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「訪れる」を自動詞としている辞典があります(三省堂、小学館、福武書店など)。これらに従えば、人が訪れる場所に対して「を」を使い、人には使えないことになります。小学館の「類語例解辞典」では、「『彼を訪れる』という言い方はせず、『彼の家を訪れる』の形になる。」と言い切っています。
自動詞は目的としての「を」は使わず、 移動(行為)の場所(例:道路を歩く、公園を走る)に「を」を使うのですが、「先生のお宅を訪れる」は移動先・目的地ですが、はたして移動の場所に該当するのかどうでしょうか。
また、時節や状態が訪れる場合は場所でも人でも「に」を使うのですが、なぜ「へ」は使えないのでしょうか。
次に、自他動詞としている辞典(大修館書店、小学館)に従えば、他動詞の場合は人が主語で場所や人に「を」を使うことになります。
両者の違いは、「人を訪れる」と言えるのかいえないのかということになりますが、皆さんどうでしょうか。

質問者からの補足コメント

  • 三省堂の新明解国語辞典と小辞林あるいは福武書店の国語辞典では「訪れる」は自動詞となっており、大修館書店の明鏡国語辞典では「自他動詞」となっています。また、三省堂の大辞林では「① ある場所や人の家に行く。訪問する。 ② (時節やある状態などが)やってくる。 ③ 音をたてる。④ たよりをする。手紙で安否を問う。」 となっており、小学館の「類語例解会辞典」には『「訪れる」は、「訪ねる」とほぼ同じ意味だが、「彼を訪れる」という言い方はせず、「彼の家を訪れる」の形になる。他に、「春が訪れる」「平和が訪れる」のように、ある時期、季節、状態が「やってくる」の意味にも用いる。』となっています。
    これに対して、小学館での「大辞泉」では「1 人やある場所をたずねる。訪問する。 2 季節やある状況がやって来る。 3 音や声を立てる。4 便りをする。手紙を出す。」となっています。

      補足日時:2015/07/01 14:40
  • 「訪問する」「訪ねる」は他動詞なので、もちろん「人を訪問する/訪ねる」と言えます。ところが、「訪れる」(語源は「音擦れるまたは音連れる」)は自動詞という説に従えば、「人を訪れる」とは言えませんが、自他動詞という説に従えば「人を訪れる」と言えることに成ります。

      補足日時:2015/07/01 16:12
  • うーん・・・

    いろいろ考えましたが、次のようなことではどうでしょうか。
    「彼を訪れる人」、「彼に訪れる幸せ」などは違和感がないと思います。
    したがって、ものが主語の時には自動詞で目的地・人に「に」を使うが、単なる移動ではなく一定の作用または影響があるので単なる移動の方向を示す「へ」は使わない。
    「人」が主語のときには一定の意思や目的があり他動詞として場所や人を目的語として「を」を使う。
    ただし、「訪れる」は昔は「音擦れる」または「音連れる」という自動詞だったことから、人を目的とする場合には、ある程度の違和感が生じる場合もある。
    結論的にいえば、ものが主語のときには自動詞、人が主語のときには他動詞で、人を目的にする場合には違和感が生じる場合もある。

    No.8の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2015/07/03 03:25

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A 回答 (13件中1~10件)

『私なりの結論』


 「自動詞」としている「広辞苑」や「古語辞典」(旺文社)が用例としてあげているものは古文が多く、「年ごろ訪れざりける人の、桜のさかりに見にきたりければ、(伊勢物語)「山里人にも、久しう訪れ給はざりけるを」(源・若紫)
などで、自動詞の用法だとわかるようです。
「大辞泉」「大辞林」などネット辞書では、現代語の用例しかなく、「音を立てる」「手紙を出す」の場合だけ古文の用例が挙げてあります。残念なのはもっとも詳しいはずの「日本国語大辞典」を見る環境にないことです。
 ここから導き出された結論は、『本来「自動詞」として使用されていたが、近代以降「他動詞」的に使用する人が出始めた』ということです。
  その傍証として、「を訪れる」で「青空文庫」を検索してみると、81例が見つかりました。

◎全81件の内、他動詞的な使い方をしている例17件(これ以外の例は自動詞的と考えるか、あるいは深く考えていないと思う)

まったく、笑わせる奴だ。先輩を訪れる、先輩と称し、ハオリ袴で、やってきやがる。 坂口安吾「不良少年とキリスト」
妻子の眼には怪しまれず毎日蕗子を訪れるためには、不便な郊外に独立したアトリヱを 坂口安吾「狼園」
昨日の約束もあることで、その日は三千代を訪れるつもりであつたが、とりあへず 坂口安吾「狼園」
切ない放心にとりまかれながら、三千代を訪れる決意を反芻しつづけてゐたのだ。  坂口安吾「狼園」
占めてゐることに驚きながら気がついた。三千代を訪れる張り合ひが影も形も失はれてゐた。 坂口安吾「狼園」
どのやうに自分の心を駆りたててみても結局三千代を訪れることはできなかつた 坂口安吾「狼園」
私が日夜の妄想に悩み孤独を怖れて連日彼を訪れるものだから、彼は私の蒼白な顔とギラギラ 坂口安吾「手紙雑談」
ある朝、此頃静子が次第に自分を訪れる事が疎くなって来たので不安を感じていた 甲賀三郎「支倉事件」
男の識合いが少からずある。それらが頻繁に二人を訪れるのを、アンはすこしでも気が紛れる 牧逸馬「アリゾナの女虎」けれども、翌日から彼女を訪れるものは、やはり横蔵であって、 小栗虫太郎「紅毛傾城」
紹介も無しに突然人を訪れるのは新聞記者か雜誌記者に多いが、 水上滝太郎「貝殻追放 013 先生の忠告」
上ったならば、当然、わたしたちを訪れる人であろうのに……立消えになってしまった。 中里介山「大菩薩峠」
ちょうど私が一燈園に西田天香氏を訪れる前、折蘆遺稿で読んで感動した 倉田百三「愛と認識との出発」
おれはすぐ外出した。ひとりの少年の洋畫家を訪れることにきめたのである。 太宰治「陰火」
男恥ずかしい筆跡で、出発前にもう一度乳母を訪れるつもりだったが、それができなくなったから、 有島武郎「或る女」
説経をした会下僧の、彼を訪れるもあった。薩摩も同様な大隅からは、 原勝郎「東山時代における一縉紳の生活」
所が或る日、何時もの通り水島を訪れると恰度又彼があの不可思議な『眠り』をして 蘭郁二郎「息を止める男」

 ◎上記に含まれた人が自動詞的に使用している例(おそらくこの人たちはほとんど区別していない可能性がある)

わざわざこの難路を訪れるのか。もし、そうであったなら、 中里介山「大菩薩峠」
その後、夜毎に、季節の木草をたづさへて、窓を訪れる習ひとなつた。追々昵懇を重ねて 坂口安吾「閑山」
自身が例外なしにその目的によつてのみしかこの寺を訪れることがないせゐでせうか。  坂口安吾「女占師の前にて」
突然検事が招かれたので法水の私宅を訪れると、彼は憔悴し切った頬に会心の笑を泛かべ 小栗虫太郎「夢殿殺人事件」
太郎岬の上にある、という彼の家を訪れることを決心した。 蘭郁二郎「腐った蜉蝣」
この木部がたびたび葉子の家を訪れるようになった。その感傷的な、 有島武郎「或る女 1(前編)」

 「を」が場所を示している場合をどう考えるかが、やはり鍵になりましょう。

 わたしとしては次のような作者の文体を信用したい気持は強くあります。少なくとも「他動詞派」で目立った「阪口安吾」よりは。
堀辰雄「風立ちぬ」・折口信夫「万葉集の解題」・宮本百合子「禰宜様宮田」・岸田国士「チロルの旅」・島崎藤村「夜明け前」
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二回目


この木部がたびたび葉子の家を訪れるようになった。その感傷的な、   有島武郎「或る女 」
男恥ずかしい筆跡で、出発前にもう一度乳母を訪れるつもりだったが、  有島武郎「或る女」
 岡は決して葉子の部屋を訪れる事はしなかったけれども、この事のあっ  有島武郎「或る女」
まるではじめての家を訪れる時のように、彼はしばらく我が家の前に佇ん 平林初之輔「山吹町の殺人」
紀美子のところへは、自身で訪れる代りに手紙を書いた。    豊島与志雄「一つの愛情」
花が咲き初めるころ、南の暖かい風が吹いて、一雨訪れると鮭の子は、   佐藤垢石「魔味洗心」
福島の役所へ出張するおりなぞは必ず寿平次の家を訪れる。その日は半蔵も  島崎藤村「夜明け前 」
ブウロオニュの森の一隅に、訪れる人もない墓地がある。 岸田国士「仏国議会に於ける脚本検閲問題」
 彼が二度目にそこの病院を訪れると、医者は先日の結果を教へてくれた。   原民喜「氷花」
 私の郊外の家を、訪れる物音といつたら、まづこの不吉な鴉と、 小熊秀雄「小熊秀雄全集-15 小説」
上州へは、秋が殊のほか早く訪れるのが慣わしである。      佐藤垢石「ザザ虫の佃煮」
突然検事が招かれたので法水の私宅を訪れると、彼は憔悴し切った頬に  小栗虫太郎「夢殿殺人事件」
 実際私は訪れるたびに呆れていた、いや訪れることすら避けたかった     織田作之助「道」
何年も逢わない菜穂子さんをこんなところに訪れるような真似が出来たんだろう。  堀辰雄「菜穂子」
四年ばかり前であったか、偶然御手洗邸を訪れると、主人と相対する晩酌の卓上 佐藤垢石「すっぽん」
当然、わたしたちを訪れる人であろうのに……立消えになってしまった。  中里介山「大菩薩峠 」
必ず一度は訪れるものに相違ないが、前者であった日には当てが外れる  中里介山「大菩薩峠 」
ある時病院を訪れると、お前たちの母上は寝台の上に起きかえって窓の外   有島武郎「小さき者へ」
やがて訪れるであろう恋愛の世界に、身も世もなく酔い痴れるのだ     小栗虫太郎「紅毛傾城」
 けれども、翌日から彼女を訪れるものは、やはり横蔵であって、慈悲太郎は、 小栗虫太郎「紅毛傾城」これからは、二人の塚を訪れる者とてないであろう。したが、そもじは気づか 小栗虫太郎「紅毛傾城」
義理人情で苦しんだ人にのみ自由の涼風が訪れるのである。      寺田寅彦「涼味数題」
その夜同じ頃が訪れると、再びまた京弥を女装させつつ、長割下水の屋敷 佐々木味津三「旗本退屈男 」
ひとりの少年の洋畫家を訪れることにきめたのである。         太宰治「陰火」
「時々郷里から訪れる人がありますか」「出身の地とは絶縁の状態、 坂口安吾「明治開化 安吾捕物 」
この仕事場を、ひそかに訪れる気になったのであろう。       邦枝完二「おせん」
敬四郎がほくほくしながらお組屋敷を訪れると、精いっぱいの感謝を  佐々木味津三「右門捕物帖」
その東京の別宅へ、ときどき訪れる婆のことを覺えてゐるだけである。   太宰治「思ひ出」
それは半年か一年さきの当然訪れる運命だったが、その訪れの当然さにも拘らず、坂口安吾「白痴」
その悲愁な謎を解くものが訪れるのではないかと考えられた。  小栗虫太郎「潜航艇「鷹の城」」
籠堂にその人がいると知って、わざわざこの難路を訪れるのか。   中里介山「大菩薩峠 」
 朝 お袋さんが訪れる 村で鼻が高い話 痔はどうかの話  山中貞雄「陣中日誌(遺稿)」
俥が荷物ばかりを積んで、再びなまけ者の住居を訪れるのだった。 長谷川時雨「旧聞日本橋 」
それに遙々訪れると福田氏は必ずお酒を出して御馳走するのです。     石川三四郎「浪」
すつかり大人らしくなつて私のところに訪れるやうになり、それが私には殊に   石川三四郎「浪」
夜毎に愉快さうな微笑を浮べて、この陰欝な部屋を訪れる、さまざまな客  芥川竜之介「南京の基督」
さらに中洲へ廻って、中洲は例のお仙親子の住居を訪れるので、一昨日媼  小栗風葉「深川女房」
私が日夜の妄想に悩み孤独を怖れて連日彼を訪れるものだから、彼は私の蒼白  坂口安吾「手紙雑談」
霞たなびく春が訪れると、いつとはなしに、枯れたとみえる桜の梢には、  高神覚昇「般若心経講義」
十年振りにその町を訪れる機会が来たわけだと、私は多少の感懐を持つた。  織田作之助「木の都」
その傘を再び返しに行くことはつまりはその町を訪れることになるわけで、  織田作之助「木の都」
別所温泉は、信濃路は冬の訪れるのが早いのでもう荒涼たる色が野山に満ちて 長谷川時雨「九条武子」
貧窮と汚毒と邪悪のイースト・エンドを訪れるのだ。白い霧に更けた街  牧逸馬「女肉を料理する男」
あの気色悪い人間の死を訪れることを避ける為には、少くない金をも吝まなかつた。 平出修「公判」
青い河内木綿の合羽に脚絆をつけたままで門口から訪れる半蔵の道中姿を見つ  島崎藤村「夜明け前」
概念とが、どんな幸福な若者の心をも、一度は必ず訪れるに違いない    宮本百合子「地は饒なり」
正香らが店の入り口の腰高な障子をあけて訪れると、左方の帳場格子のところに 島崎藤村「夜明け前 」
それがいつしか泰軒を訪れるというよりも、その席へ茶菓を運んでくるおつるの 林不忘「丹下左膳 」
ちょっと立寄ったとでも云った風に節子の家を訪れると、門をはいったすぐ横の  堀辰雄「風立ちぬ」
訪れる人もすくない寂しい寺院もその一つであった。           島崎藤村「新生」
子供等から全く離れていることもその一つである。訪れるものも少なく、よし有  島崎藤村「新生」
夕方になると共同墓地に葬られた父を必ず訪れる少年の運命にとっ 宮本百合子「心に疼く欲求がある」
松島へ来て瑞巌寺を訪れると、折よく典竜老師が臥竜梅の下で箒を使っていた 中里介山「大菩薩峠 」
男の識合いが少からずある。それらが頻繁に二人を訪れるのを、アンはす  牧逸馬「アリゾナの女虎」
この家にもたちまちにしてランマンの春が訪れる。    坂口安吾「明治開化 安吾捕物 」
参覲交替の季節が訪れると共に、街道を上下の大名行列が数繁くなるや、 佐々木味津三「旗本退屈男 」
たまにしか訪れることのない、そんな異腹の兄がそうやって突然訪れて     堀辰雄「ほととぎす」
人間的苦悩も、すべて人間の真実なる姿は日本を訪れる時がないだろう。    坂口安吾「続堕落論」
ことさらに落ちついているあたり、今に訪れるに違いない禍いのその使者 佐々木味津三「旗本退屈男」
所が或る日、何時もの通り水島を訪れると恰度又彼があの不可思議な『眠り』 蘭郁二郎「息を止める男」どこからとも知れず、通り魔の如く冷たい風が訪れる。そして重たい汗を冷却 小出楢重「大切な雰囲気」行ったかと思う間もなくまた訪れる。どうも年々にスピードを増すようだ。  小出楢重「大切な雰囲気」その気配をいやがり訪れることを躊躇した人々の顔も浮んできた。       坂口安吾「おみな」
女たちがそっと外出をする時とか、内密の人の訪れるところとなっている。 長谷川時雨「旧聞日本橋 」
凡ての社会理論はこの聖地を訪れることによって初めて人間的価値を受け取る。 戸坂潤「道徳の観念」
初秋の風、峡谷の葛の葉を訪れる候に、そろそろ卵巣のふくれてきた大鮎は  佐藤垢石「香魚と水質」
世の精霊たちも、秋のはじめに今一度、人間の村を訪れる事になる。 折口信夫「ほうとする話]
電話をかけるのも気が進まないし、朝から訪れるのもへんなものだし、 豊島与志雄「孤独者の愛」
暮れ易い冬ざれの陽はいつか黄昏そめて、訪れるは水の里に冷たい凩ばかり 佐々木味津三「旗本退屈男」「もうふたたび訪れることはあるまい」 飛行艇が出発する時、南国の花で  海野十三「恐竜島」
様子に見うけられました。料亭阿久津は当分平和が訪れるかに思われたのでした。 坂口安吾「裏切り」
園の訪れる家庭という家庭にはもちろん女がいた。しかしそこに     有島武郎「星座」
日中は山の神の信者が相当数訪れるのである。津右衛門の先妻の子で、 坂口安吾「明治開化 安吾捕物」
そういう評判がたつようになって遠路訪れる病人もあり相当繁昌するようになった。 坂口安吾「明治開化いずれにせよ、当今は訪れる人もなきこの荒れ寺を、よくぞお心にかけて、 中里介山「大菩薩峠」
太郎岬の上にある、という彼の家を訪れることを決心した。        蘭郁二郎「腐った蜉蝣」
私は絶えて春日を訪れることもなかった。 海に面した縁先に、寝椅子を持出 蘭郁二郎「腐った蜉蝣」
紹介も無しに突然人を訪れるのは新聞記者か雜誌記者に多いが、行儀が惡く、 水上滝太郎「貝殻追放」
このあたり野州の山路に毎年訪れる、一名霜鳥との称のある渡り鳥のツグミ 佐々木味津三「旗本退屈男」初冬が山を訪れる季節です。穴に入って春まで冬眠を続けるために、   佐藤垢石「熊狩名人」
稲葉卯三郎が通訳長尾房之助を帯同、政庁を訪れると、ケノン少佐は移民法に接 織田作之助「わが町」
毎日病院を訪れることを約束した。子供達の見えない日には、  坂口安吾「ふるさとに寄する讃歌 」
搾取さへなくなれば人間の楽園が訪れるやうなことを言ふ。  坂口安吾「地方文化の確立について」
それから詩人の墓のあるラロンの村とを訪れることだろう。 が、それはいつのこ 堀辰雄「雉子日記」

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「訪れる」は日常会話には使わない文章語と思いますので、「訪れる」を検索語として「青空文庫」内を検索しました。

考える参考にしてください。(文字数オーバーしましたので二回に分けます。)

夜を教育に耽りはじめているところへ、フト外から訪れる客がありました。、 中里介山「大菩薩峠」
合羽を脱ぎかけているのは、わざわざここを訪れるために雨具を用意して来たのか、 中里介山「々」
その後、夜毎に、季節の木草をたづさへて、窓を訪れる習ひとなつた。     坂口安吾「閑山」
した闇が海と空とを包んでゆきました。 にわかに訪れる夜!  海野十三「太平洋雷撃戦隊」 
この状態で幸恵には何時此の世を去るべき時が訪れるかわからない。此の世にう  知里幸恵「日記」
友だちのところを訪れることも、まれであった。  海野十三「霊魂第十号の秘密」
鯛は土佐沖の深い海底に一冬を送り、春が訪れると産卵のために内海さしての 佐藤垢石「鯛釣り素人咄」今日の昼間のような曇りのない歓びも、もう二度と訪れることがないのではないか 中島敦「光と風と夢」精神の異常な昂揚と、異常な沈鬱とが、交互に訪れる。それもひどい時は一日に 中島敦「光と風と夢」
 朝ごとに訪れる怒りと悔恨が、その日は特別ひどかつた。彼は不快な 坂口安吾「わが血を追ふ人々」
 聞き澄すと、潟の水の、汀の蘆間をひたひたと音訪れる気勢もする。     泉鏡花「鷭狩」
 容易に潤州の張氏の家を訪れる暇がありません。             芥川竜之介「秋山図」
 妾は、あなたが再び妾の許を訪れる日を信じていた。今こそ妾の 吉行エイスケ「バルザックの寝巻姿」ちょっと近所の友人の家を訪れる時にも、かならず第一の正装をするのだ。    太宰治「新郎」
彼等もまた二人か三人ずつに成って思い思いの門を訪れる。この節私は 島崎藤村「千曲川のスケッチ」
 自分の家へ客でも訪れるのかと思うと、それが往来の人々であるには 島崎藤村「千曲川のスケッチ」
僕らを凍らす 粗い日が訪れるとき さまよふ夜よ 夢よ        ※ 立原道造「暁と夕の詩」
 花園の附近にあるマダム・レムブルクの夜の家を訪れる。  吉行エイスケ「地図に出てくる男女」
 そのひとのアパートを訪れると、必ず何か飲み物があった。     太宰治「メリイクリスマス」
やりきれない感じだったが、今療養所を訪れる気持には、いくらかの気休めもあった。徳田秋声「縮図」
そうなると極寒の海に俄然常春が訪れるじゃないか、漁業や交通やその他い 海野十三「地球発狂事件」
 ××××夫人の山荘を訪れる。――だしぬけではおわかりになりますまい。 岸田国士「チロルの旅」
いまだに忘れられぬ唯一の智識なのであるが、訪れるたびごとに何か驚異 太宰治「彼は昔の彼ならず」
僕が彼の豹変ぶりを期待して訪れる気持ちを彼が察して、その僕の期待が 太宰治「彼は昔の彼ならず」
 私の郊外の家を、訪れる物音といつたら、まづこの不吉な鴉と、       小熊秀雄「憂鬱な家」
私にはとうてい、算哲様の墓※を訪れる勇気はございませんでした」  小栗虫太郎「黒死館殺人事件」
 豊かな、喜びの秋が他の耕地耕地を訪れるとき、禰宜様宮田のところへ  宮本百合子「禰宜様宮田」
だらだら雨の日だつた。僕が土地会社を訪れると、係の人はゐた。       原民喜「災厄の日」
 あなたにもおそらくは、こういう明方の訪れることもあるでしょうねえ。 宮本百合子「獄中への手紙」生きてゆく人間の胸に一度は必ず訪れるものは隠遁の願いであろう。 倉田百三「愛と認識との出発」
子供のごとき霊魂を持てる人をふいに訪れることは思慮ある行ないではあるまい。 倉田百三「同」
今ここにある人の心に愛が訪れるとする。その愛がいまだ表象的なもの  倉田百三「愛と認識との出発」ちょうど私が一燈園に西田天香氏を訪れる前、折蘆遺稿で読んで感動した 倉田百三「愛と認識との出発」山を訪れる人々明ければ、去年の正月である。        折口信夫「山のことぶれ」
その目的によつてのみしかこの寺を訪れることがないせゐでせうか。 坂口安吾「女占師の前にて」
 まったく、笑わせる奴だ。先輩を訪れる、先輩と称し、ハオリ袴で、 坂口安吾「不良少年とキリスト」 ある朝、此頃静子が次第に自分を訪れる事が疎くなって来たので不安を感じて 甲賀三郎「支倉事件」
 この坂の上の魔窟町へ最初に訪れる「ほるつがるきぬぎぬ情緒」は、 谷譲次「踊る地平線 」
久しく行かないから、先祖の墓参かたがた訪れるのだと言う。   豊島与志雄「新妻の手記」
今はもう、病院を訪れるには、ヤス子の同伴がなくては恥辱を受けるような不 坂口安吾「ジロリの女」
 私は夜毎、衣子を訪れるたびに、高価なオクリモノを忘れなかった。 坂口安吾「ジロリの女」
 梢はうらぶれて、枯葉疎々として渓流のみぎわを訪れる、というのである  佐藤垢石「酒徒漂泊」
心配事があって海舟屋敷を訪れる時には、玄関の籐イスに腰かけて、  坂口安吾「明治開化 安吾捕物」
本質的な変化が作家の心内に訪れるのを待ち切れないで一気に画風を変へると 小熊秀雄「小熊秀雄全集」春の訪れる度に狂的な精神状態になるということである。つまり 坂口安吾「長島の死」
音信もバッタリ絶えたし、また心配のあまり居所を訪れると、加十は  坂口安吾「明治開化 安吾捕物 」 やがて、末起にも訪れるものが来た。童女期から、大人へ移ろうとする  小栗虫太郎「方子と末起」
やがて三十歳に近づいていたらいてうの許を屡々訪れるようになった青年、 宮本百合子「婦人と文学」
そのたびごとに必ず実隆のもとに訪れるのを例としておった。 原勝郎「東山時代における一縉紳の生活」説経をした会下僧の、彼を訪れるもあった。     原勝郎「東山時代における一縉紳の生活」
落葉を叩きはじめる頃から長い冬が漸く終つて春が訪れるまで、太陽を見る  坂口安吾「気候と郷愁」
B夫人は、マルセイユの親戚を訪れるため、汽車で行くことになった。 豊島与志雄「文学以前 42565」
つまり、遠い処から年に一度村々を訪れる神が、沢山人数を連れてやつて  折口信夫「万葉集の解題」
祖先が伴を連れて幸福を授けに来る。此訪れる神の唱へる文句が、神に扮し 折口信夫「万葉集の解題」
珍らしい羊歯類が多くて、そんな採集家がしばしば訪れるのだ。      太宰治「魚服記」
 君枝は吉村の宿を訪れるのを遠慮していたらしく、       豊島与志雄「鳶と柿と鶏」
それも飲むと眠たくなる代りに気持よい昂奮状態が訪れる。そして桂子   田中英光「野狐」
ある日趙生が久しぶりに、王生の家を訪れると、彼は昨夜作ったと云って    芥川竜之介「奇遇」
竹林の七賢の伝説のある竹林寺などを訪れる者は、松や櫟の立並んでる  豊島与志雄「中支生活者」
聞くまいとしても色んな話が自然と私の鼓膜を訪れる。    谷譲次「踊る地平線 03 黄と白の群像」
しかしいまに天罰が自然に犯人の頭上に訪れると思いますよ。なぜならですね。坂口安吾「能面の秘密」
藪入りの丁稚・小女までが親里を訪れるのは、此風なのだ。    折口信夫「若水の話」
その頃から、私は、つぎつぎと訪れる夢のために殆んど寝ることが出来なかった 蘭郁二郎「歪んだ夢」
極目人煙を見ず、まれに訪れるものとては曠野に水を求める羚羊ぐらいのものである  中島敦「李陵」
秋の訪れる頃、病状言語を絶し、毎朝池袋から省線で巣鴨の方へ    坂口安吾「二十一」
訪れる夜ごとに眠れなくなり、暗闇が悔恨と苦悶にとざされ       坂口安吾「外套と青空」
目的の女も顔を見せた。そこで騒ぐのでも訪れるのでもなく、小りん女房は 長谷川時雨「旧聞日本橋 」
妻子の眼には怪しまれず毎日蕗子を訪れるためには、不便な郊外に独立した   坂口安吾「狼園」
昨日の約束もあることで、その日は三千代を訪れるつもりであつたが、とりあへず  坂口安吾「狼園」
三千代を訪れる決意を反芻しつづけてゐたのだ。 私は三千代のこと      坂口安吾「狼園」
三千代を訪れる張り合ひが影も形も失はれてゐた。もはやそこへ行く     坂口安吾「狼園」
自分の心を駆りたててみても結局三千代を訪れることはできなかつた、    坂口安吾「狼園」
しう歎きわびた気色であつたれば、「しめおん」の訪れるのさへ、何かと  芥川竜之介「奉教人の死」
両年前から飛越線が通じて旅行者が訪れるようになったが、八月から九月へ  佐藤垢石「雪代山女魚」
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この回答へのお礼

いろいろな例文ありがとうございます。

お礼日時:2015/07/07 12:55

No.8でコメントした者です。



 No.8の回答への補足にほぼ同感です。

 ただし下記の部分はなんとも。たぶんそうなのでしょうが……。
>「訪れる」は昔は「音擦れる」または「音連れる」という自動詞だったことから、人を目的とする場合には、ある程度の違和感が生じる場合もある。

 いろいろ考えてみました。
 詳しくは下記をご参照ください。
【「訪れる」と「訪ねる」──自動詞と他動詞〈4〉 辞書】
http://ameblo.jp/kuroracco/entry-12046867126.html
 以下は一部の抜粋(重言)。
 まず修正。「伺う」が他動詞か否かはメンドーな問題になりそうなので、↑から削除します。
 さらに修正。3)なんてありません(泣)。2)です。

 質問者のコメントとダブるのを承知で、まず「訪れる」を辞書でひく。全文は末尾に。
「(人)を訪れる」について考えるなら、ポイントになる部分がいくつかある。
〈人やある場所をたずねる〉(『大辞泉』)
〈ある場所や人の家に行く〉(『大辞林』)
〈「彼を訪れる」という言い方はせず、「彼の家を訪れる」の形になる〉(『使い方の分かる 類語例解辞典 新装版』)

『大辞泉』以外は、「(人)を訪れる」とは言わない、としている。
 そうなのか? さほどおかしくなさそうな例は↑にあげた。
 当方がボンヤリと考えていたことは、No.8のコメントへの「補足」と似ているのかもしれない。
 理詰めで考えていくと、そうなる気がする。

●(人)が「(人)を訪れる」→「訪れる」は他動詞
 いつでも使えるわけではないが、自然な例を考えることはできる。
●(人)が「(物)を訪れる」→「訪れる」は他動詞
 (物)は地名あたりがわかりやすい。
 ex.田中が京都を訪れた
 自動詞だが目的格が「場所」なのでヲでOKという考え方もできるかもしれない。目的格の性質によって動詞の自他がかわっていいか否かは不明。「工場を訪れる」が自動詞で、「工場長を訪れる」が他動詞と考えるのは無理を感じる。

●(物)が「(人)を訪れる」→「訪れる」は他動詞(たぶん)
●(物)が「(物)を訪れる」→「訪れる」は他動詞(たぶん)
 ともに不自然。
「ニ」を使って自動詞にすればフツーになる。
 ex.幸運が田中ニ訪れる。
 ex.春が東北ニ訪れる

 ただし、こういう考え方が成り立つか否かは不明。
 よく見るのは、(物)(人)ではなく、「有意志」「無意志」(言葉はいろいろある)で分ける方法では。
「有意志」なので、動物なども含まれる。車が含まれるか否かは微妙。

 典型的なのは、〈「有意志」は「いる」で、「無意志」が「ある」〉って話。これはこれで、相当メンドー。
「持っている」 「ある」 「いる」【1】【2】【3】 
http://ameblo.jp/kuroracco/entry-11789968959.html 

 このように、主語(と書いておく)が「有意志」か「無意志」かによって○○がかわるって例はけっこうあると思う。
「意志動詞」か「無意志動詞」って考え方もある。
【意志動詞と無意志動詞】
http://web.ydu.edu.tw/~uchiyama/1h93fy/ishi.html
 ただ、主語が「有意志」か「無意志」かによって、同じ動詞の自他がかわるなんて考え方ができるのだろうか。ほかに例が思い浮かばない。
 辞書は省略。


 末筆ながら、OKATさんへ。
>「走る」が他動詞だと思われる例文を考えてください。同様に「見る」が自動詞だと思われる例文を考えてください。
>勿論私には考えられません。その反証がなければ、それぞれ「自動詞」、「他動詞」と考えるべきでしょう。

 そのとおりかもしれませんが、その説明で日本語学習者や初級者が理解できるとは思えません。
 だから当方は「簡単には説明できない」と書きました。
 自他動詞の話は、どこまで言ってもスッキリしないような。
 いっそ↑の動詞はすべて自他動詞にし、目的格が「場所」(またこの定義が難題)のときだけ「ヲ」を伴って自動詞……と考えるほうがスッキリするのかも、と思ったりします。さすがに暴論でしょうね(笑)。
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この回答へのお礼

参考になります。
>主語が「有意志」か「無意志」かによって、同じ動詞の自他がかわるなんて考え方ができるのだろうか。

例えば、「窓が開く」(「窓」が主語で、自動詞。)「彼が窓を開く」(「彼」が主語で、他動詞)

お礼日時:2017/11/25 16:57

>たとえば、所有表現で「~は~があります/います」というのが書いてあって、学生にパターン練習させるのですが、これには違和感があるので、私はこれをスキップしています。


「私は車があります」の場合、学生は「私」が主語で「車」が対象または目的と勘違いするので、「私には車があります」または「私のところには車があります」のほうがいいと思います。これは「車」が主語で、「私」と言うのは車の存在する場所または「車」の所属を表しているのだと思います。つまり、これは所有表現ではなく、存在表現だと思います。

まったく、そのとおりです。「ある」「いる」は存在動詞で、自動詞です。「私にはこどもが三人あります。」「三人います」もあり得るのでしょうが、金田一春彦は「こどもが三人あります。」「お手伝いさんが一人います。」この違いを自分の意志でいるのがお手伝いさん。こどもは意志とは関係なく生まれた、と区別しています。「持っています」という他動詞は使わないのが当然です。相手が「車」なら「持っている」を使えますが、これが所有です。
 「私は」は本来「私には」です。「は」は「に」「で」「を」「と」「より」「へ」「など」「まで」「から」の格助詞に続くことができます。(「が」には付かない。「を」に付くときは「ば」になる。)
 「私は」は場合によって「には」「をば」を含んでいる。したがって、「私には(車が三台/こどもが三人)あります。」は存在ということになります。が、結果的には「所有」にもなると考えていいでしょう。ただ、こどもの所有には抵抗がありますね。だから、「所有」には降れない方がいいかも。
 
 この場を借りてNo.8の方にコメントします。
> 問題は〈なお、〈「を」+動詞〉の形でも、〈名詞+「を」〉の部分が場所を表わすものは他動詞ではない。〉の部分「グラウンドを走る」が自動詞で「グラウンドを見る」が他動詞になる理由なんて簡単には説明できない。
  
 「走る」が他動詞だと思われる例文を考えてください。同様に「見る」が自動詞だと思われる例文を考えてください。
 勿論私には考えられません。その反証がなければ、それぞれ「自動詞」、「他動詞」と考えるべきでしょう。

>以下の例も自動詞なんだろうだな。
  橋を渡る (海を渡る)⇔「渡す」
  街道を行く (野道を行く)
  日本を離れる (港を離れる)⇔「離す」
  海を泳ぐ? (プールで泳ぐ)⇔「泳がす」

 はい、そう思います。( )内は類例、⇔の後は対応する他動詞。

 ◎自動詞・他動詞を考えるとき、役立つ方法
その一、
 対応する自動詞・他動詞が無いか調べる。上記の例で示したように。
 例 トンネルを抜ける  「抜ける」に対応するのは、「抜く」
その二、
 動詞を受動態にしてみる。 日本語には自動詞の受身があり、それを「被害の受身」「迷惑の受身」と呼ぶ。
 例 泣く 泣かれる(迷惑) 
  (ただし、他動詞の受身でも「迷惑」と感じる場合はあります。「人に殴られる」この場合は「~を殴る」が言えるかどうかを考えましょう。)

 別の話題ですが、「現代国語例解辞典」小学館(林巨樹監修)は、自他両用の語を載せています。サ変は含みますが、サ変複合動詞は対象外です。「訪れる」はそのなかに入っていません。(自他両用とは認めていません)
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この回答へのお礼

コメントありがとうございます。
「グラウンドを走る」の「グランド」は動作の行われる場所であり、動作の対象ではないから「を」を使っても他動詞とはならない。「グラウンドを見る」の「グランド」は見るという動作の対象であり、これに「を」を使うのは他動詞という説明は一応成り立つと思います。
「平和が日本に訪れる」「彼が日本を訪れる」の場合の「日本」は、動作の行われる場所ではなく、「訪れる」対象だと思います。したがって、無意志の主語の場合は自動詞で対象に「に」を使い、有意志の主語の場合は他動詞になり対象に「を」を使うという考え方はどうでしょうか。

お礼日時:2015/07/06 20:44

質問者はルーマニア在住ですか。

それでこれだけの国語辞書がひけるのは、すばらしい。日本語を教える立場のかたなのでしょうか。うらやましい限りです。
 自動詞と他動詞の問題に加え、助詞の問題まで含むのですから、超難問です。
 考えをまとめるのに少し時間をください。
 まだまともに資料などにあたっていません。

 現段階では、当方の考えは自他動詞寄りです。
 そして、「(人)を訪れる」は他動詞だと思います。多少制限がありそうですが、「間違い」とは思えません。
 自動詞と考え、「場所」に限って「を」が使える……という考え方も魅力的ですが。
 自動詞と他動詞に関してオネオネと考えたものことから引用します。
【自動詞と他動詞〈1〉〜〈5〉】
http://1311racco.blog75.fc2.com/blog-entry-2936. …
==============引用開始
 下記を見つけた。もしかすると初級者向けとしてはこれがよいかも。
【自動詞と他動詞】
http://web.ydu.edu.tw/~uchiyama/1h93fy/jita.html

 問題は〈なお、〈「を」+動詞〉の形でも、〈名詞+「を」〉の部分が場所を表わすものは他動詞ではない。〉の部分。「ない」は言いすぎでは。「ないことがある」くらいだろう。
「グラウンドを走る」が自動詞で、「グラウンドを見る」が他動詞になる理由なんて簡単には説明できない。

 例外としてあげられているもの。
  駐車場を通る
  電車をおりる
  空を飛ぶ
  グラウンドを走る
  廊下を曲がる
  部屋を出る
  大学を卒業する
 
 以下の例も自動詞なんだろうだな。
  橋を渡る
  街道を行く
  日本を離れる
  海を泳ぐ?
==============引用終了

 質問者がNo.6の「お礼」であげた『日本語文法ハンドブック』の記述もそのとおりだと思います。
 ただ、目的地の場合は少し違いませんか。
「訪ねる」「訪問する」「伺う」が他動詞で、「訪れる」だけが自動詞というのは不自然に感じます。

 さらに、No.2のかたが指摘したOKの形もあるという指摘ももっともでしょう。当方が「人を訪れる」で真っ先に思い浮かべたのは、古い歌です。
http://www.kasi-time.com/item-15496.html
 歌詞は著作権がうるさいので正確な引用は避けますが、要は「(人)を訪れる人が誰もなかった」です。とくに異和感はありません。

 さらに言うと、下記のような例でもヘンでしょうか?

1)彼を見舞いに訪れた多くの人
→多くの見舞客が彼を訪れた

2)挨拶のために彼を訪れた多くの人
→多くの人が挨拶(のため)に彼を訪れた

 もちろん、1)は「彼の病室」のほうが自然、3)は「彼の{もとに/新居に/etc.……}」のほうが自然、と考えることもできるでしょう。
 しかし、上記のような場合に「彼を訪れた」が間違いとは思えません。
この回答への補足あり
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この回答へのお礼

「訪ねる」「訪問する」は他動詞の「尋ねる」「問う」からきていると思いますが、「訪れる」は自動詞の「音擦れる」または「音連れる」からきているので、用法に違いがあるのだと思います。
なお、「彼が日本を訪れる」の場合、「日本」は目的地なので、「動作の行われる場所」に該当するのかどうか微妙だと思います。ものが主語の時には「平和が日本に訪れた」と目的地に「に」をとりますが、人が主語のときには「に」ではなく「を」をとるのは他動詞だからかも知れません。

お礼日時:2015/07/03 00:39

>なお、「甘える」「ほえる」「噛み付く」「あこがれる」は自動詞なので「に」格をとるのだと思います。



おっしゃるとおり、これらの動詞は、「広辞苑」も「明鏡」も自動詞としていますね。
私としては、次のサイトの記事をそのまま、引用したのですが、見当違いであったのかも知れません。

http://www.nihongokyoshi.co.jp/manbow/manbow.php …

 元来、国語「四大文法」と称された、「山田」・「松下」・「時枝」・「橋本」文法のうち松下大三郎氏だけが自動詞、他動詞について述べているだけで、他の三氏は全く言及されなかった。いわゆる学校文法を学んだわれわれは、それについては全く疎かったのです。松下氏も触れたのはよかったのですが、いわゆる自動詞が「を」を受ける形(「道を歩く」など)を他動詞としてしまっています。外国語の教育が広まるとともに、その影響で「自他」の概念が受け入れられたと言います。そのせいか上記の日本語文法のサイトも、ちょっと踏み外してしまっている感じですね。

>他動詞としている「大辞泉」や「明鏡」はその用例を示すべきだと思います。

いえ、「明鏡」は「月に一度は京都を訪れる」「相談事があって田中家を訪れる」を他動詞の用例にしています。しかし、「京都」や「田中家」を場所と考えれば「他動詞」ではなく「自動詞」と考えられます。また、「大辞泉」は「自動詞」とも「他動詞」とも述べていません。しかし、私が勝手に「人やある場所」を「人」と「ある場所」に分けて考え、「人を訪れる」なら他動詞ではないかと言っただけです。他動詞らしい用例は載せていません。
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この回答へのお礼

コメントありがとうございます。
ARCの「日本語教師のページ」には問題がありそうですね。外国人に教える立場ということで軽く考えて、詳しい文法的な吟味やいろいろな辞典を調べることを怠っていると思います。
「みんなの日本語」など外国人のための日本語教科書にはよくおかしな表現が載っているので、こちらで日本語を教えていて、説明に困ることがよくあります。
たとえば、所有表現で「~は~があります/います」というのが書いてあって、学生にパターン練習させるのですが、これには違和感があるので、私はこれをスキップしています。
「私は車があります」の場合、学生は「私」が主語で「車」が対象または目的と勘違いするので、「私には車があります」または「私のところには車があります」のほうがいいと思います。これは「車」が主語で、「私」と言うのは車の存在する場所または「車」の所属を表しているのだと思います。つまり、これは所有表現ではなく、存在表現だと思います。

お礼日時:2015/07/02 23:56

#4です。



>「訪れる」を自動詞とみるのが自然なように見えますね。

自動詞として使われるケースが多い、ということでしょうね。
そして、「心理に変化をもたらす意図が無ければ、人に対しても(自動詞として)使えるのではないか」というのが#4で言いたかったことです。
「晩年、すでに影響力を失っていた彼を鎌倉に訪れる人はほとんどいなかった」などという文であれば、違和感は覚えないでしょう。
大辞泉は他動詞として解釈しているのでしょうか。
人に対して使えるなら他動詞、というお考えだと思いますが、これは見解の相違ということになりそうですね。
私は人に対しても自動詞で使えると思うのですが、専門家ではありませんので、これ以上は反論の根拠を持っていませんから大人しくします。

明鏡の他動詞用例がないことを#5さんが示唆してくださいましたが、訪れる先を単なる移動先と見るだけでなく、「その場所や人を目的にして向かう先」と判断するほうが妥当な場合もある、という考えで他動詞も含めたのだと思います。
まあ、「目的にして向かう」か否かの境目は微妙ですから、一概にどちらとも言えない部分はあるのでしょう。
「毎年、祇園祭を見るためだけに京都を訪れている」などであれば、多少は他動詞用法と言っても良い例文に近づけたかもしれません。
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この回答へのお礼

コメントありがとうございます。
「を」格というのは「他動詞でその目的に使われる場合と、自動詞で通過する場所、経過する時間、離れる対象、動作の方向を表す場合に使用する。」となっています。(日本語文法ハンドブック)
この考え方に従えば、人に「を」を使う場合は他動詞ということになります。
「彼を鎌倉に訪れる」には少し違和感があります。この場合は「彼を鎌倉に訪ねる」のほうがいいと思います。
「京都を訪れる」は場所に対していっているので、自動詞で問題ないと思います。

お礼日時:2015/07/02 22:16

これはいい質問ですね。

しかし、ちょっと難しい質問でもあります。質問者が例に挙げられた辞書の内、「自動詞」説のものはいいのですが、「明鏡」は他動詞をも認めています。しかし、その用例を見ると、「毎年、京都を訪れている」となっていて、場所を表すので自動詞説と同様です。「大辞林」は「ある場所や人の家」であり、これは自動詞と考えてよさそうです。
 しかし、「大辞泉」だけは「人やある場所」となっていて、これは明らかに「人」と「場所」を対等に扱っています。(まさか「大辞林」を真似ようとしたが、少しは替えなければと思ってこうなってしまったのかも。)ただ、「人」の用例は載せていないので意味不明です。「広辞苑」も「自動詞」としていますので、「大辞泉」を除いては、「自動詞」と見ていいようです。

   [「訪れる」と意味がよく似た語]
 訪(おと)なう⇒自動詞
 訪ねる⇒他動詞
 訪問する⇒サ変複合動詞・他動詞か
 伺う⇒他動詞
 訪(と)う⇒他動詞

 一般に「他動詞」ついては
『動詞の中で、他者あるいは対象に働きかけを示すものを他動詞という。他動詞の多くは「ヲ格」補語を必須とする。「薬を飲む」「経済学を学ぶ」など。他に「甘える・ほえる・噛みつく・あこがれる」などは「ニ格」補足語を必須とする他動詞である。「いつまでも親に甘えるな」「あの犬はよく通行人にほえる」また、「外国人に日本語を教える」のように、「ニ格」と「ヲ格」の補足語が同時に必要なものもある。』
 また、「を」」を伴っても次のような場合は例外として自動詞になります。
•「駐車場を通る。」:駐車場=場所・「通る」→自動詞
•「電車をおりる。」:電車=場所・「おりる」→自動詞
•「空を飛とぶ。」:空=場所・「飛ぶ」→自動詞
•「グランドを走る。」:グランド=場所・「走る」→自動詞
•「廊下を曲がる。」:廊下=場所・「曲がる」→自動詞
•「部屋やを出でる。」:部屋=場所・「出る」→自動詞
•「育達大学を卒業する。」:育達大学=場所・「卒業する」→自動詞
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この回答へのお礼

ありがとうございます。参考になりました。

「訪れる」は自動詞というのが、有力な感じですね。他動詞としている「大辞泉」や「明鏡」はその用例を示すべきだと思います。
なお、日本語では「を」格を二重に取れないので、その場合に人を「に」格にするのだと思います。
私の住んでいるルーマニアでは、「質問する」などは二重対格動詞で、人にも物にも直接目的を二重に取ることができます。
なお、「甘える」「ほえる」「噛み付く」「あこがれる」は自動詞なので「に」格をとるのだと思います。

お礼日時:2015/07/02 20:39

他動詞は、ヲ格をとる対象に【働きかける】という要素が必須ではないかと思います。


さらに言うなら、働きかけた結果、対象に何らかの変化が生じるような動詞。
「訪れる」にそれがあるかと言えば、無い場合がほとんどであり、その意味で自動詞と言って良いように思うわけです。
単に、主体が移動する先、というニュアンス。
対象に変化は生じない。
これが「訪ねる」となると「尋ねる」と語源が同じということからも類推可能なように、相手の心境・心理に変化がもたらされる、といった解釈になるのではないかと思います。
この意味で、自動詞の「訪れる」は対象が場所に限定されるのであって、人に対しては(心理に変化をもたらしてしまうので)使えないというのは、たしかに基本かもしれません。
しかし、逆に考えると、心理に変化をもたらす意図が無ければ人に対しても使えるということも言えそうです。
昔、悲しみよこんにちは というサガンの小説があったと思いますが、あれも、悲しみが意図して主人公に迫ってくるわけではない。
いつか知らぬ間に忍び寄ってくる悲しみ、といったニュアンスだったと思います。
こうした場合、「悲しみが彼女を訪れた」という表現は可能ではないだろうか、と思う次第です。
これに伴い、#2の『(「 [ 人 ] を訪れる」という言い切りができないのは)ただ、これは、あくまで終止形の場合のような気がします。』という記述は、『ただ、これは、あくまで終止形(現在形)の場合に限られるような気がします。』のように訂正する必要がありそうです。
お詫び方々、補足させていただきます。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。参考になりました。

「訪れる」を自動詞とみるのが自然なように見えますね。ただ、一般の人に聞いた場合では、「を」をとる場合は他動詞という意見が少なくありません。(自動詞でも場所には「を」をとるとは考えない人もいるようですが。)
「悲しみが彼女を訪れた」という表現はよさそうな感じですが、「彼女を悲しみが訪れた」とすると違和感があります、「彼女に悲しみが訪れた」のほうが違和感がないと思います。

いずれにしても、「訪れる」は少し特殊な動詞で、自動詞と他動詞の狭間にあるのではないかと思います。

お礼日時:2015/07/02 20:16

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