dポイントプレゼントキャンペーン実施中!

釈迦牟尼世尊 イエス キリスト 達磨大師などについて。

私は特にお釈迦様や達磨大師は尊んでおります。

ですが、そうであるからこその、疑問があります。

お釈迦様やキリスト、達磨大師は実は実在ではないのではないか、ということです。

仮に、実在しようとも、そうでなくても、私の気持ちは揺らぎません。

ただ、本当に実在せず、ということであれば、私の中では、あるひとつの答えに導かれます。

それは、決して邪魔外道の答えではありません。法に随うものです。

私がそれを、勘ぐった原因の言葉があります。

「縁起を見る者は 法を見る 法を見る者はわたしを見る」

A 回答 (3件)

実在していました。


何を言いたいのかわからない。
3人共、エピソードが圧倒的に多いのいですが、いずれも後世書かれたものですので、伝聞をとりまとめたものでしょう。
個々のエピソードの真偽は存在するでしょう。少なくとも都合の悪いことは秘されて表には出て来ないでしょう。
だからと言って何なのか?
    • good
    • 0

こんばんは。

カトリック信者の宗教マニアです。
一応、歴史的裏付けがある「イエスという人物」と、彼が本当に神の子だったという「神の子イエス」という話がカトリックの中にも学問としてありまして。
んで、おそらく質問者様がおっしゃりたい「キリストは実在しない」というのは、イエスという男性の否定ではなく、「キリスト=救い主」の否定だと思うのですが、違いますでしょうか。つまり、イエスという男性は実在したが、彼は徳高く志の素晴らしい人物であり、それは宛ら神の子のようであった、ということでしょうか?

キリスト教は「キリストの生き方にならう宗教」ですので、イエス・キリストが実在しないと大変なことになりますw ですが、自分はその程度で揺らぐような信仰は信仰ではないと思います。
例えば聖徳太子、武蔵坊弁慶は、歴史的に存在していなかったのではないかという説が有力になりつつあります。聖徳太子の正体は自分は存じ上げないのですが、武蔵坊弁慶は、日本各地の義経に協力的だった僧兵の総称だったのではないか、と言われています。
ですが安宅関、弁慶の立往生、弁慶の辞世の句、どれも心打たれるものではないでしょうか? 例え科学で存在を否定され、それらが後世の創作だったとしても、それらがもたらす感動は本物ではないでしょうか。

というわけで、カトリック信者としては少々過激ですが、私としてはイエスの遺伝上の父親が発見されたら喜びます。それはすなわち、マリアの処女懐胎の否定になりますが、その様な発見がなされたということは、神がそのような発見がされることを赦され、お望みになったからだと考えるからです。最近ではブルガリアで見つかったバプテスマのヨハネの遺骨で一人でお祭り騒ぎしてました←聖遺物好き
このような考え方は、私が信者になってから自然と湧いたものであり、聖書には書いてありません。あとついでに、私が信者になった理由は、イエスの行動に感動したからでも、周囲の信者の影響でもありません。「なんとなく」です。神父曰く、洗礼を受ける理由として本物らしいです(未だに謎)。
確かにイエスの生き方にならうのですから、イエスが存在しないと困ります。
ですが、アダムが複数形で書かれているように、イエスを模倣した生き方をした人、或いはしている人というのは現代にも宗教や国境を越えて存在します。あるいは、同じような生き方をした人を「キリスト者」という言い方をしているというパラドクス的な考え方もできるでしょう。

法、ということは、キリスト教では真理、を意味し、縁起、は、イエス、と置き換えられるかと思います。だらだら書きましたが、結論を言うと、


「縁起を見る者は 法を見る 法を見る者はわたしを見る」

「イエスを見る者は真理を見る。真理を見る者はイエスを見る」

に、置き換えられるのではないかと思います。
    • good
    • 0

>お釈迦様やキリスト、達磨大師は実は実在ではないのではないか、



それぞれの宗教的な立場がありますから、一般の人が考えるような人間の存在とは違うと思います。それと、宗教や宗派の違うものを、同列に扱うことは、考え方そのものを間違いが起こるもとだと思います。

当時の人達が、その宗教に対する願いそのものを、宗祖に反映させているはずです。

キリスト教は別として、仏教の場合は、実在しようがしまいが、大乗仏教としては、お釈迦様も達磨大師も、その存在自体をあまり重要視されていません。仏教での人の存在とは、「無我」だからです。「無我」というのは、アナートマンといい、アートマン「我」の否定形であり、万物そのものが実体としての「我」がないと言っているわけです。相対的な存在を否定しているように思えるのです。

>本当に実在せず、ということであれば、私の中では、あるひとつの答えに導かれます。
しかし、それは、単なる理屈ではないでしょうか。理屈で追求すればするほど、その宗教としての力は薄れていくものだと思います。

>「縁起を見る者は 法を見る 法を見る者はわたしを見る」

質問からは、どのような解釈をしているのかよく分かりません。

「縁起」とは、「条件によって生ずる現象の法は、その条件をなくすことによって、すべて滅することができるものである」(『仏教用語の基礎知識』水野弘元著)というそうですが、さっぱり理解できないのです。では、「法」とは何か、一般的には「ブッダの教え」ですが、「法とは無我である」とも書かれています。実体や本体の存在は、ないか、または不明である、としているわけです。

「法を見る者はわたしを見る」の「わたし」は「仏」のこととされています。

これを、「お釈迦様も達磨大師の存在」に戻すと、その存在は、実体がないのか不明なのか、あやふやになってしまいます。それでは、何か、パラドックスに陥ったような気がしてなりません。それでは、どこかが違ってしまっているわけです。「法」を求めずして、釈迦や達磨の実体化そのものが、間違いではないでしょうか。少なくとも仏教において。

なお、この質問者と同一人物なのでしょうか。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question …

そこのベストアンサーの内容は、まったく明後日の回答です。2番目の回答(2015/2/902:55:21)をしている人の内容を読んで、私もアップする確信が得られました。
    • good
    • 1
この回答へのお礼

同一人物です。

ご回答ありがとうございますm(_ _)m

お礼日時:2016/03/18 06:36

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!