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1. 日本人は コギト( Cogito = Je pense. = I think. =我れが考える。)ではなく 
コギターレ( cogitare = penser = to think = 考える)を思っている。のではないか?
それは なせか?

2. 考える行為そのものをあたまの中で思いつづけている。のではないか?  何をど
う考えるのか これをおろそかにしてはいないか?

3. もちろん われが考える。すなわち自分が自分で考える。のである。ところが 誰
かが考えたものを あたまの中に入れ込む このことが《われが考える》だと思っていな
いか?

4. まさか!? であろうか?


5. まさかでなければ このようにうたがわれる心的現象について なぜそうなるのか? 
この問いについてくわしい方におしえを乞います。どうぞよろしく。




6. 考え得る原因は 《自分の意見を主張するのは はしたない・見っともない》と思
うところのつつしみ深さでしょうか?

7. いわゆるホンネで自分の考えを言っても 相手にされない。あるいは 出る杭を打
たれるだけだ。というような事情があるのでしょうか。

8. でも何故 そうなのか? つまり一般の人びとについてならまだ分かりますが 哲
学カテにおいて何故そうなのか? 解せません。

9. 誰もがおよそ決まった神経回路をすでに形成していて いくつかのお上のお墨付き
の思考パターンが用意されていて それらにもとづく表現なら 互いに何となく分かり合
えて 安心していられる。何を考えたかよりも その寄り合いに常識に沿った参加をして
自分の所在を互いにみとめてもらう。天下泰平なるかな! でしょうか?

gooドクター

A 回答 (5件)

こんにちは。



勿論、普通の日本人がここに投稿しているのですから、それを=日本人と敷衍することは別に不自然ではありません。
逆に言えば、哲学のカテゴリーであろうと、やはり普通の日本人なのだから、そこを特別な場とみることには無理があるのではないかと思います。

『日本人に《考える》を望むのは無理か?』は、問いかけ自体としては興味深いのですが、だれも真面目に考えて答えていないように見えます。
いや、真面目がいいというのではありません。

なんというのか、日本人て面白みに欠けるというのか、例えばこういう議論にもあまり「飛躍」「跳躍」がみられない。
「例証」のようなことには長けているかもしれないけれど、自分の意見をストレートにかつ鮮やかに打ち込むことが出来ない。

独断的な「わたしのかんがえ」は正確さには欠けるかもしれないけど、おもしろい。

ウィットとか、エスプリとか、そういうものを日本人に求めるのは無いものねだりだとしても、もうすこしなんとかならないものか?

あまりにも地味過ぎる。と、感じています。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 逆に言えば、哲学のカテゴリーであろうと、やはり普通の
日本人なのだから、そこを特別な場とみることには無理がある
のではないかと思います。
☆ これは どうでしょうか。

二通りの見方があるかと思います。

わざわざ哲学カテと言っているのだから ほかのカテや一般社
会とは違う対話のかたちがあってもおかしくないが ひとつ。

もうひとつは そうは言っても 社会一般の中に含まれる部分
領域であるからには そこに社会の縮図が現われて来てもおか
しくないし けっきょく哲学カテという規定に特別の中身は出
て来ないという見方。

わたしは 独りだけで 前者の見方に立っています。つまり
そういう方向を独りだけで目指していてもよいと思っています。

つまり 後者の見方と両立すると思います。


★ ~~~~~~~~~~~~
独断的な「わたしのかんがえ」は正確さには欠けるかもしれな
いけど、おもしろい。

ウィットとか、エスプリとか、そういうものを日本人に求める
のは無いものねだりだとしても、もうすこしなんとかならない
ものか?

あまりにも地味過ぎる。と、感じています。
~~~~~~~~~~
☆ ≪わたしの考えの独断性≫については誰にも負けないと思う
のですが。わたしがですが。

≪ヰット・エスプリ≫は 無理でしょうね。基本的に。日本人は
奥ゆかしいから。わび・さびの方面へ寄って行っているから。

たぶん≪ユーモア≫は 表現されて来るのではないかと思います。
これは 受け身の姿勢から出て来るものと思います。
≪アース役≫が得意ですから。

★ あまりにも地味過ぎる。
☆ というより ≪地味≫にしろワビ・サビにしろ奥ゆかしさに
しても 究極の姿を問うているというように思います。実際に
そのような生活にも入るのだと――昔の人たちを思い浮かべれ
ば――感じたりします。

ですが これからは その≪地味路線≫+≪考える≫だと思いま
す。
両立するはずですよね。

お礼日時:2016/06/01 16:53

追記



今ぶらじゅろーぬさんの以前の質問

『日本人に《考える》を望むのは無理か?』のやり取りを見ました。

おもしろいやり取りがまったくない。哲学以前、ユーモアとかウィットというものの片鱗すら見当たらない。

この質問が仮に今開いていたとしても、わたしは回答はしないでしょう。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 『日本人に《考える》を望むのは無理か?』のやり取り
を見ました。おもしろいやり取りがまったくない。
☆ そうでしたか。二三回やったようです。


◆ (【Q:《考える》を望む・・・】回答№23)~~~
http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa8153007.html

 >日本人に《考える》を望むのは無理なのか?

日本人は考えています。M党離れが進んでいるというのが
その証拠です。
~~~~~~~~~~~~~
☆ こういう見方は 単純におもしろいと思ったのではあり
ました。

ところが 民主党/民進党離れが SEALDsというのでは
≪考える≫が どういうことになっているのか。とも考えさせ
られました。



日本人にとっての≪考える≫ですが じつはこうも思っていま
す。:
つまり じっさい考える人は 少なからずいる。ということ。

それは ただしよほどの機会でなければ 口に出さないでい
る。

あるいは理論づけたり・ましてや体系化したりすることはな
くて 生活じょうの現実的な思いとして持っている。

つまりは 自己表現することは苦手だという場合だと思いま
す。


日本社会の中間層を形成していて それとして縁の下の力持
ちであるのではないかと。

しかし哲学カテのようなところでは そのような頼もしき人
びとに向けて 日本人の哲学を大いに切り拓いて行くことが
求められている。
――こう思っています。

これまで密林を切り拓く段階ではあったと思います。
これからどうするかだと思います。

お礼日時:2016/06/01 05:47

確認をしたいのですが、ぶらじゅろーぬさんは、ここ、哲学のカテゴリーという場で、ではどのようなやり取りが行われることが理想だとかんがえているのでしょう?


なんだか最後になって「ノー」と言われること自体が不服だと聞こえかねません(苦笑)

「ノー」と言われる以上は納得のいく説明が欲しいということかもしれませんが、それは実際にはなかなか容易ではない。
「上手く言葉にして説明できなければそれは反論にならない」というのでは少し狭量では?感覚的な違和というものもあるし、
それをも尊重すべきではないかと思います。

訳も分からず付和雷同ではそれこそ「天下泰平」では?

実際のところ、「日本人は」なのか?
それとも「哲学カテの人間は」なのか?

いいたいことを言いましたが、もう一度質問の趣旨を確かめたいと思い質問します。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ なんだか最後になって「ノー」と言われること自体が
不服だと聞こえかねません(苦笑)
☆ そうでしたか。言いたかったことは 結論に到る本人
の考え方を述べて欲しいという意味です。

結論は 賛成・反対・または保留のいづれかだと思います。

★ ~~~~
「ノー」と言われる以上は納得のいく説明が欲しいという
ことかもしれませんが、それは実際にはなかなか容易では
ない。
「上手く言葉にして説明できなければそれは反論にならな
い」というのでは少し狭量では?感覚的な違和というもの
もあるし、それをも尊重すべきではないかと思います。
~~~~
☆ これはですね。≪感覚的な違和≫の場合は およそ最初
にそのように回答して来ます。雰囲気がそうです。そして 
こちらの補足要求をふくむ反応に対して もう投稿はあり
ません。

ですから ≪納得のいく説明が欲しい≫というやり取りの場
合というのは すでに互いの間で議論が出尽くしたあとの
段階です。

互いの間でかなり詳しいやり取りをおこなったあと 確か
に返答を保留したかたちとなっていてそれは 相手が≪た
だなぁ わづかに感覚的な違和が残るんだよなぁ≫と言っ
ていると受け取る場合もあります。

そして そういう場合というのも そのかなり詳しいやり
取りは 互いに再度挑戦として数回すでに経て来ている場
合のことを言っています。

≪尊重すべき≫であり・して来ているんですが こちらも
≪違和感≫をうったえてもよいと思うようになるんだと思い
ます。

★ 実際のところ、「日本人は」なのか? / それとも「哲
学カテの人間は」なのか?
☆ これは はっきりしています。

哲学カテで起きた事態を承けて問うています。と同時に
その事態は 日本人一般に広げることができると思ってい
ます。

その一般化は 仮説ぢゃないか? というより ただの憶
測ではないか?

というあやまちのおそれについては こう考えます。:
日本人としての/にとっての哲学は 欧米のそれとは異なる
ところがあって 対話においても諾否の応答の仕方が違う
のだ・・・ということであれば そのように主張しその説
明が欲しいところです。

そのような主張と説明がないなら このカテで起きた事態
は 日本人の思考様式として一般化することができると思
います。

お礼日時:2016/06/01 05:00

再び。



「考える」ことの初めには「問題意識」が前提となるはずです。言い換えれば「前提」に対する、「所与のもの」「既存のもの」に対する違和感。ところが日本人は所与のもの或いは既存のものを「運命」として甘んじて受け入れるという受動性が強いのでしょう。
単に権威に弱いともいえるのかもしれない。

「考える」ことの主体は「個人」です。日本人は共同体意識は断然に強いけれども、それに反比例して「個」が蔑ろにされている。(敢えてそうしている)そのような「没主体」社会に於いて、個々人が異質の「考え」を持つということは困難な事でもあるのでしょう。

再びプリーモ・レーヴィの言葉を用いれば、「そこに「事実」があると受け取ってしまえば、そこはある種の「想像力の墓場」となる」
つまり「異を唱える」ということが不得手な、裏を返せば「順応性」に富んだ民族であると言えるのかもしれません。
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この回答へのお礼

ううーむ。そうですね。まづは ご回答をありがとうございます。

全体としてちょっと違う感覚を持ったのは ただちに理由がわか
ります。

つまり この質疑応答の場でわたしは だいたい決まった人たち
とは自由に話が出来ているのですが ほかの人たちからは とに
かく≪いや 違う。ノーだ≫という回答をもらっているからです。

荒らし回答は少なくなりましたが たいていは反対意見がやって
来ます。

互いの意見の異同をしっかりと確かめるというまじめな回答をも
もらうのですが その場合にも 最後の詰めと言いますか・つま
り互いの考えを出し合って最後の選択肢を前にしては その相手
は自分の考えの表明をあいまいにします。

あるいはつまり イエスではなくノーという立ち場だという答え
になります。


これは 何を意味するか?

ひとつに かろうじて主体たらんとしている。ノーと言うのだか
ら。

つまり ≪「所与のもの」「既存のもの」≫にもとづいてこちらの
意見を述べるのですが・そしてそこへささやかな新しい考えを加
える。そのとき こちらの考えには従わないという意思表示があ
って ただしその理由はあいまいにしたままである。

わたしの目の前では:
★ 「個」が蔑ろにされている
☆ のではないようなのです。


そのような特殊な事情に特化してお話ししましたが 日本社会と
いう:
★ 「没主体」社会に於いて、個々人が異質の「考え」を持つと
いうことは困難な事でもあるのでしょう。
☆ という一般的な傾向については やはり前提になっていると
はむろん思っています。


★ 日本人は所与のもの或いは既存のものを「運命」として甘ん
じて受け入れるという受動性が強いのでしょう。
単に権威に弱いともいえるのかもしれない。
☆ その大きく広い受動性において 反対の極へと切り替えるこ
とも 早いのだそうです。

山本七平の『「空気」の研究』を――今頃――読みましたら 次
のようなエピソードが書かれていました。

 ○ 終戦(?)の年 一学期の初めに先生は黒板に≪大和魂≫
 と書いていた。二学期が始まると ≪民主主義≫という字を大き
 く板書した。

のだそうです。≪変わり身≫も早い。
★ つまり「異を唱える」ということが不得手な、裏を返せば
「順応性」に富んだ民族であると言えるのかもしれません。

お礼日時:2016/05/31 17:46

こんにちは、ぶらじゅろーぬさん。



先ず、率直な疑問として、ぶらじゅろーぬさんは、何を以て、「日本人は考えない」という考えを持つようになったのでしょうか?
日々の生活の中で日本人として暮らしていて?或いはここ「哲学のカテゴリー」でのいくつかのやり取りを見て?
後者であれば「一斑以て豹を推す」という危惧も生じます。(とは実は考えていませんけれど)(笑)

>6.考え得る原因は 《自分の意見を主張するのは はしたない・見っともない》と思うところのつつしみ深さでしょうか?

>7.いわゆるホンネで自分の考えを言っても 相手にされない。あるいは 出る杭を打たれるだけだ。というような事情があるのでしょうか。

これについては、「自分の考えはあるが、それを表明しない」または「させないなにか」があるのか?
そもそも「われ」の意見(考え)はなく「われわれ」の意見しか持っていないのか?

>3.もちろん われが考える。すなわち自分が自分で考える。のである。ところが 誰かが考えたものを あたまの中に入れ込む このことが《われが考える》だと思っていないか?

無論「わたし」の考えといっても、多分にそれは先人たちの考えの影響を色濃く受けています。ここは「特定の誰かれ」(哲学者・思想家・文学者など)の考えを頭に詰め込むというよりは、「大勢(多数)が考えていること」を(無批判に)取り込んでいると考えた方が自然ではないでしょうか?

また「考えを持つ」ということと「考えを上手に表明する」ことは必ずしも同じではないでしょう。
では「考える能力」と「発信する能力」とは分けて考えるべきなのか?或いは「発信」する「技術」を持つことが、ダイレクトに「自己の考えを持つ」ということにつながるのか。

とりあえずそんな疑問を発信しつつ、「みなさんの出方を見たい」(笑)
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この回答へのお礼

G_Rさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。

★ 何を以て、「日本人は考えない」という考えを持つよ
うになったのでしょうか?
☆ 例示していないと知りつつ じつは 甘えています。

この質問は ひとえに:
★ ここ「哲学のカテゴリー」でのいくつかのやり取りを
見て?
☆ のことです。

★ 後者であれば「一斑以て豹を推す」という危惧も生じ
ます。(とは実は考えていませんけれど)(笑)
☆ ええ。そのおそれ・いえ実際を知りつつ ちょっと例
を出しそびれました。

昨年までなら もろにけんか腰で質問していたと思います。

ええ。何らかのかたちで それは 現実だと見る人たちか
ら回答をもらえるならというコンタンです。

★ ここは「特定の誰かれ」(哲学者・思想家・文学者な
ど)の考えを頭に詰め込むというよりは、「大勢(多数)
が考えていること」を(無批判に)取り込んでいると考え
た方が自然ではないでしょうか?
☆ これは 両方ですね。わたしの中では どちらも問題
であると。

★ また「考えを持つ」ということと「考えを上手に表明
する」ことは必ずしも同じではないでしょう。
☆ これは確かに ていねいに考慮すべきことと思います。
星雲状態であっても よい考えがあり得ます。

★ では「考える能力」と「発信する能力」とは分けて考
えるべきなのか? 
☆ たぶん:
★ 或いは「発信」する「技術」を持つことが、ダイレク
トに「自己の考えを持つ」ということにつながるのか。
☆ という現実〔の一端〕についてはあると見られますが 
これはそれほど重要視しなくてよいと考えます。

中身で勝負という要因(関所)も大きな位置を占めている
と考えますから。

でも≪発信する能力≫は ≪考えを持った≫あとにいくらか
は別の問題として現われるとは思っています。

たぶんそれは おのれの主観の内側で――すでに言葉を用
いているのですが でも思いの直截の現われとしての――
≪自己表出≫という段階があって そのあと ほかの人の主
観を相手にして言葉をえらぶ≪自己表現≫という現実の場に
出るのだと思うからです。

正直言ってわたしも:
★ 「みなさんの出方を見たい」
☆ と思っています。

★ 「自分の考えはあるが、それを表明しない」または
「させないなにか」があるのか?
☆ これの解明も。

お礼日時:2016/05/31 13:50

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