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フランスの王様はルイ16世など、ルイばっかり多いです。普通、○○△世なら、その王朝の何番目、という意味だと思いますが、なぜ、フランス王はカロリング朝(フランク王国)→カペー朝(フランス)→ヴァロワ朝→ブルボン王朝まで、ルイの番号を通算するんでしょうか?ルイ1世はルートヴィヒ1世 (フランク王)=ローマ皇帝でフランス王国自体が存在しません。血のつながりだったら、ユーグカペーの子孫なんだから、カペー朝から数えるべきでしょう。(フランス王国も成立した訳でもあります=権力弱いけど)なぜ、フランス王はフランク王からルイ〇世と数えるのでしょうか?

詳しい人がいたら教えてください。

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A 回答 (3件)

#2です。

お礼ありがとうございます。

>けっこういい加減ということなんでしょうか。
いい加減ということはないでしょうが、かなり複雑であることは間違いないでしょう。

お礼の内容でいえば、まず東フランク王国はカロリン朝ルートヴィヒ4世で系統が断絶し、一代限りのフランケン朝を経由してザクセン朝になります。

この王朝を「東フランク王国の継続」とみるかどうか、だと思います。
で、もうひとつの問題が王朝をつくる「王」と皇帝そして教皇の関係性がこの時代非常に不明確である、ということも頭に入れておく必要があると思います。

で、結論から言えばザクセン朝は名前こそ「東フランク王国」だけど、実質的にはカロリング朝とはまったく別の国、ということでしょう。
カロリング朝が断絶するとフランケン朝のコンラート1世が立ちますが、これは諸侯の間で選挙が行なわれ選ばれた王だったわけですが、ザクセン公やバイエルン公などの有力諸侯との軋轢やマジャール人などの侵攻に悩んでいました。で、コンラート1世は子供がいなかったので死ぬときに「東フランク王国の継続を優先」してザクセン公を指名し、次のザクセン公からザクセン朝になるわけです。

このザクセン公がハインリヒ1世として戴冠するときに「マインツ大司教の塗油の礼」を拒否したというエピソードがあります。マインツ大司教の塗油の礼、はそもそもフランク王国を創始したピピン3世が教皇から塗油の礼を受けたのが始まりで、フランク王国の継嗣は塗油の礼を受けることが慣わしでした。東フランク王国でもフランケン朝コンラート1世まではこの礼を行なっていたので、ここで王朝だけでなく国家そのものが変化することになります。
一般的にこのザクセン公ハインリヒ1世から「ドイツが始まった」とされます。
(塗油の礼:ヨーロッパでは古代から王位に着く者に油を注いでそれを認める儀式があり、旧約聖書にも記述があり、キリスト教でも礼として行なわれています)

したがって、質問者様のいう
「バイエルンのヴィッテルスバッハ家では神聖ローマ帝国の順番で名乗らずに、バイエルン公の順番で○○世としていたようです。」
にはもう一段階あって、ハインリッヒ1世の息子でザクセン朝ドイツ王だったオットー1世(神聖ローマ帝国初代皇帝:大帝)と、ヴィッテルスバッハ家の初代であるオットー1世は別の人で、血筋もほとんど関係なく、神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世にバイエルン公として任じられた人になります。

神聖ローマ皇帝から任じられた家系が、皇帝と同じ順番で数えることはできない、というのが理由のひとつ

もうひとつはそもそも「皇帝」は王ではない、ということ
ローマ時代から皇帝というは事実上の独裁君主であっても、王ではありませんでした。ローマ時代はあくまでも「終身の特別官」であり、必ずしも世襲ではありませんでした。

神聖ローマ帝国においても建前上は「選挙君主制」をとっており、それは彼らからすれば「ローマ時代の伝統通り」だったわけです。実際には有力家系が皇帝になればあらゆる手を尽くして世襲するのですが、代が途切れると選挙制に戻ってドイツ王が選ばれるわけです。
ヴィッテルスバッハ家のルートヴィヒ4世はあくまでもヴィッテルスバッハ家の4番目のルートヴィヒということであり、その人がたまたま選挙君主制でドイツ王に選出された、ということにすぎません。そしてルートヴィヒ4世は世襲で5世にドイツ王を継がせる事が出来ませんでしたので、5世はヴィッテルスバッハ家の5番目のルートヴィヒでバイエルン公だった、ということになります。

あくまでもこの時代、皇帝は「選挙制」が建前ですから、皇帝の名前で継いでいかなかったのはそういう理由でしょう。フランス王はカペー朝が世襲を3百年ほど続けることで専制君主制というか絶対王政の基礎を作っていったために、王朝=国家として番号を数えることができるのにたいして、ドイツは神聖ローマ帝国の成立そのものが諸侯による選挙王制だったために、国家として統一した番号をふるのが難しい、という側面があるのだと思います。

ですから、ものすごくややこしい、わけです。
結局のところフランス・ドイツという枠ではなくヨーロッパ全体を見渡したときに、中世は諸侯の領地がせめぎあっていた、という現実が重要なのだと思います。ローマが崩壊し、イスラムとの戦いの中で、ローマの最後の名残だったフランク王国が分裂崩壊し、諸侯の中でも有力だった家系が王朝を開いていったのがフランスであり、世襲制の正統性を示すためにもカロリング朝の敬虔王ルイ1世から数えているのだと思います。血筋が変わっても「フランスの王」である実態は変わらないため、正統性を表すためにもフランス国の始祖から数えていたのでしょう。

逆にドイツはフランク王国が崩壊し東フランク王国になってもごたごたします。ひとつには「ローマ帝国の伝統」という考え方があって、選挙王制などを大切にしたことが大きいのかもしれません。または諸侯の勢力が西フランクの地域よりは拮抗していたのでしょう。

そのために、ドイツの統一の方法はフランスと異なり絶対君主が出にくい状態で経過したため、各諸侯は自分達の先祖から数えた番号を大切に扱ったのだと思います。そして諸侯の中にはドイツにもフランスにも入らずに諸侯領を死守した人たちもいて、ベルギーとかオランダなどはその名残がありますし、ルクセンブルグやモナコなどはいまだに諸侯領のまま維持しているわけです。

ですから国家という単位であることはまあ基本としても、日本人の感覚だと「なにをもって国家とするのか」が問題点になってしまいます。
諸侯領も国家の範囲ですし、そこから大きく発展して王朝を持った家系なら家系=王朝として数えられるわけですし、そういう点でいえばフランスは国家が家系を越えて存続したために、ローマ皇帝がもつカエサルと同様に番号がカロリング朝から数えられるようになったのでしょう。

非常に蛇足ですが、フランスとドイツは仲が悪いですね.フランスは10世紀にはフランスの原型が出来ていて、王様の番号もそこから数えている「由緒ただしき国」なのに隣のドイツは「東ローマ帝国の名残」とか「フランク王国時代の領地を取り戻す」と言って、フランスにちょっかいを出し続けていたわけで、これらの違いも君主国が成立しているのか、諸侯領の集りなのか、と言う違いが大きいのかもしれません。
ま、フランスもイギリスにちょっかい出し続けて仲が悪いですけどね。
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この回答へのお礼

とても深い知識に感服いたしました。ご回答者様はお詳しいですね・・・。
逆に日本の様な大枠では王朝は一つ(天皇家のみ。継体天皇や南北朝などの議論はさておいて)、王国も原則一つ(蝦夷やアイヌ等の問題はおいておいて)というのが世界史的には珍しいので、感覚にずれがあったのですね。

勉強になりました。ありがとうございました。

お礼日時:2016/09/28 18:11

これは「たぶん」なのですが、皇帝のカイザーつまり元の「カエサル」に対抗するためにつけられるようになったからだと思います。



質問者様はカエサルの元になったユリウス・カエサルの話はご存知だと思いますので省きますが、そもそもヨーロッパでは古代ローマ時代から家名を残す(継ぐ)、有名なエピソードがある人はあだ名を取り入れる、などの習慣がありました。

で、フランク国王であるルートヴィヒは東フランク王国のドイツ人王であるルートヴィヒ2世が使っていますね。ドイツ人王というように、ルートヴィヒ2世から今のドイツが始まる、と考えているドイツ人は多いようです。同様に西フランク王国はフランスになって行くわけですが、シャルル2世の次はルイ2世3世とつづき、同様に東フランクはルートヴィヒ2世3世とつづいています。

ここにヨーロッパの「○世」の秘密があるのだと思います。それは「その国の君主になった名前は、同じ名前をもつ人は紛らわしいから初代から数えて○世とつける。血筋は関係ない」というルールです。

たとえばイギリスのエリザベス女王、1世はテュダー朝ヘンリー8世の娘で、現国王の2世はウインザー朝です。まったく関係ない血筋ではありませんが、相当に離れています。

逆に別の国であれば、同じような名前が頻発します。たとえば「ロベール1世」は少なくとも7人はいて、有名な一人は西フランク王国の国王、もう一人は悪魔公で有名なノルマンディ公、後面白いのがフランドル伯、彼はフランス王ロベール2世の王女アデル・ド・フランスの次男、つまりもっと位の高い同じ名前のしかも2世の名前を受け付いで、でもフランドルという場所の領主になったので1世になっている、と言うややこしさ、になります。


じっさい、このややこしさは、ローマ時代からあったらしく、初代皇帝アウグストスを例にとれば、彼の出生時の名前は「ガイウス・オクタウィウス・トゥリヌス」、で初代皇帝になった後は「ガイウス・ユリウス・カエサル・オクタウィアヌス・アウグストス」

彼の父親は騎士階級で名前は「ガイウス・オクタウィウス」つまり彼のなまえは「ガイウス・オクタウィウスの息子トゥリヌス」で名前は・トゥリヌスだったということになります。そして皇帝になる前にカエサルの養子になったので「ガイウス・ユリウス・カエサル・オクタウィアヌス・トゥリヌス」になり、皇帝になった後トゥリヌスをアウグストスに変えているわけです。アウグストスはラテン語で「尊厳ある者」を意味します。

こういう「名前の引継ぎ」が頻繁に起こる文化では、同じ名前がごろごろ居ることになります。ローマ時代の名将スキピオも大と小がいますし、バッハも大と小がいます。

こういうことを避けるために「うちの国王のルイのことなんだけどさ」「国王っていつのルイだよ?」という会話をしないで済む様にするために、王朝が変わっても初代から番号を数えたのでしょう。
そうしないと、イギリスのエドワードなんて各王朝にいますので一口に「エドワード1世」と言ってもプランタジネット朝の人なのか、ランカスター朝なのかテューダー朝なのかそれとも退位したウインザー公なのか、判断がつきにくいわけです。そういうことを避けるためにエドワード8世=ウインザー公というように、国を成立させた初代から一貫して王朝は関係無しに番号を振るようにしているのだと思います。

つまり国民の意識として「王朝が変わっても戦争やそうでなければ基本的に国は続いていてそのルーツを辿れること」が重要視されているのではないでしょうか。

ですから、先ほどのフランドル伯はフランドル地方の人々にとっては初代であり、今のベルギー王室につながるというか
、複雑なヨーロッパの歴史の中で「ベルギー国の始祖はフランドル伯ロベール1世」と言う意識があるのだと思います。だから「ほかにロベールはいるけど、ベルギーのロベール1世はフランドル伯」になるのでしょう。

ということでフランス人の意識が「フランスは西フランク王国までさかのぼる」と思っている以上、ルイの初代は敬虔王になるのだと思います。いや正確には、西フランク王国の2代目であるルイ2世が2世と名乗ってしまった(当時のコインなどにしっかりIIって書いてある)以上、一世は敬虔王ということかもしれません。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。ただ、やはり釈然としないところがありまして、ドイツだったら東フランクのカロリング朝の最後の王様はルートヴィヒ4世ですが、次のドイツ国王(神聖ローマ皇帝)のルートヴィヒは、ルートヴィヒ4世となります。???同じ国の王様の場合は、番号は通算のはずなのに・・・一方で、ルートヴィヒ4世の息子でルートヴィヒ5世はバイエルン公で、ドイツ王ではありません。ルールからするとバイエルンでの公位の番号になるはずでは???と思って調べるとバイエルンのヴィッテルスバッハ家では神聖ローマ帝国の順番で名乗らずに、バイエルン公の順番で○○世としていたようです。そうするとピッタリ理解できます。

 フランスはフランク王国からの由来を重んじて、カロリング朝から数えるというのは理解できます。ただ、同様の例であるドイツを見るを逆に訳が分からなくなってしまいました・・・。
けっこういい加減ということなんでしょうか。

お礼日時:2016/09/26 20:58

フランスの名はフランクから来ているとも言いますね。


フランク王を継承しているとの意思表示で、フランス王の〇世も継承しているのでしょうね。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。確かにフランスという名前はフランク王国から来ていますものね。同じく東フランクから発生したドイツは、神聖ローマ皇帝でもあり、フランスより由緒正しいわけですが、
ルートヴィヒ1世 (フランク王)から名前を数えることはないようです。なぜフランスだけ通算するのか?世間一般もその認識なのか?何か決まったルールが国王継承法でもあるでしょうかね?

お礼日時:2016/09/26 05:22

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