アプリ版:「スタンプのみでお礼する」機能のリリースについて

万物の根源、宇宙の法則、アルケーの神は申しております。

「ここにいるあなたがた皆に言っておきます。
あなたがたは神を信じようともがいても無駄なのです。
あなたがたは神を信じようともがいたところで決して神を信じることは出来ないのです。
何故なら神は信じるものではなく、感じるものだからです。
神を感じることが出来ないのであれば、なおのこと神を信じることなど出来るはずはないのです。
あなたがたは神を信じようともがいている限り、神が何かまるで分かっていないのです。
神が何であるかも分からずその神を信じようとしているのです。
何かも分からぬ神を信じることが出来るわけがないのです。
あなたがたは神が何かまるで分かっていないのです。
それが故にあなたがたは神を信じようなどと愚かなことを考えているのです。
神が何であるかをまず知りなさい。
ここにいるあなたがた皆にはっきりと言っておきます。
神は宇宙の法則なのです。
あなたがたは神が宇宙の法則であることを理解しさえすれば、神を感じることが出来るのです。
だから神を信じようともがく必要は全く無いのです。
また神を拝んだり、神に願ったりする必要も全くないのです。


神は信じるものではなく、神は感じるものではありませんか。
 

A 回答 (8件)

信仰とは信じるものです。

感じるものではありません。
仮に感じたとしても、それを信じなければ一過性で終わりです。
自分が最も信じられるところ、それが自分の宗教です。

自分の考えに従いましょう。
周りの意見に振り回されているようだと、
信じられる神は存在しないことになります。
    • good
    • 2
この回答へのお礼

信じることとは単なる願望に過ぎません。
感じることは信じることを遥かに超越しているのです。

お礼日時:2016/03/30 23:39

なるほど、神をいくら信じても、直観つまり認識出来ない人は認識出来ず、逆に直観出来る能力が先天的に備わっている人は、信心しなくとも、認識出来る、という事でしょうか。

 案外、そのようなものかも知れませんね。            しかし、ルドルフ シュタイナーは、全ての人には、実はそういう能力があり、それを顕在化させるのは修行次第である、という意味の事を、その著 いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか で述べていたと思います。
    • good
    • 0

それで、どっちでも良いのだが私には。

    • good
    • 3

アルケーの神とやらが


自分には、いや、多くの日本人には
全く必要ない、感じようとも思わない
存在だと言う事がよくわかる文章でした
ありがとうございました
    • good
    • 0

「神は信じるものではなく、神は感じるものではありませんか」


→そうかもしれませんね。
信じるは受動的、感じるは能動的なのでより強いのでしょう。
    • good
    • 1

1.《神は 信じるもの――つまりその名前を心に受け容れるもの――》です


が 向こうから(つまり神のほうから)やって来たところを 受け留めるもの
です。

2. つまり 自分の意志で神もしくは一定の神の名を受け容れるのですが
それは 人間として自分から自由にそうすることが出来るものではありません。
人間には 与えられるのです。

3. 神があなたの心の窓をノックし開かなければ 何も始まりません。人間
が自分で信じることが出来たなら それは あたかも人間の自由に成る何か操
り人形のようなものです。神は 理性の関数になってしまいます。



4. 《万物の根源》というのは 素粒子や量子のことでなければ 正当に説
明されるところの《唯物論》における《物質――第一質料――》のことです。

5. このような《物質》は じつは非物体的なナゾの何ものかであって 唯
心論における《精神――第一形相――》とけっきょくは同じものです。

6.《形相なき質料》かあるいは《質料なき形相》を言うのか ふたつの場合
がありますが どちらも同じものです。要するに《神もしくは霊》のことです。

7. 《世界精神(第一形相)》は 《歴史の狡知》をはたらかせるとかある
いは《物質(第一質料)》は そのままモノとして自己運動をおこなうとかの
ように この経験世界にもかかわって来る。

7-1. 《第一》というのは 《初め(アルケー)》という意味に通じます。

8. それが もしそうだとすれば 《摂理》であるとかあるいは《宇宙の法
則――モノの運動ないし場のゆらぎの方程式――》というものだと考えられま
す。

9. 摂理や宇宙法則は 実際には経験事象にかかわっているからにはそれら
自体が 神であるということにはなりません。《現象》のほうです。

10. けれども大ざっぱに言えば 神は――これらの議論にもとづくかぎり
―― 《万物の根源》であり《宇宙の法則》であると見られないこともない。



11. 問題は 万物の根源だと言い放つには この説明はいささかふるい。
あまり 冴えません。

12. 宇宙の法則になると よけいにどうでもよいような定義でしかありま
せん。つねに部分的・一時的・断片的なことに成りがちです。要するに自然科
学の認識が 有限であることにもとづきます。

13. では 神は《感じるもの》か?




14. まづこれまでに触れたように神は《その名をわが心に受け容れる》も
のであり それとして《信じる〔ことをあたえられる〕》ものです。

15. 神を信じているときひとはこの神を《感じる》か?



16. 主観によって・主観に応じて 感じることがあるでしょうね。われは
神を見たとか。いまわたしは神を感じているのだとか。

17. そしてここでの問題は 主観〔における感性の経験〕は その有効性
がその主観の内にとどまるということです。その外には出かけません。出かけ
たなら あいまいになります。絶対的なあいまいさを帯びます。

18. あなたの《神を感じた体験》が わたしの・あるいはほかの人の主観
においても同じであるかどうか? それは 何とも決められないということで
す。決めたら アウトです。同じだとも違うものだとも決められません。決め
得たなら あなたは 神です。

19. なぜなら 神は神のほうから来て人が受け取るものだからです。その
《感性ないし直感》の体験が ふたり以上の人にあって同じものであると も
し分かったとしたら・・・。

20. そのときには 人間が神をその知性や感性によって《知った》と成り
ます。

21. なら 神はわざわざ名を受け容れるだけというようなかたちの《信じ
る》ことではなくなる。すでに《知っている》のですから 《名を受け取る=
信じる》という意志行為は 要らなくなる。知っているのにわざわざそれを受
け留めることはしない。

22. すなわち《神を感じる》というのは おのおの主観の内におけるそれ
ぞれの体験であり それにとどまる。ということになります。
    • good
    • 2

私には、理解するもの認識するものですね。

自分にとって神が成り立つのですから。宇宙の法則も理解して初めて対応が出来ます。理解無しでは何がなんなのかわかりません。
    • good
    • 0

>神は信じるものではなく、神は感じるものではありませんか。



残念ながら生物には感じるためにはそれに対応する器官が必要です。
それは人によって違います。
私はフライングスパゲッティモンスターを感じることはできますが、神を感じる器官が無いため不可能です。

>神は宇宙の法則なのです。

上記のように私には光速度不変をこの身で実際に感じることも、重力波を感じることも、エーテルが無いことを感じることも、ダークマターを感じることも、それらを感じる器官が無いため無理です。
宇宙の法則=物理法則と考えると、それは神である必要な無い。
光速度不変や時間は相対的なもの等、物理法則は人間の感覚とずれていることが多い。
と言うことは物理法則は信じるとか感じるとかでは無く、理解するとか納得するとかになる。

宇宙の法則と物理法則はイコールでは無いと言うのであれば、神は信じることでも感じることでも理解することでも無い。
思い込みだ。
    • good
    • 0

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!