ギリギリ行けるお一人様のライン

義経は九男だと聞きました。
上の八人を教えてください!
ネットで調べたら頼朝が三男、範頼が六男と見ました。
兄弟の名前を漢字&ひらがなで書いてくださるとうれしいです。
流刑とか死刑とか生まれてどうなったのかも教えてくださるとうれしいです。
ご回答よろしくお願いします!!

A 回答 (3件)

長兄:義平(よしひら)


 母は三浦義明の娘とされるが、遊女であった可能性が高い。
 叔父義賢(木曽義仲の父)を討ったことで、「悪源太」と呼ばれるようになる。
 平治の乱で斬首。
 逗子の光照寺は義平の菩提寺といわれている。


次兄:朝長(ともなが)
 母は波多野義通の妹とされるが、遊女であった可能性が高い(参考:波多野城址)。
 相模国松田郷を領し、「松田冠者」と呼ばれる。
 平治の乱後、父とともに逃亡、途中「落武者狩り」に遭い負傷し、父義朝に死を願い最期を遂げる。

三男:頼朝
 有名人なので省略(笑)

四男:義門(よしかど)
 母は頼朝と同じ由良御前と考えられている。詳細不明。ただ宮内丞の官職に任じられていることから、平治の乱で一時的に義朝軍が内裏を占拠した際には存命しており、その際に任官したのではないか、そして直後の源氏軍敗北の中において戦死したのではないか、などと推測されている。

五男:希義(まれよし)
 母は由良御前。
 平治の乱後、土佐に流罪となり、「土佐冠者」と号する。
 平家打倒の気運の中で挙兵するが、平家家人に事前に察知され討ち取られる(参考:希義公の土と石~源頼朝墓~)。

六男:範頼(のりより)
 母は遠江国の遊女。
 宇治・瀬田の戦いにおいて木曽義仲を討ち、一の谷合戦、九州進軍を経て、壇ノ浦の合戦で平家を滅ぼす。
 奥州征伐にも参加。
 1193年(建久4年)、頼朝への謀反の疑いをかけられ伊豆修禅寺(修善寺)に幽閉され、のちに自害。
 一説には、埼玉県の吉見に逃れ吉見氏として続いたとも、北本市石戸に逃れたともいわれる(石戸には、持っていた杖が根付いたといわれる「蒲ザクラ」がある。)。

七男:全成(ぜんじょう)
 母は常盤御前。
 平治の乱後、出家し醍醐寺に入る。阿野氏の祖。阿野全成。
 頼朝が挙兵するとその揮下に入り、のちに三代将軍となる実朝の乳母である北条保子と結婚(北条政子の妹)。
 1203年(建仁3年)、二代将軍頼家への謀反の疑いをかけられ殺害された。
 沼津市の大泉寺に墓所がある。

八男:義円(ぎえん)
 母は常盤御前。
 平治の乱後、出家し園城寺に入る。
 頼朝が挙兵するとその揮下に入るが、源行家(叔父)の援軍として参加した墨俣の戦いで討死。

九男:義経

他に坊門姫(ぼうもんひめ)という、義経視点では姉確定の人物がいる(頼朝視点だと姉説妹説があるためはっきりしていない)
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この回答へのお礼

なんてご丁寧に!!
分かりやすいです。ありがとうございます!

お礼日時:2016/01/20 06:16
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この回答へのお礼

ありがとうございます!
書かれてありました。

お礼日時:2016/01/20 06:16

源義平 源朝長 源頼朝 源義門 源希義 源範頼 阿野全成 源義円 源義経 坊門姫


義平は平治の乱で一騎打ちの逸話がありますよね。
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この回答へのお礼

早いご回答ありがとうございます!

お礼日時:2016/01/20 06:15

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