A 回答 (11件中1~10件)
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No.11
- 回答日時:
No.8のお礼に関して
わたしはゼニ・カネで動く宗教はもとより信じることはできません。じゃあ、ゼニ・カネづくじゃない宗教って何処にあるんだと言われればそれはわかりませんが、宗教を否定はできません。
日本は神道か仏教か?という質問があって、ひとりの回答者が、「宗教に必要なもの」として、「教祖・経典・教義」の三点を挙げていました。それからすれば神道は宗教とは言えないと。
けれども日本は紛れもなく神道の国であると思います。現実にバチカンを除いて、これほど巨大で強力なカリスマ性を持ったシンボルを有する国が他にある(あったでしょうか?)
レーニン?スターリン?ヒトラー?毛沢東?所詮一代限りのものでしかない。日本が無宗教の国であるとは到底肯んじない思考です。これほど強力な信仰対象を持つ国は、他に例を見ないのではないでしょうか?
ご回答をありがとうございます。
★ 宗教を否定はできません。
☆ 次の定義によるシュウキョウは 全面的に否定します。
オシヘを――つまりは いかに啓示によって得られた理念や至言で
あったとしても すでに人間の言葉で表わされており 人間が考え
るための経験思想となっているもの このようなオシヘを――
あたかも神としてのごとく ≪信じなさい(無条件で心に受け容れ
なさい)≫と説き 人びとにその意志を無視するすれすれのところ
まで行って勧め 組織の中に入れば しばしばほぼ意志の無視のも
とに押し付けるおこない。これです。
オシヘを神とすること。これは 神とも信仰とも何の関係もありま
せん。人間性からも逸脱しています。
オシヘを信じるとか 仏教を信じるとか キリスト教を信じるとか
と言うのは 自己矛盾だと見ます。
★ 日本は神道か仏教か?という質問があって・・・
☆ 教祖・教義・組織だと思いますが その場合 ≪見えないオシ
ヘ≫もあり得ます。その場の雰囲気が人びとの思考と行動を支配す
るというクウキ教が それであり シュウキョウだと捉えます。
目に(心の目に)見えるような見えないような漠然とした社会の仕
組みに知らず知らずの内に 何だかんだ言っても組み込まれている
自分を発見するというシュウキョウ社会だと。
漠然としたヒエラルキアが 成り立っているように見られます。
あと 国家神道は やはり二階建てに成っていると思います。
政治――これもマツリゴトとしては シュウキョウのようなもので
すが――の面からは ヤマトとイヅモとの二階建て。
イヅモが くにゆづりをしました。
シュウキョウとしては 伊勢神宮と〔昔からのヤマトなる・三輪山
のふもとの〕大神(おほみわ)神社との二階建てです。
三輪山をしかも隠すか
雲だにも 情(こころ)あらなも
隠さふべしや
(万葉集 巻一・18)
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No.10
- 回答日時:
ひきつづき、No.7へのお礼について、
>★ 「ゲーム」といっても、「学ぶ」とは別の次元での愉しみがあります。
☆ につきましては それもありという大前提に立って・しかも やはり≪学問≫としてのきびしさは 一本の筋が通っているというかたちで 見逃せないとは思っています。
>その筋が1%だとしても・そして≪自己流≫だとしてもそれによって 抵抗し挑戦したいという気持ちがあります。
けれども、この場所で、どこまでその自己への厳しさ、学びの厳しさを追及することが可能か?
「木を見て森を見ず」という状態に陥っていないか?
つまりこの場所を学びの場として考えていない人が多ければ、その厳しさを追及することは結果として独り相撲になってしまうのではないか?という危惧です。
で、この辺りの話になってくると、最初に交わした、「縁側派」の徒としては、さほどの厳密さを求めないし、
それなりに実りのある対話が出来れば、或いは束の間の慰みにでもなれば良しとします。(笑)
人に多くを期待しない、というのが、哀しいかな、習い性になっているのかもしれません。
ご回答をありがとうございます。
★ つまりこの場所を学びの場として考えていない人が多ければ、
その厳しさを追及することは結果として独り相撲になってしまう
のではないか?という危惧です。
☆ そういう民度の状態から 学問は始まります。
現実の問題についての学問ですから どこまで問い求めるか あ
るいは どこまでの人びとへと広げるかは さほど問題とする必
要はないと思っています。
あとは 問い求めの中身だと考えます。
そういう学問としては 森を見るゆえの木の問題だと思います。
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No.9
- 回答日時:
こんばんは。
No.6のお礼に関して、(【Q:あたらしい世界と日本】)の文章を、どことなく、戦後リベラル風の言説に感じたのは、これが書かれた当時(6年前)よりも、遥かに「右」の在り方が変容してきているのではないかと感じます。
>下手糞なわざでしたが 最後までおこないました。変な意味で成し遂げました。さすが西のほうの人びとは いいところで留め置くわざを持ち合わせています。田舎者のわれわれは おしまいまで突撃して行きました。
ここら辺が「右」っぽいうことでしょうか?だとすれば、これは筋違いの居直りのように聞こえます。
「最後の一人まで」云々なんて、自慢にもなりません。
>戦争犯罪を問われれば ゆづりますが 存在を問われれば われらここにありと堂々と言います。あたらしいわが国とそして世界を築きます。
どうか世界の中の一人ひとりの存在としておつきあいを願いたい。
この辺り、戦後リベラルの面目躍如といった名調子です。しかし「我らここにあり。」の根拠は、少なくともわたしにとっては、戦後の日本国憲法です。そして対外的には9条です。
未だ共産党の方針として在る、「最終的な自衛隊の解除」というのは、共産党にとっての最後のアイデンティティであると思います。ある意味でラディカルな思想です。そしてこれは「マン・オブ・ラ・マンチャ」=ドン・キホーテ的な「見果てぬ夢」であり永遠の" Unreachable Star " であると思います。無論ハルさんには非・現実的であると嗤われましたが、「不合理ゆえにわれ信ず」ーcredo quia absurdum という気持ちです。
サビーヌ事件について、これも興味深い話題ですね。この事件についてははじめて知りましたが、
こういうトピックであれば是非参加したいと思います。
ここでの軋轢については、アクの強いもの同士ということで、ある程度の向こう傷はやむを得ないものかもしれないと感じています。少なくとも、非・論理的な悪罵中傷でない限り、迎え撃つ気はあります。(笑)
堀田善衛の文章について、その細かな叙述はともかく、「数」が「実体」という「観念」を消してしまうということは確かだろうと思います。非人称的な「数」ではなく、名前を持ち、血と肉を持ち、心と感情を持ったひとりが、この世から「消された」ということの重さを、背負いきれぬほどに積み上げてゆかなければならない。そんな風に感じます。
>侵略を辞さなかったことは 明治開国のあと欧米と互角にやっていくために採った路線にあっては 避けざるを得なかったという一面の見方を捨てないでいます。
どのように考えても絶対的に避け得なかったのか?その点を留保しつつ、尚、その後の日本のアジア侵略に尚正当化し得るのなら、30~40年代にヨーロッパでドイツのやったことも同様に考えなければならないと思います。
>言いかえると 戦争は 相手方との互いの責任問題であると基本的に考えます。
「戦争」は、そうかもしれません。けれども日本は朝鮮にも、中国にも「宣戦布告」=「これから両国は戦争状態に入る」はしていません。これは「戦争」ではないはずです。
ご回答謝謝。
★ 「最後の一人まで」云々なんて、自慢にもなりません。
☆ そう読まれてしまうおそれがあったのですね。≪一億玉砕≫という
ように 敵に対してもそうなのだと。
言い訳ですが この≪下手糞なわざでしたが 最後までおこないました≫
というのは 植民地と為しゆくゆくは独立させるのだという旗をも掲げ
つつ 要するに帝国主義の行動を≪田舎者のごとく最後まで完遂しよう
とした≫というつもりではありました。
★ この辺り、戦後リベラルの面目躍如といった名調子です。しかし
「我らここにあり。」の根拠は、少なくともわたしにとっては、戦後の
日本国憲法です。そして対外的には9条です。
☆ いえ そうは考えません。そう見るというのは 外国からとしても
国内からとしても けっきょくのところでは≪敗戦国ぢゃないか≫という
目線だと考えます。
その目線がなければ 人としても国としても 自然で普通で当然の≪存在≫
を存在とする人間性に立って ≪われらここにあり≫です。
★ 「最終的な自衛隊の解除」
☆ 相手のあることだと捉え 国連広場のイザヤの壁のごとくだと見ます。
≪彼らはその剣を打ち変えて鋤となし,その槍を打ち変えて刈り込み鎌と
なし,国は国に向かいて剣を上げず,もはや戦いのことを学ばざるべし
(イザヤ書2:4)≫ 。
★ サビーヌ事件について、これも興味深い話題ですね。
☆ もう一度問いましょうか?
★ 堀田善衛・・・
☆ 了解とします。
★ 30~40年代にヨーロッパでドイツのやったことも同様に考えなけ
ればならないと思います。
☆ 第一次大戦後の賠償金が支払えない問題を付け加えてそうだと思いま
す。それと あちらの英独仏などは 兄弟親戚どうしだという事情も。
★ 「戦争」は、そうかもしれません。けれども日本は朝鮮にも、中国に
も「宣戦布告」=「これから両国は戦争状態に入る」はしていません。こ
れは「戦争」ではないはずです。
☆ 朝鮮は 除外します。何度も独立せよと話しかけています。
あとは 真珠湾のごとくなら 汚い手を使ったとしても ≪戦争≫であると
いうことでしょうか?
相手のあることです。すんなりと植民地・とした / になったというときに
も 民族自決から言えば≪戦争≫状態だと考えます。
その時の中国は 欧米の側に立ったという問題も。
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No.8
- 回答日時:
No.5のお礼に関して
>でも 守破離といったことを書いておられたぢゃないですか。
そうであるかどうか(その守破離の方程式に合ったかたちかどうか)
分かりませんが 例に漏れずわたしも 師に似合わぬ弟子です。
無論「型」としては「守・破・離」ですが、なんというか、「見上げるような存在」というのが苦手で(苦笑)
「敬愛」はあっても「尊敬」=「たっとぶ」という気持ちに欠けるようです。見上げたくも、見下ろしたくもないという感じでしょうか。
>それに目に見える教会は 要らないと言っています。シュウキョウ組織も 自己解体せよと。
これは同感ですね。宗教法人が何故タックスフリーなのかわかりません。
>それに目に見える教会は 要らないと言っています。シュウキョウ組織も 自己解体せよと。
教会はシンボルであるし、ゲーテでさえ、カソリック教会の美しさに打たれて、「懺悔をしたいという衝動に駆られた」というようなことを書いています。わたしは「祈りの場」「聖なる場」は必要だと思います。
それは多分にヨーロッパの絵画、写真、そして映画という文化からの影響だろうと思います。
>★ わたしは政治的にはおそらく極左といえるので、共産党も民進もシールズも鳥越も受け付けません(苦笑)=よって都知事選は棄権します(笑)
☆ そう推測し得ると思いますが――むろん何の問題もないわけですが―― 対極というのは互いに似通っている(コインキデンティア・オッポシトールム)場合が多いぢゃないですか。そういう言われ方を承けては どう答えますか?
「極左」といっても党派的なものではなく、何というか、テレビで口当たりのいいことを言ったり書いたりしているような「リベラル」と呼ばれる人たちと合わないだけですね(苦笑)
きょうびマスコミに引っ張りだこというだけで胡散臭い(苦笑)
確かに両極端は相似るということはあると思います。ですから、左のさらに左ではあっても、ひとつの教義を奉ずるということはわたしには合いませんから、必然的に孤立せざるを得ません。基本的にはノンポリと言っていいと思います。そして世を堕落に導くニヒリストでありペシミストであったりするので、痛烈なご批判を受けております。
>極左という思想の実態としてです。極右も変革をすすめる場合がたまにあるでしょうし。
極左もそうですが、戦後の日本に果たして本当の「左翼」と呼べる人がいたのか?という疑問もあります。
また例えば極左といった時にじゃあ例えば誰?と聞かれると、連合赤軍の重信房子とか、
戦前・戦中の極右に影響を与えた、北一輝や大川周明のような「右」に対する「左」の思想家という人が存在したのか?わかりません。文化として、左翼的思想が根付かない土壌なのかもしれません。
所詮
>すべて真似をしました。下手な真似をしました。すべては所詮 真似でしたが 真似であり下手であったことがわざわいしたとも考えます。
ではないのでしょうか?
ご回答をありがとうございます。
★ 「敬愛」はあっても「尊敬」=「たっとぶ」という気持ちに欠ける
ようです。見上げたくも、見下ろしたくもないという感じでしょうか。
☆ 理屈に合っていると思います。≪平等・対等≫という実存志向ですね。
ただわたしの場合は ただただ圧倒されたという事実がすべてです。
あなたの・回答へのお礼についても その文章が 的を外さず・かつ卒
なくすらすらと書かれているので 思わず見上げています。口が空いて
しまっている自分に気づきます。
★ 宗教法人が何故タックスフリーなのかわかりません。
☆ 公益事業には 軽減税率で課税されますが それにしてもシュウキ
ョウとしては どこ吹く風ですね。
課税主体も バチが当たるのが怖いのでしょうか。
★ わたしは「祈りの場」「聖なる場」は必要だと思います。
☆ ≪祈りの場≫は 人びとの集まる公共の場としてですか?
個人にとっての場ではないのですね? わたしはそれ(個人個人の場)
でよいとは思っています。
≪聖なる場≫は 一概に論じることも決めることも出来ないでしょうけれ
ど 一面としては それがけっきょくシュウキョウにつながるとは思っ
ています。
伊勢神宮があるので それとしてのシュウキョウ心が持ちこたえている
かと見られます。
土着のやしろとしての・今は外宮となった穀物神をまつる場を押しのけ
て そのアマテラスをまつる内宮が出来た。
出来たからには 社会の成り立ちについての局面(位相?)が違って来
ているのではないでしょうか。
別の視点としては いくらさび付いていたとしても 外宮はそれとして
残っているので 歴史の経緯が分かります。
★ 文化として、左翼的思想が根付かない土壌なのかもしれません。
☆ いつぞや書いた覚えがあるのですが わたしはやはりフェイビアン
主義が 芯の通ったひとつの思想〔の態度〕だと思います。≪じぃっと
俟つ≫左ですね。
マルクスだって その都度その現在における労働条件をよくして行こう
というのであって――時が熟したときには 世界史的に一挙に革命を起
こすというのであって―― 右左などの立ち位置の問題ではないように
思うのですが。
わたしは ≪もののあはれ≫党ですから 右よりも右 左よりも左だと言
っています。
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No.7
- 回答日時:
No.4のお礼に関して、
インターネットという新しいメディアへの抵抗感でしょうか。また、「ゲーム」といっても、「学ぶ」とは別の次元での愉しみがあります。よくあることですが、質疑応答の中で、自分自身考えていなかったアイデア、新たな視点が拓けるということがあって、必ずしも「学ぶ」の下位に位置付けているというわけではありません。
「自分自身が話していることを自分自身で聴くということの大事さ」のようなことを、ウディ・アレンは言っています。
>そういう意味での・自己流の
★ old fashioned
☆ なんでしょうね わたしは。
現在ではold fashioned イコール 自己流の意味で最早「古風」という意味は無くなっているのでは?(苦笑)
>あっ。ですから ひとつ・あるいは複数の結論に到るまで問い求めをやめないという習性をも身に着けていると思います。独りにおいても対話・情報交換においてもです。
けれどもそれは「学究の徒」としての望ましい姿ではあるでしょうけれど、こういう場では逆に対話の広がりを狭める結果になるのではないかと危惧します。
>自分の言葉で表現し得て納得の行くまでは 常識も定説もなお疑えということになると思います。
釈迦に説法の愚ではありますが、あるポイントでの妥協点を探るということへの目配りも「そつのなさ」という点に於いてですが、必要なのかなと思います。まあ、その言葉はそのまま自分に跳ね返ってくるのですが(苦笑)
ご回答をありがとうございます。
★ 現在ではold fashioned イコール 自己流の意味で最早「古風」という
意味は無くなっているのでは?(苦笑)
☆ あ そうなんですか。それは 失礼しました。になります。
その≪オールドファッション≫としてですが:
★ 「ゲーム」といっても、「学ぶ」とは別の次元での愉しみがあります。
☆ につきましては それもありという大前提に立って・しかも やはり
≪学問≫としてのきびしさは 一本の筋が通っているというかたちで 見逃
せないとは思っています。
その筋が1%だとしても・そして≪自己流≫だとしてもそれによって 抵抗
し挑戦したいという気持ちがあります。
★ けれどもそれは「学究の徒」としての望ましい姿ではあるでしょうけ
れど、こういう場では逆に対話の広がりを狭める結果になるのではないか
と危惧します。
☆ ≪まなびを交えたゲーム感覚≫でのやり取りというのは ≪学究の徒≫
としての経験の上に成り立つとは思っています。
哲学の教授を受けた経験のないわたしゆえに その思いは強いのかも分か
りません。
≪対話の広がり≫を確保したなら 事足れりとすることが出来るかどうか。
わたしが考えるに ≪社会や趣味やビジネス≫としての哲学思想のカテと
そして学問としてのそれとのふたつのカテがあるといいのかも知れません。
(学問としてというのは 現実問題についての哲学を基本とします。それ
でなければ 趣味としてですから)。
★ あるポイントでの妥協点を探るということへの目配りも「そつのなさ」
という点に於いてですが、必要なのかなと思います。
☆ これは 対話の場に入ったときの心がけだと思います。(独りとして
は 妥協はないのでは? 保留までです)。
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No.6
- 回答日時:
こんにちは。
先ずNo.3のお礼について、
>重箱の隅を突っつくことは それとして必要な場合もあるでしょうし またはその限られた人たち(ん? 手前ぢゃないか)の趣味である場合もあると思います。
まあわたしもそうかもしれませんけれど、妥協を許さない性格(というか、少なくともここに於いてのスタイルは)貫き通すおつもりなのでしょうね。
>そして 次のように簡単にまとめて問いました。:
【Q:あたらしい世界と日本
質問文のみ拝読しました。
基本的な考え方としては共感しますけれど、率直にいって、弁論大会の優秀作のような、どこか上澄みだけを掬いあげているような頼りなさを感じました。そつなくまとまっているだけに、ゴヤのエッチングのような魂に響くものが欠けている印象を受けました。
では例えばそれなりに(?)そうだよなと、頷ける文章というと例えば、
『・・・数は観念を消してしまうのかもしれない。この事実を黒い眼差しで見てはならない。
また、これほどの人間の死を必要とし、不可避的な手段となしうべき目的が存在しうると考えてはならぬ。
死んだのは、そしてこれからまだまだ死ぬのは、何万人ではない、ひとりひとりが死んだのだ。
一人一人の死 が、何万にのぼったのだ。
何万と一人一人。この二つの数え方のあいだには、戦争と平和ほどの差異が、新聞記事と文学ほどの差がある・・・』 -堀田善衛『時間』より
ぶらじゅろーぬさんの質問には、どこか戦後リベラルの言説に似たものを感じました。
>≪十年一日≫が ゆるぎないチホウだと考えます。
ごろつき仮面
蛸壺哲学
顔を落としたさん
お花畑三兄弟
山の吊り橋くん
さて、これは誰のことだかわかりません。ここで知っている人は本当に少ないので。
ご回答をありがとうございます。
★ ぶらじゅろーぬさんの質問(【Q:あたらしい世界と日本】)には、どこか
戦後リベラルの言説に似たものを感じました。
☆ これは 意外でした。
★ どこか上澄みだけを掬いあげているような頼りなさを感じました。
☆ これは 小さなあらましとしてのまとめですので 仕方ないところです。
ただ わたし自身としては どちらかと言うと 保守で右に寄ったかなと思っ
ていたものですから〔意外でした〕。
★ さて、これ(ゆるぎないチホウ)は誰のことだかわかりません。ここで知
っている人は本当に少ないので。
☆ たとえば 次の人は 相手の意志を踏みにじっていると捉えています。:
【Q:ザビーヌ事件について】
http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa5548780.html
その回答№9です。
あとは ご要望に応じて名を明かします。
順番が前後しますが:
▲ (堀田善衛) 数は観念を消してしまうのかもしれない。この事実を黒い
眼差しで見てはならない。
☆ むしろ白い眼差しで静かに捉えようということなのでしょう。そうすれば
≪観念を消してしまうかも知れない≫が やはり≪数≫は ひとりの個体から成
っていることが その眼差しの中に気づくはずだと。
▲ 死んだのは、そしてこれからまだまだ死ぬのは、何万人ではない、ひとり
ひとりが死んだのだ。
☆ ただですね ただ:
▲ 何万と一人一人。この二つの数え方のあいだには、戦争と平和ほどの差異
が、新聞記事と文学ほどの差がある・・・
☆ となると ≪黒い眼差し≫をことさら強要してはいないのでしょうが むし
ろ ≪黄色い〔ジャーナリズムの〕眼差し≫をいくらか感じさせます。どうでし
ょう?
あと 重ねてですが:
侵略を辞さなかったことは 明治開国のあと欧米と互角にやっていくために採
った路線にあっては 避けざるを得なかったという一面の見方を捨てないでい
ます。
言いかえると 戦争は 相手方との互いの責任問題であると基本的に考えます。
韓国併合について見ても 互いの責任問題であるという捉え方です。
(弱き者の味方をし得たか? し得なかった。という認識です。ロシアがすで
に半島に来ていましたし 朝鮮じたいがロシアに通じていた)。
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No.5
- 回答日時:
上の回答で、わたしの回答数が200になりました。
ところで、ときどきここで「師匠」とか「わたしの師である・・・」「わたしの尊敬する・・・」という発言を耳にしますが、残念ながらわたしはそういう人を持っていません。「師」というものがどういう存在であるのかというイメージも湧きません。「好きな作家」とか「好きな映画監督」「好きな画家」というのはいくらでもいますが、「師弟」というのはどうしても「縦社会」「序列」を連想させて、わたしには苦手な世界です。
またここでは特定の信仰を持っているひとも見受けられます、人の道さん、ニャンポコさん=仏教、あほなさんも信仰かどうかはわかりませんが、仏教に詳しいようです。ぶらじゅろーぬさんはアウグスティヌスを信仰されているのでしょうか?
ポリティカルなスタンスでも、比較的近いと思われるのはハコブルさんくらいでしょうか。わたしは政治的にはおそらく極左といえるので、共産党も民進もシールズも鳥越も受け付けません(苦笑)=よって都知事選は棄権します(笑)
ということで、ここに於いてもわたしは似たような人を見ません(苦笑)
ご回答をありがとうございます。
おもしろそうですね。
★ 「師弟」というのはどうしても「縦社会」「序列」を連想させて、
わたしには苦手な世界です。
☆ わたしは アウグスティヌスの特に『三位一体論』に圧倒されて
師とあおぎました。
でも 守破離といったことを書いておられたぢゃないですか。
そうであるかどうか(その守破離の方程式に合ったかたちかどうか)
分かりませんが 例に漏れずわたしも 師に似合わぬ弟子です。
水による洗礼をわたしは受けていません。師匠にしてみれば それは
もっての外です。
それに目に見える教会は 要らないと言っています。シュウキョウ組
織も 自己解体せよと。
見えざる教会(エグレシア=コミュニティ)があればよいと。
★ ぶらじゅろーぬさんはアウグスティヌスを信仰されているのでし
ょうか?
☆ わたしは普遍神の信仰です。それを アウグスティヌスそしてそ
の師匠のパウロさらにそしてそのみなもとのイエスという男を通じて
あたえられました。
★ わたしは政治的にはおそらく極左といえるので、共産党も民進も
シールズも鳥越も受け付けません(苦笑)=よって都知事選は棄権し
ます(笑)
☆ そう推測し得ると思いますが――むろん何の問題もないわけです
が―― 対極というのは互いに似通っている(コインキデンティア・
オッポシトールム)場合が多いぢゃないですか。そういう言われ方を
承けては どう答えますか?
つまり 現状を一歩一歩すすむといった結論に成っているのでは?
と。
この問題には案外興味がありますね。極左という思想の実態としてで
す。極右も変革をすすめる場合が たまにあるでしょうし。
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No.4
- 回答日時:
雑談の続きです。
よく「ここで学ばせてもらった」という発言を聞きます。嘗てぷらぽたさんもそのように仰っていました。あほなさんもよくそのように言いますね。
けれどもわたしは、インターネットで「学ぶ」という意識がほとんどありません。無論ひとそれぞれですけれど、わたしにとっては学ぶということはもっと孤独な作業だし、学ぶ対象はあくまで本であり、映画であり、生身の人間であって、「ネット」(やTV)ではありません。わたしにとってここでのやりとりはむしろ知的なゲームといえるでしょう。(わたしは「ゲーム」というものを一切やらないので、テレビゲームとファミコンとの違いすら判りません(苦笑))
ここでのやりとりも、ですから、出来る限り、手持ちの知識で臨んでいます。やり取りの間に出てくる些末な事柄はウィキペディアなどで補うこともありますが、それに対する抵抗も強くあります。基本的にwikiであろうと、ネットの情報は信じられないものが多い、という、まあ、I'm old fashionedです。(苦笑)
手持ちの知識が足りない場合は、もう閃きで補うしかありません(笑)
先に中井久夫氏の言葉を引用しましたが、あれは「わたしの日本語雑記」という本からの引用ですが、あれにしても「自分自身の言葉ではない」という違和感がつきまといます。あれはぶらじゅろーぬさんへの話題提供といった感じでした。自分の血肉となっていない言葉を弄ぶことに強い抵抗があります。
つづきましてご回答をありがとうございます。
★ 自分の血肉となっていない言葉を弄ぶことに強い抵抗があります。
☆ わたしも質問しておきながら基本的に知らなかったことが回答に
出て来たら ネットで検索して得た知識で済ます(取りあえず応答す
る)場合もありますが 〔基本的には〕知らないでのおしえてくださ
いと言ってやって来ました。
思想として考え方の問題である場合などは 大胆に推測しつつ批判に
もおよび問い返す場合もあるとは思います。
★ 中井久夫
☆ は 『時間・あいだ・自己』でしたかの木村敏を読んでいたとき
しきりに出て来た名前です。残念ながら 手を広げませんでした。
★ けれどもわたしは、インターネットで「学ぶ」という意識がほと
んどありません。無論ひとそれぞれですけれど、わたしにとっては学
ぶということはもっと孤独な作業だし・・・
☆ あっ これはどこであろうと・誰からであろうと おそわり学ぶ
ときは わたしにとっては孤独な作業だと思っておこなっています。
★ わたしにとってここでのやりとりはむしろ知的なゲームといえる
でしょう。
☆ なるほど。ゲーム感覚がわたしには無いのかも知れません。(マ
ルクスとのお付き(突き)合いは 伸るか反るかの仕事のようなもの
が――おもに読書としてですが――ありました。マルクスにM.ウェー
バーをぶつけるといった研究・論考が盛んにおこなわれていました)。
相手のその感覚になるべく合わせようとはしますが 昔からのクセは
なおらないのでしょうね。
そういう意味での・自己流の
★ old fashioned
☆ なんでしょうね わたしは。
あっ。ですから ひとつ・あるいは複数の結論に到るまで問い求めを
やめないという習性をも身に着けていると思います。独りにおいても
対話・情報交換においてもです。
自分の言葉で表現し得て納得の行くまでは 常識も定説もなお疑えと
いうことになると思います。
オノマトペないし言語学のことに関しては特に 仮説も仮説だという
ことになりますが。そういう意味での知的ゲームとして取り上げ扱っ
ている一面はあります。
![](http://oshiete.xgoo.jp/images/v2/common/profile/M/noimageicon_setting_11.png?e8efa67)
No.3
- 回答日時:
こんばんは、ぶらじゅろーぬさん、そして地方行政に関心がおありの瀬里香さん(笑)
最近このカテゴリーで過去に投稿されたもので、面白そうなものを気まぐれに眺めています。
古いのは2年ほど前のものです。
正直、なかには全く理解できないものがあります。主にプラポタさん、タシュケント(?)さん、ぶらじゅろーぬさんが行っている文献学というか、言語学というか、ギリシャやローマ時代の文学や哲学についてでしょうけれど、あのように、ほんとうにほとばしる「知性」ばかり、ということに成ったら、ここに残る人は僅かに数人でしょう。
無論わたしもその中には入っていません。
一方で、いまも回答をして「しまい」ましたが、先の戦争=太平洋戦争であると思っている。
個人的にはもう少し水準が上がれば面白いだろうとは思います。例えば過去のプラポタさん、ハコブルさん、ミコデシさんの質問など、面白く感じています。
上記の人たちの質問に比べると、ぶらじゅろーぬさんの質問は専門的な知識がないと手も足も出ないという印象です。まあそんなぶらじゅろーぬさんですから、「ほとばしるチセイ ゆるぎないチホウ」にキリキリしている(おっとオノマトペ(笑))のもわかります。
暑いですね。これから夏が始まるかと思うとうんざりします。どこか小川がさらさら流れているような田舎に行きたいです。
ご回答をありがとうございます。
そうですね。
重箱の隅を突っつくことは それとして必要な場合もあるでしょう
し またはその限られた人たち(ん? 手前ぢゃないか)の趣味で
ある場合もあると思います。
全体の理論や議論のために 原典に当たって精確を期す場合はある
と思います。
★ 先の戦争=太平洋戦争であると思っている。
☆ わたしは現代史・とくに戦争について何も知らなかったので
ここで勉強しました。特ににゃんぽこりん(ひどっち)さんという
方におそわりました。
そして 次のように簡単にまとめて問いました。:
【Q:あたらしい世界と日本】 ~~~~~~~
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/6327949.html
すべての人に対してすべての者になりました。
かのエウロパの紳士たちが芥子の樹脂を売ってお隣りの人びとにま
ぼろしを見させているという話を耳にしてぶったまげました。
かなしいかな われわれもこの商売をついには やるに到りました。
その結果に到る前には その領土にも入って行きました。侵しまし
た。
すべて真似をしました。下手な真似をしました。・・・
~~~~~~~~~~
☆ 明治の開国からの問題ではないかと。そして 戦争は一方的な
問題なのではないと考えました。
あと ここで胸をお借りして勇み足に出ます。:
≪十年一日≫が ゆるぎないチホウだと考えます。
ごろつき仮面
蛸壺哲学
顔を落としたさん
お花畑三兄弟
山の吊り橋くん
回答へのお礼を さらしの手作り(オリジナル) さらさらとお書
きになっていて 感心頻りで見上げております。
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間違いをなおします。
№3お礼欄にて。:
X にゃんぽこりん(ひどっち)さんという方
○ にゃんにゃんこ(ひどっち)さんという方
でした。