信仰とは、自己否定による自己実現だと思います。
自我によって生きている人間が自己否定をするには、それなりの理由が必要になるはずです。
その理由の最たるものが神なのでしょう。
具体的には、たとえ自己否定しても、神の懐に抱かれている(抱かれる)のだから結局は自己が自己として生きている(生きる)ことになる、つまり自己実現が果たせる、といった理屈が成立しているように思います。
しかし、神が(能動的に)「抱く」という動作をするはずは(恣意的な主体としては存在しないのだから)ありませんし、「神の懐に抱かれている」と思い込むことが自己否定の本当の理由になっていると言わざるを得ないでしょう。
自ら、そう思い込みたいという人が、まずいると思います。
合わせて、そう思い込むよう積極的に誘導しようとする人もいます。
この両者に焦点を当てた上で、自爆テロを哲学すると、どうなるでしょうか。
信仰者と神
信者と宗教
などにも関連させて考えていますが、自由にご発言いただければ、と思います。
独断的に咀嚼させていただきますが、言葉遊びにならないよう、あなたの目の前にいる自爆テロ志望者を思いとどまらせる論理にも使える方向で、お考えいただければ幸いです。

質問者からの補足コメント

  • #6お礼欄からの続きです。

    >私は信仰について距離を置いていますが、信仰がある人にも敬意をもって社会生活を営みたいと考えております。

    全く同感です。
    ただ、どうなんでしょう。
    神を信じる人は、たとえば、キリストを信じる人はアラーを信じる人に対して寛容ですかね?
    私は、むしろ逆の印象を受けます。
    つまり、信仰者ほど、(自分と同じ神を信じない)他者に敬意を払わない確率が高いのが実態じゃないかな・・・と。
    ま、こんなことを感想や推測で言ってはいけないのかもしれませんが。
    戦争は、
    アラーの名の下に!
    主イエスの思し召しのままに!
    行なわれる場合が多いような気がするんですが、勘違いですかね。

    No.6の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/01/08 22:45

このQ&Aに関連する最新のQ&A

A 回答 (26件中1~10件)

我々の身の回りの衣食住、どれも世界中からやって来ている。


人類は、既に一人では生きられない社会生命化しているのだ。
そこにおいて、世界の順調な営為のみが全ての人に福利を
もたらす。
しかし、そうした分業化&組織化をする上で、自己の生命の
社会的拡張を自覚化して自律的に(愛において)社会行動を
とれるだけの認識の深まりを怠り、お金や出世といった
“馬車馬の目の前のニンジン”によって他律的に社会行動を
とらせる方法論をとったために、個々の意識としては弱肉
強食の疑似ジャングルとなっている(結果的には助け合っ
ていながら)。
そしてそうした「個々の意識」が社会的ハンドリングに作用
する政治家も、同様に拝金主義や権力欲におかされた結果、
その短絡的利権を守る国家という枠組みに固執し、誰の利益
にもならない武力による解決という結論を導き出すのだ。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>人類は、既に一人では生きられない社会生命化しているのだ。

本質に近いところを突いていただいたように思います。
私はよく、鰯の群泳を思うのです。
大きな群れで泳いでいるところに、マグロが突っ込んできて、不幸な数十匹が呑みこまれてしまう。
この不幸なイワシは、良くも悪くも、群れで泳ぎ続けている中の誰かだったかもしれないはずです。
これは感傷ではなく、真理だと思うわけです。
こうしたことを、我々人間は忘れているのかもしれない、と。

>お金や出世といった
“馬車馬の目の前のニンジン”によって他律的に社会行動を
とらせる方法論をとったために、個々の意識としては弱肉
強食の疑似ジャングルとなっている(結果的には助け合っ
ていながら)。

珍しく(と言っては失礼ですが)、非常によくわかります。

>政治家も、同様に拝金主義や権力欲におかされた結果、
その短絡的利権を守る国家という枠組みに固執し、誰の利益
にもならない武力による解決という結論を導き出すのだ。

なるほど。
まあ、しかし、政治家は国民の鏡(鑑ではなく)ですからね。
やはり、我々自身に返ってくる問題なのでしょう。
さて、では、具体論としては、どうすべきか・・・。
ということになりそうですね。

お礼日時:2016/01/08 23:12

★ (№22お礼欄) 超自我性の本質は抑圧なので、無意識の納得が得られないまま


発揮させても必ず反動がきます。
★ (№19お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~
〔神に祈り願うその願いが〕 仮に普遍神には届かない(=普遍神の場合は 届くかど
うかが分からない)ものだということを理解したとしても、他の神を信じる作業を一か
らやり直すことになるはずです。
つまり、信仰者にとっては、届く神が必要なんだと思いますね。
ですから、最低限、ここからはじめていただかないと(言葉遊びでないなら)意味が無
いようにも思うわけです。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ ここで
 無意識の納得を得る得ない(つまりは ムイシキなる独立部位があるという仮説)
とそして
 願いが届く神を必要とする(つまりそういう〔あやまった〕神の仮説)
とは 同じ思考回路にあると申し上げています。

ムイシキ説のほうは 《トラウマの完治なる願いは叶えられない》という消極的なかた
ちでやはり観念の海の中を永遠に泳いでいるという人間の存在論なのだと見て批判しま
す。

これは 普遍神としてその定義から妥当にみちびかれる《無い神》を こんどは風呂井
戸さんが やはり《観念の神》として立てた。その神をおのれの思考や想像によってあ
やつっている。だけだという思考の回路でしょう。



その観念の像に恣意性を期待しうると思い込むことになる《観念の神》は どこまでも
《思考の緑野(および感性の原野)》なる領域だけの問題だと自爆テロリストの人たち
にはつたえることが 最良の方法だと考えます。文学・心理学あるいはSFの世界の中
に閉じ籠った恰好なのだと。

もしなんなら 普遍神に願いを込めて祈ればよいのです。
届かず願いは叶わないとしても その理由がヒラメキをとおしておしえられ 自分たち
や世界の情況が分かるようになること 請け合いだからです。
神とは そういうものです。

なお神はひとが祈る前にそのことは知っているわけです。これが 普遍神です。だから
祈る必要はないと知ることができます。非思考の庭は 思考の緑野なる海面から首の上
だけは出しているわけです。永遠に泳ぎつづけなければならないとしても。

このスレッドに添えたいと思っての投稿です。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>ムイシキなる独立部位があるという仮説

たとえば意識して何かをすることはあると思います。
しかし、意識しないで何かをすることもありますよね?
これを便宜的に無意識と呼ぶだけでして
>仮説

ではありません。
見たことも《無い神》とは成り立ちが異なります。
また、都合よく作られた
>定義

によって証明されたものでもありません。

>もしなんなら 普遍神に願いを込めて祈ればよいのです。

それはどうでも良いのではないですかね。
問題は、自分だけの普遍神が存在すると思い込んでいる点でしょう。

>届かず願いは叶わないとしても その理由がヒラメキをとおしておしえられ 自分たち
や世界の情況が分かるようになること 請け合いだからです。

そういうことを求める人が、信仰に走りますかね?
ま、新たな質問を立てましたので、よろしければ、また、そちらで。

>神とは そういうものです。

(わかりやすい)根拠を示すことが肝要でしょう。

お礼日時:2016/01/11 23:07

♯25猪突先生、



 ご整理、ありがとうございます。改めて理解しつつ、大変勉強になりました。結局、宗教の何が危険かという議論は、どのくらい自分が宗教組織と関わって来たかで考える必要があると考えておりました。理論として過激な箇所のみをピックアップしてくると、いかなる宗教も大変、過激で奇怪なものに見えて参ります。それよりはむしろ皮膚感覚でつかんだところを大切にしていってよいのではないかと思っておりました。猪突先生はどこかで次のようなことを書いていらっしゃいましたーーアメリカ人で宗教とうまい距離を置き、テレビドラマのニューヨーカーのように合理的な発想で生活している人は全体の数%だと。私はこれが卓見だと思っております。

 私はアメリカは詳しくありませんが、クリント・イーストウッドの映画では『ミリオンダラー・ベイビー』をはじめ、相談役として司祭が出てきます。地域の倫理観をまとめる役です。彼の映画では、一般の人は司祭のように考えるだろうけれども、それを超えたところで正義を考えないとならなくなったという語り口をとります。裏を返せば、それだけまだ司祭の存在が無視できない存在だということです。私が信仰と距離を置けているのは、私が都会育ちで、大卒以上で、宗教などなくても自分の頭で判断していきていけるからです。つまり宗教以外の出口が見えているということです。しかしだからといって、万人がそうできるわけでもないのです。

 日本は宗教には寛容で、おっしゃるように「何事のおはしますをばしらねども」という状態でも、神に敬意を払えるメンタリティを持っております。だから欧米では頭に血が上ったように大騒ぎになった時も、「まあまあ」と適度な距離を置けるのかも知れません。宗教そのものを危険視するよりは、宗教それ自体は大枠で認め、イスラム教ならその宗派内の問題として内部でどうにかしてもらいたいとするのが、良いのではないかと思っておりました。イスラム教もキリスト教も、長く続いて来た宗教ですから、自浄作用はあることでしょう。

 以上は私の考えに過ぎません。おそらくハコブルさんは私とは違った体験をなさっているのだと想像しております。しかし統治システムとしての宗教が持つ問題点については、ハコブルさんが新しく質問を上げて明らかにしていくとのことでした。また勉強させていただきたいと思います。(そして理論だけではなく、ハコブルさんのご経験も書いてくださると、納得もできますし、勉強になるかもしれないと申し添えておきます。この事象は、理論として超越論的な水準で明らかになることなのか、経験として場当たり的に明らかにするべきことなのか。哲学として考えた際、中間地点ではないでしょうか。)
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>イスラム教もキリスト教も、長く続いて来た宗教ですから、自浄作用はあることでしょう。

そう期待したいところですね。
ただ、宗教と言いますか信仰と言いますか、これはどんな人にも兆す事柄なのでしょう。
神関係に限らず、信じるということの功罪について、素人ながら考えてみたいと思いますが、とりあえず、その前段階としていろいろ教えていただいております。

>しかし統治システムとしての宗教が持つ問題点については、ハコブルさんが新しく質問を上げて明らかにしていくとのことでした。

ご期待に沿える内容ではないかもしれませんが、新たな質問を立てさせていただいております。
よろしければ、また教えてください。

>ご経験も書いてくださると

キリストが救い主という意味であることさえ知らなかったほど、宗教とは無縁の一市井人ですので特に開陳させていただくような経験は無さそうです。

お礼日時:2016/01/11 22:51

>神が絶対であるという空虚で根拠の無い設定自体を改定」するためには、根拠がない理由を論理的に理解しておくおくことが必要なようにも思うのですが、みなさんの思考過程で何か浮上してこないだろうか、という期待もありますね。



神が絶対であるとか普遍であるなどという設定は、実に人間が想定した神の姿です。そういう存在が欲しい、あるいはそんな存在に見守っていて欲しい、そういう欲求が神の姿を変えたのだと思います。
そんな人々の願いを知ってか、古代、王は神の威光をもって民衆を支配しました。王の権威を強化するために絶対や普遍といった特徴を神に付与したというのもあるでしょう。

さて、ここで私の思ったのは、絶対というものに惹かれる人間の欲望や心の弱さに、テロリズムは端を発しているのではないかということです。絶対であれ、普遍なるものであれ、それらはそんなに良いものでしょうか?そんなに絶対普遍が良くて、独り立つことが嫌なのでしょうか?この辺から、神が絶対であるという設定を立てる動機のあやふやさを指摘できるかなと。そして、そこら辺の指摘からテロリズムに至る人間の心理を読み解くことが出来るかもしれません。
そもそも、絶対性や普遍性を求めるのは、皆が皆とは言わないまでも、人間の性であり常套であります。なぜ人間は絶対性や普遍性を求めるのだろう、そう考えた時に、自身の価値を見損なっているからではないかと思い至りました。
要するに、自信が持てないから絶対である神を頼る、自分で解らないから神の叡智なるものを想定しそれにすがる、自身で行動原理や自他への信を確立できないがために、神をもってそれに代用する。
或いは、虎の威を借りてしまえばたいていの動物は頭を下げるか尻尾を巻きます。神の名を出せば臆病で狡い自分を正当化出来る、そのような心理が働いているのかもしれません。

唯一絶対神への信仰は自己放棄につながり、自己放棄はまさに自己放棄である自爆テロリズムに結びつく危険がある、こんなところでしょうか。こういった信仰は支配によって虐げられた人々の心理にうまく作用し、社会的弱者をコントロールするのに役立ちます。

しかし、どの宗教や信仰でもそうですが、それが裏目に出る人と、信仰心があってしかも人として真っ当に生きてある人もいるように、結局は個人の性向というものを無視することは出来ません。ですので、上述のことはそれを一般化した時に見られる傾向ということで、記述させていただきました。

自爆テロリストという狂信者になってしまうまでの心理の変遷は、十分な研究対象になるでしょうから、そういった文献を当たるのも良いのかもしれません。

当たり前のことしか言えませんでしたが。。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>絶対であれ、普遍なるものであれ、それらはそんなに良いものでしょうか?

個人的には、そう思っています。

>要するに、自信が持てないから絶対である神を頼る、自分で解らないから神の叡智なるものを想定しそれにすがる、自身で行動原理や自他への信を確立できないがために、神をもってそれに代用する。

なるほど、そうした側面は、たしかにあるかもしれません。

>唯一絶対神への信仰は自己放棄につながり、自己放棄はまさに自己放棄である自爆テロリズムに結びつく危険がある、こんなところでしょうか。こういった信仰は支配によって虐げられた人々の心理にうまく作用し、社会的弱者をコントロールするのに役立ちます。

たしかに、これもおっしゃるとおりと思います。

>しかし、どの宗教や信仰でもそうですが、それが裏目に出る人と、信仰心があってしかも人として真っ当に生きてある人もいるように、結局は個人の性向というものを無視することは出来ません。

バランスのとれたお考えで、正論だと思います。
河岸を変えておりますので、よろしければまた教えてください。

お礼日時:2016/01/11 22:37

#9関連で。



ここまでのiacta-alea-estさん(サイコロさん)の一連の回答を読ませてもらいました。やり取りの流れの中でのサイコロさんの整理は、周りの不必要な形容詞を取り除いてくれて問題点を浮き彫りにしてくれるので、突っ込みどころも見えてきて有り難いです。

信仰って、先ずその信仰の対象があるのかも知れないとの仮説を立てた者が、その仮説の正当性の試みの中で、何度も自分で描いた仮説を修正しながら進展して行く行為ではないでしょうか。だから、その仮説に組することができない者には全く意味のない行為だと思います。

#9の回答のお礼の中の、

>>しかし地域内の平和・秩序・安定であれば、統治システムとして、宗教はある一定程度、優秀ではないか、と私は考えております。

>微笑を込めて申し上げたいのですが、実は、ここに全ての悪の温床が存在しているのではないか、と疑っています。

に引っ掛かりました。ご存知のように、現在の世界を眺めてみると、儒教が徹底的に染み付いた文化に育った人たちは、悪しき意味で個人主義的、自己中心的で、社会の体すらなしておりません。これは、人類の発展史の中で、未熟な段階で小賢しくも宗教に基づいた統治システムを否定してしまったところにあると私は考えております。

樊遅知を問う。子曰く、民の義を務め、鬼神を敬して之を遠ざく。知と謂うべし、と。

(樊遅が知恵について孔子に尋ねると、孔子は答えて言った。人としてすべきことを行い、死者の霊魂のことは、それを敬いながらも遠ざけておく、それが知恵ということだ)

敬遠の語源でもあります。

>信仰を持つものに対して敬意を払いたいが、、、

という言葉に、それでは信仰をどう捉えるかに、サイコロさんとハコブルさんの違いが現れているように思えます。法治主義に対する人類の進化の遅々とした成り行きを認め、現在も含めて、それが功を奏する以前の未熟な段階での信仰の役割を認めようではないか、と言う謙虚な立ち位置がサイコロさんの主張のように見えます。それに対して、極端な物言いになることを承知の上で、「ここに全ての悪の温床が存在しているのではないか」と仰るハコブルさんは、現在の我々のレベルを買いかぶり過ぎた、孔子様のような不遜な立ち位置に私には見えます。

ハコブルさんの意見とは反対に、現在においても人類の経験が途轍もなく未熟であるということを認めず(あるいは気がつかず)、その現在の未熟なレベルの頭脳が生み出す理念に全面的な信頼を置いてしまい、「自分は理念を信じ、鬼神を敬うが遠ざけているのだ」という不遜な態度に、全ての悪の温床が存在しているのではないか。欧米を含めた、儒教の影響が色濃く出ていない他のほとんどの地域では、宗教に頼る未熟さ故に、鬼神を遠ざけた文化よりも道徳の深いレベルでその人たちが信用できると思っているのですが、どんなものでしょうか。

 何事のおはしますをばしらねども かたじけなさに涙こぼるる

に象徴される日本人の信仰心は、世界的に日本人が信用されていると言う事実の重要な根拠になっていると思うのですが、如何なものでしょうか。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>信仰って、先ずその信仰の対象があるのかも知れないとの仮説を立てた者が、その仮説の正当性の試みの中で、何度も自分で描いた仮説を修正しながら進展して行く行為ではないでしょうか。

おっしゃるとおりと思います。

>現在の世界を眺めてみると、儒教が徹底的に染み付いた文化に育った人たちは、悪しき意味で個人主義的、自己中心的で、社会の体すらなしておりません。これは、人類の発展史の中で、未熟な段階で小賢しくも宗教に基づいた統治システムを否定してしまったところにあると私は考えております。

少し意外な印象を受けましたね。
『地域内の平和・秩序・安定であれば、統治システムとして、宗教はある一定程度、優秀』という考え方が、宗教間の対立をもたらす本質的な要因ではないか、と思うわけですが、違いますかね。
有体に言えば『ある一定程度』ではすまなくなっているのが現状ではないだろうか、ということですが。

> 何事のおはしますをばしらねども かたじけなさに涙こぼるる

に象徴される日本人の信仰心は、世界的に日本人が信用されていると言う事実の重要な根拠になっていると思うのですが、如何なものでしょうか。

謙虚さは必要でしょうが、闇雲な謙虚さは、むしろ真理に対する冒涜と言えそうな気もしますね。
単なる感想ですが。

いろいろ参考になりました。
河岸を変えてますので、よろしければまた、教えてください。

お礼日時:2016/01/11 22:25

1. ベッキーが不倫をしています。

(推測ですが 事実でしょう)。

2. いま神を持ち出さない議論としては 次のような構図になります。:

(あ) 不倫とは 不倫相手の配偶者の意志と心を踏みにじる意志行為である。
(い) 不倫相手は 自分の配偶者に対して同じくその心を踏みにじり裏切りを侵すこ
とになる。
(う) 不倫する独り身のほうはそのような配偶者への裏切り行為をそそのかしている。
(え) だから ベッキーはその恋愛が不倫だと分かって時点で やましさ反応が起き
たはずであり ふつうはそのような心の声にしたがって 踏みとどまる道をえらんだは
ずである。

3. ここでもし神を持ち出したとしたら どういう思考が展開されるか?

(お) 普遍神ではなく観念の神のばあいである。
(か) その違いは こうである。普遍神を心(ただし非思考の庭)にいだく場合はそ
のときも 確かに他力である。けれども 絶対他力である。だから その他力なる何も
のかに 祈り願いを言うことはあっても そこには絶対のへだたりがあると知っている。
(き) ところが 観念の神の場合には 何しろ観念の世界が――広大な想像域として
その人のあたまの中に広がっているからなのか――あたかも自由自在にその神のチカラ
やハタラキの発揮される場だと思っている。つまり 神に《恣意性を期待する》。

(く) ベッキーは その神に確かに《恣意性》を期待し ひとつには 不倫をやめる
ように自分をみちびいて欲しいと思う。
(け) またひとつには やましさ反応を押し切ってでも 最後までそのまま突き進み
たいからそのようにみちびいて欲しいと願う。
(こ) 相手の配偶者がどう出るか あるいは芸能界や国民がどう対応するかにすでに
お構いなく その《神への絶大な思い込みとしての信念》のもとに自爆にほかならない
と分かる行為にまで及ぶかも知れない。

4. ところが 一般に《神は概念である》ととなえる場合には じつはこのような事
例と同じような《観念の神の世界》にその思考回路が重なっている。と言わざるを得な
いのです。以下に証明します。

5. おそらく《神は概念なり》論者にあっては (こ)の自爆行為や(け)の《恣意
性の行き過ぎた期待》については 踏みとどまるはずです。

6. そしてそれは 一般に分かりやすく言うと 例の《超自我》なる――理念や理性
のハタラキとしての――ストッパー役がいるからだと成るのだと思う。

7. もう議論を端折ってここで結論に成りますが 普遍神の信仰のばあいには 《観
念の世界における想像やそのハタラキの行き過ぎだとかそれを抑止するだとかの思考は
持たない》のです。

8. ベッキーに代わって思考することが有るとすればそれは 《観念の世界をあたま
に描いてそこに神を――つまり観念の神を――まつりあげて住まわせることは 神の問
題ではなく人間の思考と欲望と理性の問題にしか成らない》と考えそのあやまった神論
を見究めること これです。

9. もし自分のであれ他人のであれその意志や心を踏みにじる行為が思い浮かんだと
きに思うことは 超自我なるストッパーのようなものではなく 《わたしがわたしであ
ること》です。われに立ち戻り立ち還るということ 一点です。やましさ反応を重んじ
ることです。

10. だから 百歩ゆづって超自我といったハタラキがあったとしても それは《わ
たし〔の自然本性〕》全体のものであっていちいち分析的に分けることはない。と考え
ているでしょう。

11. 普遍神をいだくゆえに 《わたし》なる存在は わたしとしてひとつであると
捉えます。本質がどうのこうのという形而上学には到らず また科学重視による要素還
元主義といった志向性にも 成らない。

12. こういう違いがあってそれは 具体的にも現われるでしょう。

13. 超自我のハタラキが有効に作用したか否かで 自爆テロを思いとどまるか否か
が決まるという考え方は 摂りません。それは 観念の海でいつまでも泳いでいるよう
なものです。深い沖には行くなという思慮はほどこしたというだけのことと見られます
から。

14. 観念の世界は とうぜん誰にもありますが これを神にかかわらせることは無
いというのが 人間の自然でふつうのあり方だという見方を披露しました。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

ベッキーが不倫してるんですか。
まあ、不倫も恋の一形態ですからね。

>13. 超自我のハタラキが有効に作用したか否かで 自爆テロを思いとどまるか否か
が決まるという考え方は 摂りません。それは 観念の海でいつまでも泳いでいるよう
なものです。深い沖には行くなという思慮はほどこしたというだけのことと見られます
から。

おっしゃるとおりでしょうね。
超自我性の本質は抑圧なので、無意識の納得が得られないまま発揮させても必ず反動がきます。
一旦、閉める予定です。

お礼日時:2016/01/10 19:33

少々らんぼうな回答になります。



【Q:《梵我一如》類型::一般および個別絶対性理論】
 https://oshiete.goo.ne.jp/qa/9147089.html
の趣旨説明を 自爆テロリストらに示してやるのが いい方法だと思います。

☆☆ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
4. 非思考の庭は 受け容れる器(ミクロコスモス)とその対象(非対象:マクロコスモス)
との一体性として示される。類型として梵我一如とよぶとよい。

  A. ブラフマニズム:梵我一如
   梵:ブラフマン・・・・・マクロコスモス。神
   我:アートマン・・・・・ミクロコスモス。霊我

  B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(=無神論)
   無梵:空(シューニャター)・ゼロ
   無我:アン‐アートマン;ニルワーナ

  C. ブディズム:仏仏一如(=有神論)
   仏:アミターバ・ブッダ(阿弥陀如来)
      / マハーワイローチャナ(大日如来)
   仏:タターガタ・ガルバ(如来蔵)・ブッダター(仏性)

  D. クリスチアニズム:霊霊一如
   霊:神・聖霊
   霊:《神の宮なるわれ》

  E. (プラトン?):霊霊一如
   霊:宇宙霊魂(プシュケー・コスムー) / 世界霊魂(アニマ・ムンディ)
   霊:《われ》

  F. 《もののあはれを知る》
   霊:かみ(自然および超自然)
   霊:われ(自然本性)

  G. ユダヤイズム:霊霊一如
   霊:ヤハヱ―;(エローホ=神)
   霊:われ

  H. イスラーム:霊霊一如
   霊:アッラーフ(イラーハ=神)
   霊:われ

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ 《C. ブディズム:仏仏一如(=有神論)》は 《仏を心に宿すこと》なる意味で
の《観念》のことですが ただし――ブディストも親鸞を除いて知らないと思われるので
すが―― 身と心とから成る自然本性としての《心・精神》のことではありません。

それは 感性の原野(つまり身)と並ぶ《思考の緑野》のことではないという意味です。

《思考に非ずなる庭――と説明される信仰――》における・けっきょくマボロシのごとき
《仏仏一如なる〈観念〉》として 《理性や意志の精神ではなく またもろもろの感覚で
もない》とはっきりさせねばなりません。

もうひとつただし この《非思考の庭》から ヒラメキが得られます。これを解読し翻訳
すれば――いえ その前に何らかのイメージのような混沌とした感覚があったはずであり
そのあと解釈をとおして―― 思考の緑野へとそのヒラメキ内容が卸されて行きます。

ちなみに親鸞は 非知なるナゾのことを《義無きを以って義とす》と説明しています。一
般には 自然法爾と言っています。うんぬん。

神は 普遍神としてひとつだ。その神をめぐって互いにあらそう理由はない。ということ
をテロリストらにはつたえたい。

人間が勝手に観念(経験事象から一たん離れた表象してのみ想像している概念)の世界に
あって普遍神をいじくりまわすことは 自然ではなくふつうではなく 人間はそういうこ
とはしないものだと。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

前半部は、(おそらく)勉強不足、または、能力不足、あるいはその両方によって理解が難しそうです。
後半は、わかるように思います。
禅の無我にも似ているような気もしますね。(たぶん、違うのでしょうが)
とりあえず、
>神は 普遍神としてひとつだ。その神をめぐって互いにあらそう理由はない。ということ
をテロリストらにはつたえたい。

を今回ご回答の骨子と受け止めさせていただきます。

>人間が勝手に観念(経験事象から一たん離れた表象してのみ想像している概念)の世界に
あって普遍神をいじくりまわすことは 自然ではなくふつうではなく 人間はそういうこ
とはしないものだと。

といった記述と合わせて、そう思うのですが、面白いことに、次第に、みなさんのご見解に一致点が浮かび上がってきたような気もします。

お礼日時:2016/01/10 19:21

>「神の御意思に背く」とか「神の怒りに触れる」とか「神の御心のままに」などという言葉は、建前にすぎない、



 そこまで単純になると表現が難しいです。建前だと思っているが、30%くらいは本気もあるというところではないかと思っております。ただし法王がいいはじめた場合は、よく分からないです。そこまでの特権的な人物の考えは分からないです。一般的にはということです。そして一般の信徒は、上のような言葉はほとんど発しないと理解しております。

 あまり信頼に値するものか分かりませんが、宗教学で私が教えられた事によりますと、信仰とは神を感じるかどうかではないようです。神に祈りたいかどうかのようです。神を感じなくても、祈ることはできます。危機や不安があれば、誰でも祈りたくなることはあります。この衝動が宗教の根源だと聞いたことがあります(もっともそれを特権的に真実という気はなく、そういう意見があるというご報告をし、ご判断の足しにしてくださればと思っているのでした)。

 他の方との応答も読んで思ったのですが、神への接し方は何通りかあることがあきらかになって参ったと思います。
 1. 自分のやり方によって、直接的に神を感じる。
 2. 他人のやり方に導かれて、直接的に神を感じる。
 3. 自分ではなく、媒介を通じて、間接的に神を信じる。
 4. ただ祈る。

 今までの議論を踏まえますと、テロに走りやすいのは、2ということになるでしょうか。だとすれば私の主張は、お話ししてまとまって来た格好で申し訳ないですが、3と4がマジョリティだから、2を一般化しないでいただきたい、というものになるでしょう。

 しかし仏教では、全く違うかと存じます。ブリタニカ事典の説明によると、観念とは仏教用語であり、仏を心に宿すことだそうです。逆に私には仏教のことはよく分かりません。お坊様は皆、心に仏を感じているものでしょうか。仏教徒の考える信仰のあり方が観念で、キリスト教徒やイスラム教徒のあり方も同じだと推量するところで、誤解が起きているところはないでしょうか。

 それにしても段々と私の守備範囲を逸脱して参りました。言えるのはこのくらいでしょうか。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。


1. 自分のやり方によって、直接的に神を感じる。
 2. 他人のやり方に導かれて、直接的に神を感じる。
 3. 自分ではなく、媒介を通じて、間接的に神を信じる。
 4. ただ祈る。

なるほど、このように分類できるのかもしれませんね。
大変、参考になります。

>お坊様は皆、心に仏を感じているものでしょうか。

ひとにぎりの坊さん以外は、葬儀会社化していますよ、明らかに。
サラリーマンと大差ありません。
顔つきを見てもわかるでしょう。

河岸を変える予定です。

お礼日時:2016/01/10 19:11

★(№15お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~


《恣意性を期待する》ならば、
>《期待》という人知がおよぶであろうという含みが表現されている。

だから、『誤った方向に舵が切られるのではないか』と言ったつもりですが、ご理解
いただけたでしょうか。

>これらは 《観念の神》だから出来る〔と考えられている〕わけです。

この展開が唐突に思えますね。
というか論理的に不整合じゃないでしょうか。
なぜ《実在の神》なら、《恣意性を期待する》ことができないんですか?
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ まづ 普遍神を《実在の神》と言う場合がないとは限りませんが 経験世界にお
ける有る無しとして認識される《存在》ではないので あまり用いないほうがよいと
思います。

言いかえると 実在の神という言い方をするのは 《神は有る》派だと捉えるとよい
はずです。

したがって次のように言いかえて 問いをまづ認識します。:
★ 普遍神なら 《恣意性を期待する》ことができないんですか?
★ 〔 恣意性を期待するようなことになるなら〕 『誤った方向に舵が切られるの
ではないか』?
☆ これはですね。詭弁だと見られるかも知れませんが そういう議論へと延ばす意
味はないという問題なのです。

なるほど 《普遍神に〔も〕恣意性を期待する》こと自体は――もし観念の神である
とあやまって捉えた場合なら容易に その想像行為じたいは――しようと思えば出来
ます。

けれども もし普遍神であるなら その《期待などなどの思考や認識さらには願望な
どなど》は 届きません。届くか届かないかが 人間には分かりません。(分かるか
分からないかが分かりません)。

という段階で すでに議論をとどめ・そして終えなければおかしい。わけです。

《誤った方向に舵が切られる》かどうかの問題ではなく(つまりその問題へと延ばす
必要はなく) 《期待する・つまり神について恣意性があるかないかを思考し願望す
る》ということが 意味を成さないという答えを打ち出している必要があります。

なぜなら 観念の神は 普遍神ではなく いくらそのような期待感を持つことが《信
じる》ことだと言い張ろうとも それは思考や想像における思い込みでしかない。か
らです。この事実を知らせることが 哲学の役目だと考えます。

非思考の庭や非知の問題に《強引に》持って行こうとしていると見られるかも知れま
せんが これは もともと初めから非知として説明し得たナゾの扱い方の問題です。

非知なるナゾに《恣意性を期待する》という意志行為は 信仰でも何でもなく その
神は 観念の神ではあっても 普遍神ではありません。《観念の世界が あたかも通
じているので その神(つまりマチガイの神)に恣意性を期待することができると思
い込む》のだと思います。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

ご覧になっているみなさんも食傷気味かと思いますので、あえて一点だけ。
>けれども もし普遍神であるなら その《期待などなどの思考や認識さらには願望な
どなど》は 届きません。届くか届かないかが 人間には分かりません。(分かるか
分からないかが分かりません)。

それは、わかるのです。
ただ、届くと思い込んでいるのが信仰者じゃないですかね。
(いろいろなパターンがあることは、#20さんにもお示しいただきましたが、)仮に普遍神には届かないものだということを理解したとしても、他の神を信じる作業を一からやり直すことになるはずです。
つまり、信仰者にとっては、届く神が必要なんだと思いますね。
ですから、最低限、ここからはじめていただかないと(言葉遊びでないなら)意味が無いようにも思うわけです。
河岸を変えるつもりですので、そのときにまたうかがわせてください。

お礼日時:2016/01/10 19:06

お礼、ありがとうございます。



書き忘れたので戻ってきました。
以前、日本に宗教がらみのテロがありましたね。
本来、ああなる前に未然に防ぐ方がずっといいと思います。

どうしたらいいのか?
それは、自分と身内や自分と関わりを持った人を
理解していくことだと思います。

相手は私の敵じゃ無い。
反発や批判や敵意や、そう言うものをまず置いておいて
人の理解に努めることだと思います。

人を疎外感や孤独にさせて行かない。
つまりは、愛を持ち周りに接することが大切だと思います。
それが出来なければ、それ以上のことをやろうとしても
上手くいかないでしょう。

自分を理解し、自分を磨き上げて行くことで
身近な人達との具体的なやり取りの中で、磨き上げて行けるでしょう。

信仰を持つ人が、すべてテロリストではありません。
自分を見失う人がテロリストになって行くのです。

自分を見失う人は、否定され愛に枯渇しています。
秋葉原の事件などは、その典型に思えます。

信仰が無くても、家族や隣人を愛することはできると思います。

人は大きな問題に眼が行きがちですが、そのためには
もっと小さな身近な問題を片付けられるところから
問題を解決する力をつけることが始まっています。

そこがスタートであり、それが広がれば解決できます。
どう広げて行くかは、それぞれ個人の自由であると思います。

大きな問題であるほうが、物事は一足飛びに動きません。
地道な積み重ねが、男女同権や黒人の大統領を生み出したと
言えるのでは無いでしょうか?
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>相手は私の敵じゃ無い。
反発や批判や敵意や、そう言うものをまず置いておいて
人の理解に努めることだと思います。

今回のご回答の骨子として承りました。
そう思えるような根拠を提示するのが、哲学の役目であるような気もするのですが、
>どう広げて行くかは、それぞれ個人の自由であると思います。

ということになるんですかねえ。

お礼日時:2016/01/10 18:57

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Q哲学かてとは何か? その使命と役割

この哲学カテとは何ぞ?
という質問です。

わたしが哲学カテに始めてきた頃には、
カントの○○は、ロールズの△△は、という有名哲学者の思想、
あるいは、
独我論とは、自然主義、懐疑主義とはなにか?
といった質問が多く寄せられていました。

しかし、今の哲学カテは、何でもありのカオス状態!!
カマキリ踏んじゃった話───この哲学カテに長く巣食う魑魅魍魎どもには、これだけで分かるはず───にはじまり、果てはペット供養の相談などなど何でもありの状態。
混沌に満ち溢れています。
これは、既に哲学カテがその本来の使命を終えたと考えるべきなのか、
人間の生にまつわることはすべて哲学であるという新たな進化発展の段階に達したと考えるべきなのか?

眠り猫から、哲学カテの皆さんにお尋ねします

名にし負はば
いざこと問わむ
哲学カテ!!
わが思ふ人(哲学)は
ありやなしやと?

現在の哲学カテに哲学はあるのか?
次々と寄せられる質問は哲学的質問なのか?
皆さんは、哲学カテの現状をどのように思われているのか?
そして、この哲学カテは、どこに向かおうとしているのか?

皆さんの思いを教えてください。
回答をしたら、こんなお礼がきました、という自慢話でも構いません。
この哲学カテゴリーに関するものなら何でもOKです。
皆さんの熱い思いを吐露しちゃってください。

この哲学カテとは何ぞ?
という質問です。

わたしが哲学カテに始めてきた頃には、
カントの○○は、ロールズの△△は、という有名哲学者の思想、
あるいは、
独我論とは、自然主義、懐疑主義とはなにか?
といった質問が多く寄せられていました。

しかし、今の哲学カテは、何でもありのカオス状態!!
カマキリ踏んじゃった話───この哲学カテに長く巣食う魑魅魍魎どもには、これだけで分かるはず───にはじまり、果てはペット供養の相談などなど何でもありの状態。
混沌に満ち溢れています。
これは、既に哲学カテが...続きを読む

Aベストアンサー

私がここに来るようになって数年ですが、随分変化してると思います。

疑問を深く堀だげてみたい人が、表面的なカテゴリは置いといて的な感じの方々が
多く集まって来ているように見受けられます。

哲学の枠を「これこそが哲学」のように決めてしまうと
質問も回答も哲学用語を駆使し、哲学に興味がない人が
イメージ的に持ちやすい哲学になりそうだと感じました。

それの表面的な形を良し悪しと振り分けるのではなく、深く思考する姿勢が
哲学の本来の良さではないのだろうかと、個人的には思っています。

古典は古いとか、流行らないという風潮もあるようですが
その人が何を考え何を目にし、そこにたどり着いたのかを
知ることもあながち無駄ではないように思えます。

私は思考することが好きな割りに、古典は分からないと
スルーしてきた経緯があり、今あるものから長い時間をかけて
導き出したものが、老師の一説だったりカントだったりしたからです。

単に読み取れない未熟さと言ってしまえばそうなのですが
哲学畑では無い人間が、新説や古典を考える場として
あるいは、現実に置き換えた時に根底を流れるものは何かを
多様的に思考できる意見が出る場として、変化して行ってるのは
ある意味貴重な場であり、個人的には面白いと捉えています。

人が考えを深めるということに興味が湧くのは、自然でもあり
人生が変わる(変える)チャンスでもあり、色々な可能性を秘めてて
いいことじゃないかと思います。


唯一危惧するのは、自分の代わりに人に考えてもらって
気に入った答えをその人が鵜呑みにすることです。

他者の答えを答えだけ採用しても、自らで深く思考しなければ
自己矛盾の罠から抜け出せないだけでなく、より多くの
矛盾を抱え込むようになるからです。

自らの力で咀嚼していくことに、いかにして達して行くか。
与えられることが日常の人に、どうやったら気がついてもらうことができるか。

そんな自分の課題も含め、自らが思考して行く場として
ここにまだまだ来続けるだろうと思う次第です。

共通の目的の方向性が無い集合体は、どこに向かうかは予測がつきませんが
専門枠のカテゴリにされているのに、時間の流れでここまで変化が起きるのも
哲学の中心はやはり人だと実感しますね。

随分長文になり、失礼しました。

私がここに来るようになって数年ですが、随分変化してると思います。

疑問を深く堀だげてみたい人が、表面的なカテゴリは置いといて的な感じの方々が
多く集まって来ているように見受けられます。

哲学の枠を「これこそが哲学」のように決めてしまうと
質問も回答も哲学用語を駆使し、哲学に興味がない人が
イメージ的に持ちやすい哲学になりそうだと感じました。

それの表面的な形を良し悪しと振り分けるのではなく、深く思考する姿勢が
哲学の本来の良さではないのだろうかと、個人的には思っています。

古...続きを読む

Q【むつかい哲学の話】「人間は自我を否定されるために存在している」 自我を否定されるということは自我

【むつかい哲学の話】「人間は自我を否定されるために存在している」

自我を否定されるということは自我という言葉は生まれるはずはないのでは?

自我が存在するから自我という言葉が存在する。

人間の存在意義とは、「人間は自我を否定することによって存在している」という気がします。

ホリエモンのように自我が強い人間は結婚をしない一生独身者の場合が過去の偉人からも伺えますが、自我を否定することが出来ない人間は子孫を残さないので自然消滅していく。

一方の産まれたときは自我がなく、思春期に自我が生まれ、大人になる過程で自我を否定することによって妥協という言葉を知り、双方が妥協して自我を捨て、結婚し、子供を産み子孫繁栄していく。

よって、人間は自我を否定することによって存在している。という最初の意味に繋がります。

この認識で合っていますか?

人間の存在意義は自我を否定することによって存在意義が生まれているというのは大変興味深い話だと思いませんか?

妥協出来ない、自我を捨てれない大人が生涯独身なので子孫を残さない種なので存在意義がないと説いたのではないでしょうか。

違いますか?

人間の存在意義って何ですか?の問いの答えが「人間の存在意義は自我を否定されることにある」という回答に対する意見をお聞かせください。

【むつかい哲学の話】「人間は自我を否定されるために存在している」

自我を否定されるということは自我という言葉は生まれるはずはないのでは?

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人間の存在意義とは、「人間は自我を否定することによって存在している」という気がします。

ホリエモンのように自我が強い人間は結婚をしない一生独身者の場合が過去の偉人からも伺えますが、自我を否定することが出来ない人間は子孫を残さないので自然消滅していく。

一方の産まれたときは自我がなく、思春期に...続きを読む

Aベストアンサー

個の数が多いから平均を求めるために、ある人は否定され、ある人は肯定される。
しかし他の事例では否定されていた人は肯定され、肯定されていた人は否定される。
こうやってバランスをとっているのが社会性ってやつ。
人云々じゃない。
ここに人が介在するとなると、如何にして肯定されるかを考えるってことだけ。

Q運命はあるんでしょうか。

ある哲学人間に運命はないと否定されました。

でも、流されて行き着いた未来も、自由に自分の行動で得た未来も、運命じゃないかと思うんです。

"運命が変わった"といった実感ができない以上、どうであれ運命はあるんじゃないでしょうか。もしくは、運命があると断定はできないから、運命はない、もしくは分からないとしかいえないのでしょうか。

この世の物がすべて物質で、きまった物理的化学的法則でうごめいているならば、決まった結果になるのは当然だと思います。

まぁ、私は霊的な何かを信じたい性質(たち)ですが…

感覚的でも哲学的でもいいので、
回答お願いします。

ここで、あなたの回答をもらうのも、
また、運命のような気がしてならないの…。
(なんちゃって

Aベストアンサー

バタフライ効果の話が、前に出てきましたね。バタフライ効果(初期値過敏性)によると、決定論的な法則でも,初期条件がほんの僅かに変わるだけでも、その後の挙動に大きな差が生じ、そのため長期の予測が困難になります。これはカオス理論の考えから導かれたものです。
これは、要するに、短期の天気はある程度の高い確率で予測できるが、長期の予測はほとんど当たらないことを、数学的に解き明かしたものです。

運命も、この天気予報と同じようなものではないでしょうか。今日とか明日の運命はほとんど決まっているのかも知れないし、そんなに変えることも出来ない。しかし、一年先や十年先のことなんて誰も分からないし、毎日の行動によって未来がどうなるか、絶えず揺らいでいるのかもしれない。

人間に自由意志というものがあるならば、未来の運命は変えることが出来る。全ての運命が決まっていれば、人間の生きる意味がない。それでは、神が創った単なるロボットでしかない。そんな神のように全知全能なる存在は、物理学用語でラプラスの悪魔と呼ばれる。全知全能なるラプラスの悪魔は、ミクロな物理法則を確率論的に取り扱う量子力学の登場によって、ひとまず退散した。
しかし、アインシュタインは、神はサイコロを振らない、と言う。科学は常に新しいパラダイムに置き換わる可能性を秘めている。また、いつ、このアインシュタインの考えが復活するかもしれない。あの宇宙項、ラムダのように。

一ついえるのは、人間は絶対に死ぬ運命にある。しかし、その日がいつ訪れるのかまでは分からない。

敬天愛人という西郷隆盛の言葉があります。西郷さんは、天を敬い、人を愛することで、自分の悲劇的な運命でさえも、天命として受け入れることができたのかもしれない。

私は余り不変の運命を信じたくはないが、ゆる~い宿命みたいなものを感じて生きていたい。

バタフライ効果の話が、前に出てきましたね。バタフライ効果(初期値過敏性)によると、決定論的な法則でも,初期条件がほんの僅かに変わるだけでも、その後の挙動に大きな差が生じ、そのため長期の予測が困難になります。これはカオス理論の考えから導かれたものです。
これは、要するに、短期の天気はある程度の高い確率で予測できるが、長期の予測はほとんど当たらないことを、数学的に解き明かしたものです。

運命も、この天気予報と同じようなものではないでしょうか。今日とか明日の運命はほとんど決ま...続きを読む

Qインド哲学では 《自己と自我は違う》と宮元啓一が言っています。

▲ (宮元啓一:自己と自我の相違) ~~~~~~~~~~~~~~~

(あ) 仏教を含むインド哲学では 自己(アートマン;プルシャ;self )と身心(カーヤ・
チッタ)とは峻別されています。

(い) そして 身心を自己だと錯覚することがあらゆる迷妄のもとであることが強調され
ています。

(う) その意味で 身心をまとめていわゆる自我( ego )だと考えることが私たちには
必要であると考えられます。つまり 自己と自我を混同してはならないということです。


(え) 自己はおのづから 無媒介に 自律的に いわば自己反省的・自己回帰的にその存
在が確立しているもので 認識主体あるいは (学派により異なりますが)それに加えて因
果応報・自業自得の担い手以外にその内包を持たないものです。

(お) それに対して 自我は認識対象であり かつ自己がそれを介して世界を認識する媒
体です。媒体であるというところから 私たちは自我を自己と錯覚することになるのです。


(か) 自己はおのづから 無媒介に 自律的に いわば自己反省的・自己回帰的にその存
在が確立しているものですから それを生ぜしめる原因を持ちませんし それを滅ぼす原因
も持ちません。ですから 自己は不生不滅 常住不変であるということになります。

(き) それに対して 自我である身心は生じては滅するものであり 無常です。無常な自
我を常住な自己と錯覚するからこそ あらゆる煩悩の中核を成す我執が生じ その我執があ
らゆる迷妄のもととなり 人を苦しみの輪廻的な生存に縛りつけるのです。

 (『インド人の考えたこと――インド哲学思想史講義』 2008  pp.149-150 )
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

☆ (く) 《自己》と訳された《アートマン》は やはり《霊我》であって 経験世界を
超えたところ――《非経験の場》ないし《非思考の庭》――のことを言うと捉えられますま
いか。

(け) けっきょく 《ブッダター(仏性)》とまったく同じだということなのですが。

みなさんの読みは いかがあい成りましょうか?

▲ (宮元啓一:自己と自我の相違) ~~~~~~~~~~~~~~~

(あ) 仏教を含むインド哲学では 自己(アートマン;プルシャ;self )と身心(カーヤ・
チッタ)とは峻別されています。

(い) そして 身心を自己だと錯覚することがあらゆる迷妄のもとであることが強調され
ています。

(う) その意味で 身心をまとめていわゆる自我( ego )だと考えることが私たちには
必要であると考えられます。つまり 自己と自我を混同してはならないということです。


(え) 自己はおのづ...続きを読む

Aベストアンサー

(え)の意味がちょっとわかりづらいですね。

(か)には矛盾があると思います。
『自我は認識対象であり かつ自己がそれを介して世界を認識する媒体です。(お)』
と言ってるわけですから、《自己》も自我の消滅と共に消滅しなければ辻褄が合わない。
よって、
『自己は不生不滅 常住不変であるということに』はならないでしょう。

>☆ (く) 《自己》と訳された《アートマン》は やはり《霊我》であって 経験世界を超えたところ――《非経験の場》ないし《非思考の庭》――のことを言うと捉えられますまいか。

彼の説に則るなら、そのように捉えて良いのではないでしょうか。
彼の言うところの《自己》とは、私流に表現するなら [ 人類としての我 ] ということになるかもしれません。
つまり、
▼「人智の及ばぬ自然宇宙の絶対的摂理(=あらゆる事象をバランスさせる力)に起因して我々は生まれた。( A )」▼
という視点がそこにある。
◎経験世界を超えたところ(~のことを言う)◎
と言えるでしょう。

ただ、そうではあっても、《自己》あるいは [ 人類としての我 ] のように認識対象として取り上げてしまった以上、その正体はわからないとしても《非知》とは言えなくなるので、想定したり、推測したりすることはできます。
補足するなら、
◎《非経験の場》ないし《非思考の庭》◎
に分類される事象であるためその正体は不明としても、想定したり、推測したりすることはできる。
要するに、
▼経験世界を超えているのは、その正体(のみ)である。▼
ということ。
この解釈が、
◎(け) けっきょく 《ブッダター(仏性)》とまったく同じだということなのですが。◎
とどのように関連していくかについては、この(け)でおっしゃりたい意味がよくわからないため、今のところ言及できません。

いずれにせよ、(か)で指摘した矛盾点の他に、(き)の記述における
『無常な自我を常住な自己と錯覚するからこそ 』
を、
▼無常な自我を本来的な自己と錯覚するからこそ ▼
のように言い換えると、自我・自己に対する細かい解釈の食い違いは残りそうですが、一応、個人的には同意できる形となりそうです。

(え)の意味がちょっとわかりづらいですね。

(か)には矛盾があると思います。
『自我は認識対象であり かつ自己がそれを介して世界を認識する媒体です。(お)』
と言ってるわけですから、《自己》も自我の消滅と共に消滅しなければ辻褄が合わない。
よって、
『自己は不生不滅 常住不変であるということに』はならないでしょう。

>☆ (く) 《自己》と訳された《アートマン》は やはり《霊我》であって 経験世界を超えたところ――《非経験の場》ないし《非思考の庭》――のことを言うと捉えられますまい...続きを読む

Qどんな運命が・・?

>荒井由実 翳りゆく部屋
どんな運命を感じてきましたか?、感じていますか?
私の生まれた世代には有名人が多いですね
まあ、私は出世には縁遠く、さっぱりでしたが・・
教えて下さい、お願いします
運命でも使命でも達成感でも良いですよ

Aベストアンサー

どんな運命が・・?
>荒井由実 翳りゆく部屋
どんな運命を感じてきましたか?、感じていますか?

       ↓
生かされている自分、生かしているか自分

何を為して来たのか私、何を為すのか私は

限り有る身の生涯・力・可能性を試さんと思う。

Q自己実現系領域の哲学・悟り 気付き・スピリチュアルに通じる方 経験者の方、 『宇宙の法則・( ✖️

自己実現系領域の哲学・悟り 気付き・スピリチュアルに通じる方 経験者の方、
『宇宙の法則・( ✖️ )・モチベーション 』の観点から
①『継続力』②『行動力 』③『 信頼感 』④『決断力 』について いずれか説明してください。

持論、思想、お持ちの方 、なぜ そうなのかという理由を添えながら 、 説明をよろしくお願い致します。

※ それらの 達成後のメリット、それを出来る様にする為の方法(身に付けるまでの方法・過程・順番)も混ぜて 説明してくださると 尚 有難いです。

Aベストアンサー

物質に「目的」はない。
しかし、その「無目的=エントロピー増大」は淘汰となり、二次的に進化を導くのだ。
「いや違う!」と主張する事は可能ですが、厳しい生存競争の中で、生き残るために努力しない個体の遺伝子が次世代に伝わり、種の形質となる事はなく、進化は常に、「生きる事」を目的とするよう導く。
(あなたが死にたいと思っても、死ねばそのような形質は遺伝せず、やはり全体は「生きよう」とする)

一方、どのような行動も、本質的には任意=意志の充足であり、「意志の充足じゃない」というのも一つの意志として、精神的充足の追及という方向性から逃れられない。
生きる事の本質的目的は、人生を通算した充足量の最大化(生理的拡大×欲求の強さ×それを「人生通算での最大」にコントロールする認識力×その達成度×それを把握する認識力)に収束するのだ。

「精神的充足感のため」というのは、刹那的な快楽主義に帰結するのではなく、最大限の大きな目的、最大限の愛と、最大限の認識を兼ね備えたものになるのです(短絡的な快感の帰結は麻薬だが、それが最大充足でないのはご存知の通り)。
であるならば、人が生きるのは、物質的豊かさのためではなく、精神的充足感のためであり、人が働くのは、お金をもらうためではなく助け合いのためであり、その自律的社会行動(精神的充足)としての愛のためなのだ。

しかし今、そうした「他人を助ける」=愛のために働いている人が、どれほどいるだろう?
人がとらわれているのは、“お金(や、その源泉としての出世)”という虚構の価値であって。
原始共産制の助け合いから、組織が分業化&拡大する上で、人の意識の社会性を発達させずに、お金や出世他律的に社会行動の道をとったのだ。
お金は、本来助け合うために集まったはずの社会において、自己チュー的な意識のまま社会行動をとらせるための“矯正具”として発達したものなので(社会生命として生きる事である労働(助け合い)を、お金をもらうために嫌々働く)、当然、自由意志を束縛する機能がある。
本来、社会的生命として助け合うために集まっている人々をして、弱肉強食の擬似ジャングルに変える、悪魔のツールなのだ。
要するに今の人は、自ら喜び(自己存在の本質に根ざした生)に目をそむけ、他律的生=「苦痛から逃げる事による生」に堕しているのです。
(「助け合う喜び」から「奪い合って勝つ喜び(幻想)」への変質)

人類は本来の、認識力の発達により環境に即応して行動を変化させる事で、自然淘汰による遺伝的な変化という速度の遅い方式によらず、環境への適応や多様化による分業を可能にする事で繁栄した。
こうした認識の発達による後天的な適応&組織化という「ヒト型進化」だけが進化の方向性ではないのは、同じく自然界に繁栄しているアリ、ハチなど遺伝的な先天的な形態の多様化&条件反射行動の複雑化&による組織化を可能にしている「アリ型進化」によって明らかだ。

ところが先述のように、近代の工業化による大量生産の市場の拡大&分業化において、その個々の生命性の社会的拡張を認識させる労を惜しんで、他律的に社会性のコースを走らせる方式をとったため、社会生命にとって生きる事そのもの(根源的充足)である労働を「お金をもらうためにイヤイヤ働く」ものにしてしまったのだ。
これはつまり、認識力の発達に基づく「ヒト型進化」の総本山である人類でありながら、歯車人間に堕してしまう「アリ型進化」への分岐に入ったという事なのだ。

もし、このまま「アリ型進化」をとるならば、無意識=肉体的増殖指向=生産量の最大化として、生命本来の“生きる意志”はルールやモラル、常識や組織といった社会的なシステム進化の上に転嫁され、インターネットは歯車を使うための情報収集&命令系統となって、人は他律的に操られる歯車として、中枢コンピュータで処理された物質的な最大生産性に向けてコントロールされる機械群の一部のパーツとなる。
(その果てに人は非効率な機械として淘汰される)

もし「分岐」を元に戻って「ヒト型進化」に復帰するならば、意識=精神的充足指向=充足量の最大化として、精神的活性化の乏しい単純労働から機械化し、人は達成感を感じる情報統合的な頭脳労働&創造的作業に集約し、インターネットによって需給をつなぐ物質(=お金)を再び助け合いとしての情報に還元し、それにより社会生命的自覚(他我愛)を促して自律的社会行動=助け合いとしての労働=生きること自体による充足=最大充足を可能にする。
(その果てに喜びを感じる巨大な脳とメカシステムになる)

もしあなたが、「生きる目的は人生を通算した精神的充足量の最大化だ」と思うならば、現代社会に蔓延する拝金主義、経済的に満足なら政治には興味ないという親方日の丸主義などを排し、助け合っている事を実感できる社会、それを認識できる意識を育てるべきなのだ。

物質に「目的」はない。
しかし、その「無目的=エントロピー増大」は淘汰となり、二次的に進化を導くのだ。
「いや違う!」と主張する事は可能ですが、厳しい生存競争の中で、生き残るために努力しない個体の遺伝子が次世代に伝わり、種の形質となる事はなく、進化は常に、「生きる事」を目的とするよう導く。
(あなたが死にたいと思っても、死ねばそのような形質は遺伝せず、やはり全体は「生きよう」とする)

一方、どのような行動も、本質的には任意=意志の充足であり、「意志の充足じゃない」というの...続きを読む

Qポストモダン(次世代)の哲学は存在するのか?

私の好きな哲学者はキルケゴール、ショーペンハウアー、ニーチェ、サルトルです。
彼らにはある繋がりがあり、キルケゴール→ショーペンハウアー→ニーチェ→サルトルという流れがあります。

・キルケゴール
厳格なキリスト教徒の家庭に生まれますが、自分の出自に酷い衝撃を受け(両親の火遊びにより生まれる)、更には恋人との間での宗教上の問題に苦しみ酷く絶望します。
皆さん御存知、聖書より見出される「死に至る病(絶望)」に対するキルケゴールの見解は非常に有名かと思います。
これに対するキルケゴールの解決方法は信仰でした(その為、最後まで信仰を貫き、未婚のまま終わる)。

・ショーペンハウアー
やがてショーペンハウアーの時代になると、学問が発達し対して代わりにキリスト教の権威が没落します。
この結果、現実に目を向けるようになり、ショーペンハウアーはここで人間の「意志」に着目します。
この意思こそが全ての原因であり、ショーペンハウアーはこの意思をコントロールすることを説きます。
彼は原始仏教(東洋)に影響を強く受けてましたから、修行による禁欲を薦めます。

・ニーチェ
キルケゴール同様、厳格なキリスト教徒の元に生まれたニーチェでしたが、既にキリスト教の権威は地に落ち、学問により科学が台頭を始めます。
産業革命が起こり、資本主義が生まれ、まさに人類の夜明けの始まりです。
ここでショーペンハウアーの書物に出会い、ニーチェは衝撃を受けます。
彼もショーペンハウアー同様、インド仏教に強い影響を受け、さらに人間の「意志」を推し進めます。
やがて「ツゥラトゥストラは語りて」にあるように、神は死にニヒリズム(虚無思想)の台頭を予見します。
これに対するニーチェの回答は超人になることで、運命を受け入れることでした(しかし、これは非常に狂気的でニーチェ自身は発狂)

・サルトル
元作家であり、科学・文学と様々な見識を持ち、多趣味であったサルトルは哲学を様々な分野と結びつけ、やがて人間そのものに目を向けます。
実存主義が生まれ、「自由の刑」にあるように、人間とはそもそも「何でもない存在」であり、自分の定義によって決まる自由な存在である(ニーチェ同様、「ものごとに対する解釈」と言えなくもないが、「運命」によって決まるとしたニーチェに対して、サルトルは「より人間は自由である」とした)。

さて、ここまで追ってきて(文字数制限がある為、かなり省きました)、ある意味サルトルで哲学は死(または最高)を迎えたと言えなくもありません(というより、「哲学」という定義そのものが瓦解し自由な存在となった)。
一時期はポストモダンを求めて色々議論が交わされましたが、結局サルトルで止まってます(正確には再考なので、ちょっと違うかもしれません)。
フーコやヴィトゲンシュタインなど、哲学というより言語や、あるいはマルクスなど経済や社会といった、わき道というか「道具」としての側面が強くなってる気がします。
そもそも、もう哲学というより心理学や科学(工学?…遺伝子工学、金融工学、宇宙工学など…etc)の時代なのかなと…。
でも相変わらず現実は悲惨極まりないし、自殺者だって止まりません(むしろ年々増えてる)。
次の哲学(ポストモダン)ってあるんですかね?
そもそも、今の時代って「哲学」って存在するのかと…。

私の好きな哲学者はキルケゴール、ショーペンハウアー、ニーチェ、サルトルです。
彼らにはある繋がりがあり、キルケゴール→ショーペンハウアー→ニーチェ→サルトルという流れがあります。

・キルケゴール
厳格なキリスト教徒の家庭に生まれますが、自分の出自に酷い衝撃を受け(両親の火遊びにより生まれる)、更には恋人との間での宗教上の問題に苦しみ酷く絶望します。
皆さん御存知、聖書より見出される「死に至る病(絶望)」に対するキルケゴールの見解は非常に有名かと思います。
これに対するキルケ...続きを読む

Aベストアンサー

サルトル以後の世界がどうなったのか。結局のところ哲学の無い
社会は存在しえず人間は新たな拠り所を求めることになりました。
宗教観念や社会的常識・あるいは無意識が科学技術に説明・否定
することが可能となると人々は「科学」を信奉するようになります。
結果的に新たな「哲学」が生まれたのです。


まず、サルトルと同時期に移民を積極的に受け入れ文化的な蓄積の
少ない国家・アメリカにおいて、その潮流は明確な形を示すことになります。
つまり『実用主義』(プラグマティズム)の誕生です。これは
「人間の経験を最も重視すべきで、科学的思考は実践的結果(実験)
によって証明されなければならない」とする考え方です。

そして、実用主義の誕生により我々人類は、真の意味で宗教・社会を分析する
ことが可能となりました。まず人間の無意識について初めて科学的アプローチ
が行われます。結果生まれたのがフロイトの「精神分析学」です。
そのほかにも集団となった人類が取りうる行動の分析から「大衆社会論」などが
誕生しています。

これらの分析は1960~1970年代に「構造主義」という冷静で、かつ苛烈な哲学を
生み出すことになります。つまり「人間主体は世界の中心でも能動的な形成者でも
無い。構造が生み出す結節点に過ぎず、構造の一要素に過ぎない」という理論です。








質問者さんはこういった考え方を哲学では無いと認識されておられる
ようですが、これは人類が発明したあらゆる学問の集大成とも言える
「哲学」なのです。それどころか、質問者さんが毛嫌いされる「哲学」
の政治利用、つまり政治学や社会学すら明確な「哲学」であると言えます。
近代哲学は内省的・宗教的であった社会や自己認識の否定から
スタートしましたが多くの人間に伝わる過程で結果的に近代哲学そのものが
宗教化してしまったという側面は否定できません。ですが現代哲学は
別種の学問からの還流を受けたことで、近代哲学の盲を開くことに成功したのです。

たとえば、先のプラグマティズムは質問者さんの言うところの
哲学を道具として使った政治学(イギリス経験主義)から還流された
思想でもあります。つまり、実在面から思想というものは影響されうるのです。
こうした実在・実存を重視した思考・分析こそが、現代の世界を明確に象徴している
と言うことができます。



「神殺し」を行うまでに成長した哲学にとって、神性は必要が無いのです。
神性を介在させることで、高尚であるとか難解であるとか錯覚するのは哲学者の
自己満足に過ぎないのです。結果として多くの人に哲学が受け入れられないことが
あるとすれば、それは人類全体にとって、最も不幸なことであると言えます。

哲学者が行うべきは冷静な思考、つまり原因の究明と結果の分析。
ただこれだけでは無いでしょうか。

サルトル以後の世界がどうなったのか。結局のところ哲学の無い
社会は存在しえず人間は新たな拠り所を求めることになりました。
宗教観念や社会的常識・あるいは無意識が科学技術に説明・否定
することが可能となると人々は「科学」を信奉するようになります。
結果的に新たな「哲学」が生まれたのです。


まず、サルトルと同時期に移民を積極的に受け入れ文化的な蓄積の
少ない国家・アメリカにおいて、その潮流は明確な形を示すことになります。
つまり『実用主義』(プラグマティズム)の誕生です。...続きを読む

Q神は概念であり観念であると言う思考回路は 自爆テロ屋さんと同じではないか

1. 神は概念であり観念であると言う思考回路は 自爆テロ屋さんと同じ
ではないか?

2. だって その思考や想像の産物としての《観念の神;神なる観念》を
ドローンとしてのように飛ばし 如何ようにも想像力を翔けめぐらせ 好き
なようにあやつることができる。

3. けっきょくは孫悟空のようなのだが それが出来ると言う人間は だ
から・やがては 《神は死んだ》とか《われわれ人間がナイフで刺して神を
ころしたのだ》とかと うそぶいて自死行為におよぶ。

4. 《観念の神は死んだ》と言っているのだ。

5. 思考と想像の産物なる神は なるほど観念であり 観念は 普遍神な
る神ではないのだから神としては 死んでいる。当たり前である。

6. この当たり前が なおも観念の余韻として――二段目のロケットを発
射するごとくなおも観念の神として――世にはびこり これは 集団心理を
も形成する。《神は死んだ》という合い言葉を知っており使えるなら 教養
ある現代人だと 思い込まされている。

7. いやいや それが テツガクなのだとなお思い そう言っている場合
がある。

8. ほかの神の信奉者や普遍神をいだく自然で素朴なふつうの人間に対し
ては なお敵対心のくすぶるかぎり むしろ今度は科学のチカラで工夫して 
その敵対行動をやれるところまでやり これをやり抜き やりつくすという
ことが起こる。

9. だから神論としての対話でコーナーに追い詰められ思考に窮したその
最後には――自爆テロ屋さんを実地で演じないとしても―― ののしりの爆
弾を放って 自爆する結果となる。

10. 《おまえのかあちゃん(神さん) 出べそ!》という類型でカバー
できるののしり。思考と哲学の放棄である。やはり 自爆である。

11. 神論のあやまちは 重大事だ。――歴史的にも・現代の時論として
も・そして身のまわりの《哲学なる対話》としても そうではないだろうか?

1. 神は概念であり観念であると言う思考回路は 自爆テロ屋さんと同じ
ではないか?

2. だって その思考や想像の産物としての《観念の神;神なる観念》を
ドローンとしてのように飛ばし 如何ようにも想像力を翔けめぐらせ 好き
なようにあやつることができる。

3. けっきょくは孫悟空のようなのだが それが出来ると言う人間は だ
から・やがては 《神は死んだ》とか《われわれ人間がナイフで刺して神を
ころしたのだ》とかと うそぶいて自死行為におよぶ。

4. 《観念の神は死ん...続きを読む

Aベストアンサー

>Step が再生できないよ。

すまんただの写真だ。今度は大丈夫。
[5月25日AM3時半:KARAは不気味だ同じタイトルではあるとはいえ同じ微笑は怖い]

洗脳舞踊だから踊りや歌が同じなのは分かる。
だが、微笑まで同じは納得できない。
踊り、歌、微笑までコントロールされた洗脳舞踊と言う事だろうか。

世紀魔Ⅱのデーモン小暮閣下や
ベビーメタル
和楽器バンドでも笑い方までコントロールしていない。

KARAは不気味だ怖すぎです。

https://www.youtube.com/watch?v=zYoYoBtLqOY
https://www.youtube.com/watch?v=DNPw_AA7gBU
https://www.youtube.com/watch?v=SDnccdjYx-8
https://www.youtube.com/watch?v=8knzQv4ln1M

猫の有馬がCGと思った原因がこれである。

[KARAの洗脳音楽から脱出するには…]

KARA

世紀魔Ⅱ

ベビーメタル

和楽器バンド

で抜け出せます。

試しに

https://www.youtube.com/watch?v=rX8rm2dLck4&list=RDrX8rm2dLck4#t=49

https://www.youtube.com/watch?v=NtQ9rJFABWA

https://www.youtube.com/watch?v=nDqaTXqCN-Q&index=29&list=RDNZNocUcJEhc

https://www.youtube.com/watch?annotation_id=annotation_2641538619&feature=iv&src_vid=Q2meWkWqc-I&v=K_xTet06SUo

洗脳は怖い。(-_-)/~~~ピシー!ピシー!

________________

神ですか?
いると思う心。
ヒトゲノム幻想ですね。

人は生物兵器。
しかし、失敗作。

ゆえに神は天に帰った。
ヒトゲノムには隠された秘密がある。

解凍出来るのは神だけである。
ヒトゲノムには「神に逆らってはいけない」
と、刻み込まれていて居なくなっても効果はある。

これが、神を信じるシステムです。

面白いでしょ?( ^^) _旦~~
_________

[感動してしまった:KARA ーガールズ パワー]
https://www.youtube.com/watch?v=VjvvZfzNmz4&feature=youtu.be
良くこれだけの5人集めたな?!CGだと思ってしまった!まぁ背景はCGだろうが。
ハッキリ言って腰の動きがエロい!良く動くし、この振り付け師、天才だな!
それより何だこの再生回数は?!どれだけのユニットなんだ??
ただチョッと気になるのは変に飽きない?
まるで、『赤い牙』の【NOVA:ノヴァ】みたいで怖い。洗脳音楽。(>_<)

KARASIA 4th JAPAN TOUR - なんてったってアイドル (Nantettatte Aidoru) by Youngji
https://www.youtube.com/watch?v=rX8rm2dLck4
恐ろしい。これはいけない!完全な洗脳音楽。汚染されます。

BABYMETAL - メギツネ - MEGITSUNE (OFFICIAL)
視聴回数 41,816,876 回
https://www.youtube.com/watch?v=cK3NMZAUKGw&list=RDnDqaTXqCN-Q

きゃりーぱみゅぱみゅ - PONPONPON、きゃりーぱみゅぱみゅ - PONPONPON
視聴回数 110,925,448 回
なるほど国際的アイドルになるわけですね。
https://www.youtube.com/watch?v=yzC4hFK5P3g&list=RDNZNocUcJEhc&index=28

[MV] Perfume 「FLASH」
視聴回数 33,626,814 回
国際的アイドル?好きだよね外国人はコメントがいっぱいです。(^^♪
https://www.youtube.com/watch?v=q6T0wOMsNrI&index=27&list=RDNZNocUcJEhc

きゃりーぱみゅぱみゅ - CANDY CANDY , Kyary Pamyu Pamyu - CANDY CANDY
視聴回数 33,582,770 回
https://www.youtube.com/watch?v=UoK8DaJRDaM&index=30&list=RDNZNocUcJEhc

きゃりーぱみゅぱみゅ - ファッションモンスター,Kyary Pamyu Pamyu Fashion Monster
視聴回数 33,062,531 回
https://www.youtube.com/watch?v=GivkxpAVVC4&index=27&list=RDNZNocUcJEhc

PHANTOM MINDS/水樹奈々
視聴回数 4,035,611 回
2010/12/12 にアップロード
2010年1月13日発売
劇場版「魔法少女リリカルなのは The MOVIE 1st」主題歌
「2010年 第61回 NHK紅白歌合戦」歌唱曲
https://www.youtube.com/watch?v=fiSLlg6rFtM&list=RDNZNocUcJEhc&index=27

神は知っている... '' 涼宮ハルヒの憂鬱の ''【涼宮ハルヒの憂鬱】【角川公認MAD】
視聴回数 54,367,943 回
2009/11/07 にアップロード
●全28話+消失次回予告風ダイジェスト/ハルヒのダイジェスト
 → https://youtu.be/Pm1d84a4L8w
大笑い。これ流れてるんだ!
この曲聞くと何故か涙が出る。さすが洗脳音楽、すばらしい!
挿入歌なのに何故か全曲なんだよね。さすが鈴宮ハルヒです。指の動きが凄い。(^o^)丿
https://www.youtube.com/watch?v=WWB01IuMvzA&index=27&list=RDNZNocUcJEhc

【みうめ・メイリア・217】極楽浄土[Gokuraku Jodo] OFFiCiAL
視聴回数 13,092,373 回
可愛さあり、エロさあり、だけどその中でカッコよさが引き立ってる。
ダンスのキレがあるから余計カッコよく見える。
https://www.youtube.com/watch?v=BEULybZnLO8&list=RDNZNocUcJEhc&index=27

BAND-MAID / Thrill(スリル)
視聴回数 4,578,106 回
2014/11/19 に公開
「おかえりなさいませ、ご主人様、お嬢様」
1st Single『愛と情熱のマタドール』、2nd mini album『New Beginning』より
https://www.youtube.com/watch?v=Uds7g3M-4lQ&list=RDNZNocUcJEhc&index=27

和楽器バンド / 千本桜
視聴回数 59,752,484 回(凄い!KARAなんてメジャナイ)
https://www.youtube.com/watch?annotation_id=annotation_2641538619&feature=iv&src_vid=Q2meWkWqc-I&v=K_xTet06SUo


和楽器バンド / 「戦-ikusa-」/Wagakki Band「Ikusa」Music Video
視聴回数 12,275,926 回
https://www.youtube.com/watch?v=Y5zj3dwNxJw


和楽器バンド / 「反撃の刃」MUSIC VIDEO Short Ver./Wagakki Band "Hangekino Yaiba"
視聴回数 5,487,852 回
https://www.youtube.com/watch?v=BUs8oHfnAuU


[デーモン小暮閣下の歌唱力が凄い!! 聖飢魔Ⅱ「fire after fire 」]
https://www.youtube.com/watch?v=Wlpy3cm126o
2013/08/10 に公開

デーモン小暮閣下の歌声が美しく、カッコよすぎます!!
世間での、デーモン氏の評価が低すぎるのではないかと思います!!

これだけ、メタル・ハードロックを、聞かせる事のできた
日本人ヴォーカリストは少ないのではないでしょうか。

デーモン小暮閣下「地上の星」with群馬交響楽団
https://www.youtube.com/watch?v=NtQ9rJFABWA
2009/08/17 にアップロード

「GIRLS' ROCK~Tiara」でカバーした名曲を、オーケストラをバックに熱唱!

低・中音域から高音域まで、ここまで表情豊かに歌い上げるとは、さすが閣下。
この方にはもはや上手いという言葉すら失礼にあたるような・・・しかし上手い。
オーケストラをバックに歌う姿に、また違う魅力を発見できた

>Step が再生できないよ。

すまんただの写真だ。今度は大丈夫。
[5月25日AM3時半:KARAは不気味だ同じタイトルではあるとはいえ同じ微笑は怖い]

洗脳舞踊だから踊りや歌が同じなのは分かる。
だが、微笑まで同じは納得できない。
踊り、歌、微笑までコントロールされた洗脳舞踊と言う事だろうか。

世紀魔Ⅱのデーモン小暮閣下や
ベビーメタル
和楽器バンドでも笑い方までコントロールしていない。

KARAは不気味だ怖すぎです。

https://www.youtube.com/watch?v=zYoYoBtLqOY
https://www.youtube.com/watch?v=...続きを読む

Qやはり運命は決まっているのか?

やはり運命は決まっているのか?
(運命は決まっているならば葛藤は心から消えるなぁ。だって抗らえないものなら、選択肢はあってなかったようなものであり、自己責任ではなくなるから。)

意志と行動。何かをしようと思い、何かをする。

例えば:
ケーキが食べたくなる→ケーキを買いにいこう(意志)→ケーキを買いにいく(行動)
この、意志と行動の部分は自己の選択であり、日々、この自己選択の連続により、運命は切り開いてい行くもの、変えられるものと思っている。(私もそう思っていた)
だが、ケーキが食べたくなるは自己の意思ではない、数日前・数時間前・直前にTV等その他で画像を見た、甘い香りを嗅いだ等の潜在意識に働いたものやサブリミナル効果はなかったとしたら・・いや、仮にあったとしても、それに出くわすこと自体、本人の意思ではない。
となると、
ケーキが食べたくなるのはすでに決まっていたこと=運命は決まっている のかもしれない。
最近読んだ哲学者の著書の中にもそのようなことが書いてあったので、考えてみた結果、そうかもしれないと思った。
どうですか??

Aベストアンサー

私が十台のときにマーク・トウェインの「人間とは何か」という本を読んだときにそういう気持ちになりました。

決断に迷うのも運命ですし、間違った決断をした場合の結果が自分に降りかかってくることも運命ですし、行動に対して責任を取らされることも運命です。

自分の運命を変えることができないのかもしれないが、前もって自分の運命を知ることはできない。 迷うことを避けることはできないし、決断を行うことを避けることもできない。 

ならば、自分が一番納得できる選択をするという運命を選んだ(つもりになる)ほうが、その後の迷いが少なくてよいのではないかと言う結論に達しました。

それが私の運命だったみたいです。

Qイエスの磔刑は自己否定か自己肯定か

講談社学術文庫 立川武蔵著「空の思想史」
~イエスの十字架上の犠牲は自己否定そのものだ。自己を犠(いけにえ)にして人々の罪を贖(あがな)ったと考えられてきたのである。~

イエスの磔刑は自己否定ですか。聖書だけを資料とすれば強烈な自己肯定そのものに思えますが、どんなものでしょうか。
仮に自己否定でないとしても、筆が滑ることはありがちなので著者の鑑識眼を云々するものではありません。必要ならば自己肯定と読んでいる私の認識を改めなくてはならないとの動機で質問します。

よろしくお願いします。

Aベストアンサー

掲げられたテクストの見解は、あまりに偏狭で幼稚にすぎると思います。なぜ、いけにえが自己否定なのでしょうか?イエス自身が、生存こそ自己肯定であると措定していて、筆者がそれに追従しないかぎりは、ありえない見解であると考えます。

 そもそも、イエスが神であるならば、自己を肯定も否定もする必要がありません。人の子も感情は持ちますが、われわれのように、自己の正しさを懐疑しては、もはや神とはいえないのです。神は絶対なので、自己を懐疑する必要もありません。十字架と復活は、子なる神の証明としての予定調和ですから、父なる神の意志を受け入れた、主体的な行動です。

 ちなみに、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」は、神意への懐疑ではなく、イエス自身が、まさにわれわれと同じく、痛覚を有したことの暗喩であると考えます。自己肯定も自己否定も、人間の証明であり、どちらかに当て嵌まるなら、イエスは神とはいえません。自己を超越している者が神なのです。子なる神の臨在は、肉によらず、霊によります。神には自己がありません。


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