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よく江戸時代の年貢は「4公6民」「5公5民」とか言われていますが、武士なんて人口の1割くらいしかいないのに、そんなにお米を貰ってきても食べきれないんじゃないですか?武士階級はものすごい米余りになると思うんですが、それをどうしていたのでしょうか?

質問者からの補足コメント

  • なるほど役人が商人に売っていたんですね。ということは年貢米は最終的に誰が食べたんですか?
    武士・商人・職人を併せても人口の2割もいませんから、やっぱり米は余るような気がします・・・
    農民が取られた年貢米をまた買い直して食べるんでしょうか?

      補足日時:2016/10/09 18:20

A 回答 (8件)

探し回りましたが、此処の回答が簡潔で最も分かりやすい。



http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question …
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詳しい回答は他の方に譲るとして、、、


年貢米=お金、証券と思って下さい
大阪の米市場なんかは当時証券取引所のような感じだったとか
まぁイメージとしては金取引に近いんじゃないでしょうかね
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>そんなにお米を貰ってきても食べきれないんじゃないですか?


>武士階級はものすごい米余りになると思うんですが、
>それをどうしていたのでしょうか?

 売って 現金化したの!

http://onjweb.com/netbakumaz/essays/essays62.htm

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ごく簡単に言うと、米を売って現金化する。


武士が米を食べ尽くすわけじゃないよ。
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税金の替わりだから、街で商人に売って今でいう運転資金を捻出、他の従業に回したり配下の侍の給与に充てる.......と認識。

「お代官さまも悪人ですな~」、「これこれ庄屋、滅多な事を言う物ではないぞ」ってな具合。今も昔も恐らくやっている事は変わらず、です。
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>やっぱり米は余るような気がします・・・


>農民が取られた年貢米をまた買い直して食べるんでしょうか?

 下記の回答によると

 1830年頃の日本の推定人口3000万人
1人辺りの年間消費するコメは、1石(約150キロ)
各藩が幕府に正確な石高を伝えてない場合もありますので、
地租改正後の明治初期の農産物生産高から逆算して、
1600年頃に2000万石、1700年頃に3000万石、天保の頃に4000万石と
推定されています。しかしながら郷帳の石高にせよ、
推定石高にせよ、米以外の作物の金銭換算を加えているらしいとの事で
「米は全員には行き渡らなかった」とありますね・・・

http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question …

 また、別の意見ですと
1人辺りの年間消費するコメは、1石(約150キロ)以上と
考えると 全員に行きわたらないという考えもあるようです。

 また、米は、「通貨」であり、生産者である農民は
「通貨」を進んで食べるなんていう勿体無いことはしなかったという
考えもあるようですよ

http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=271442
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年貢米は武士の食糧だけでなくいわゆる行政経費になりました。

城や陣屋の建築費・維持費、江戸と領地の連絡費、災害復旧費などです。領内で大規模な用水路を作るような場合は費用の一部を出すこともありました。
年貢米は江戸や大坂で売却されその代価はこのような経費に使われたのです。そして米そのものは江戸や大坂の町人の食糧になりました。
また大名や旗本は幕府から色々な役目を命ぜられますね。たとえば幕末では京都に守護職が設置されます。会津松平容保その役に任ぜられますがその経費は河内と播磨国内に臨時の領地5万石が与えられこれで賄われました。賄われたと言っても足りなかったようですが。

年貢は一般に「4公6民」などと言われ、生産量の4割が年貢だったと思っている方が多いでしょう。これは「高」という数値の4割であって決して生産量の4割でないことに注意してください。高は年貢の対象になる田・畑・屋敷に設定されていました。高は本来は実際の米の生産量を示す数値だったと思われますがこれらを評価する数値になってしまっていることに注意してください。
年貢は異様に高い村がありました。小生の知る範囲では16割という所がありました。高の1.6倍もの年貢を納めていた村があったのです。なぜこんな状態になったのか愚考を記します。
高の設定は豊臣秀吉が全国の大名にやらせたのが最初のようです。まず検地をして高を決めるのですがこの作業は村方で行うことが多く領主はその報告書を追認するいわゆる「差出検地」が多かったようです。高が決まれば年貢が決まります。村としては年貢はなるべく少なくしたいですね。ならば米が取れない貧乏村という報告書を作れば良いわけです。つまり村の実情を過小評価した報告書が作られたわけです。でもすぐにバレますね。領主は原則的には毛見をして実際の生産量を把握して年貢を決めますから高に対する割合はものすごく高くなる場合があるのです。

またこの時代の検地報告が正しく行われていたとしても時代と共に米の生産量は増えます。農業技術はもちろん進歩するし用水路などインフラ整備も進みます。しかし高の値は変わりません(地域によっては総検地を繰返して最新の生産量を高の数値に反映した所もあったでしょうが多くはそうようなことはしていません)。それに高は米を作ったとした場合の数値です。農民はもっと有利な農産物を作りました。地域によって違いますが綿やサトウキビなど。田畑で何を作っても年貢は変わりません。こういったことが高が正しく生産量を示さなくなった理由と考えられるのです。
もうひとつ、一般に冬にも麦などを作りますがこのことを考慮する歴史学者はあまりいないようですね。大雑把に考えて夏の生産の1/4程度はあったでしょう。

こんなことを考え合わせると農民の年貢の負担は年間総生産量の15%~20%程度だったように思われます。もっと低かったかもしれません。もちろん地域によっても時代によっても違うでしょうが、4割とか5割というのは間違いだと考えています。
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米以外の作物を作る農家もある。

たとえば、綿花作りなどでは、食料は購入という形。
琉球(今の沖縄)などでは、サトウキビ=砂糖の生産を重視していましたから、米は内地から運んでたようです。
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