1. 或る回答を引用して 問うものです。規約違反であれば したがい
ます。
2. 前々から分からなかったのですが ひとまとまりの説明を得ました。
なお分からないのですが 疑問を呈して問い求めをすすめ得ればと考えま
す。
◆ 《彼は我であったかもしれず、我が彼であったかもしれない》~~~
3. 我々の身体は原子からできているし、宇宙はブラックホールにより
誕生したのかもしれない。
4. しかし、その原子やブラックホールが何からできているのかは永遠
に不可知だろうと思います。
5. むろん、どちらも、その大元を辿れば1次元の拡がりをもつ弦( 超
弦)であると推測されるところまで来ているようですが、では、その超弦
は何からできているのか、ということになるでしょう。
6. つまり、理由が分かったとしても、その理由に対する理由が永遠に
付きまとうわけなので、永遠に不可知と言わざるを得ません。
7. よって、
「人智の及ばぬ自然宇宙の絶対的摂理(=あらゆる事象をバランスさ
せる力)に起因して我々は生まれた。( A )」
を定理として認めざるを得ない。
8. この場合、
「我々は [ 人類の一員としての我 ] でありさえすれば摂理の要件を満
たすに十分なのであって、 [ 自我としてのこの我 ] が存在しなければ
ならない必然性は(摂理にとって)皆無である( B )」
7. よって、
「彼は我であったかもしれず、我が彼であったかもしれない( C )」
という命題が結論として導き出される。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
8. まづ用語です。
《不可知》は 質問者としては 《知り得ないと証明されたものごと》と
定義しますが どうもここでは 《知り得るか知り得ないかが知り得ない
ナゾ》としての非知のことを指して言っているように思われます。
その点 どうなんでしょう?
9. 《大元の大元》としてここでは《ナゾ》という言葉で統一したいと
思うのですが (7)なる命題(つまり A )は 次のようにみちびかれ
ているのでしょうか?
9-1.(編集版A‐1) ナゾはナゾであり続けるゆえ それを《人智の
及ばぬ自然宇宙の絶対的摂理(=あらゆる事象をバランスさせる力)》と
呼び 同じくそのように説明する。
9-2.(編集版A‐2) われわれは ナゾによって・絶対的摂理によっ
て・あらゆる事象をバランスさせる力によって生まれた。
10. (8)の B なる命題について:
10-1. 《摂理の要件を満たす》とは どういうことか? すでにこ
の摂理によってわれわれは生まれて来ているのではないか? すなわち生
まれて来たときに 《[ 人類の一員としての我 ] でありさえ》しているの
ではないか?
10-2. 《 [ 自我としてのこの我 ]》が分からない。《[ 人類の一員
としての我 ]》と《自我としてのこの我》とは 別なのか? 別だとすれ
ば 《自我》について説明が欲しい。
11. (7)の C なる命題において 《我 や 彼》は どうなのか?
つまり おのおのが《[ 人類の一員としての我 ]》であるその人間のこと
か?
11-1. もしそうだとすると この命題で《彼は我であったかもしれ
ず うんぬん》というとき 一方では 《[ 人類の一員としての我 ]》どう
しとしては互いにその存在を共通のものとしていると言えると同時に 他
方ではなぜ――だからと言って――それぞれが互換が可能であるかのよう
な見方をしなければならないのか? という疑問がとうぜん起きる。
12. 果たして 命題 C は どういう意味なのか? つまり おのおの
の意志自由は互いに――社会的に相対的に――独立しているはずであり だ
からいわゆる個性があり得ると考えられるとき それらをめぐって 何を言
おうとしていると解釈すべきなのか?
12-1. 人間は 人類として重んじられるが 一人ひとりの存在はど
うでもよいものだ――と極論して受け取らざるを得ないようにも感じるの
ですが 果たして どうなんでしょう?
No.74
- 回答日時:
#73です。
分割を忘れていましたので。
№73お礼欄からのつづきです。
(イ)
ここは 非思考か思考の停止かをめぐっての《連続・非連続》の問題ではな
いかと。
★ 「思考の停止」を否定する必要はないという気もするのですけどね。
☆ これはですね。前回はまづい表現をしたかも知れません。そうではなく
ずばり:
タテの関係:〔非連続ならば〕非思考;〔連続ならば〕思考の停止〔と見る〕
ヨコの関係:〔連続・非連続を問わず〕 思考および感性(=共通了解)
という図式になるのではないでしょうか?
★ その場合、(本来の)信仰が思考停止であるとして、それは、むしろ
bragelloneさんにとっても本意ではないか、という印象も受けるのですが、
☆ 《本意》はですね。 非思考ならば 思考を停止・休止するか継続する
かとは 別のカテゴリにあると思うんです。思考は あくまでヨコの関係に
おいての意志行為ですから。
ただし 非思考の庭にあっても 思考を《仮りに》あたえようとはします。
それは つねに《憶測や思わく》でしかないという前提があるということに
なります。
(ウ)
★ ~~~~~~~
ここも実によくわかるのですが、(イ)と同様、
★神と摂理の食い違い
についてつまびらかにしないまま論じるのは難しいように思います。
☆非連続
と前提するなら、たしかに
☆神は非知
と言う論理は成立するでしょうね。
この辺りの論理はおかげさまで腑に落ちました。
ただ、そうした前提が(神に対して)妥当か否か、という問題と、仮に妥当
だとして、それを「絶対的摂理」にも適用することが妥当か否か、という2
つが論点としてあると思われます。
わたしの場合、現時点では、とりあえず、後者については(見解の相違とい
う形ではありますが)否定しつつ、前者については積み残しの状態と言える
でしょう。
~~~~~~~~~
☆ いやア これはありがたいことですね。見解の相違が 待ち構えている
かも知れないのではありますが。
この《2つの論点》について (イ)の議論とそして〔№73お礼欄での〕
(ア)の議論とで 取りあえずいくらかは――なお幕引きを遮って――すす
め得たかも分かりません。
早く言った場合には 《絶対的摂理》という表現は どう言いますか《赤裸
々》すぎるように感じます。
№75のお礼欄は 大事に取っておきます。
No.72
- 回答日時:
#71です。
>あとは 前回(№70)で明らかになった《連続か非連続か》の主題にみ
な収れんするものと思います。
:
そのようですね。
新たな切り口が出てきそうな気もしますが、明日当たりにでもまた。
>補足欄が あと一回になりました。
ご回答は 二つ三つに分けてお寄せくださるとさいわいです。
:
了解です。
お互いに――ようやく でしょうか――ゆったりとした気持ちと心とで こ
の対話にのぞむことができているようですね。
ご回答をありがとうございます。
あなたの:
★ 象徴としての神
☆ は――これも分からなかったのですが――どうも わたしの見方に引き寄
せるなら 次のような議論としての《シルシによって神を指し示す》という
問題と同じではないか? という感じがして来ました。
☆☆(№64お礼欄:神は シルシで指し示す) ~~~~~~~
★ しかし、「神は非知」には違和感がある、ということ。 / なぜなら、
「神は」と主題提起してしまっているわけですから、「神」がすでに思考対
象として認識されていることになる。
☆ 《人智の及ばぬ》という規定は 《人智の及ばぬナゾ》について人智で
思考し判断した結果です。
《知り得るか知り得ないかが知り得ないナゾ》という規定は やはり人智で
思考してそう定義しようと判断した結果です。
たとえ《人智の及ばぬナゾ》であっても 人間の言葉で表現すれば その表
現の指し示す先なるナゾ(つまり 指ではなく 指の指し示すその先のナゾ)
が互いに伝わると思っておこなうのが 《想定による仮説法》です。
言葉で表わすのですが 人智の及ばぬ神については 言葉をそのシルシとし
て用いています。シルシだけとして当てています。
言葉が概念として持つ意味内容そのものを 神の中身として対応させている
わけではないということです。
でも 意味内容を持つかぎりでその内容に応じて――神を扱うときにも――
人間は 思考しています。シルシを捉えシルシで思考しています。
神をその限りで――シルシなる仮りの小世界における限りで―― 思考の対
象として扱っています。
けれども だからと言って:
★ 「神」がすでに思考対象として 認 識 さ れ ていることになる。
☆ ことは ありません。思考され認識されているのは あくまで神を指し
示すシルシとしての言葉であり その概念内容なのです。
超経験を扱う場合には つねにそうなります。非知と規定した場合には つ
ねにそうなります。
経験と非経験とを分けるというのは そういった表現の問題をも巻き込んで
います。
~~~~~~~~~~~~
No.71
- 回答日時:
#69です。
>★★ ~~~~~~
《不可知と思う》からこそナゾと表現する。
《不可知と思わなければ》ナゾではない。
~~~~~
☆ 単なる未知でも不思議なナゾだと言いますし とりわけ非知なら 大い
なるナゾです。
この問題は 分かり切っていますよ。
:
虚言を弄するのは感心しませんねえ。
★《不可知と思う》からこそナゾと表現する。
★《不可知と思わなければ》ナゾではない。
が分かりきっていたなら、
★ゆえに、
《(不可知と)思わなければ 既知にもなり得るナゾ》
という事例は存在し得ない。
ことも当然、
☆分かり切って
いなければならない。(しかも、その箇所を意図的に引用しないという姑息さのおまけつきときている)
つまり、
★存在し得ないものを明らかにすることができないのは明らかである。
ことも当然認識していたはずなのだから、
☆☆ または ナゾ(大元の大元)が既知となった事例
を挙げてください。
☆ この問いにはまだ答えてもらっていません。
ナゾは《不可知と思う》と定義するゆえに 《思わなければ 既知
にもなり得る》とまでは 判明しています。ですが その事例を明
らかにしてください。(#57お礼欄)
といった要請が出るはずはないじゃありませんか。
>分かり切っていることを問い求めていて 話が堂々巡りになるならば 一たんとしてでも打ち切るのが 賢明だとわたしは考えます。
:
とも続けておられますが、そういう無茶振りをするから、そうでないことに気づいて、また最初から組立てなければならなくなるわけで、
☆堂々巡りになっているのは、
そちらの責任ですよね?(むろん、この点については、という意味ですが)
それを恰もこちらに原因があるかのような、とは明確には言っていませんが、そのように取れる、あるいは、自分側だけに責任があるわけではない、といったニュアンスになるような表現を使っている。
何度か採用している、ひょっとすると身についた手法なのかもしれませんが、こうしたことはやめたほうが良いですよ。
あなたが頭の良いことはみなさん知っているのですから、多少の勘違いがあったからといって、そのことまで否定する人はいません。
むしろ、人格、品位の問題として、以後、留意されるよう苦言を呈しておきましょう。
特に無ければですが、この件については、これ以上申し上げません。ここで打ち切ります。
ご回答をありがとうございます。
★ (しかも、その箇所を意図的に引用しないという姑息さのおまけつき
ときている)
☆ 《凍結》する前の段階にもどれと言われるのでしたら 意図的に引用
と論評を避けたのです。
あなたの論理〔で表現された文章〕をそのまま受け取ったかたちに成りす
ぎてしまっていたからです。
その不用意さについては よくなかったとみとめています。そういう問題
だと思いますが。
《分かり切っている》というのも 不可知でなくても未知であっても ナ
ゾであり得ることを言っています。議論がという意味に採れるようでした
ので これもあやまります。
あとは 前回(№70)で明らかになった《連続か非連続か》の主題にみ
な収れんするものと思います。
補足欄が あと一回になりました。
ご回答は 二つ三つに分けてお寄せくださるとさいわいです。
No.70
- 回答日時:
#69です。
では、いままでのみなさんとのやりとりから得られた知見も採用しながら私見を再確認しつつ、論点を整理してみたいと思います。
まず、今は下記命題の解釈を巡ってということになるでしょう。
「人智の及ばぬ自然宇宙の絶対的摂理(=あらゆる事象をバランスさせる力)に起因して我々は生まれた。( A )」
ここの「絶対的摂理」を「神」と呼ぶべきか否かなどの問題にまでは、まだ踏み込んでいないわけですが、象徴という意味でそう呼ぶことは否定していない。ただ、
☆☆ ところが 神は宇宙の法則であると言うひとがいて これに賛同する人も多いようなのです。(#54お礼欄)
とおっしゃっているので、今の論議においてはですが、「絶対的摂理」と「神」を同義で使ってしまうと紛れが生じる場合はでてきそうですね。
いずれの場合も、様々な解釈が可能である、という表現上の問題が必然的に立ちはだかることになるわけですが、紛れが生じないよう、基本的には「絶対的摂理」を採用しておきます。
(ア)
【 絶対的摂理(神) 】
『太陽の周りを地球が回っている。高速で自転・公転しているにも拘わらず地球上の存在が宇宙に放り出されることもない。
また、あらゆる生物、無生物が原子・素粒子から組成され、またされ続けている。何より、そうしたあらゆることを含め、世界というものが実在しているという現実がある(経験事象A)』
基本的には物理的(あるいは化学的)法則とは思いますが、では、そうした物理的法則はなぜ存在するのか、といったことも含め、
★「あらゆる事象をバランスさせる力」
を「絶対的摂理」と呼ぶことはできるでしょう。
つまり、「物理的法則を含む法則=絶対的摂理」ですが、「絶対的摂理」と言った場合、次のような解釈が可能になる。
[ 解釈 a ] ⇒「絶対的摂理=経験事象 A 」。
[ 解釈 b ] ⇒「絶対的摂理=経験事象 A を顕現させている法則(力)または原因」。
これらを混同すると(お互いに)かみ合わなくなるのは当然。
以降は、表現を拝借して、
[ 解釈 a ] ⇒「絶対的摂理=超経験という事実 」
[ 解釈 b ] ⇒「絶対的摂理=超経験の原因」
のように表現します。
まず、ここを再確認しておきたい。
(イ)
【 絶対的摂理は不可知である 】
(「象徴としての」という認識を共有できているのなら、「神」を使っても問題はないのですが)
この場合、あくまで[ 解釈 b ] を適用していることが容易におわかりになると思います。なので、
「超経験という事実は既知だが、超経験の原因は不可知である」と言ってることになる。
しかし、bragelloneさんは、
『 超経験の原因自体が《人智の及ばぬもの》なのだから、そういうものについて「超経験の原因は不可知である」のような判断を下すということ自体が矛盾だ。』
このようにおっしゃっているわけですよね?
その論理の中に、
[ 解釈 a ] ⇒「絶対的摂理=超経験という事実 」
という概念が採用されていないために喰い違いが生じるのだと思うのですが、どうでしょうか。
(ウ)
新しい、補足を拝見しましたので項目を追加いたします。
(イ)の内容とうまい具合に噛み合っているような気もしますが、もっと別のこともおっしゃっているようです。
>まづ 両者には絶対のへだたりが
:
あるのですか。
これはちょっと(わたしにとって)新しい視点かもしれません。さらには、
>次に――人間の思わくとしてながら―― 絶対なる非経験の場は 経
験世界を覆い包むと見られる。・・・ここから連続性があると思われ
て来る。
:
と。
ふむふむ、なるほど。
この辺りのおっしゃりたいことは理解できます。
>連続性は基本としてありません。地続きではありません。
あると見えるのは 人間の思わくです。哲学としての神論ではなく
神観として広く人生観を成すような要素に成っているのかも分かりま
せん。神への甘えです。
摂理や自然法は 神から――人間が忖度して――派生させて得る経験
知であり 経験世界の側から神に投影するものではないわけです。
:
ここも、ひとつの捉え方として、おっしゃりたいことはわかりました。
つまり、
★([ 解釈 a ] )という概念が採用されていないために喰い違いが生じる(イ)
のではなく、
[ 解釈 a ] ⇒「絶対的摂理=超経験という事実 」
と、
[ 解釈 b ] ⇒「絶対的摂理=超経験の原因」
の間に、
☆連続性は基本としてありません。地続きではありません。
とおっしゃるわけですね。
いかなる場合にも、
☆神は超経験
を大前提として持ち出してきた今までの遣り取りを振り返るなら、
★[ 解釈 a ] ⇒「絶対的摂理=超経験という事実 」
を認識なさっていたとは、にわかには信じがたいのですが、とりあえず論点が明確になったようですから、細かいことは言わないでおきましょう。
結局のところ、
☆摂理や自然法は 神から――人間が忖度して――派生させて得る経験
知であり 経験世界の側から神に投影するものではない
のか否か?
これが論点ということになるのでしょう。
このように明確になってみれば、すでにこの時点で、つまり、最初から「見解の相違」が定まっていたということになってしまいそうですね。
若干の根拠らしきものを述べるとすれば、
そもそも、摂理・自然法・神のような認識が芽生えるということ自体、
★経験世界の側から神に投影するもので
あることになりませんかね。
しかるに、そうではない、とおっしゃるのですから、
☆神は超経験
を大前提として持ち出す(それが正当な行為だとする)理由も明確になり、腑に落ちました。
根拠(理由)が腑に落ちたということは有難いことですよね。感謝申し上げます。
ただ、個人的には、これは「思考の停止」と位置づけます。
つまり、
☆神は超経験
を大前提として持ち出すこと自体が、です。
ここにきて「見解の相違」が成立したと思いますがいかがでしょう。
謝謝。
★ ここの「絶対的摂理」を「神」と呼ぶべきか否かなどの問題にまでは、
まだ踏み込んでいないわけですが、象徴という意味でそう呼ぶことは否定
していない。
☆ 《絶対的 および 人智の及ばぬ》にもとづき 超経験なる神だとし
て扱っています。
(ア)★ 〔経験事象 A から〕「あらゆる事象をバランスさせる力」を
「絶対的摂理」と呼ぶことはできるでしょう。
☆ この段階では 《絶対的》と呼ぶのは早いと思います。かも知れない
わけですが。
★ [ 解釈 a ] ⇒「絶対的摂理=経験事象 A 」。「絶対的摂理=超経験と
いう事実 」
☆ やはり《絶対的》は早すぎますし 早くない場合にも それと《経験
事象》がひとしいとは成らないと思います。《超経験》もまだ早いです。
物理現象⇒物理法則⇒さらにその抽象化・純粋化したイデアとしての摂理
:これなら《絶対的で超経験》と言えるという人間の思わくだと見ます。
★ [ 解釈 b ]
☆ については 表現の問題だと捉えて保留します。《超経験》という
基本が 共通の了解事項です。
(イ)は はこぶるさんの推論の論理にしたがえば そういうことです。
問題は (ア)からつづくものがあります。
★ 超経験という事実は既知だが
☆ この《超経験》は [ 解釈 a ] の《経験事象 A 》を言っています。
つまり《事実》であり 《超》の語は まづいと思うのですが?
(ウ)★ ~~~~
そもそも、摂理・自然法・神のような認識が芽生えるということ自体、
★経験世界の側から神に投影するもので
あることになりませんかね。
~~~~~
☆ 前提に《非連続》が成り立っている〔と認められる〕なら 人間から
の投影〔という作業が実際にあったとしてもそれ〕ではないという一般性
が ただよいます。
(ア)での《物理現象⇒物理法則⇒その抽象化・純粋化》は 非連続を無
視していると見られてしまいます。
じつは それゆえにも――詭弁を弄すると映るかも知れませんが――《非
知》という想定を初めに持って来るのです。人間の思考としての投影作業
を この定義の仕方によって切ったのです。
ですから:
★ ただ、個人的には、これは「思考の停止」と位置づけます。
☆ に対しては 《非思考》を掲げるわけです。
《神は超経験》のほうは 一般論だと思います。
No.69
- 回答日時:
#63以降のお礼内容に応じようとしましたが、どうも、最初からボタンの掛け違いがあるようで、個別に反論していても埒が明かないようです。
その掛け違いをまず解消する必要がありそうなので、改めて論点を整理することから始めさせてください。
いや、これこれの点に関してはちゃんと答えてもらわなければ困る、といった箇所があるようでしたら、そこはご指摘いただければ答えることにやぶさかではありません。
その意味で私のほうからひとつありまして、それは、次の箇所です。
#65で、
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
bragellone:
ナゾは《不可知と思う》と定義するゆえに 《思わなければ 既知
にもなり得る》とまでは 判明しています。ですが その事例を明
らかにしてください。
hakobulu:
☆《思わなければ 既知にもなり得る》
ような事例をあげろ、とおっしゃるわけですか。
これは、無茶振りですね。
というか、論理の立て方に誤り(好意的に捉えるなら誤解)があるようです。
《不可知と思う》からこそナゾと表現する。
《不可知と思わなければ》ナゾではない。
ゆえに、
《(不可知と)思わなければ 既知にもなり得るナゾ》
という事例は存在し得ない。
存在し得ないものを明らかにすることができないのは明らかである。
およそ、こういったことになるでしょう。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
このようなやりとりがあり、それに対してお礼欄で、
bragellone:
(ウ)a. ★ #50の(ウ)ですでにお答えしたはずですが、それでは納得
できない、ということですかね。
☆ 分かりました。これ以上は わづらわせたくありません。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
というコメントを返していただきました。
なぜこの部分に関してだけ
☆わずらわせたくありません
なのか?という疑問がわくのですが、まあ、それはさておきましょう。
確認したいのは、
★論理の立て方に誤り(好意的に捉えるなら誤解)がある
という点に関してはお認めになるのですか?
ということです。
つまり、
☆《思わなければ 既知にもなり得る》
ような事例をあげろ、と言ったのはたしかに無茶振りであった、お認めになりますか?
ということ。
無茶振りをしてしまうのは誰にもあることですが、そうだと判明したなら、しかも重要な論点のひとつなのですから、何かひとことあってしかるべきではないですかね?
☆ 分かりました。これ以上は わづらわせたくありません。
で済ませようとするのは、ずるい上に、実に見苦しく(と受け止められても仕方のない)、人間性を疑われかねない応じ方だと思います。それとも、
★《不可知と思う》からこそナゾと表現する。
《不可知と思わなければ》ナゾではない。
ゆえに、
《(不可知と)思わなければ 既知にもなり得るナゾ》
という事例は存在し得ない。
存在し得ないものを明らかにすることができないのは明らかである。
なんていう論理のほうが誤っている、とおっしゃるのですか?
であるなら、理由とともに、その旨、明記してください。
いずれにせよ、無茶振りだったのかそうではなかったのか、(端的な表現で、つまり、イエスノーで済む話なのですから)はっきりさせるべきところでしょう。
論点整理は、回答欄を改めて述べさせていただきます。
ご回答をありがとうございます。
★ ~~~~~~~~~~
(ウ)a. ・・・
なぜこの部分に関してだけ
☆わずらわせたくありません
なのか?という疑問がわくのですが
~~~~~~~~~
☆ 堂々巡りに成っていると知ったからです。
★ ~~~~~~~~~
確認したいのは、
★★論理の立て方に誤り(好意的に捉えるなら誤解)がある
という点に関してはお認めになるのですか?
ということです。
~~~~~~~~~
☆ 新たには進まないと決めたことは それまでのすべてを凍結するという
意味です。
もし凍結がいやだということでしたら 堂々巡りではない回答をまづ提出し
ていただきたいと思います。
★ ~~~~~~~
確認したいのは、
★★論理の立て方に誤り(好意的に捉えるなら誤解)がある
という点に関してはお認めになるのですか?
~~~~~~~
☆ ここは 相手の・つまりはこぶる式の発想をそのまま受け取ったかたち
で問い返しているということです。
★★ ~~~~~~
《不可知と思う》からこそナゾと表現する。
《不可知と思わなければ》ナゾではない。
~~~~~
☆ 単なる未知でも不思議なナゾだと言いますし とりわけ非知なら 大い
なるナゾです。
この問題は 分かり切っていますよ。分かり切っていることを問い求めてい
て 話が堂々巡りになるならば 一たんとしてでも打ち切るのが 賢明だと
わたしは考えます。
No.68
- 回答日時:
#67です。
>「神は人智の及ばぬもの」だからこそ、「神は人間の能力では知ることができない」
と思うこと。
このどこが
☆不思議
で、何を指して、
☆人をおちょくっているのか。
という暴言につながるのか・・・。
~~~~~~~~~
☆ ふたつの文(判断)は 同じ内容だと思わないということですね そうすると。
同じ内容のことを ふたたび言い出すことは おかしくなく あり得ます。
しかしながら それらを《だからこそ》でつなげることは 考えられません。
あるいは たとえあったとしても 哲学の推論を成すくだりでそれを出して来ると
は 考えられません。意味がない・ただの感想や感慨なのですから。
:
☆同じ内容
とおっしゃいますが、厳密には違いますよね?
「彼女は美人だ」と「彼女は美人だと思う」が同じ内容なんですか?
経験事象とは違うなどという詭弁を弄するのだけは勘弁してくださいね。
ご回答をありがとうございます。
★ 「彼女は美人だ」と「彼女は美人だと思う」が同じ内容なんですか?
☆ 同じ内容であり得ます。《だ》で断定する場合にも 感慨をふくめて
――その発言者の主観のかぎりでですが――言う場合があるからです。
むろん 違う場合もあり得ます。《だと思う》のほうが 確からしさの度
合いが低いといった違いです。
同じような内容の二文なわけですが これらを《だからこそ》でつなげる
とは まさか ですよね?
No.67
- 回答日時:
#66です。
その前のお礼については、また明日ということにしますが、とりあえず。
>
★ 「人智の及ばぬもの」だからこそ、「人間の能力では知ることができない」
と思うことは別に不思議ではないでしょう。
☆ 不思議です。
同じことを少し別の言葉で言いかえているだけだと思われます。
そのふたつの命題(判断ないし表現)が どうして《だからこそ》でつながれ
るのか?
人をおちょくっているのか。あるいは ほんとうに自分で分からなくなってい
るのか。・・・ほかにどういう事態だと考えられるか?
:
なんでそうなりますかねえ????
ほんと不思議です。たとえばですが、
「神は人智の及ばぬもの」だからこそ、「神は人間の能力では知ることができない」と思うこと。
このどこが
☆不思議
で、何を指して、
☆人をおちょくっているのか。
という暴言につながるのか・・・。
いやはや、困惑しております。
一杯引っかけながらのご投稿ですか?
ご回答をありがとうございます。
★ ~~~~~~~~~~
「神は人智の及ばぬもの」だからこそ、「神は人間の能力では知ることができない」
と思うこと。
このどこが
☆不思議
で、何を指して、
☆人をおちょくっているのか。
という暴言につながるのか・・・。
~~~~~~~~~
☆ ふたつの文(判断)は 同じ内容だと思わないということですね そうすると。
同じ内容のことを ふたたび言い出すことは おかしくなく あり得ます。
しかしながら それらを《だからこそ》でつなげることは 考えられません。
あるいは たとえあったとしても 哲学の推論を成すくだりでそれを出して来ると
は 考えられません。意味がない・ただの感想や感慨なのですから。
これらの場合を考えるかぎり それをまともな議論だと言われた日にゃ おちょく
っているのだろうかと言わないほうが 暴言になりましょう。
No.66
- 回答日時:
#65ですが、取り急ぎ。
>人智の及ばぬものについて どうして《・・・と思う》ということが当ては
まるのでしょう?
:
人智が及ぼうが及ぶまいが、なにごとに対しても「不可知」とは「人智では知ることができない(と思われる)こと」という意味に他なりません。
なぜなら、「人智では」なのですから、あくまで人間の能力では知ることができない、という意味になるから。
つまり、「人間の能力では知ることができない」と人間自身が断定しているにすぎないわけです。
絶対的な事実としてそのように定まっているわけではない。
「人智の及ばぬもの」だからこそ、「人間の能力では知ることができない」と思うことは別に不思議ではないでしょう。
「何かわけのわからぬ対象」について、つまり、非知についてそう言ってるわけじゃないので混同されませんように。
ご回答をありがとうございます。
★ 「人智の及ばぬもの」だからこそ、「人間の能力では知ることができない」
と思うことは別に不思議ではないでしょう。
☆ 不思議です。
同じことを少し別の言葉で言いかえているだけだと思われます。
そのふたつの命題(判断ないし表現)が どうして《だからこそ》でつながれ
るのか?
人をおちょくっているのか。あるいは ほんとうに自分で分からなくなってい
るのか。・・・ほかにどういう事態だと考えられるか?
但し書きとしては:人智の及ぶものについては そのとき《いや 人智では知
ることができない》とか《そう思う》とかと言う場合はあります。ただし そ
れは 哲学の議論としてではないでしょう。
ほんとうに不思議体験です。
これでは 命題 A・B・C を世に送り出すことはむつかしいです。むろんわたし
個人の見解です。
No.65
- 回答日時:
#57です。
(ア)
>★ そんなことはわかってますよ。
☆ ぢゃあ 適切だとも分かっていて なぜ訊くんですか?
:
☆仮説した限りで推論の前提となり得
るのは、あくまで一般論だろ、ということ。
★神について論議に際しても、
一般論として捉え、
★「だってみんなが言ってるじゃん」を仮説とすることが適切
だと思っているのですか?
と尋ねている。
日本語の構文として、そんなに難しいですかね?
(イ)
>☆☆ おしまいとなります。
☆ は おしまいと成るのです。あなたの《不可知》の定義が そ
のように《不可知と思う》というのでは ということです。
この場合 ほかには問題はありません。
☆☆ どのように証明したのですか? それとも証明は要らないの
ですか? 自分がそう思えば不可知なのですか?
☆ と尋ねることによって 《自分で 不可知だと思う》という定
義だと判明したのです。
:
それは邪推ですね。
可知にせよ不可知にせよ、可能性に関する人間の判断にすぎないことは明らかでしょう。
「可能性」という事実は存在しないわけだから。
★「宇宙」は経験事象ですが「宇宙が存在する意味」は経験事象ではありません。
しかし、そのような事柄を「(仮に)想定」できるからこそ、永遠に知ることができないと思えば「不可知」と言うし、永遠に知ることができないとまでは断定できないと思えば「未知」と表現するわけです。(#7)
ということも既に述べています。
(ウ)
>
a. ☆☆ または ナゾ(大元の大元)が既知となった事例
を挙げてください。
☆ この問いにはまだ答えてもらっていません。
:
#50の(ウ)ですでにお答えしたはずですが、それでは納得できない、ということですかね。
★人智の及ばぬ自然宇宙の絶対的摂理(=あらゆる事象をバランスさせる力)
というのは、《絶対的摂理(=あらゆる事象をバランスさせる力)》とはどういうものであるのか、という、その中身については《人智の及ばぬ》と言っているだけです。
誰かは知らないがいつも花を届けてくれる(むろん経験談ではありません)、といった比喩で申し上げるとわかりやすいかもしれません。
《人智の及ばぬ事象》が存在すること自体は、《人智の及んでいる事実としての事象》でしょう。
とすでに述べている箇所を、よくお読みください。
☆ナゾが既知となった事例を挙げ
る必要がないことも、合わせてご理解いただけるはずです。(#50)
>ナゾは《不可知と思う》と定義するゆえに 《思わなければ 既知
にもなり得る》とまでは 判明しています。ですが その事例を明
らかにしてください。
:
☆《思わなければ 既知にもなり得る》
ような事例をあげろ、とおっしゃるわけですか。
これは、無茶振りですね。
というか、論理の立て方に誤り(好意的に捉えるなら誤解)があるようです。
《不可知と思う》からこそナゾと表現する。
《不可知と思わなければ》ナゾではない。
ゆえに、
《(不可知と)思わなければ 既知にもなり得るナゾ》
という事例は存在し得ない。
存在し得ないものを明らかにすることができないのは明らかである。
およそ、こういったことになるでしょう。
b.
>前提となる用語の定義において 仮説をおこなうとき《一般にみと
められている常識》にもとづきそうする。そういう仮説なら 哲学
として通る。・・・と言っているのですから
:
いやいや、ですから、
☆と言っている
こと自体が不合理でしょう、という批判を展開しているわけですから、それに対する反論の根拠として、
☆・・・と言っているのですから
を持ち出すのは二重の意味での不合理、と言わざるを得ないでしょう。
(エ)
>☆☆《実質的に人びと一般がみとめている》 ★ようなこと、
に関して、果たして[・・・]それは本当だったろうか?という考察
をするところから哲学というものは発するのではないか。
☆ いまの場合は 《神は超経験》という話を前提にするというこ
とです。
もしその一般性をうたがうときには その批判をおこなえばよいわ
けです。
その《考察》をあなたの場合は 《不可知と思う》のように定義す
ることによって 回避しているのです。
:
そのような邪推をなさるのは、
☆《不可知と思う》のように定義すること
を否定しているからでしょう。
わたしは、
《不可知》というものは、
☆《不可知と思う》のように定義
せざるを得ない、というのは論理的に真だと思っていますので、
☆回避している
というご指摘は当たらないですね、とお答えするしかありません。
ま、この辺りも「見解の相違」ということになるのでしょう。
回答の順序が前後しましたので、もしお考えが変わっているようでしたら、その旨お知らせください。
ご回答をありがとうございます。
(ア) こう尋ねなおします。:《神は 超経験である》は 一般論ですか?
一般論であるなら 仮説の前提になります。(ウ)b. も同じです。
(イ)★ ~~~~~~~~~
★★「宇宙」は経験事象ですが「宇宙が存在する意味」は経験事象ではあ
りません。
しかし、そのような事柄を「(仮に)想定」できるからこそ、永遠に知ること
ができないと思えば「不可知」と言うし、永遠に知ることができないとまでは
断定できないと思えば「未知」と表現するわけです。(#7)
~~~~~~~~~
☆ すでに触れていますが 《「宇宙が存在する意味」を考える》のは経験事
象です。
ですから・言いかえると 《宇宙が存在する意味 または そのナゾ(分かり
やすく《原因》とよぶともお聞きしました)》について――それが 経験事象
ではないとするからには―― それ相応の定義の仕方が不可欠になります。
非経験の場に対しては それにふさわしい用語で定義する必要があります。
《永遠に知ることができない》かどうか・・・では なおまだ経験事象を扱っ
ているのと違わないからです。
(ウ)a. ★ #50の(ウ)ですでにお答えしたはずですが、それでは納得
できない、ということですかね。
☆ 分かりました。これ以上は わづらわせたくありません。
この項目のもとで 《不可知が 既知に成り得る》という命題(判断)につい
ての議論がありました。それをめぐっては あらたに次のように問いたいと考
えます。:
★★ 《絶対的摂理(=あらゆる事象をバランスさせる力)》とはどういうも
のであるのか、という、その中身については《人智の及ばぬ》と言っているだ
けです。
☆ ということは 《バランサーとしてのハタラキは 経験事象である。その
大元の中身は 非経験の場であって人智は及ばない》。
こういう意味に解しますが そのときの問題は 《バランスにかかわる経験事
象とそして非経験の場とが どうしてそのようにつながっていると言えるのか
?》でしょうね。
つまり 《不可知と思うナゾ》が《既知》と成り得るとは そのような――両
者のつながりの――問題だったようです。これは (エ)にも関連します。
つづく。
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つづき。
命題 Aにおける《摂理》をめぐって それは経験事象に片足を入れている。
それゆえにも:
★★ (=あらゆる事象をバランスさせる力)
☆ といった説明が添えられています。つまり 《事象;バランスさせる》
というのは あくまで経験世界におけるものごとです。
つまり――《人智の及ばぬ》とはありますが・ですからこれは 非知では
なくむしろ不可知のものではないかと推測されますが その――《経験的
な力に起因して われわれは生まれた》と言っていることになるのでは?
だとすれば これは まづい。でしょうね。《非知なるナゾ》のままにし
ておくのが ひとつの手でしょう。派生的な見方として 摂理を持ち出す。
か?
でも 摂理は 扱いがやっかいです。世の中には どこにでも《自然本性
から外れた思いや考えも そしてその行動もが起きている》からです。思
案のしどころではないでしょうか。
生成原因ないし要するに神に《意志》はあるか?
神とわれとのタテの関係――非思考の庭なる動態――では 神に意志がある
と見ることは 自由。無いと見るのももちろん自由です。
われと他のわれとのヨコの関係――思考の緑野&感性の原野――では 神な
いしその信仰は 直接にカカハリを持ちません。
ヨコの関係において神について話をしてもよいでしょうが それは基本的に
神についての感想やまた思想としてのお話です。神論や信仰論〔ましてや宗
教〕と 神や信仰とは 別です。
つまり 人間どうしのヨコの関係では 神に意志があるとたとえ主観が見て
いるとしても その神の意志は お呼びではないとなります。
フクシマは 神罰だといった物語にしかなりません。
神はわが人生の節々でその事態やそれにかかわるわれ自身をバランスさせて
くれていると 非思考の庭なる主観において思っていても 自由でしょうね。
神は――非知かどうかを問う前に――あくまで超経験・超自然です。
つまり もうそれだけでも 既知ではない。未知だと思っても 人智を超えて
いるからには 可知ではないと知られます。
では 不可知かと言うと 不可知だと証明されてはいないだけではなく 超経
験で人智を超えているからには 不可知だと証明される気遣いはないとなりま
す。これが 非知です。
○ 世界についての人間の認識のあり方 ~~~
経験事象について:
可知(知り得ると人は思っている)
既知(間違いだったと分かることもある)
未知(いづれ既知になるであろうと推察されている)
不可知(未知でしかも知り得ないと証明し得たものごと)
非経験の場を想定して:
非知(知り得るか知り得ないかが知り得ないナゾ)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
○ カミ(普遍神)とわれ
【?(非知)】:非経験の場(絶対):カミ〔有る神(梵・仏・霊);無い神(無梵)〕
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
【われ】:経験存在(相対):カミの分有(霊我・仏性・霊我;無我)
☆ カミの分有は 次のごとく 思考や感覚ではなく 非思考の庭なる信仰において
――自然本性にあってすでに――成ると想定。
○ われ
【信じる】:非思考の庭:梵我一如(仏仏一如・霊霊一如;無梵無我一如)
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
【考える】:思考の緑野:ここに 思想とすでに成った宗教のオシヘが入る
【感じる】:感性の原野:ヒラメキ(まぼろし?)
摂理というのは 次のごとく《神とわれとのタテの関係(つまり信仰)》から派生
した視点であり そこから導き出されたあとは 経験的な思考形式と成っている。
摂理の内容として たとえば善因善果・悪因悪果のごとく因果応報説にまで概念化
しているならそれは すでにヨコの関係にあって ふつうに思想の問題である。つ
まり 神をあつかっているが 神からは離れている。思考なのだから。
○ 摂理とは:
神 神 神
| | | タテ
(非思考) (非思考) (非思考): の :(信仰)
| | | 関係
| | |
われー(思考・感覚)ーなんぢー(思考・感覚)ーかれ : ヨコの関係:(オシヘ・摂理)
神は:
★ 「既知となるか未知となるか知り得ないと思う」という思考(認識)を
する立場
☆ は 《神は 超経験だ》という常識にどのような根拠でさからうのか?
を明らかにして欲しいと思います。
初めに《非知》なら 可知(既知&未知)や不可知とはその初めから なじ
みません。
という手法です。
神は 既知だ(既知となりうる)や 未知だや あるいはそちらの定義では
未知と同じ内容となる不可知だといった判断は いったいどこから出て来る
のか? 不思議でなりません。
超経験だという前提を外していますし もしそれを問わないとしても 神が
既知だという人が 一般にその言っていることがみとめられたことはあるの
でしょうか?
いままでありえなかったことを どうしていま持ち出して来るのですか?
りゅぱんさん できましたら お願いがあります。
【Q:屁理屈と詭弁】
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/9732494.html
この質問への回答№20と№23とのやり取りについて どう思われますか?
非知をめぐっての議論です。
じつは そのあとわたしが応答する番なのですが 質問者からブロックされて
しまいました。
何かりゅぱんさんにも 言うことがあるとお思いでしたら そうなさってくだ
さいませんか?
☆☆(上記質問への回答№20=ぶらじぇろーぬ) ~~~~
水は 経験事象であり 水に溶けることも 同じくです。いまの仮定における
地の塩は 経験事象を超えているという想定です。
ですから 《霊なる人間が 水に溶ける》かどうかは どこかで推論や前提を
間違えたといった問題にはかかわりがないのです。
~~~~~
☆ ここが鍵であると思います。すみません。
(エ)★ 《不可知》というものは、《不可知と思う》のように定義せざる
を得ない、というのは論理的に真だと思っています
☆ でも この不可知という用語を当てているその対象は 大元のナゾなん
です。
《宇宙が存在する意味》つまり要するに神のことです。神は 不可知であり
それは 《不可知と思う》ということなんだと。
ところが この《宇宙が存在する》なるその意味つまり神は 《人智の及ば
ぬナゾ》なんです。
人智の及ばぬものについて どうして《・・・と思う》ということが当ては
まるのでしょう?
不可知の定義で 互いにどうしても違いが出るということ。これの
原因が分かりました。
経験事象と超経験とを区別することは おおむね成されていると思う
のですが どうもこれら二つの領域が連続している・・・とそちらで
は捉えられているのではないだろうか。ここです。
まづ 両者には絶対のへだたりがあります。
次に――人間の思わくとしてながら―― 絶対なる非経験の場は 経
験世界を覆い包むと見られる。・・・ここから連続性があると思われ
て来る。
連続性は基本としてありません。地続きではありません。
あると見えるのは 人間の思わくです。哲学としての神論ではなく
神観として広く人生観を成すような要素に成っているのかも分かりま
せん。神への甘えです。
摂理や自然法は 神から――人間が忖度して――派生させて得る経験
知であり 経験世界の側から神に投影するものではないわけです。
次のくだりをおぎないます。:
☆☆(№73お礼欄) ~~~~
br-1: その〔《非経験の場なるナゾ》たる絶対から 相対世界へと何らかの
ハタラキカケがあるという〕場合には・ただし このハタラキカケが具体的に
どういうふうにおこなわれるのか。これは 分からないとなります。
~~~~~~
☆ これは モノ(質料)の自己運動にまかせている。
時空間なる場――宇宙の全体――の《自主的な?》ウゴキにゆだねている。
言いかえると 摂理としての法則性がある場合とそれが分からない場合とがあ
る・・・というズルイ見方です。