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伊藤博文を安重根が暗殺いたしまして、韓国では安重根は英雄となっておりますが、なんとなくですが
安重根が伊藤博文を暗殺したのがきっかけで韓国併合といった形になったような気がしまして、伊藤博文は韓国併合までは考えてなかったような気がします。暗殺しない方が良かったのではないかと思うのですが、ご意見をいただけたらと思います。

A 回答 (4件)

韓国併合は、韓国から日本に依頼して


なされたものです。

当時の韓国首相「李完用」が、政治団体「一進会」
の協力で議会の賛同を得て、日本に併合を依頼
してきました。

日本は再三断ったのですが、国内でも併合の
有用性を説く者が現れ、併合反対の伊藤博文暗殺
の結果、併合反対の勢いが弱くなり
併合に至りました。

有用性というのは、ロシアのことです。
半島がロシア領になったら、日本の安全が脅かされ
るので、日本も併合に踏み切りました。



暗殺しない方が良かったのではないかと思うのですが
   ↑
併合したお陰で今の韓国があります。

併合した日本は、当時アジア最貧国であった韓国を
強くしようとして、教育、港湾の整備
などに乗り出しました。
強くしようとしたのは、ロシアに対する防波堤として
利用する意図でした。


・半島の人口が2倍に増えて24歳だった平均寿命が30年以上伸びた。
・5200校以上の小学校がつくられ、師範学校や高等学校が
合計1000 以上つくられ、239万人が就学して識字率が
4%から61%に上がった。
・半島に3800キロもの鉄道が引かれ、港が造られ、電気が引かれ、
会社が作られるようになって物々交換から貨幣経済に転換出来た。
・禿山に6億本の樹木が植林され、ため池がつくられて、
今あるため池の
半分もいまだに日本製で、川や橋が整備され耕作地は2倍になり、
近代農業導入で1反辺りの収穫量が3倍になった。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。韓国併合が韓国から日本に依頼して
なされたものとのこと存じませんでした。ロシアですが、なんとなくですが、日本に併合されてなかったら韓国はロシアに占領されていたんじゃないかとも思いまして、どっちかというとロシアより日本に統治された方がましなような気がします。
日本の統治も結構利点があったんですね。

お礼日時:2016/09/24 08:58

伊藤博文ははなからその当時のムーブメントであった植民地主義に反対でした。


理由は多大な金がかかるから。
その金があれば内需復興に回せて極貧者が減ると主張したのですが、日本人の中には、
これを良いと思わなかった人々がいたので、朝鮮の左遷・更迭させられて、ついでに
朝鮮人をそそのかして殺させた。これだと思いますが。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。植民地主義に反対とのこと多大な金がかかるからだったんですね。そそのかされたとのこと興味もちもす。

お礼日時:2016/09/25 12:20

在日?

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この回答へのお礼

私ですか?在日ではありません。生粋の日本人です。

お礼日時:2016/09/25 16:12

よく勘違いされることですが、伊藤が暗殺されたのが1909年10月26日、


日韓併合が決められた閣議決定が1909年7月6日です。
つまり、伊藤が暗殺された時には既に決定事項でした。
ですから、「伊藤暗殺がなければ日韓併合は無かった」という説は
あまり考えにくいものです。



ところで、一部の研究者が主張するように、日本が朝鮮を植民地化
することを望んでいたかというと、そういえない部分もあります。
当時の歴史を見ると、その時の政府の実権を握っていた国王(高宗)は
今の北朝鮮のように平気で国家間の約束を破り、庇護する国を変え、
何度も煮え湯を飲まされた日本が締め付けを厳しくしていきました。
伊藤の考えも、朝鮮が一国家として日本と渡り合えることを望み、
それを統監として指導したこともありました。
その過程で起こったのが1907年の「ハーグ密使事件」です。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%BC …
日本の世論は激高しましたが、伊藤は李完用政府にまかせました。
これは、伊藤統監から珍田捨巳外務次官に宛てた1907年7月19日付の
「往電秘第64号」に記録されています。
これによると、事態を重視した韓国政府が高宗の退位を促し、
四面楚歌の高宗が「伊藤君たすけて!」とお願いしてきますが、
伊藤は「よく閣僚と話し合ってください」とお断りしました。
また、李完用には「韓国政府が決めたことならそれでいいけど、
日本が強制したことにしないでね」とお願いしました。

さて、この時の日本の対応ですが、誰でも見られるまとめがあります。
アジア歴史資料センター
http://www.jacar.go.jp/
「韓国二於テ第二回万国平和会議へ密使派遣並二同国皇帝ノ譲位
 及日韓協約締結一件 第一巻/分割1」
(レファレンスコード:B06150550500)
議論の過程では、内治政務を統監に委ねさせる案や譲位させる案等
色々議論されていますが、結論としての採決がP97(P93も同じ)。
日本への移譲は全員反対。
皇太子(純宗)への譲位も賛成は寺内(正毅)のみで他は反対です。
現在は韓国の妄想からか日本が強制したことになっていますが、
このように、当時はまだ日本の朝鮮併合の意思は弱く、
その後に財政破綻などで行き詰まった韓国政府からの申し入れで
日本による併合となりました。



>安重根について

安重根による暗殺の動機は、近年にリッパート大使が襲われたように
単純に言えば政治に詳しくない激情家が自己主張のための襲ったもの。
現在の韓国では神聖化されていますが、当時の新聞を見れば
国王(純宗)がお詫びしたりで、朝鮮の世論は「申し訳ございません」
一色でした。前述のように、日韓併合が既定路線で、この時には
国民の大多数がそれを望んでいました。
この当時は政治テロが盛んで、李完用(未遂)やアメリカ人顧問の
スチーブンスが暗殺されています。
しかし、安重根を批判するのはタブーなので、当時の調書に
弟が「勉強が嫌いでろくに勉強せず遊んでいた」とか
母親が「私は知らないし、本当なら悪いことをした」とか
「家出後に名前は応七を自称しているけど、本名は子任」とか
(ちなみに応七の名前の由来は胸に七つの黒子があるから)
自伝(安応七歴史)で述べた「参謀中将」は本人しか知らないとか、
韓国映画「多黙安重根」など、「死刑後に9歳の子どもを毒殺」ですが
当時の安重根の長男安丕篤は4歳、次男の安瑪寶は2歳で
この子達はその後は親日家になったなどとても言えないでしょう。
どこから来たのか嘘とデマばかりなのです。



>伊藤が日韓併合に消極的であった

アジア歴史資料センター
http://www.jacar.go.jp/
「韓国新内閣大臣ニ對スル伊藤統監ノ演説」
(レファレンスコード:B03041513400)
長いのですが、内容としてP6~P15で述べられたように、
伊藤は韓国閣僚のふがいなさを叱り、韓国の自活を説いています。
当時の認識としては、韓国が自立することを望んでいました。
しかし、当時の韓国は大国の庇護を求めて堕落していました。
日本が日韓協約で内政に関与するようになったとき、
「韓国施政改善ニ関スル協議会」がありましたが、議事録によれば
国王が玉璽を私用で使って私欲を貪ったり、許認可を政府と皇室が
それぞれ認めて手数料を取ったり、国有地を私物化して販売したり、
国家とは思えない自堕落ぶりでした。

現在の認識では、これらの資料は無視されて、
「(きっと)日本が侵略したかったから」などと言われます。
歴史家を自称される研究者は、少しは資料を見て欲しいものです。



おことわり

先ほど確認したところ、現在はアジア歴史資料センターに
アクセスできません。
直接行けば見られると思いますが、ネットでは確認できません。
以前は見られたのですが、この点は申し訳ありません。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。伊藤が暗殺される前に閣議決定されていたとは、以外でした。伊藤は日本の利益のきならず韓国のこともおもっていたんですね。韓国の方の主張は以前、韓国人の著した「悲しい日本人(邦題)」を読んでから滅茶苦茶だと思い、歴史認識等の違いがあっても韓国の方の主張は信頼できないといったしだいです。
アジア歴史資料センターというのがあるんですね。資料は重要ですね。
詳しくご教授いただき、たいへん感謝いたします。

お礼日時:2016/09/25 20:10

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