1. 或る回答を引用して 問うものです。規約違反であれば したがい
ます。

2. 前々から分からなかったのですが ひとまとまりの説明を得ました。
なお分からないのですが 疑問を呈して問い求めをすすめ得ればと考えま
す。


◆ 《彼は我であったかもしれず、我が彼であったかもしれない》~~~

3. 我々の身体は原子からできているし、宇宙はブラックホールにより
誕生したのかもしれない。

4. しかし、その原子やブラックホールが何からできているのかは永遠
に不可知だろうと思います。

5. むろん、どちらも、その大元を辿れば1次元の拡がりをもつ弦( 超
弦)であると推測されるところまで来ているようですが、では、その超弦
は何からできているのか、ということになるでしょう。

6. つまり、理由が分かったとしても、その理由に対する理由が永遠に
付きまとうわけなので、永遠に不可知と言わざるを得ません。

7. よって、

  「人智の及ばぬ自然宇宙の絶対的摂理(=あらゆる事象をバランスさ
  せる力)に起因して我々は生まれた。( A )」

を定理として認めざるを得ない。

8. この場合、

  「我々は [ 人類の一員としての我 ] でありさえすれば摂理の要件を満
  たすに十分なのであって、 [ 自我としてのこの我 ] が存在しなければ
  ならない必然性は(摂理にとって)皆無である( B )」

7. よって、

  「彼は我であったかもしれず、我が彼であったかもしれない( C )」

という命題が結論として導き出される。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

8. まづ用語です。
《不可知》は 質問者としては 《知り得ないと証明されたものごと》と
定義しますが どうもここでは 《知り得るか知り得ないかが知り得ない
ナゾ》としての非知のことを指して言っているように思われます。
その点 どうなんでしょう?

9. 《大元の大元》としてここでは《ナゾ》という言葉で統一したいと
思うのですが (7)なる命題(つまり A )は 次のようにみちびかれ
ているのでしょうか?

9-1.(編集版A‐1) ナゾはナゾであり続けるゆえ それを《人智の
及ばぬ自然宇宙の絶対的摂理(=あらゆる事象をバランスさせる力)》と
呼び 同じくそのように説明する。

9-2.(編集版A‐2) われわれは ナゾによって・絶対的摂理によっ
て・あらゆる事象をバランスさせる力によって生まれた。

10. (8)の B なる命題について:

10-1. 《摂理の要件を満たす》とは どういうことか? すでにこ
の摂理によってわれわれは生まれて来ているのではないか? すなわち生
まれて来たときに 《[ 人類の一員としての我 ] でありさえ》しているの
ではないか?

10-2. 《 [ 自我としてのこの我 ]》が分からない。《[ 人類の一員
としての我 ]》と《自我としてのこの我》とは 別なのか? 別だとすれ
ば 《自我》について説明が欲しい。

11. (7)の C なる命題において 《我 や 彼》は どうなのか?
つまり おのおのが《[ 人類の一員としての我 ]》であるその人間のこと
か?

11-1. もしそうだとすると この命題で《彼は我であったかもしれ
ず うんぬん》というとき 一方では 《[ 人類の一員としての我 ]》どう
しとしては互いにその存在を共通のものとしていると言えると同時に 他
方ではなぜ――だからと言って――それぞれが互換が可能であるかのよう
な見方をしなければならないのか? という疑問がとうぜん起きる。

12. 果たして 命題 C は どういう意味なのか? つまり おのおの
の意志自由は互いに――社会的に相対的に――独立しているはずであり だ
からいわゆる個性があり得ると考えられるとき それらをめぐって 何を言
おうとしていると解釈すべきなのか? 

12-1. 人間は 人類として重んじられるが 一人ひとりの存在はど
うでもよいものだ――と極論して受け取らざるを得ないようにも感じるの
ですが 果たして どうなんでしょう?

質問者からの補足コメント

  • つづき。

    命題 Aにおける《摂理》をめぐって それは経験事象に片足を入れている。
    それゆえにも:
    ★★ (=あらゆる事象をバランスさせる力)
    ☆ といった説明が添えられています。つまり 《事象;バランスさせる》
    というのは あくまで経験世界におけるものごとです。

    つまり――《人智の及ばぬ》とはありますが・ですからこれは 非知では
    なくむしろ不可知のものではないかと推測されますが その――《経験的
    な力に起因して われわれは生まれた》と言っていることになるのでは?

    だとすれば これは まづい。でしょうね。《非知なるナゾ》のままにし
    ておくのが ひとつの手でしょう。派生的な見方として 摂理を持ち出す。
    か?

    でも 摂理は 扱いがやっかいです。世の中には どこにでも《自然本性
    から外れた思いや考えも そしてその行動もが起きている》からです。思
    案のしどころではないでしょうか。

    No.6の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2017/04/18 16:56
  • 生成原因ないし要するに神に《意志》はあるか?

    神とわれとのタテの関係――非思考の庭なる動態――では 神に意志がある
    と見ることは 自由。無いと見るのももちろん自由です。

    われと他のわれとのヨコの関係――思考の緑野&感性の原野――では 神な
    いしその信仰は 直接にカカハリを持ちません。

    ヨコの関係において神について話をしてもよいでしょうが それは基本的に
    神についての感想やまた思想としてのお話です。神論や信仰論〔ましてや宗
    教〕と 神や信仰とは 別です。

    つまり 人間どうしのヨコの関係では 神に意志があるとたとえ主観が見て
    いるとしても その神の意志は お呼びではないとなります。

    フクシマは 神罰だといった物語にしかなりません。

    神はわが人生の節々でその事態やそれにかかわるわれ自身をバランスさせて
    くれていると 非思考の庭なる主観において思っていても 自由でしょうね。

    No.20の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2017/04/24 09:30
  • 神は――非知かどうかを問う前に――あくまで超経験・超自然です。

    つまり もうそれだけでも 既知ではない。未知だと思っても 人智を超えて
    いるからには 可知ではないと知られます。

    では 不可知かと言うと 不可知だと証明されてはいないだけではなく 超経
    験で人智を超えているからには 不可知だと証明される気遣いはないとなりま
    す。これが 非知です。

    ○ 世界についての人間の認識のあり方 ~~~

      経験事象について:
         
        可知(知り得ると人は思っている)
          既知(間違いだったと分かることもある)
          未知(いづれ既知になるであろうと推察されている)

        不可知(未知でしかも知り得ないと証明し得たものごと)

      非経験の場を想定して:
         
        非知(知り得るか知り得ないかが知り得ないナゾ)

    ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

      補足日時:2017/04/25 21:31
  • ○ カミ(普遍神)とわれ 

    【?(非知)】:非経験の場(絶対):カミ〔有る神(梵・仏・霊);無い神(無梵)〕
    ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
    【われ】:経験存在(相対):カミの分有(霊我・仏性・霊我;無我)



    ☆ カミの分有は 次のごとく 思考や感覚ではなく 非思考の庭なる信仰において
    ――自然本性にあってすでに――成ると想定。



    ○ われ 

    【信じる】:非思考の庭:梵我一如(仏仏一如・霊霊一如;無梵無我一如)
    ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
    【考える】:思考の緑野:ここに 思想とすでに成った宗教のオシヘが入る
    【感じる】:感性の原野:ヒラメキ(まぼろし?)

      補足日時:2017/04/25 21:44
  • 摂理というのは 次のごとく《神とわれとのタテの関係(つまり信仰)》から派生
    した視点であり そこから導き出されたあとは 経験的な思考形式と成っている。

    摂理の内容として たとえば善因善果・悪因悪果のごとく因果応報説にまで概念化
    しているならそれは すでにヨコの関係にあって ふつうに思想の問題である。つ
    まり 神をあつかっているが 神からは離れている。思考なのだから。

    ○ 摂理とは:

      神          神          神
      |          |          |     タテ
     (非思考)      (非思考)      (非思考): の   :(信仰)
      |          |          |     関係
      |          |          |
     われー(思考・感覚)ーなんぢー(思考・感覚)ーかれ : ヨコの関係:(オシヘ・摂理)

      補足日時:2017/04/25 21:53
  • 神は:
    ★ 「既知となるか未知となるか知り得ないと思う」という思考(認識)を
    する立場
    ☆ は 《神は 超経験だ》という常識にどのような根拠でさからうのか?
    を明らかにして欲しいと思います。

    初めに《非知》なら 可知(既知&未知)や不可知とはその初めから なじ
    みません。

    という手法です。

    神は 既知だ(既知となりうる)や 未知だや あるいはそちらの定義では
    未知と同じ内容となる不可知だといった判断は いったいどこから出て来る
    のか? 不思議でなりません。

    超経験だという前提を外していますし もしそれを問わないとしても 神が
    既知だという人が 一般にその言っていることがみとめられたことはあるの
    でしょうか?

    いままでありえなかったことを どうしていま持ち出して来るのですか?

    No.36の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2017/04/26 18:56
  • りゅぱんさん できましたら お願いがあります。

    【Q:屁理屈と詭弁】
    https://oshiete.goo.ne.jp/qa/9732494.html

    この質問への回答№20と№23とのやり取りについて どう思われますか?

    非知をめぐっての議論です。

    じつは そのあとわたしが応答する番なのですが 質問者からブロックされて
    しまいました。

    何かりゅぱんさんにも 言うことがあるとお思いでしたら そうなさってくだ
    さいませんか?

    ☆☆(上記質問への回答№20=ぶらじぇろーぬ) ~~~~
    水は 経験事象であり 水に溶けることも 同じくです。いまの仮定における
    地の塩は 経験事象を超えているという想定です。

    ですから 《霊なる人間が 水に溶ける》かどうかは どこかで推論や前提を
    間違えたといった問題にはかかわりがないのです。
    ~~~~~
    ☆ ここが鍵であると思います。すみません。

    No.49の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2017/04/29 05:50
  • (エ)★ 《不可知》というものは、《不可知と思う》のように定義せざる
    を得ない、というのは論理的に真だと思っています
    ☆ でも この不可知という用語を当てているその対象は 大元のナゾなん
    です。

    《宇宙が存在する意味》つまり要するに神のことです。神は 不可知であり
    それは 《不可知と思う》ということなんだと。

    ところが この《宇宙が存在する》なるその意味つまり神は 《人智の及ば
    ぬナゾ》なんです。

    人智の及ばぬものについて どうして《・・・と思う》ということが当ては
    まるのでしょう?

    No.65の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2017/04/30 19:13
  • 不可知の定義で 互いにどうしても違いが出るということ。これの
    原因が分かりました。

    経験事象と超経験とを区別することは おおむね成されていると思う
    のですが どうもこれら二つの領域が連続している・・・とそちらで
    は捉えられているのではないだろうか。ここです。

    まづ 両者には絶対のへだたりがあります。

    次に――人間の思わくとしてながら―― 絶対なる非経験の場は 経
    験世界を覆い包むと見られる。・・・ここから連続性があると思われ
    て来る。

    連続性は基本としてありません。地続きではありません。

    あると見えるのは 人間の思わくです。哲学としての神論ではなく 
    神観として広く人生観を成すような要素に成っているのかも分かりま
    せん。神への甘えです。

    摂理や自然法は 神から――人間が忖度して――派生させて得る経験
    知であり 経験世界の側から神に投影するものではないわけです。

      補足日時:2017/05/01 08:22
  • 次のくだりをおぎないます。:

    ☆☆(№73お礼欄) ~~~~
    br-1: その〔《非経験の場なるナゾ》たる絶対から 相対世界へと何らかの
    ハタラキカケがあるという〕場合には・ただし このハタラキカケが具体的に
    どういうふうにおこなわれるのか。これは 分からないとなります。
    ~~~~~~
    ☆ これは モノ(質料)の自己運動にまかせている。

    時空間なる場――宇宙の全体――の《自主的な?》ウゴキにゆだねている。

    言いかえると 摂理としての法則性がある場合とそれが分からない場合とがあ
    る・・・というズルイ見方です。

      補足日時:2017/05/03 11:04

このQ&Aに関連する最新のQ&A

A 回答 (84件中11~20件)

#74です。



分割のおまけ。
他の方用に使っていただいても構いません。
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#73です。



分割を忘れていましたので。
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この回答へのお礼

№73お礼欄からのつづきです。

(イ)
ここは 非思考か思考の停止かをめぐっての《連続・非連続》の問題ではな
いかと。

★ 「思考の停止」を否定する必要はないという気もするのですけどね。
☆ これはですね。前回はまづい表現をしたかも知れません。そうではなく 
ずばり:

タテの関係:〔非連続ならば〕非思考;〔連続ならば〕思考の停止〔と見る〕
ヨコの関係:〔連続・非連続を問わず〕 思考および感性(=共通了解)

という図式になるのではないでしょうか?

★ その場合、(本来の)信仰が思考停止であるとして、それは、むしろ
bragelloneさんにとっても本意ではないか、という印象も受けるのですが、
☆ 《本意》はですね。 非思考ならば 思考を停止・休止するか継続する
かとは 別のカテゴリにあると思うんです。思考は あくまでヨコの関係に
おいての意志行為ですから。

ただし 非思考の庭にあっても 思考を《仮りに》あたえようとはします。
それは つねに《憶測や思わく》でしかないという前提があるということに
なります。


(ウ)
★ ~~~~~~~ 
ここも実によくわかるのですが、(イ)と同様、
 ★神と摂理の食い違い
についてつまびらかにしないまま論じるのは難しいように思います。
 ☆非連続
と前提するなら、たしかに
 ☆神は非知
と言う論理は成立するでしょうね。
この辺りの論理はおかげさまで腑に落ちました。
ただ、そうした前提が(神に対して)妥当か否か、という問題と、仮に妥当
だとして、それを「絶対的摂理」にも適用することが妥当か否か、という2
つが論点としてあると思われます。
わたしの場合、現時点では、とりあえず、後者については(見解の相違とい
う形ではありますが)否定しつつ、前者については積み残しの状態と言える
でしょう。
~~~~~~~~~
☆ いやア これはありがたいことですね。見解の相違が 待ち構えている
かも知れないのではありますが。

この《2つの論点》について (イ)の議論とそして〔№73お礼欄での〕
(ア)の議論とで 取りあえずいくらかは――なお幕引きを遮って――すす
め得たかも分かりません。

早く言った場合には 《絶対的摂理》という表現は どう言いますか《赤裸
々》すぎるように感じます。

№75のお礼欄は 大事に取っておきます。

お礼日時:2017/05/02 18:43

#71です。



>あとは 前回(№70)で明らかになった《連続か非連続か》の主題にみ
な収れんするものと思います。

そのようですね。
新たな切り口が出てきそうな気もしますが、明日当たりにでもまた。

>補足欄が あと一回になりました。
ご回答は 二つ三つに分けてお寄せくださるとさいわいです。

了解です。
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この回答へのお礼

お互いに――ようやく でしょうか――ゆったりとした気持ちと心とで こ
の対話にのぞむことができているようですね。

ご回答をありがとうございます。


あなたの:
★ 象徴としての神
☆ は――これも分からなかったのですが――どうも わたしの見方に引き寄
せるなら  次のような議論としての《シルシによって神を指し示す》という
問題と同じではないか? という感じがして来ました。

☆☆(№64お礼欄:神は シルシで指し示す) ~~~~~~~
★ しかし、「神は非知」には違和感がある、ということ。 / なぜなら、
「神は」と主題提起してしまっているわけですから、「神」がすでに思考対
象として認識されていることになる。
☆ 《人智の及ばぬ》という規定は 《人智の及ばぬナゾ》について人智で
思考し判断した結果です。

《知り得るか知り得ないかが知り得ないナゾ》という規定は やはり人智で
思考してそう定義しようと判断した結果です。

たとえ《人智の及ばぬナゾ》であっても 人間の言葉で表現すれば その表
現の指し示す先なるナゾ(つまり 指ではなく 指の指し示すその先のナゾ)
が互いに伝わると思っておこなうのが 《想定による仮説法》です。



言葉で表わすのですが 人智の及ばぬ神については 言葉をそのシルシとし
て用いています。シルシだけとして当てています。

言葉が概念として持つ意味内容そのものを 神の中身として対応させている
わけではないということです。

でも 意味内容を持つかぎりでその内容に応じて――神を扱うときにも――
人間は 思考しています。シルシを捉えシルシで思考しています。

神をその限りで――シルシなる仮りの小世界における限りで―― 思考の対
象として扱っています。

けれども だからと言って:
★ 「神」がすでに思考対象として 認 識 さ れ ていることになる。
☆ ことは ありません。思考され認識されているのは あくまで神を指し
示すシルシとしての言葉であり その概念内容なのです。

超経験を扱う場合には つねにそうなります。非知と規定した場合には つ
ねにそうなります。

経験と非経験とを分けるというのは そういった表現の問題をも巻き込んで
います。
~~~~~~~~~~~~

お礼日時:2017/05/01 22:47

#69です。



>★★ ~~~~~~
《不可知と思う》からこそナゾと表現する。
《不可知と思わなければ》ナゾではない。
~~~~~
☆ 単なる未知でも不思議なナゾだと言いますし とりわけ非知なら 大い
なるナゾです。
この問題は 分かり切っていますよ。

虚言を弄するのは感心しませんねえ。
★《不可知と思う》からこそナゾと表現する。
★《不可知と思わなければ》ナゾではない。
が分かりきっていたなら、
★ゆえに、
《(不可知と)思わなければ 既知にもなり得るナゾ》
という事例は存在し得ない。
ことも当然、
☆分かり切って
いなければならない。(しかも、その箇所を意図的に引用しないという姑息さのおまけつきときている)
つまり、
★存在し得ないものを明らかにすることができないのは明らかである。
ことも当然認識していたはずなのだから、

 ☆☆ または ナゾ(大元の大元)が既知となった事例
を挙げてください。
☆ この問いにはまだ答えてもらっていません。
ナゾは《不可知と思う》と定義するゆえに 《思わなければ 既知
にもなり得る》とまでは 判明しています。ですが その事例を明
らかにしてください。(#57お礼欄)

といった要請が出るはずはないじゃありませんか。
>分かり切っていることを問い求めていて 話が堂々巡りになるならば 一たんとしてでも打ち切るのが 賢明だとわたしは考えます。

とも続けておられますが、そういう無茶振りをするから、そうでないことに気づいて、また最初から組立てなければならなくなるわけで、
☆堂々巡りになっているのは、
そちらの責任ですよね?(むろん、この点については、という意味ですが)
それを恰もこちらに原因があるかのような、とは明確には言っていませんが、そのように取れる、あるいは、自分側だけに責任があるわけではない、といったニュアンスになるような表現を使っている。
何度か採用している、ひょっとすると身についた手法なのかもしれませんが、こうしたことはやめたほうが良いですよ。
あなたが頭の良いことはみなさん知っているのですから、多少の勘違いがあったからといって、そのことまで否定する人はいません。
むしろ、人格、品位の問題として、以後、留意されるよう苦言を呈しておきましょう。
特に無ければですが、この件については、これ以上申し上げません。ここで打ち切ります。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ (しかも、その箇所を意図的に引用しないという姑息さのおまけつき
ときている)
☆ 《凍結》する前の段階にもどれと言われるのでしたら 意図的に引用
と論評を避けたのです。

あなたの論理〔で表現された文章〕をそのまま受け取ったかたちに成りす
ぎてしまっていたからです。

その不用意さについては よくなかったとみとめています。そういう問題
だと思いますが。

《分かり切っている》というのも 不可知でなくても未知であっても ナ
ゾであり得ることを言っています。議論がという意味に採れるようでした
ので これもあやまります。

あとは 前回(№70)で明らかになった《連続か非連続か》の主題にみ
な収れんするものと思います。




補足欄が あと一回になりました。
ご回答は 二つ三つに分けてお寄せくださるとさいわいです。

お礼日時:2017/05/01 18:28

#69です。



では、いままでのみなさんとのやりとりから得られた知見も採用しながら私見を再確認しつつ、論点を整理してみたいと思います。
まず、今は下記命題の解釈を巡ってということになるでしょう。
「人智の及ばぬ自然宇宙の絶対的摂理(=あらゆる事象をバランスさせる力)に起因して我々は生まれた。( A )」
ここの「絶対的摂理」を「神」と呼ぶべきか否かなどの問題にまでは、まだ踏み込んでいないわけですが、象徴という意味でそう呼ぶことは否定していない。ただ、
☆☆ ところが 神は宇宙の法則であると言うひとがいて これに賛同する人も多いようなのです。(#54お礼欄)
とおっしゃっているので、今の論議においてはですが、「絶対的摂理」と「神」を同義で使ってしまうと紛れが生じる場合はでてきそうですね。
いずれの場合も、様々な解釈が可能である、という表現上の問題が必然的に立ちはだかることになるわけですが、紛れが生じないよう、基本的には「絶対的摂理」を採用しておきます。

(ア)
【 絶対的摂理(神) 】
『太陽の周りを地球が回っている。高速で自転・公転しているにも拘わらず地球上の存在が宇宙に放り出されることもない。
また、あらゆる生物、無生物が原子・素粒子から組成され、またされ続けている。何より、そうしたあらゆることを含め、世界というものが実在しているという現実がある(経験事象A)』
基本的には物理的(あるいは化学的)法則とは思いますが、では、そうした物理的法則はなぜ存在するのか、といったことも含め、
★「あらゆる事象をバランスさせる力」
を「絶対的摂理」と呼ぶことはできるでしょう。
つまり、「物理的法則を含む法則=絶対的摂理」ですが、「絶対的摂理」と言った場合、次のような解釈が可能になる。
[ 解釈 a ] ⇒「絶対的摂理=経験事象 A 」。
[ 解釈 b ] ⇒「絶対的摂理=経験事象 A を顕現させている法則(力)または原因」。
これらを混同すると(お互いに)かみ合わなくなるのは当然。
以降は、表現を拝借して、
[ 解釈 a ] ⇒「絶対的摂理=超経験という事実 」
[ 解釈 b ] ⇒「絶対的摂理=超経験の原因」
のように表現します。
まず、ここを再確認しておきたい。

(イ)
【 絶対的摂理は不可知である 】
(「象徴としての」という認識を共有できているのなら、「神」を使っても問題はないのですが)
この場合、あくまで[ 解釈 b ] を適用していることが容易におわかりになると思います。なので、
「超経験という事実は既知だが、超経験の原因は不可知である」と言ってることになる。
しかし、bragelloneさんは、
『 超経験の原因自体が《人智の及ばぬもの》なのだから、そういうものについて「超経験の原因は不可知である」のような判断を下すということ自体が矛盾だ。』
このようにおっしゃっているわけですよね?
その論理の中に、
[ 解釈 a ] ⇒「絶対的摂理=超経験という事実 」
という概念が採用されていないために喰い違いが生じるのだと思うのですが、どうでしょうか。

(ウ)
新しい、補足を拝見しましたので項目を追加いたします。
 (イ)の内容とうまい具合に噛み合っているような気もしますが、もっと別のこともおっしゃっているようです。
>まづ 両者には絶対のへだたりが

あるのですか。
これはちょっと(わたしにとって)新しい視点かもしれません。さらには、
>次に――人間の思わくとしてながら―― 絶対なる非経験の場は 経
験世界を覆い包むと見られる。・・・ここから連続性があると思われ
て来る。

と。
ふむふむ、なるほど。
この辺りのおっしゃりたいことは理解できます。

>連続性は基本としてありません。地続きではありません。
あると見えるのは 人間の思わくです。哲学としての神論ではなく 
神観として広く人生観を成すような要素に成っているのかも分かりま
せん。神への甘えです。
摂理や自然法は 神から――人間が忖度して――派生させて得る経験
知であり 経験世界の側から神に投影するものではないわけです。

ここも、ひとつの捉え方として、おっしゃりたいことはわかりました。
つまり、
★([ 解釈 a ] )という概念が採用されていないために喰い違いが生じる(イ)
のではなく、
[ 解釈 a ] ⇒「絶対的摂理=超経験という事実 」
と、
[ 解釈 b ] ⇒「絶対的摂理=超経験の原因」
の間に、
☆連続性は基本としてありません。地続きではありません。
とおっしゃるわけですね。
いかなる場合にも、
☆神は超経験
を大前提として持ち出してきた今までの遣り取りを振り返るなら、
★[ 解釈 a ] ⇒「絶対的摂理=超経験という事実 」
を認識なさっていたとは、にわかには信じがたいのですが、とりあえず論点が明確になったようですから、細かいことは言わないでおきましょう。
結局のところ、

☆摂理や自然法は 神から――人間が忖度して――派生させて得る経験
知であり 経験世界の側から神に投影するものではない
のか否か?

これが論点ということになるのでしょう。
このように明確になってみれば、すでにこの時点で、つまり、最初から「見解の相違」が定まっていたということになってしまいそうですね。
若干の根拠らしきものを述べるとすれば、
そもそも、摂理・自然法・神のような認識が芽生えるということ自体、
★経験世界の側から神に投影するもので
あることになりませんかね。
しかるに、そうではない、とおっしゃるのですから、
☆神は超経験
を大前提として持ち出す(それが正当な行為だとする)理由も明確になり、腑に落ちました。
根拠(理由)が腑に落ちたということは有難いことですよね。感謝申し上げます。
ただ、個人的には、これは「思考の停止」と位置づけます。
つまり、
☆神は超経験
を大前提として持ち出すこと自体が、です。
ここにきて「見解の相違」が成立したと思いますがいかがでしょう。
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この回答へのお礼

謝謝。

★ ここの「絶対的摂理」を「神」と呼ぶべきか否かなどの問題にまでは、
まだ踏み込んでいないわけですが、象徴という意味でそう呼ぶことは否定
していない。
☆ 《絶対的 および 人智の及ばぬ》にもとづき 超経験なる神だとし
て扱っています。

(ア)★ 〔経験事象 A から〕「あらゆる事象をバランスさせる力」を
「絶対的摂理」と呼ぶことはできるでしょう。
☆ この段階では 《絶対的》と呼ぶのは早いと思います。かも知れない
わけですが。

★ [ 解釈 a ] ⇒「絶対的摂理=経験事象 A 」。「絶対的摂理=超経験と
いう事実 」
☆ やはり《絶対的》は早すぎますし 早くない場合にも それと《経験
事象》がひとしいとは成らないと思います。《超経験》もまだ早いです。

物理現象⇒物理法則⇒さらにその抽象化・純粋化したイデアとしての摂理
:これなら《絶対的で超経験》と言えるという人間の思わくだと見ます。

★ [ 解釈 b ]
☆ については 表現の問題だと捉えて保留します。《超経験》という
基本が 共通の了解事項です。

(イ)は はこぶるさんの推論の論理にしたがえば そういうことです。

問題は (ア)からつづくものがあります。
★ 超経験という事実は既知だが
☆ この《超経験》は [ 解釈 a ] の《経験事象 A 》を言っています。
つまり《事実》であり 《超》の語は まづいと思うのですが?

(ウ)★ ~~~~
そもそも、摂理・自然法・神のような認識が芽生えるということ自体、
 ★経験世界の側から神に投影するもので
あることになりませんかね。
~~~~~
☆ 前提に《非連続》が成り立っている〔と認められる〕なら 人間から
の投影〔という作業が実際にあったとしてもそれ〕ではないという一般性
が ただよいます。

(ア)での《物理現象⇒物理法則⇒その抽象化・純粋化》は 非連続を無
視していると見られてしまいます。

じつは それゆえにも――詭弁を弄すると映るかも知れませんが――《非
知》という想定を初めに持って来るのです。人間の思考としての投影作業
を この定義の仕方によって切ったのです。

ですから:
★ ただ、個人的には、これは「思考の停止」と位置づけます。
☆ に対しては 《非思考》を掲げるわけです。

《神は超経験》のほうは 一般論だと思います。

お礼日時:2017/05/01 18:13

#63以降のお礼内容に応じようとしましたが、どうも、最初からボタンの掛け違いがあるようで、個別に反論していても埒が明かないようです。


その掛け違いをまず解消する必要がありそうなので、改めて論点を整理することから始めさせてください。
いや、これこれの点に関してはちゃんと答えてもらわなければ困る、といった箇所があるようでしたら、そこはご指摘いただければ答えることにやぶさかではありません。

その意味で私のほうからひとつありまして、それは、次の箇所です。
#65で、
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
bragellone:
ナゾは《不可知と思う》と定義するゆえに 《思わなければ 既知
にもなり得る》とまでは 判明しています。ですが その事例を明
らかにしてください。
hakobulu:
☆《思わなければ 既知にもなり得る》
ような事例をあげろ、とおっしゃるわけですか。
これは、無茶振りですね。
というか、論理の立て方に誤り(好意的に捉えるなら誤解)があるようです。

《不可知と思う》からこそナゾと表現する。
《不可知と思わなければ》ナゾではない。
ゆえに、
《(不可知と)思わなければ 既知にもなり得るナゾ》
という事例は存在し得ない。
存在し得ないものを明らかにすることができないのは明らかである。

およそ、こういったことになるでしょう。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
このようなやりとりがあり、それに対してお礼欄で、
bragellone:
(ウ)a. ★ #50の(ウ)ですでにお答えしたはずですが、それでは納得
できない、ということですかね。
☆ 分かりました。これ以上は わづらわせたくありません。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
というコメントを返していただきました。
なぜこの部分に関してだけ
☆わずらわせたくありません
なのか?という疑問がわくのですが、まあ、それはさておきましょう。
確認したいのは、
★論理の立て方に誤り(好意的に捉えるなら誤解)がある
という点に関してはお認めになるのですか?
ということです。
つまり、
☆《思わなければ 既知にもなり得る》
ような事例をあげろ、と言ったのはたしかに無茶振りであった、お認めになりますか?
ということ。
無茶振りをしてしまうのは誰にもあることですが、そうだと判明したなら、しかも重要な論点のひとつなのですから、何かひとことあってしかるべきではないですかね?
☆ 分かりました。これ以上は わづらわせたくありません。
で済ませようとするのは、ずるい上に、実に見苦しく(と受け止められても仕方のない)、人間性を疑われかねない応じ方だと思います。それとも、

★《不可知と思う》からこそナゾと表現する。
《不可知と思わなければ》ナゾではない。
ゆえに、
《(不可知と)思わなければ 既知にもなり得るナゾ》
という事例は存在し得ない。
存在し得ないものを明らかにすることができないのは明らかである。

なんていう論理のほうが誤っている、とおっしゃるのですか?
であるなら、理由とともに、その旨、明記してください。
いずれにせよ、無茶振りだったのかそうではなかったのか、(端的な表現で、つまり、イエスノーで済む話なのですから)はっきりさせるべきところでしょう。
論点整理は、回答欄を改めて述べさせていただきます。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ ~~~~~~~~~~
(ウ)a. ・・・
なぜこの部分に関してだけ
☆わずらわせたくありません
なのか?という疑問がわくのですが
~~~~~~~~~
☆ 堂々巡りに成っていると知ったからです。

★ ~~~~~~~~~
確認したいのは、
★★論理の立て方に誤り(好意的に捉えるなら誤解)がある
という点に関してはお認めになるのですか?
ということです。
~~~~~~~~~
☆ 新たには進まないと決めたことは それまでのすべてを凍結するという
意味です。

もし凍結がいやだということでしたら 堂々巡りではない回答をまづ提出し
ていただきたいと思います。

★ ~~~~~~~
確認したいのは、
★★論理の立て方に誤り(好意的に捉えるなら誤解)がある
という点に関してはお認めになるのですか?
~~~~~~~
☆ ここは 相手の・つまりはこぶる式の発想をそのまま受け取ったかたち
で問い返しているということです。

★★ ~~~~~~
《不可知と思う》からこそナゾと表現する。
《不可知と思わなければ》ナゾではない。
~~~~~
☆ 単なる未知でも不思議なナゾだと言いますし とりわけ非知なら 大い
なるナゾです。

この問題は 分かり切っていますよ。分かり切っていることを問い求めてい
て 話が堂々巡りになるならば 一たんとしてでも打ち切るのが 賢明だと
わたしは考えます。

お礼日時:2017/05/01 15:55

#67です。



>「神は人智の及ばぬもの」だからこそ、「神は人間の能力では知ることができない」
と思うこと。
このどこが
 ☆不思議
で、何を指して、
 ☆人をおちょくっているのか。
という暴言につながるのか・・・。
~~~~~~~~~
☆ ふたつの文(判断)は 同じ内容だと思わないということですね そうすると。
同じ内容のことを ふたたび言い出すことは おかしくなく あり得ます。
しかしながら それらを《だからこそ》でつなげることは 考えられません。
あるいは たとえあったとしても 哲学の推論を成すくだりでそれを出して来ると
は 考えられません。意味がない・ただの感想や感慨なのですから。

☆同じ内容
とおっしゃいますが、厳密には違いますよね?
「彼女は美人だ」と「彼女は美人だと思う」が同じ内容なんですか?
経験事象とは違うなどという詭弁を弄するのだけは勘弁してくださいね。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 「彼女は美人だ」と「彼女は美人だと思う」が同じ内容なんですか?
☆ 同じ内容であり得ます。《だ》で断定する場合にも 感慨をふくめて
――その発言者の主観のかぎりでですが――言う場合があるからです。

むろん 違う場合もあり得ます。《だと思う》のほうが 確からしさの度
合いが低いといった違いです。

同じような内容の二文なわけですが これらを《だからこそ》でつなげる
とは まさか ですよね?

お礼日時:2017/05/01 00:54

#66です。



その前のお礼については、また明日ということにしますが、とりあえず。


★ 「人智の及ばぬもの」だからこそ、「人間の能力では知ることができない」
と思うことは別に不思議ではないでしょう。
☆ 不思議です。
同じことを少し別の言葉で言いかえているだけだと思われます。
そのふたつの命題(判断ないし表現)が どうして《だからこそ》でつながれ
るのか? 
人をおちょくっているのか。あるいは ほんとうに自分で分からなくなってい
るのか。・・・ほかにどういう事態だと考えられるか?

なんでそうなりますかねえ????
ほんと不思議です。たとえばですが、
「神は人智の及ばぬもの」だからこそ、「神は人間の能力では知ることができない」と思うこと。
このどこが
☆不思議
で、何を指して、
☆人をおちょくっているのか。
という暴言につながるのか・・・。
いやはや、困惑しております。
一杯引っかけながらのご投稿ですか?
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ ~~~~~~~~~~
「神は人智の及ばぬもの」だからこそ、「神は人間の能力では知ることができない」
と思うこと。
このどこが
 ☆不思議
で、何を指して、
 ☆人をおちょくっているのか。
という暴言につながるのか・・・。
~~~~~~~~~
☆ ふたつの文(判断)は 同じ内容だと思わないということですね そうすると。

同じ内容のことを ふたたび言い出すことは おかしくなく あり得ます。

しかしながら それらを《だからこそ》でつなげることは 考えられません。

あるいは たとえあったとしても 哲学の推論を成すくだりでそれを出して来ると
は 考えられません。意味がない・ただの感想や感慨なのですから。

これらの場合を考えるかぎり それをまともな議論だと言われた日にゃ おちょく
っているのだろうかと言わないほうが 暴言になりましょう。

お礼日時:2017/05/01 00:28

#65ですが、取り急ぎ。



>人智の及ばぬものについて どうして《・・・と思う》ということが当ては
まるのでしょう?

人智が及ぼうが及ぶまいが、なにごとに対しても「不可知」とは「人智では知ることができない(と思われる)こと」という意味に他なりません。
なぜなら、「人智では」なのですから、あくまで人間の能力では知ることができない、という意味になるから。
つまり、「人間の能力では知ることができない」と人間自身が断定しているにすぎないわけです。
絶対的な事実としてそのように定まっているわけではない。
「人智の及ばぬもの」だからこそ、「人間の能力では知ることができない」と思うことは別に不思議ではないでしょう。
「何かわけのわからぬ対象」について、つまり、非知についてそう言ってるわけじゃないので混同されませんように。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 「人智の及ばぬもの」だからこそ、「人間の能力では知ることができない」
と思うことは別に不思議ではないでしょう。
☆ 不思議です。

同じことを少し別の言葉で言いかえているだけだと思われます。

そのふたつの命題(判断ないし表現)が どうして《だからこそ》でつながれ
るのか? 

人をおちょくっているのか。あるいは ほんとうに自分で分からなくなってい
るのか。・・・ほかにどういう事態だと考えられるか?


但し書きとしては:人智の及ぶものについては そのとき《いや 人智では知
ることができない》とか《そう思う》とかと言う場合はあります。ただし そ
れは 哲学の議論としてではないでしょう。


ほんとうに不思議体験です。

これでは 命題 A・B・C を世に送り出すことはむつかしいです。むろんわたし
個人の見解です。

お礼日時:2017/04/30 23:30

#57です。



(ア)
>★ そんなことはわかってますよ。
☆ ぢゃあ 適切だとも分かっていて なぜ訊くんですか?

☆仮説した限りで推論の前提となり得
るのは、あくまで一般論だろ、ということ。
★神について論議に際しても、
一般論として捉え、
★「だってみんなが言ってるじゃん」を仮説とすることが適切
だと思っているのですか?
と尋ねている。
日本語の構文として、そんなに難しいですかね?

(イ)
>☆☆ おしまいとなります。
☆ は おしまいと成るのです。あなたの《不可知》の定義が そ
のように《不可知と思う》というのでは ということです。
この場合 ほかには問題はありません。
☆☆ どのように証明したのですか? それとも証明は要らないの
ですか? 自分がそう思えば不可知なのですか?
☆ と尋ねることによって 《自分で 不可知だと思う》という定
義だと判明したのです。

それは邪推ですね。
可知にせよ不可知にせよ、可能性に関する人間の判断にすぎないことは明らかでしょう。
「可能性」という事実は存在しないわけだから。
★「宇宙」は経験事象ですが「宇宙が存在する意味」は経験事象ではありません。
しかし、そのような事柄を「(仮に)想定」できるからこそ、永遠に知ることができないと思えば「不可知」と言うし、永遠に知ることができないとまでは断定できないと思えば「未知」と表現するわけです。(#7)
ということも既に述べています。

(ウ)

a.  ☆☆ または ナゾ(大元の大元)が既知となった事例
を挙げてください。
☆ この問いにはまだ答えてもらっていません。

#50の(ウ)ですでにお答えしたはずですが、それでは納得できない、ということですかね。

★人智の及ばぬ自然宇宙の絶対的摂理(=あらゆる事象をバランスさせる力)
というのは、《絶対的摂理(=あらゆる事象をバランスさせる力)》とはどういうものであるのか、という、その中身については《人智の及ばぬ》と言っているだけです。
誰かは知らないがいつも花を届けてくれる(むろん経験談ではありません)、といった比喩で申し上げるとわかりやすいかもしれません。
《人智の及ばぬ事象》が存在すること自体は、《人智の及んでいる事実としての事象》でしょう。

とすでに述べている箇所を、よくお読みください。
☆ナゾが既知となった事例を挙げ
る必要がないことも、合わせてご理解いただけるはずです。(#50)

>ナゾは《不可知と思う》と定義するゆえに 《思わなければ 既知
にもなり得る》とまでは 判明しています。ですが その事例を明
らかにしてください。

☆《思わなければ 既知にもなり得る》
ような事例をあげろ、とおっしゃるわけですか。
これは、無茶振りですね。
というか、論理の立て方に誤り(好意的に捉えるなら誤解)があるようです。

《不可知と思う》からこそナゾと表現する。
《不可知と思わなければ》ナゾではない。
ゆえに、
《(不可知と)思わなければ 既知にもなり得るナゾ》
という事例は存在し得ない。
存在し得ないものを明らかにすることができないのは明らかである。

およそ、こういったことになるでしょう。

b.
>前提となる用語の定義において 仮説をおこなうとき《一般にみと
められている常識》にもとづきそうする。そういう仮説なら 哲学
として通る。・・・と言っているのですから 

いやいや、ですから、
☆と言っている
こと自体が不合理でしょう、という批判を展開しているわけですから、それに対する反論の根拠として、
☆・・・と言っているのですから 
を持ち出すのは二重の意味での不合理、と言わざるを得ないでしょう。

(エ)
>☆☆《実質的に人びと一般がみとめている》 ★ようなこと、
に関して、果たして[・・・]それは本当だったろうか?という考察
をするところから哲学というものは発するのではないか。
☆ いまの場合は 《神は超経験》という話を前提にするというこ
とです。
もしその一般性をうたがうときには その批判をおこなえばよいわ
けです。
その《考察》をあなたの場合は 《不可知と思う》のように定義す
ることによって 回避しているのです。

そのような邪推をなさるのは、
☆《不可知と思う》のように定義すること
を否定しているからでしょう。
わたしは、
《不可知》というものは、
☆《不可知と思う》のように定義
せざるを得ない、というのは論理的に真だと思っていますので、
☆回避している
というご指摘は当たらないですね、とお答えするしかありません。
ま、この辺りも「見解の相違」ということになるのでしょう。
回答の順序が前後しましたので、もしお考えが変わっているようでしたら、その旨お知らせください。
この回答への補足あり
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

(ア) こう尋ねなおします。:《神は 超経験である》は 一般論ですか? 

一般論であるなら 仮説の前提になります。(ウ)b. も同じです。



(イ)★ ~~~~~~~~~
  ★★「宇宙」は経験事象ですが「宇宙が存在する意味」は経験事象ではあ
  りません。

しかし、そのような事柄を「(仮に)想定」できるからこそ、永遠に知ること
ができないと思えば「不可知」と言うし、永遠に知ることができないとまでは
断定できないと思えば「未知」と表現するわけです。(#7)
~~~~~~~~~
☆ すでに触れていますが 《「宇宙が存在する意味」を考える》のは経験事
象です。

ですから・言いかえると 《宇宙が存在する意味 または そのナゾ(分かり
やすく《原因》とよぶともお聞きしました)》について――それが 経験事象
ではないとするからには―― それ相応の定義の仕方が不可欠になります。

非経験の場に対しては それにふさわしい用語で定義する必要があります。

《永遠に知ることができない》かどうか・・・では なおまだ経験事象を扱っ
ているのと違わないからです。



(ウ)a. ★ #50の(ウ)ですでにお答えしたはずですが、それでは納得
できない、ということですかね。
☆ 分かりました。これ以上は わづらわせたくありません。


この項目のもとで 《不可知が 既知に成り得る》という命題(判断)につい
ての議論がありました。それをめぐっては あらたに次のように問いたいと考
えます。:

★★ 《絶対的摂理(=あらゆる事象をバランスさせる力)》とはどういうも
のであるのか、という、その中身については《人智の及ばぬ》と言っているだ
けです。
☆ ということは 《バランサーとしてのハタラキは 経験事象である。その
大元の中身は 非経験の場であって人智は及ばない》。

こういう意味に解しますが そのときの問題は 《バランスにかかわる経験事
象とそして非経験の場とが どうしてそのようにつながっていると言えるのか
?》でしょうね。

つまり 《不可知と思うナゾ》が《既知》と成り得るとは そのような――両
者のつながりの――問題だったようです。これは (エ)にも関連します。

つづく。

お礼日時:2017/04/30 19:05
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Qみんなが仲直りする秘密のナゾ:信仰としての《梵我一如》類型::一般および個別絶対性理論

1. 《絶対》とは 経験事象としての有る無しを超え因果関係から自由な場ないしチカ
ラである。《非経験の場》とよび そのように想定する。

2. 非経験の場は 認識のあり方として 《非知》である。

   経験事象
     可知
       既知
       未知(いづれ既知になるであろうと推察されている)
     不可知(未知でしかも知り得ないと証明し得たものごと)

   非経験の場
     非知(知り得るか知り得ないかが知り得ないナゾ。未知や不可知と一線を画す)

3. 非知なる非経験の場 これを――《神 またはその一定の名》において――心に受け
容れたとき(つまり 信じたとき) わが心には《非思考の庭》が成る。身と心とから成る
自然本性に ぷらす α としてやどる何ものかの自覚が起きる。

   【 α : 霊我】:信じる:非思考の庭:ヒラメキ・良心
   -------------------------
   【心:精神】:考える:思考の緑野:コギト 
   【身:身体】:感じる:感性の原野:センスス・コムニス

4. 非思考の庭は 受け容れる器(ミクロコスモス)とその対象(非対象:マクロコスモス)
との一体性として示される。類型として梵我一如という呼び方を借りるとよい。

  A. ブラフマニズム:梵我一如
   梵:ブラフマン・・・・・マクロコスモス。神
   我:アートマン・・・・・ミクロコスモス。霊我

  B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(=これは 無神論である)
   無梵:空(シューニャター)・ゼロ
   無我:アン‐アートマン;ニルワーナ

  C. ブディズム:仏仏一如(=有神論)
   仏:アミターバ・ブッダ(阿弥陀如来)
      / マハーワイローチャナ(大日如来)
   仏:タターガタ・ガルバ(如来蔵)・ブッダター(仏性)

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   霊:神・聖霊
   霊:《神の宮なるわれ》

  E. (プラトン?):霊霊一如
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   霊:われ(自然本性)

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   霊:ヤハヱ―;(エローホ=神)
   霊:われ

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とするならば その《人の色》は 《人それぞれの色》ということであり
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つけられる。と考えられる。

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には むしろもともと色は無い。

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――という一つのまとめが得られるはずだ。





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あたかもみづからの《顔》に《色》が付いて回っている。

とするならば その《人の色》は 《人それぞれの色》ということであり
《人によって 色は違う》ことになる。

人が思惟や行動につける《色》は 一般にその言動の道具としての《言葉》に
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Q《自我・超自我・無意識》の理論は まやかしである。

 (1) すでに 《無意識》という領域については 批判が終わってもいるようです。
 
 ▲ (ヰキぺ:無意識) ~~~~~
 § 広義の無意識と潜在意識

 フロイトやユングの理論における「無意識」は、彼らが理論的に想定した構造の存在は、結果的に実証されないものであることが判明したが、
 20世紀前半に生まれた、このような「無意識の概念」は、文化的に大きな影響を与えたことも事実であり、思想や芸術において、現在もなお影響を有している。
 ~~~~~~~~~~~~~~~

 (2) とにもかくにもこの単に意識していないというのではなくわざわざ《無意識》という領域を設定した場合の概念というのは ひじょうに厄介な分析道具だと考えられます。つまり 要らないはずです。

 意識できない・意識していない・意識したくないといったかたちで《意識の外にある》ことがら これは 意識に現われたとき認識すればよい。ただこういう問題だと考えます。すべて記憶の倉庫にしまってあると見ればよいわけです。

 なぜなら 意識の先を越して――ということは 意志による判断を省みずに――行動に移ったという場合 それはそれでも事後的に《わたし》の意志行為であると見なせばよいわけです。

 これをわざわざ無意識のしわざであると言うものですから ややこしくなる。思ってもいないことをやらかしたとか 人を突き動かすものには意識の底の自分にも分からない力があるのだとか 人間の行為ないし現象をわざわざややこしくしているはずなのです。どれだけ怪しく妖しい力が突き動かしたにしても それらはすべて人間の・そしてわたしの《自然本性もしくはそれのへそ曲がり》から来ています。

 すべての思惟や行動は――無意識からであろうがどうであろうが―― わたしが引き受けることがらです。意志行為は中軸ですが 《わたし》がむろん全体なのですから 無意識であったゆえにみづからの意志が関与していなかったとしても それはわたしの行為である。このことは はっきりとしています。満員電車でほかから押されて起こした動きも 故意でなくても 《わたし》の行為として引き受け これにそれとして責任を持ちます。

 すなわちパーツを取り出し――それも要らないパーツであるのに―― 思いや行ないについてそのパーツの所為にする。ここに間違いがあると考えられます。

 (3) わたしの中に自我・超自我・エス(《それ・あれ》・無意識)をわざわざ取り上げ取り出したときから わたしの分裂が始まったのではないか? 

 二重人格などありえません。ですが 自我なら自我が全体としての《わたし》から単独分立したときから もうひとりのわたしという観念が生まれその横行が始まったのでは? 超自我さえ単独で あたかもわたしの代わりになるかのような扱いを受けてしまいました。
 無意識を研究するのは なぜかカッコよいとさえ見られるという一面も生みだされました。

 (4)  《超自我性》も《無意識のものが意識されるようになったエス性》も 全体としての《わたし》の思惟や行動にとっての材料や選択肢となることがらであると言うべきです。ということは 何がエスで何が抑制因かという区分は――選択肢の内容をそのときの判断において把握していればよいわけですから―― 要らないと見られます。

 欲動かそれを抑制するかという観点のみではなく そのほかの自分の中の要因やあるいはその場の相手や果ては情況一般といった観点をも含めてとうぜんのごとく総合的に判断するのであり それをおこなうのは 《わたし》です。

 (5) いま・ここにあってわたしと自称しているわたしが存在しているというのみではないか? わたしという人格 あるいは 人格としてのわたし。
 自我という人格あるいは人格としての自我とは言わないでしょう。しかも原語は 《 das Ich ( the 'I ' ) 》であり自称に用いる《わたし》のことです。《これこれが わたしの意見です》というところを 《・・・わたしの自我の意見です》とは言いません。言えません。

 (6) なぜ《わたし》を分けてしまい 引き裂いてしまうのか。その精神分析のどこが 学問でありましょう。勝手にみづから病いの殿堂を建てているようなものではありませんか?
 《自我》とは 《わたし》のパーツである。しかもそうだとすれば 要らない。
 《エス・無意識》も ただ《逸る気持ち》とでも言えばよいであろうし 《超自我》は《内に省みる心》とでも言えばよいはずなのでは?

 (1) すでに 《無意識》という領域については 批判が終わってもいるようです。
 
 ▲ (ヰキぺ:無意識) ~~~~~
 § 広義の無意識と潜在意識

 フロイトやユングの理論における「無意識」は、彼らが理論的に想定した構造の存在は、結果的に実証されないものであることが判明したが、
 20世紀前半に生まれた、このような「無意識の概念」は、文化的に大きな影響を与えたことも事実であり、思想や芸術において、現在もなお影響を有している。
 ~~~~~~~~~~~~~~~

 (2) とにも...続きを読む

Aベストアンサー

#23です。

>《自我》とは 《わたし》のパーツである。しかもそうだとすれば 要らない。
 《エス・無意識》も ただ《逸る気持ち》とでも言えばよいであろうし 《超自我》は《内に省みる心》とでも言えばよいはずなのでは?

そもそも、すでに、このように述べておられますから、自我もエス・無意識も超自我も(言葉が違うだけで)その存在は認めていることになります。
仮に《超自我》を《内に省みる心》と言った場合、何がどう違ってくるのか、その当たりが不明確ですよね。
省みるわたしと省みられるわたしが分裂するわけですから、要するに運用の違いということでしょう。
わたしとしては別に他の言葉でも構いませんが、大事なのはその中身、思考法だろうと思います。
このスレにおいては、そのことを正面から取り上げる形にはなっていないでしょう。
肝心の議論が傍系になってしまっている。
建設的ではないというのはそういうことです。

> 《わたし》でありつづける。
 これで たたかいは すでに勝利です。

「>《わたし》でありつづける」
これは何にでも言えることだと思います。
そのための方法論の問題でしょう。
方法論の比較をしても仕方ないと思うのですが。
ある方法論を批判するのは構いませんが代替案がないと・・・。
しかも、(もしあるなら)その代替案についての論議こそが大事なように思われます。
今回も文中で触れておられるのかもしれませんが、出だしが出だしなのでどうも焦点がぼやけてしまっている可能性はありそうです。

>《わたし》がいま・ここにいるという自覚だけでも すでに勝利だと考えます。

そうですね。
ただ、そのように自覚できないのが神経症なのですから、どのようにしたら自覚できやすいか、ということだと思います。
続く項目も順次拝見しましたが、自我をわたしと置き換えて表現することによる有意な根拠が見出せなかったので、あえてコメントは控えさせていただきます。

>大波津波の起こる社会の歩き方じたいには 何も言わないし むしろそれが自己運動をするにまかせている。まかせていることによって 一定数の患者が確保され 自分たちはおまんまが食える。こういう構図になっていはしますまいか?

その方面の実体は全く知りませんが、ブラジュさんの説でいくと人はみな評論家か政治家を志すべきだ、ということになりそうですね。
結局、真理(であるかどうかという問題はおいといて)を知ることによって人は一番安定するんじゃないかなと思います。
大波津波に対して何か言うから有意義ということには必ずしもなりません。

> エス・超自我・自我のシステムによって内面へ向かう自省のこころみは 無駄に終わる。こう考えます。

そういう見解があっても良いと思います。

◇  
#22さんとのやりとりでエディプス・コンプレックスが挙がっているようなので、若干触れてみます。
コンプレクスというのは本来複合という意味で、錯綜のように解釈してもよいと思います。
他の女性を母親と重ね合わせること、勘違いすること、とも言えます。
母親の子に対する愛情は一般的に言って相当強いもののはずで、しかも自我(と言うとまた怒られそうですが)の芽生える以前からの付き合いで、言ってみれば自分の一部として生きた時代を経るので半端ではない環境刺激として脳に記憶されないほうがむしろおかしいと考えるのが自然です。
詳しいことは知りませんが、大なり小なりこのコンプレックスは人間であれば誰もが持っているものでしょう。
ただ、錯綜しているからといって社会生活上支障がなければ問題視する必要はありません。
それがどうした、で済むわけです。

この用語はギリシア悲劇から題材を得ていますが2つの意味から命名されました。
ひとつは、男児が母親に対する愛着と忌避、父親に対する尊敬と反抗という相互矛盾を乗り越えて、それらを年齢を経るとともに解決し統合していく過程で精神的昇華が得られる、つまり超自我性が育まれていくという構図を示したものです。
また、エディプス王が国内の災厄の原因を調べていくうちに結局自らの行為がその原因であったことを突き止める、という過程が、内面にあるにもかかわらず本人が気づかない無意識にあるものを浮かび上がらせることによって悩みを解決するという分析手法と酷似しているというのが2つめの因子です。
このように、幼児からの心理的発達過程とそれを探る手法を表した用語で、近親相姦云々はこの用語の要旨とは殆ど関係ありません。

以上、一素人の個人的見解も多く含まれていますので悪しからずご了承願います。
今回のスレはこんなところで失礼します。
  

#23です。

>《自我》とは 《わたし》のパーツである。しかもそうだとすれば 要らない。
 《エス・無意識》も ただ《逸る気持ち》とでも言えばよいであろうし 《超自我》は《内に省みる心》とでも言えばよいはずなのでは?

そもそも、すでに、このように述べておられますから、自我もエス・無意識も超自我も(言葉が違うだけで)その存在は認めていることになります。
仮に《超自我》を《内に省みる心》と言った場合、何がどう違ってくるのか、その当たりが不明確ですよね。
省みるわたしと省みられ...続きを読む

Q《自我・超自我・エス(無意識)》の理論は まやかしである。

1. ひとつの見方でしょうが すでに《無意識》という領域については 批判が
終わってもいるようです。
 
▲ (ヰキぺ:無意識) ~~~~~~~~~~
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%84%A1%E6%84%8F%E8%AD%98#.E5.BA.83.E7.BE.A9.E3.81.AE.E7.84.A1.E6.84.8F.E8.AD.98
§ 5 広義の無意識

フロイトやユングの理論における「無意識」は、彼らが理論的に想定した構造の存在
は、結果的に実証されないものであることが判明したが、

20世紀前半に生まれた、このような「無意識の概念」は、文化的に大きな影響を与え
たことも事実であり、思想や芸術において、現在もなお影響を有している。
~~~~~~~~~~~~~~~~~

2. とにもかくにもこのムイシキという概念は ひじょうに厄介な分析道具であると
考えられます。脳細胞の中に独立した《無意識》という領域を設定したというのは い
わゆるトラウマが――つまりそのような心の傷が果たしてほんとうにあるのかどうかさ
え疑わしいと思っていますが それが――自分の努力によってはついぞ癒えないといっ
たかたちになります。ムイシキさまの虫の居所によってなおる場合もあるとなっていま
す。


3. 意識できない・意識していない・意識したくないといったかたちで《意識の外に
ある》ことがら これは 意識に現われたとき認識すればよい。ただこういう問題だと
考えます。すべて記憶の倉庫にしまってあると見ればよいわけです。その過去の秘密や
瑕のようなものも わたしの人格の一部だと受け留めればよい。それが 人格だ。

4. なぜなら 意識していず意識の先を越して――ということは 意志による判断を
通さずに――行動に移ったという場合 それはそれでも事後的に《わたし》の意志行為
であると見なせばよいわけです。

5. これをわざわざ無意識のしわざであると言うものですから ややこしくなる。思
ってもいないことをやらかしたとか 人を突き動かすものには意識の底の自分にも分か
らないチカラがあるのだとか 人間の行為ないし現象をわざわざややこしくしているは
ずなのです。どれだけ怪しく妖しい力が突き動かしたにしても それらはすべて人間の
・そしてわたしの《自然本性もしくはそれのへそ曲がり》から来ているはずです。
(ワタシを超えたところのハタラキは ヒラメキです)。


6. すべての思惟や行動は――無意識からであろうがどうであろうが―― わたしが
引き受けることになるのは 自然でふつうです。意志行為は精神の中軸ですが 《わた
し》がむろん存在の全体なのですから 無意識であったゆえにみづからの意志が関与し
ていなかったとしても それはわたしの行為である。このことは はっきりとしていま
す。満員電車でほかから押されて起こした動きも 故意でなくても 《わたし》の行為
として引き受け これにそれとして責任を持ちます。

7. すなわちエスやリビドーというムイシキのほかにもそれを抑制するという超自我
やあるいはそれら両者を取り持つという自我を設定し これらのパーツを取り出して人
の思いや行ないについてそのパーツのハタラキだと言いそれらの所為にする。ここに間
違いがあると考えられるのではないでしょうか。


8. わたしの中に自我・超自我・エス(《それ・あれ》・無意識)をわざわざ取り上
げ取り出したときから わたしの分裂が始まったのではないか? 

9. 二重人格などありえません。ですが 自我なら自我が全体としての《わたし》の
中で単独分立していると設定したときから もうひとりのわたしといった観念が生まれ
その横行が始まったのでは? 超自我さえ単独で あたかもわたしの代わりになるかの
ような扱いを受けてしまいました。
無意識を持ち出すのは なぜかカッコよいとさえ見られるという一面も生みだされまし
た。

10. 《超自我性》も《無意識のものが意識されるようになったエス性》も 全体と
しての《わたし》の思惟や行動にとっての材料や選択肢となることがらであると言うべ
きです。ということは 何がエスで何が抑制因かという区分は――選択肢それぞれの内
容をそのときの判断において把握すればよいわけですから―― 要らないと見られます。
区分が要らないということは それらが独立したハタラキではないとなるはずです。

11. 欲動かそれを抑制するかという観点のみではなく そのほかの自分の中の要因
やあるいはその場の相手や果ては情況一般といった観点をも含めてとうぜんのごとく総
合的に判断するのであり それをおこなうのは 《わたし》です。


12. いま・ここにあってわたしと自称しているわたしが存在しているというのみで
はないか? わたしという人格 あるいは 人格としてのわたし。
 
13. 自我という人格あるいは人格としての自我とは言わないでしょう。しかも原語
は 《 das Ich ( the 'I ' ) 》であり自称に用いる《わたしが》のことです。《これこ
れが わたしの意見です》というところを 《・・・わたしの自我の意見です》とは言
いません。言えません。そういう分裂が成り立つかのようにわざわざそういう別の性質
のハタラキとして 日本語ではワタシやオノレのほかに《自我》という概念をつくって
しまった。

14. なぜ《わたし》を分けてしまい 引き裂いてしまうのか。その精神分析のどこが 
学問でありましょう。勝手にみづから病いの殿堂を建てているようなものではありません
か?

15. 《自我》とは 《わたし》の・そしてその意志行為などの一部分をわざわざ取り
出したものである。しかもそうだとすれば 要らない。
《エス・無意識》も ただ《逸る気持ち》とでも言えばよいであろうし 《超自我》は
《内に省みる心》とでも言えばよいはずなのではないでしょうか? みな《わたし》の欲
動や思惟や判断です。

1. ひとつの見方でしょうが すでに《無意識》という領域については 批判が
終わってもいるようです。
 
▲ (ヰキぺ:無意識) ~~~~~~~~~~
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%84%A1%E6%84%8F%E8%AD%98#.E5.BA.83.E7.BE.A9.E3.81.AE.E7.84.A1.E6.84.8F.E8.AD.98
§ 5 広義の無意識

フロイトやユングの理論における「無意識」は、彼らが理論的に想定した構造の存在
は、結果的に実証されないものであることが判明したが、

20世紀前半に生まれた、このような「無意識の概念」は、文化...続きを読む

Aベストアンサー

お礼ありがとうございます。
日本の神々については、普遍神の現れと考える方法と、素直に神産みで生まれたと解釈する方法があると思います。
ユダヤ同祖論者などは、普遍神の現れと解釈して、ユダヤ教と日本神道は同祖であると説明する場合もあります。(これ自体は、時代考証的に難しい問題があるので、俗説と言ってかまわないと思います)
山間部と臨海部で違う神を信仰する事は、充分有りうるわけですから、本質的に別の神格が存在している事も否定出来ないと思います。
中央集権的な国家形成の過程で、それらが普遍神として統合された可能性は充分あるでしょう。
日本の場合は、山間信仰は、そこに神が存在するとも言えますが、海洋信仰の場合は来迎神です。(鳥居などは、神の通り道なわけです)
御神体自体は、基本的に依り代ですね。
神社についても、仏教伝来以後に建立されたと言われていますから、本質的には日本の神々は居場所を定めていなかった可能性はあります。(そういう意味では、全て来迎神とも言えます)
日本神道に関しては、明治以後に、社格の整理・統合が行われているので、由緒ある神社以外は、先史時代の形態を探るのは困難です。
信仰自体は、どの神を信じようと、同じと言う事は言えると思います。
親鸞に関しては、その信仰心はかなりの物と言えます。
法然の他力本願に関しては、たとえそれで本願出来なくても、かまわないとまで言っています。
そこまで強い信仰心であれば、念仏した瞬間にすでに、信仰自体が完成していたと言えるでしょう。(もはや疑うと言う雑念は無いわけです)
法然自身は、完全他力の立場は取っていません。(念仏するのは自力と考えています)
親鸞は、念仏する気持ち自体が阿弥陀仏のはからいなわけですから、もはや全てが阿弥陀仏のはからいになってしまいます。(これは、阿弥陀仏との関連として、はからいと表現していますが、親鸞の信仰は完成しているので、すでにはからいは無くなっています)
「義無きを義とする」は、いろいろ解釈が可能ですが、意味としては念仏せざるを得ない、もしくは念仏してしまうと言う境地を意味しているんでしょう。(法然も実践としては同じで、念仏出来るかぎり念仏してしまうわけですから、その信仰心は強固なものでしょう)
「不可称・不可説・不可思議のゆゑに」は、親鸞にとっては付け加えなんだと思います。
親鸞自体は、絶対的な信仰で念仏してしまうわけですから、理屈は不要だったわけでしょう。
他者に説明するとしたら、それは「不可称」→言葉で表現出来ない、「不可説」→説明が出来ない、「不可思議」→理屈がつかないという事だったと言えます。
その境地を、「非知」もしくは「不可知」と呼ぶことも可能でしょう。
親鸞自身にとっては、「不可知」もしくは、逆説的な「既知」(阿弥陀仏で本願出来る事は既知なわけです)かもしれません。
さすがに、私は、そこまでの信仰心を持てるようにはなれないでしょう。

お礼ありがとうございます。
日本の神々については、普遍神の現れと考える方法と、素直に神産みで生まれたと解釈する方法があると思います。
ユダヤ同祖論者などは、普遍神の現れと解釈して、ユダヤ教と日本神道は同祖であると説明する場合もあります。(これ自体は、時代考証的に難しい問題があるので、俗説と言ってかまわないと思います)
山間部と臨海部で違う神を信仰する事は、充分有りうるわけですから、本質的に別の神格が存在している事も否定出来ないと思います。
中央集権的な国家形成の過程で、それら...続きを読む

Q《摂理》とは 何ですか?

主観の内にしかない。

よって 哲学の理論として鍵語としては用い得ない。

という認識ですが そのほか いろいろおしえてください。


ちなみにーー自虐的だと見られたら 申し訳ないのですが――
ヒロシマやフクシマは 天罰だという見方 これが 摂理の問
題にふくまれ得るという理解でもあります。

要するに 原因のーー情況を超えたような大きな原因がーー分
からない出来事については 神の所為にするという見方ではな
いかと。

Aベストアンサー

ヒロシマ、フクシマが天罰。摂理。まさに神の視点。疫病神の面目躍如ですね。
摂理とは、あなたの意思。想像を超えた非経験の領域。


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