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一般的な歴史では、関ヶ原の戦いの後、徳川家康は、当然のように天下統一をしているようなのですが、疑問があります。
もともと、関ヶ原の戦いは、豊臣政権の内部での権力闘争でしかなかったはずであり、徳川家康も、関ヶ原の戦い以前には、
「豊臣家打倒」
などとは、全く言っていませんでした。
豊臣家内部の権力闘争に打ち勝ったというだけなのに、なぜ、徳川家康が、「当然のように」日本全体を統一する政権をつくってしまえのかが不思議でなりません。

今日の私たちは、実際の歴史を知っているので、疑問をもたないかもしれませんが、当時の人々からすれば、関ヶ原の戦いに勝ったからといって、
「だから家康が天下人」
という意識は、まだなかったのではないか、と思うのですが、なんで、家康が天下人ということになっていったのでしょうか?

A 回答 (4件)

それまでに、じわじわ根回ししていたから。


でしょう。
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秀吉が亡くなった時、跡継ぎである秀頼はまだ小さな子供であり周囲の武将達の


多くは豊臣家の体制が盤石だと思っていなかったと想像されます。
「豊臣政権内部での権力闘争」といわれますが、加藤清正や福島正則や石田三成
といった連中は根っからの豊臣家の家臣という立場でしょうが、その他の多くの
武将たちは元々各地で独立していた戦国大名であって本来は豊臣家の家臣という
立場ではありません。
時代の流れによって秀吉が天下人になった為、形式上豊臣家の家臣になったという
だけですから、天下人たる秀吉が亡くなり他の人(家康)が実権を握りそうで
あれば多くの武将が豊臣家から離れて徳川に付くのは当然かと思います。

また石田三成は豊臣政権が大事だったでしょうが、加藤清正や福島正則といった
豊臣恩顧の武将達は豊臣秀頼さえ守ることができればOKで徳川が政権を握っても
仕方ないという程度の意識だったように思います。
それほど徳川家康という人物が傑出していて、対して豊臣秀頼という子供では頼り
ないという状況だったのではと思います。
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統治者としてやるべきことをやって勢力を維持していたこと。


そしてそのタイミングで豊臣政権の弱体化という、好機到来が発生したこと。
要するにチャンスが来た時に準備したのでは遅いので、
本人も天下を取るチャンスは無かろうと思いつつも、準備だけは怠らないでいたら、なんとチャンスがやってきたわけです。
幸運に恵まれたのです。

例の、勝利の女神は前髪しかないとか云々の話は、ここにも通じます。チャンスが来た時に準備してたのでは遅いわけです。

そして関が原以降も危なげなく統治の体制を整え続けた。つまりミスをしないこと。
また長生きして、家康の生前に、豊臣に完全に止めを刺すことができた。
家康が完全に天下人になったのは、こっちの時ではないでしょうか。
関ヶ原の段階では、豊臣がそうだったように、一時的なものになる可能性もあり得ないとは言えません。
そうでなくても、足利幕府などのように初代で終わらせられなかったら、3代目まで闘争が長引いたかもしれません。

ちなみに家康の覇権確立後も伊達政宗などは統治者としてやるべきことをきちんとやっていましたが、
こちらは徳川に隙がなかったので、覇権を奪う好機がついにやって来ませんでした。

こんな解答で大丈夫でしょうか?
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本能寺の変のあと、織田家の血筋ではなく、家中一番の実力者の秀吉の天下になったことから、秀吉が亡くなったら、次の天下人は家康という雰囲気が自然に出来てました。


 天下人はその血筋が継ぐという慣わしを定着させたのは、家康からです。
 また、家康は滅亡した武田家の家臣を多く再雇用したり、今川家の後継ぎの生活の面倒を見たりしてますから、豊臣家に対しても、けっして敵ではないという印象もあります。
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