとき監督が自らタイヤを削る作業をしていました。私はそれを見て「ああ、こりゃ低迷するチームだな」と思いました。
監督にはもっと考えるべきことや決断すべきことがあります。エネルギーはそこに注ぐべきで、タイヤを削るような仕事は部下に任せて監督がやる仕事ではありません。

戦争に勝ったアメリカ海軍の連合艦隊司令長官的な立場にいたのが、ニミッツ提督です。ニミッツ提督は、戦争を通じてただの一度も前線で自ら指揮を執ることはせず、ずっとハワイの基地にいました。さて、これを質問者さんは「臆病」だと思いますか?もし彼が臆病なら、その臆病な彼を大抜擢してずっと司令官にし続けたアメリカ海軍の人事システムは、なぜ敗北を招かなかったのでしょうね?

この回答への補足

>………ニミッツ提督です。ニミッツ提督は、戦争を通じてただの一度も前線で自ら指揮を執ることはせず、ずっとハワイの基地にいました。さて、これを質問者さんは「臆病」だと思いますか?もし彼が臆病なら、その臆病な彼を大抜擢してずっと司令官にし続けたアメリカ海軍の人事システムは、なぜ敗北を招かなかったのでしょうね?

物量に勝るアメリカ海軍だから、ニミッツ提督のやり方でも勝てたのです。日本海軍の山本長官の場合は、陣頭指揮を執るべきでした。

補足日時:2014/11/08 12:54
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hinode11さん、こんばんは。



そうですね。40年くらいの間に戦争のやり方が変化したのです。通信能力の発達で後方にいても指揮ができるようになったからです。ただ、日露戦争の時と違って多大な損害を覚悟して敵を殲滅するような精神がかけていたというのは本当だと思います。「山本五十六は臆病だったのではないだろうか。」これは山本五十六だけでなく、これは日本海軍が組織的目的がなくなり、完全な官僚体質になってしまったということを指しているのだと思いますが、当時の日本海軍全体に蔓延していた体質だと思います。

この回答への補足

>日本海軍が組織的目的がなくなり、完全な官僚体質になってしまったということを指しているのだと思いますが、当時の日本海軍全体に蔓延していた体質だと思います。

同感です、海軍だけでなく陸軍もそうでした。

この「官僚体質」はどこから来るのでしょうか。

補足日時:2014/11/09 11:55
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敗戦の原因?



大本営陸軍部と海軍軍令部という二つの最高司令組織を並立
させていた事。 戦争と言う国家総力戦において頭が二つ・・・
船頭が二人いたのですよ。飛行機も電探も二重開発・・・

余裕の国ならともかく低工業国の大日本帝国では致命的失策。
町工場で親方が二人いる事態。小さな会社で二人の社長・・・
うまく勝負に勝てるはず無いよね。

頭が一つならアメリカへの攻撃は行なわず南方占領を実現。
陸軍は重慶占領作戦を遂行し大陸確保。海軍はソ連攻撃に
そなえ海上封鎖、陸軍のソ連攻撃に航空支援で共同。

大陸とソ連占領地における権益を基にアメリカから軍備、資材
の購入を実現。ソ連を西方に進撃しウラルまで到達する。
アメリカとの大戦争さえ起こさなければ日本の好機だったのだ。

戦争敗北の要因は戦闘の勝利でも何にも得られない海の戦い。
敵の艦艇をいくら沈めても一円の儲けにも成りはしない。
大局で見る戦争なら儲けの無い海軍戦を避け儲けの在る陸軍戦。

儲けの無い戦いをすれば国は疲弊し滅びるのだ・・・・・

この回答への補足

素晴らしいご意見です。わたしも、海軍が戦域をハワイまで広げたのは致命的な誤りだと考えています。


>大本営陸軍部と海軍軍令部という二つの最高司令組織を並立させていた事。 戦争と言う国家総力戦において頭が二つ・・・船頭が二人いたのですよ。

それは言えます。平時は陸海軍並立でも良いが、戦時には、海軍は陸軍の下部組織として位置づけ、陸軍が全日本軍の主導権を握らなければなりません。

政府も同じで、平時は陸軍大臣と海軍大臣が居ても良いが、戦時には、海軍大臣を廃止すべきでした。


>飛行機も電探も二重開発・・・

核兵器も二重開発でした。もし、陸海両軍の核兵器開発プロジェクトが一元化されていれば、日本はアメリカよりも先に原子爆弾を製造して、ロス・アンゼルスあたりに投下してたかも・・
そうすれば、アメリカが無条件降伏したかも・・

補足日時:2014/11/09 10:47
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NO8です。



間違えました。

吉田善吾ではなく、塩沢幸一か、島田繁太郎です。
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山本五十六を別段臆病者とは思いません。



ただ、適材適所という意味では、開戦時の連合艦隊司令長官より、他に仕事があったとも思います。
山本が連合艦隊司令長官になったのは、軍政家の優秀人物を暗殺から守る為に、周囲が海上に逃がしただけであり、まさか、開戦時の連合艦隊司令長官になるとは、予想もされていませんでした。
ただ、真珠湾攻撃は、山本だから、実行できた物です。
また、山本が連合艦隊司令長官にならなかった場合、吉田善吾が連合艦隊司令長官で、山本は軍事参議官、そして予備役になっていたでしょう。
その場合、日本海軍はもっと早く、作戦に行き詰まっていたのではないでしょうか?

東郷平八郎と違いは、
・東郷と明らかに立場が違い、山本は第一艦隊の司令長官を兼務していなかった。
・しかし、真珠湾攻撃航空部隊の士気は高かった。
また、山本が後方にいた事、
・戦場が三次元化していた。
・日本国の優先順位が、南方資源の獲得、安定にあったこと。
・開戦時は、南方作戦の進行、西方のアメリカの動向の両方に対処できる作戦位置と、無線通信のすぐれた位置の確保の為。
・ミッドウェー作戦は、アメリカとの艦隊決戦において、長年積み上げた戦略上の配置位置にいただけの事。
・ミッドウェー作戦の空母敗退は、実践部隊の南雲司令長官が、作戦計画違反を行なったこと。

ラバウルに、他の者に想像もできない様な、母艦機を陸揚げした作戦など、戦略眼はあったと思います。
また、海軍全体に、アメリカとの艦隊決戦の為、艦を温存する思想が徹底されていました。

人材育成さらに行い、もっと人事に介入できれば、ベストに近かっただろうと思います。
これでも、山本は、かなりの抜擢人事を行なっています。

よって、山本は特に臆病ではなく連合艦隊司令長官とは思いません。
また、特に海軍の順当なシステムにより、連合艦隊司令長官になったのではありませんが、その場、その場で順当な作戦を行なっている。
以上より、山本が敗戦の原因ではないと思います。
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戦後70年近く経つのに、幼稚な精神論が出てくることに驚きと失笑を禁じ得ません。


戦争は金持ちが勝つのです。物資も兵力も情報管理能力も、ありとあらゆる面で劣っている日本がどうやって勝つの?
そういう精神論が日本の戦略をガタガタにしたのです。っていうか、最高司令官が前線にいても邪魔だろwww

この回答への補足

とんでもない。精神力こそ重要です

オリンピックの柔道(男)で、階級の数が増えたにも拘らず、日本の金メダルの数は減りました。

(※分子が金メダル数、分母が階級数)
1964年 東京   3/4…75%
1968年 メキシコ 0/4…0%
1972年 ミュンヘン3/6…50%
……中略……
2000年 シドニー 3/7…43%
2004年 アテネ  3/7…43%
2008年 北京   2/7…29%
2012年 ロンドン 0/7…0%

確かに減っているのです。明らかに精神力の差です。昔の人たちの精神力は素晴らしかった。

補足日時:2014/11/09 12:26
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日露戦争は、まだ無線が黎明期で


戦術通信は手旗と信号旗の時代なのだから
司令官は、旗艦にあって発信しなければ交戦できない時代と

無線で交信できた、太平洋戦争とを比べられない

この回答への補足

山本は旗艦の艦橋に立つべきだったとは言ってません。旗艦に乗るべきではなかったのか、と言っているのです。

補足日時:2014/11/08 09:27
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