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信仰とは、自己否定による自己実現だと思います。
自我によって生きている人間が自己否定をするには、それなりの理由が必要になるはずです。
その理由の最たるものが神なのでしょう。
具体的には、たとえ自己否定しても、神の懐に抱かれている(抱かれる)のだから結局は自己が自己として生きている(生きる)ことになる、つまり自己実現が果たせる、といった理屈が成立しているように思います。
しかし、神が(能動的に)「抱く」という動作をするはずは(恣意的な主体としては存在しないのだから)ありませんし、「神の懐に抱かれている」と思い込むことが自己否定の本当の理由になっていると言わざるを得ないでしょう。
自ら、そう思い込みたいという人が、まずいると思います。
合わせて、そう思い込むよう積極的に誘導しようとする人もいます。
この両者に焦点を当てた上で、自爆テロを哲学すると、どうなるでしょうか。
信仰者と神
信者と宗教
などにも関連させて考えていますが、自由にご発言いただければ、と思います。
独断的に咀嚼させていただきますが、言葉遊びにならないよう、あなたの目の前にいる自爆テロ志望者を思いとどまらせる論理にも使える方向で、お考えいただければ幸いです。

質問者からの補足コメント

  • #6お礼欄からの続きです。

    >私は信仰について距離を置いていますが、信仰がある人にも敬意をもって社会生活を営みたいと考えております。

    全く同感です。
    ただ、どうなんでしょう。
    神を信じる人は、たとえば、キリストを信じる人はアラーを信じる人に対して寛容ですかね?
    私は、むしろ逆の印象を受けます。
    つまり、信仰者ほど、(自分と同じ神を信じない)他者に敬意を払わない確率が高いのが実態じゃないかな・・・と。
    ま、こんなことを感想や推測で言ってはいけないのかもしれませんが。
    戦争は、
    アラーの名の下に!
    主イエスの思し召しのままに!
    行なわれる場合が多いような気がするんですが、勘違いですかね。

    No.6の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/01/08 22:45

A 回答 (26件中1~10件)

>信仰とは、自己否定による自己実現だと思います。



 それは、アナタの哲学ですよね?

 他の人が 全て同じく哲学だとでも?
十人十色いろいろあるんじゃない?

 なかには、哲学関係ないテロもあるでしょう
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>信仰とは、自己否定による自己実現だと思います。
 それは、アナタの哲学ですよね?

「と思います」と言っているのは私ですから、当然、そうなるでしょうね。

> 他の人が 全て同じく哲学だとでも?
十人十色いろいろあるんじゃない?

当たり前でしょうね。

> なかには、哲学関係ないテロもあるでしょう

おっしゃるとおりと思います。
とりも直さず、「哲学関係あるテロもあるでしょう」とおっしゃっていることになると思いますが、その部分について、

あなたはどう思うのですか?

と質問しています。

お礼日時:2016/01/07 23:32

神って誰?→居ないよ、何処にも


誰がそう言ったの?宗教の書物なんて所詮人が作ったモノでしかないんだよ。(全ての宗教のモノは嘘っぱち)
信仰なんて全部まやかしだよ。だって神なんて人が勝手に自分たちの都合で作ったモノだから。
神も信仰も良く言っても勘違いでしかないんだよ。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>神も信仰も良く言っても勘違いでしかないんだよ。

全くおっしゃるとおりと思います。
ただ、「これから自爆テロに行ってきます。神のための聖戦です。私は死ねば天国に行けるんです」という人に、そう言ってもたぶん通じないと思うんです。
神が勘違いであることを、どのような論理で説明すれば、もっともわかってもらえる可能性が高いのでしょうね。

お礼日時:2016/01/07 23:36

宗教に哲学なんて無いよ。

あんなモノからは何も生まれ得ない。
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この回答へのお礼

続投ありがとうございます。

お礼日時:2016/01/07 23:37

質問冒頭、「信仰とは、自己否定による自己実現だと思います。

」は、なるほどそういう見方もできるのかと思いました。
私は、信仰は、一つ、機能として自転車の補助輪のようなものであると考えています。
自分の足でうまく立ち回れない時に、補助的に自己肯定感を生み出すもので、自己が十分に成熟したなら外せるものであると。信仰を持つこと自体は別に悪いことではないのですが、いつまでも、全面的に神にすがっているのはちょっと違和感がありますね。例としては、お天道様が、先祖が、神様が見守ってくれているから頑張ろう、ぐらいでいいのではないでしょうか。

自爆テロリストは完全に自己を喪失していると、この質問を読んで私も思いました。
テロ志望者を踏みとどまらせる時に、私ならば「君のお母さんはどんな気持ちになる?」と、尋ねるでしょうか。理詰めでなく、情に訴えると思います。息子、娘が自爆テロリストになるなんて、酷く悪い夢以外の何物でもない。そんなことはあってはならない。しかし、テロ志望者はきっと頑なで、彼を思う誰の意見も聞き入れられなくなっているはずです。その理由は、神という、絶対存在と設定したものに心を明け渡しているからです。自分で決めなくても、神が素晴らしい境涯へと導いてくれると、思っているのです。ですから、神が絶対であるという空虚で根拠の無い設定自体を改定できれば、彼の目が覚めるのかも知れません。

難しい問いでした。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>その理由は、神という、絶対存在と設定したものに心を明け渡しているからです。自分で決めなくても、神が素晴らしい境涯へと導いてくれると、思っているのです。

おっしゃるとおりと思います。

>ですから、神が絶対であるという空虚で根拠の無い設定自体を改定できれば、彼の目が覚めるのかも知れません。

「神が絶対であるという空虚で根拠の無い設定自体を改定」するためには、根拠がない理由を論理的に理解しておくおくことが必要なようにも思うのですが、みなさんの思考過程で何か浮上してこないだろうか、という期待もありますね。

お礼日時:2016/01/07 23:46

1. 自爆テロなる意志行為は 思想(≒生活態度)の問題です。



2. 宗教は 考えるべき思想をオシへとしているので かかわっていると見る
べきですが 個人の内面における信仰は 非思考の庭なるあり方からして直截に
はかかわりがないはずです。本人がどう言うかを別として。

2. 非思考の庭(信じる)から思考の緑野へは はっきりした隔たりがありま
す。思考を介するか否かの。

3. さて
★ 信仰とは、自己否定による自己実現だと思います。
☆ いうふうに いくつかの条件をつけて言えると思います。この条件づけの問
題について述べるにとどめたいと いまは思って書き込みます。

4. ひとつの目標となるものが《自己実現》であることに間違いないと考えま
す。たとえば 元気になる。病いをかかえつつもそれとして元気で生きる。とい
ったこともその中に入るといったかたちです。

5. 問題は 《自己否定》という主題でありその実際の中身です。

6. どこやらの修行では ニルワーナと言って 実際に息を吹き消した状態
(=ニルワーナ)に到るまでからだを《否定する》らしい。こういう《信仰》は
別とします。

7. それでも 《ケノーシス(空っぽにすること⇒自己無化)》といった言葉
もあるようで そういった人間の意志行為としての修行のような自己否定がかか
わっているかに捉えられますが そうではないと見ます。

8. すなわち そのような難行でなくても 普通におだやかにおのれの意志行
為として 自己を――つまりそのいわゆる社会共生に不都合な部分だけではなく 
あたかもその身の全体を――否定することが 信仰での自己否定かと言えば そ
うではないとはっきり言わなければならないと考えます。

9. 《神は 生きた者の神です》から。

10. では どのようにおのれをなほざりにしてよいと見るかたちでなほざり
にするのか?

11. ですが これは なほざりにしてよいと思っている程度のことで済むも
のだというのが 信仰の動態だと見ます。自分は人間として相対的な存在である
と心得ているといった程度です。

12. 言いかえると 自分の意志は特別には動きません。信仰だけが成り立つ
ということ。非思考の庭が成りたつだけということ。思考の緑野とは別にわが心
の内にその庭が しかも生身のからだでいるかぎり 動態としてあるということ
だけ。です。

13. 具体的なそのかたちは ヒラメキです。ヒラメキにしたがうこと。これ
が 信仰にあっての自己否定です。

14. 思考の緑野は このヒラメキ直観についてそれを言葉に翻訳しえたと思
ったなら その考えるところにしたがって生きる。日から日へ生きる。これに尽
きます。

15. これが 
★ 信仰とは、自己否定による自己実現だと思います。
☆ の条件づけです。じっさいの中身です。

16. ちなみにこのように言う信仰においてわれが
★ 神の懐に抱かれている
☆ かどうかは 分かるわけがありません。〔おれは いだかれているのだと言
う主観について それを頭から否定するのも 控えますが〕。めぐみは ヒラメ
キ〔のみ〕です。

17. こういう信仰のことを テロリストらにつたえたい。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

1.信仰が思想を左右するのでしょうね。
2.いずれにせよ、思想の根幹になっているのは無意識的な諸現象ですから、同じことですよ。
ゆえに、
>非思考の庭(信じる)から思考の緑野へは はっきりした隔たりがあります。思考を介するか否かの。

は、全く、認識が間違っていますね。
こうした前提においていくら述べても無意味ですので、3以下へのコメントは控えるのが妥当のようです。

お礼日時:2016/01/08 22:06

私はまだご質問の趣旨を把握しておらず、全体として私が何をお伝えしようとしているのか、反論とも賛成とも、明確に定めていない段階です。

少しお考えを聞かせていただけると幸いです。

>信仰とは、自己否定による自己実現だと思います。

 この前提が今一つ承服できないのです。信仰一般はそのように狭いものでしょうか。簡単に言えば、ハコブルさんが、「あらゆる信仰は自己否定であり、それは煎じ詰めれば自爆テロに行き着く」というお考えを持っているのではないかと、思われたのです。そうであれば、私は信仰とはそのように狭いものではないから、概念規定に精密を期していただきたいとお伝えしたいと思います。

>あなたの目の前にいる自爆テロ志望者を思いとどまらせる論理

 これは単純に、「正しい信仰とは自爆テロを導かないから、正しい信仰を持ちなさい」と答えればよろしいのではないでしょうか。上の話と関連しますが、信仰という概念を一括りにするのではなく、いくつかに分割する必要があると感じます。その上で自爆テロになる思考回路を露わにし、それは「正しい信仰とは呼べない」と帰結すれば良いのではないでしょうか。

 先の質問との繫がりで、私はハコブルさんの問題意識の中で何かしら、信仰それ自体が悪であるかのような理屈になっているのではないか、とも危惧しております。(私は前回の質問で概ね賛成すると書きましたがこれは個人的な心象であって、哲学として言えば)信仰それ自体を悪としてしまえば、随分と過激で、現実味を欠いた意見になってしまうのではないか、とも考えております。

 さて先走ってもう一つ、我々が何をできるかについても意見を書かせていただきます。問題はイスラム教を想定していると考えますが、これはイスラム法の専門家以外に「正しい信仰」を規定できないものです。(中東の宗教の学位を有していない)日本人が正しいイスラム教の信仰を規定し、中東の一派が正しい信仰を持っていないと批判したところで、説得力を持たないでしょう。真面目に若者を説得するつもりなら、中東の学者の見解を翻訳書などで読まなければ、誠意ある対応とは言えないと考えます。

 しかし一般論として、信仰というもの一般が自己破壊に常に結びつくとは言えないと言うことには意味があると考えます。特に日本国内で、無宗教者の間で起きうる信仰全般に対する「差別」のようなものをストップさせる意味があると考えております。私は信仰について距離を置いていますが、信仰がある人にも敬意をもって社会生活を営みたいと考えております。
この回答への補足あり
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>「あらゆる信仰は自己否定であり、それは煎じ詰めれば自爆テロに行き着く」というお考えを持っているのではないか

自己否定には死の欲望(タナトス)の要素が絡んでいる確率は高いと思うのですが、今回は、教えに対する盲目性、つまり思考放棄という点に着目して使ったつもりです。
おそらくですが、信仰の深さに比例して、この要素は強まっていくのではないでしょうか。
そして、功罪が存在すると考えます。
「あらゆる信仰は自己否定であり」は、その通りですが、「それは煎じ詰めれば自爆テロに行き着く」ではなく、「功罪の罪の形として自爆テロに行き着くこともある」のように解釈していただければ、と思います。

>自爆テロになる思考回路を露わに

する方法が難しそうに思ったわけです。
そもそも、本当に自爆テロを悪と片付けることができるのか、というところまで遡らざるを得ないと思いますので。

>信仰それ自体が悪であるかのような理屈になっているのではないか、とも危惧しております。

おっしゃるとおり、そのスタンスです。
むろん、すべて悪と言ってるわけではありません。
その辺りのことは、
「悪魔って、元々は天使だったんですか」
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/9139508.html
という質問とも多少は絡んでいるのですが、逆に、「信仰=これすべて善」というのも危険じゃないだろうか、といったことですね。

>信仰それ自体を悪としてしまえば、随分と過激で、現実味を欠いた意見になってしまうのではないか、とも考えております。

>過激で、現実味を欠いた意見

とおっしゃるのであれば、信仰によって世界を救う現実的手段をお示しいただく必要が出てくるように思うのですが、いかがでしょうか。
多面性に目を向けないことが、様々な過ちにつながる例は歴史が証明していると思います。

>問題はイスラム教を想定していると考えますが、これはイスラム法の専門家以外に「正しい信仰」を規定できないものです。
(中東の宗教の学位を有していない)日本人が正しいイスラム教の信仰を規定し、中東の一派が正しい信仰を持っていないと批判したところで、説得力を持たないでしょう。

納得がいくお話で、大変勉強になります。
どの宗教でも同じようなことはありそうですね。
補足欄へ。

お礼日時:2016/01/08 22:39

言われていることは、分かります。


自爆テロを起こす人は、そのような思考に囚われている人も
居ると思います。

私たちは、生きていると間違いを起こします。
勘違いであれ何であれ、信じていて失敗した経験があるでしょう。
誰でも必ず、どこかでやらかしてますよね。

その時に、頭ごなしに説教や説得で「はいそうですね」と
毎回全員が言えるかどうかでしょう。

子供を見てると分かりますが、子供はやってはいけないことを
知っていても、ついついやってしまって怒られてへそを曲げます。

人間は、そう言う生き物です。


では、どうしたらいいのか?

それは、相手を理解することだと思います。
相手の思いや気持ちや考えを理解し、そして何より相手が
大切だと思うものを理解することでしょう。

大切にしているものが何であれ、全否定から始まれば
言葉は全く、相手に届きません。

好きな人ができて付き合い始めたら、周りが皆
やめろと口を揃えて言いますと、二人の恋は燃え上がります。
否定から入ると、相手の結束が高まるのです。
つまり、逆効果ですね。

相手に話しを聴いて欲しいのであれば、相手の大切にしているものを
深く理解することです。
突破口のヒントは、その中にしか有りません。

ここでの理解はその宗教を自分が信じるかどうかで無く
そのものと相手を理解することです。

ですから、自分が囚われていることは置いておいて
あるがままをまず理解に努めることです。

自分の思いや考えをぶつけるだけでは、相手は理解できません。
相手に理解してもらいたいと思うなら、まず自分が相手を
理解しようとする努力無しで相手と分かり合うことはできないでしょう。

思いとどまらせるなら、こう言えばいい的な表面的な言葉では無く
相手を理解する努力をした所からしか、話しの組み立ては
できないと思います。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>相手に話しを聴いて欲しいのであれば、相手の大切にしているものを
深く理解することです。
突破口のヒントは、その中にしか有りません。

おっしゃるとおりと思います。
重要なファクターのひとつとして伺いました。
キリスト者はアラーをも大事にできるでしょうか?
できる人もいる、ではなく、一般的な話として。

>ここでの理解はその宗教を自分が信じるかどうかで無く
そのものと相手を理解することです。

しかし、その相手は宗教を基盤に生きているわけでしょうしね・・・。

>相手に理解してもらいたいと思うなら、まず自分が相手を
理解しようとする努力無しで相手と分かり合うことはできないでしょう。

ここは、私にたいする諌めの意味も含まれているかもしれぬ、と有り難く拝聴しておきます。

>思いとどまらせるなら、こう言えばいい的な表面的な言葉では無く
相手を理解する努力をした所からしか、話しの組み立ては
できないと思います。

たしかにそうですね。
いい線まで寄っていただきました。
ただ、私の推測ですが、(これから明らかになる方向でみなさんの話が進んでいけばですが)究極的には、どこまで理解できるのか、という、その「程度」の問題になるような気がします。
空爆で子供を失ってアラブの母親が嘆いているとき、私たちはバラエティを見ながら腹を抱えて笑っています。

お礼日時:2016/01/08 22:56

我々の身の回りの衣食住、どれも世界中からやって来ている。


人類は、既に一人では生きられない社会生命化しているのだ。
そこにおいて、世界の順調な営為のみが全ての人に福利を
もたらす。
しかし、そうした分業化&組織化をする上で、自己の生命の
社会的拡張を自覚化して自律的に(愛において)社会行動を
とれるだけの認識の深まりを怠り、お金や出世といった
“馬車馬の目の前のニンジン”によって他律的に社会行動を
とらせる方法論をとったために、個々の意識としては弱肉
強食の疑似ジャングルとなっている(結果的には助け合っ
ていながら)。
そしてそうした「個々の意識」が社会的ハンドリングに作用
する政治家も、同様に拝金主義や権力欲におかされた結果、
その短絡的利権を守る国家という枠組みに固執し、誰の利益
にもならない武力による解決という結論を導き出すのだ。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>人類は、既に一人では生きられない社会生命化しているのだ。

本質に近いところを突いていただいたように思います。
私はよく、鰯の群泳を思うのです。
大きな群れで泳いでいるところに、マグロが突っ込んできて、不幸な数十匹が呑みこまれてしまう。
この不幸なイワシは、良くも悪くも、群れで泳ぎ続けている中の誰かだったかもしれないはずです。
これは感傷ではなく、真理だと思うわけです。
こうしたことを、我々人間は忘れているのかもしれない、と。

>お金や出世といった
“馬車馬の目の前のニンジン”によって他律的に社会行動を
とらせる方法論をとったために、個々の意識としては弱肉
強食の疑似ジャングルとなっている(結果的には助け合っ
ていながら)。

珍しく(と言っては失礼ですが)、非常によくわかります。

>政治家も、同様に拝金主義や権力欲におかされた結果、
その短絡的利権を守る国家という枠組みに固執し、誰の利益
にもならない武力による解決という結論を導き出すのだ。

なるほど。
まあ、しかし、政治家は国民の鏡(鑑ではなく)ですからね。
やはり、我々自身に返ってくる問題なのでしょう。
さて、では、具体論としては、どうすべきか・・・。
ということになりそうですね。

お礼日時:2016/01/08 23:12

ありがとうございます。

ハコブルさんはプラティックなお話なので、私も頭を鍛えられます。補足致します。

>信仰によって世界を救う現実的手段をお示しいただく必要が出てくる

 「世界を救う=全部を一切合切理想的な状態にする」というと難しいことです。宗教に限らず、そのような存在はたぶんないのではないでしょうか。しかし地域内の平和・秩序・安定であれば、統治システムとして、宗教はある一定程度、優秀ではないか、と私は考えております。日本は法治国家で、行動の原則は綿密に法で決まっています。優れた法治国家で、宗教は二次的なものです。しかし法の整備は高度な文化が必要なのです。岩波文庫程度の知識ですが、法律の見本市のような本を手に取ると、仮にフランスでも19世紀程度はまだまだ法が未発達だったのだと痛感致します。文化が未発達の国では慣習法に従いますが、それを実質的に管理しているのが宗教です。

 宗教は人の内面から行動を管理致します。神の意志に背かないようにしようと思うからこそ、悪を為しません。内面から神が監視している錯覚を感じるわけです。もちろん当人は随分と不自由な思いをするでしょうし、法治国家の方が精神の自由の度合いは高いでしょうが、それでもなお、俯瞰してみれば社会は安定していると言えます。

>つまり、信仰者ほど、(自分と同じ神を信じない)他者に敬意を払わない確率が高いのが実態じゃないかな・・・と。

 感想ですが、これは、これはテロの思考回路を解明するにあたって、重要な論点かもしれないと思いました。他者を容認できないようになってしまう。ファンダメンタリストになってしまう。しかしこれは思考を放棄するからでしょうか。逆に、考えに考え続けた果てに、もうこれしかないという点に到達してしまうからではないか、とも思われるのです。ある種のファン心理が、テロに結びつかないでしょうか。

>アラーの名の下に! 主イエスの思し召しのままに! 行なわれる場合が多いような気がするんですが

 おっしゃる通りと思います。しかし争いの口実など、大体が局所的な怒りをあらわにしたもので、第三者にとってみると、戦争に値しない話ばかりです。トロイ戦争など、美女一人のためでしょう(夫である王にとっては怒りの度合いは分かりますが)。また非道なことがあっても、これは個別の問題として対応するべきか、全体の問題として戦争するべきか、という問題があります。シャルリー・エプドなど、そういう例かと思っておりました。やや不完全な補足かと思いますが、さしあたり投稿させてください。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>しかし地域内の平和・秩序・安定であれば、統治システムとして、宗教はある一定程度、優秀ではないか、と私は考えております。

微笑を込めて申し上げたいのですが、実は、ここに全ての悪の温床が存在しているのではないか、と疑っています。
これに関する私見は、新しく質問することで、さらに明らかにしていくつもりです。

>しかしこれは思考を放棄するからでしょうか。
逆に、考えに考え続けた果てに、もうこれしかないという点に到達してしまうからではないか、とも思われるのです。ある種のファン心理が、テロに結びつかないでしょうか。

後半は、まさにおっしゃるとおりと思います。
「ある種のファン心理」は理屈ではないはずです。
つまり、本人も気づかない無意識的な衝動や環境的要因がファンとしての素地を形成していくでしょう。
社会的手段によって、それらを解決できないとなった場合のひとつの行動が信仰であり、その極限に自爆テロなどがあると思います。
解決できない場合、誰しもが別の解決手段を模索し始めます。
しかし、信仰は、その模索を中止すれば楽だよ、という誘いをかけるための論理を構築しているように(印象としてですが)見えます。
この意味での「思考放棄」と申し上げました。

>しかし争いの口実など、大体が局所的な怒りをあらわにしたもので、第三者にとってみると、戦争に値しない話ばかりです。

ただ、それが実際問題としては戦争になってしまうのが怖いところですね。
戦争は、(「局所的な怒り」を持つ)一握りの扇動者と多数の愚者によって引き起こされるのではないか、と考えています。

お礼日時:2016/01/09 21:50

補足を投稿しつつも、あれから本題をどう考えるかと思っておりました。

遠回りしてしまったことをお許しいただかないとならないと思います。結論それ自体は大体のところ、既に合意していると考えています。信仰を持つものに対して敬意を払いたいが、実際のところ、信仰が悪い方向に働くことも認めざるをえない。何が危険の根源なのかを見極めることが課題と考えます。難しいとお答えがあったのですが、質問文では以下が核心と考えます。

>「神の懐に抱かれている」と思い込むことが自己否定の本当の理由になっていると言わざるを得ないでしょう。

 私はあれから考えましたが、これは信仰の定義としては不完全でも、神秘主義の定義としては本質を捉えているのではないか、と思うに到りました。私は専門外だとお断りしておきますが、どうも神秘主義者に自我を捨て去る話は多いようです。エックハルトの「離脱」、十字架のヨハネの「暗夜」など。他にもっと列挙するべきでしょうが、網羅的に示す力はありません。ただしこれがマジョリティを占めるケースは多くないと思っております。そして神秘主義思想全てが、テロを推奨しているわけでもないのです。

 私の理解ではハコブルさんの問いかけは次のようなことかと思っております。ある人が宗派としてマイノリティの神秘主義思想にはまり込み、かつ暴力的な事件を企てている場合、どうするのか。3つあると考えました。

 1マイノリティの神秘主義思想は捨て、マジョリティの安全な宗派に切り替えるべきだという主張。これは信仰全部を危険視するのではなく、マジョリティの宗派は信頼することになります。
 2神の教えの実践が、暴力ではないやり方でできるはずだと諭すこと。つまり布教活動を熱心にやるとか、ボランティア活動をするとか、教義を究めていくことに専心するとか、別のやり方で神の意志を実践できるはずだと教えることになります。
 3神秘主義を論破する。

 ハコブルさんのここでの議論は3と理解しております。しかし私はこのやり方はデメリットもあると理解しています。まず余計に意固地になって神秘主義思想にはまり込む危険もあります。迫害者たちに屈してはならないなどと言って。またこれは一般人がやるべきものではなく、同じ宗教の宗派同士でやってもらいたいとも思います。専門的な議論はできないからです(ヴァチカンとか、アズハル大学とか、専門的で特権的な機関があるようですから)。自浄作用に任せたいということです。しかし一般的には何が分水嶺なのか。

>神が(能動的に)「抱く」という動作をするはずは(恣意的な主体としては存在しないのだから)ありません

 本来、神は分からないものです。ところが「分かった」と主張する人が現れてしまった。もしそうなら預言者です。普通の宗派はこういうことはないはずです。ヒエラルキーがあって、自分が預言者になるかもしれないなどとは誰も考えていないと思います。数千年に一人だと思っているし、自分が預言者でないからこそ、イエスやムハンマドが重要なのでしょう。ところがある一部の宗派では、神の声を聞く預言者の安売りバーゲンが行われているようだと感じます。預言者を量産するか否か。これが危険か否かの分水嶺ではないかと考えます。

 以上の議論は見方を変えると、カルト宗教(セクト)をいかに選別し、対応するかという問題に繋がる気がします。
https://ja.wikipedia.org/wiki/セクト
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

> 私はあれから考えましたが、これは信仰の定義としては不完全でも、神秘主義の定義としては本質を捉えているのではないか、と思うに到りました。

ウィキによると、【神秘主義(しんぴしゅぎ、英: mysticism)とは、絶対者(神、最高実在、宇宙の究極的根拠などとされる存在)を、その絶対性のままに人間が自己の内面で直接に体験しようとする立場のことである】と定義されているようですが、神秘主義ではない信仰というものがあるものでしょうかね。
【人間が自己の内面で直接に体験しようとする立場】は、どなたかも言っていたような気がしますが、まあ、それは自由で構わないと思います。
ただ、くどいようで申し訳ないですが、その神に恣意性を期待する(恣意性を信じる)ところから、誤った方向に舵が切られるのではないか、と考えている次第です。

> 本来、神は分からないものです。ところが「分かった」と主張する人が現れてしまった。もしそうなら預言者です。普通の宗派はこういうことはないはずです。
>預言者を量産するか否か。これが危険か否かの分水嶺ではないかと考えます。

知識が無いので、非常に興味深く拝見しました。
そうですか、預言者ですか・・・。
少し幅を広げていただいたかもしれません。

お礼日時:2016/01/09 22:03

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