1. 或る回答を引用して 問うものです。規約違反であれば したがい
ます。
2. 前々から分からなかったのですが ひとまとまりの説明を得ました。
なお分からないのですが 疑問を呈して問い求めをすすめ得ればと考えま
す。
◆ 《彼は我であったかもしれず、我が彼であったかもしれない》~~~
3. 我々の身体は原子からできているし、宇宙はブラックホールにより
誕生したのかもしれない。
4. しかし、その原子やブラックホールが何からできているのかは永遠
に不可知だろうと思います。
5. むろん、どちらも、その大元を辿れば1次元の拡がりをもつ弦( 超
弦)であると推測されるところまで来ているようですが、では、その超弦
は何からできているのか、ということになるでしょう。
6. つまり、理由が分かったとしても、その理由に対する理由が永遠に
付きまとうわけなので、永遠に不可知と言わざるを得ません。
7. よって、
「人智の及ばぬ自然宇宙の絶対的摂理(=あらゆる事象をバランスさ
せる力)に起因して我々は生まれた。( A )」
を定理として認めざるを得ない。
8. この場合、
「我々は [ 人類の一員としての我 ] でありさえすれば摂理の要件を満
たすに十分なのであって、 [ 自我としてのこの我 ] が存在しなければ
ならない必然性は(摂理にとって)皆無である( B )」
7. よって、
「彼は我であったかもしれず、我が彼であったかもしれない( C )」
という命題が結論として導き出される。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
8. まづ用語です。
《不可知》は 質問者としては 《知り得ないと証明されたものごと》と
定義しますが どうもここでは 《知り得るか知り得ないかが知り得ない
ナゾ》としての非知のことを指して言っているように思われます。
その点 どうなんでしょう?
9. 《大元の大元》としてここでは《ナゾ》という言葉で統一したいと
思うのですが (7)なる命題(つまり A )は 次のようにみちびかれ
ているのでしょうか?
9-1.(編集版A‐1) ナゾはナゾであり続けるゆえ それを《人智の
及ばぬ自然宇宙の絶対的摂理(=あらゆる事象をバランスさせる力)》と
呼び 同じくそのように説明する。
9-2.(編集版A‐2) われわれは ナゾによって・絶対的摂理によっ
て・あらゆる事象をバランスさせる力によって生まれた。
10. (8)の B なる命題について:
10-1. 《摂理の要件を満たす》とは どういうことか? すでにこ
の摂理によってわれわれは生まれて来ているのではないか? すなわち生
まれて来たときに 《[ 人類の一員としての我 ] でありさえ》しているの
ではないか?
10-2. 《 [ 自我としてのこの我 ]》が分からない。《[ 人類の一員
としての我 ]》と《自我としてのこの我》とは 別なのか? 別だとすれ
ば 《自我》について説明が欲しい。
11. (7)の C なる命題において 《我 や 彼》は どうなのか?
つまり おのおのが《[ 人類の一員としての我 ]》であるその人間のこと
か?
11-1. もしそうだとすると この命題で《彼は我であったかもしれ
ず うんぬん》というとき 一方では 《[ 人類の一員としての我 ]》どう
しとしては互いにその存在を共通のものとしていると言えると同時に 他
方ではなぜ――だからと言って――それぞれが互換が可能であるかのよう
な見方をしなければならないのか? という疑問がとうぜん起きる。
12. 果たして 命題 C は どういう意味なのか? つまり おのおの
の意志自由は互いに――社会的に相対的に――独立しているはずであり だ
からいわゆる個性があり得ると考えられるとき それらをめぐって 何を言
おうとしていると解釈すべきなのか?
12-1. 人間は 人類として重んじられるが 一人ひとりの存在はど
うでもよいものだ――と極論して受け取らざるを得ないようにも感じるの
ですが 果たして どうなんでしょう?
No.11
- 回答日時:
私は何故私であって、他人ではないのか不思議ですね。
私と他人とでは、同じ様であるが決定的に異なる点があります。私は私であり、私が感じることの出来るのは私の心のみです。私には、他人の心を直接感じることは出来ません。感情移入により、他人の苦しみや喜びを、自分の苦しみや喜びとして間接的に感じることは出来ます。しかし、その時でも、私が感じているのは私の心です。
人は、この宇宙空間に存在し、それぞれ自分の心のみを感じています。それは、宇宙空間を壁で仕切り、その中に一人ずつ閉じ込められている様なものです。隣の部屋に居る人の心は、決して直接見て感じることは出来ません。これを、魂は肉体の監獄に閉じ込められていると表現することもあります。その多数の中で、私は私以外の人ではないことは奇跡です。
しかし、本当に私は私以外の者にはなれないのでしょうか。壁を取り壊し、全ての人を一つの心にする方法は無いのでしょうか。その方法が有れば、私は他人でもあることになります。
人には、右脳と左脳があります。右脳と左脳は脳梁で繋がっており、右脳と左脳は直接データー交換をしています。そして、お互いに他方の脳が感じていることを直接感じています。右脳と左脳とは、それぞれ独立した心を持っていることが知られています。病気に伴う手術により、脳梁の繋がりが無くなった人を調べた結果、右脳と左脳は、それぞれ別個の意思を持っていることが判明しました。
右の目に「貴方は将来何になりたいですか。」と書かれた紙を見せる実験を行いました。その結果、右の目と繋がっている左脳は、「私は、医者になりたい。」と答えました。左の目に、同じ紙を見せると、右脳は「私は、芸術家になりたい。」と答えました。
右脳と左脳とは、別個の意思を持ち、直接対話をしています。お互いの心と心が、一つになっています。まさに、二人で一人の状態です。
病気で片方の脳が無くなっても、心はもう一つあるので無くなることはありません。一つの体に二つの心が入り、終始直接会話をしているので、孤独にも耐えられる仕組みになっています。脳が高度に為る程、孤独には耐えられません。その為に、進化の過程で、二人が一つになる構造を獲得したと考えられます。
人と人とは、直接にデーター交換はせず、言葉やジェスチャーを介して、間接的な会話をしています。従って、他人の心を直接感じることは出来ません。しかし、右脳と左脳とを脳梁が結んでいる様に、人の脳と脳とを直接結んだらどうなるでしょうか。
右脳と左脳の様に、私と他人の心は一つに混ざり合い、私は他人に、他人は私となるはずです。私と他人とを隔てていた壁に穴が開き、他人の心を直接見ることが出来ます。全ての精神は、一つの心となる可能性があります。そして、その方法は、今後数百年掛けて研究すれば、十分に実現可能なものです。
この様に考えると、私が私であることは、特別なことではないと思えます。私は、大きな精神全体の一部です。物質の全体を「宇宙」と呼ぶ様に、精神の全体を「神」と呼ぶべきです。神が宇宙を創造したと考えるのは、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教です。この物質宇宙は、精神により作られたものであるか否か、まだ結論は出ていません。
しかし、仮にこの宇宙を精神が作ったとしても、それが精神の一部であるならば、それは神と呼ぶに相応しくありません。それを含めた精神全体の方が、より「上位」にあり限定されていないからです。
故に、宇宙が存在しているのと同じ確からしさで、神は存在しています。人とは何かを探求するには、脳医学に進むか宗教に進まれては如何でしょうか。
詳細は、下記のホームページを参照下さい。
http://www42.tok2.com/home/catbird/watasihawatas …
ご回答をありがとうございます。
そうですね。つむじ曲がりのわたしですから ふむふむと受け容れっぱ
なしでは通さないことにします。
★ 私は何故私であって、他人ではないのか不思議ですね。
☆ これはですね。その反面では 生き物として同じ種に互いに属して
います。
互いに共通性があるわけですね。
センスス・コムニス(共通感覚)を有している。理性も判断力も総じて
同じハタラキがそなわっています。
ですから 他人は わたしと同類であるという感覚も認識もあるはずで
す。その上で 各自が相対的に――自由意志とその発揮において――異
なる・・・こういう図柄なのでは?
★ 私と他人とでは、同じ様であるが決定的に異なる点があります。私
は私であり、私が感じることの出来るのは私の心のみです。うんぬん。
☆ ですが・そうなのですが 心の作用として感覚も認識も判断も 互
いに共通の要素や要因を持ち得るということも――半ば証明抜きの公理
としてのごとく―― 現実だと見ます。
つまり 《私の心のみ》であることは そうは言いつつも他人〔の心〕
と地続きであるとも見得る。言いかえると ほとんど理解し合えないよ
うな違いも 時には出て来る。
★ それは、宇宙空間を壁で仕切り、その中に一人ずつ閉じ込められて
いる様なものです。
☆ あたかも独房にいる感じであっても 隣の人間の心について推理し
――実際に面と向かっているときなどには 共感し合え―― 《忖度》
することさえあり得ます。
ぎゃくに言い換えると 独房生活のような《孤独》であるゆえにこそ
ひとつにはその孤独の《関係》が――社会的に――成り立っていますし
孤独ゆえにこそ おのおのの意志自由にもとづく生活が意味を持ってく
る。のではないでしょうか?
互いに心が未分化ではおかしいでしょうし まったく隔絶していると言
うのも おかしいでしょう。互いに《孤独》でいいわけです。独立心も
出ます。
ですから そのあとの《私が他人になる。他人が私になる》といったか
たちのご議論内容についても 詳論をはぶくことになりますが どこか
違った感じを抱いてはいます。どうでしょうか?
★ 全ての精神は、一つの心となる可能性があります。
☆ いえ。《心を一つにして事に当たる》と言うように 互いに個別で
あるゆえに 助け合う。のでは?
No.15
- 回答日時:
効果ないです。
質問者はno.4~9の主張を曲解して批判してる。そのことを、わたしはいぢわるですと自己卑下し自己弁護しようとしてる。自身がいぢわるだとわかってるなら踏みとどまって、いぢわるしないように努力してください。自身がいぢわるだと自称したからと言って、相手の方はいぢわるを許容するひつようはありませんが、面倒なので放置という手を取ったようです。no.15はゆるめてくれるという打算をもって自己卑下して自己弁護を目論む質問者の人格の卑しさが不愉快です。ご回答をありがとうございます。
◆(回答№9) ~~~~~~~~~
非知という概念を導入〔し〕 それを手法として用いることによって、
用いない場合よりも格段の考察ができるということであれば、わざわ
ざ非知を否定するつもりはありませんし、また、非知がそういった位
置づけであるなら、おっしゃることも腑に落ちます。
ただ、わたしとしては、その必要を感じませんし(また、そのベクト
ルでしか考えられないので、神に値打ちを付けるためだけの概念にす
ぎないという印象しか持ち得ないわけなのですが)、また、仮に感じ
たとしても、わたしの頭脳では、その非知を使いこなす能力はおそら
くないように思います。
そんなわけで、色々、興味深いお話をうかがわせていただいたことに
感謝しつつ、今回はこの辺で手仕舞いとさせていただくほうがよさそ
うです。
根本が異なるので、おそらく、どこまで行っても平行線を辿るだけで
しょうから。
~~~~~~~~~~~~~
☆ 《お互いの見解には相違がある。けれどもそれを互いにみとめあ
いつつ また留保しつつ ひとまづこのへんで お休みとしましょう》
ということでした。
そのことに異論があるとしたら その中身を述べてください。
★ 質問者はno.4~9の主張を曲解して批判してる。
☆ どう《曲解して》いるのかを明らかにしてください。
ご本人は 互いに誤解や曲解のおそれは無くなったようだ しかし相
違がのこっている だからひとまづ議論は預かりとしましょう・・・
ということです。
あなたは そうぢゃない わたし(ぶらじぇろーぬ)に曲解があると
言う。それを具体的に示してください。
No.16
- 回答日時:
元々の論理が、別の意味に変換されているような気がします。
ある集合Sの要素=eiが、特定の法則により生成される(A)
ei∈Sである(B)
これから、ei∈S、ej∈Sは言えますが、ei=ejは言えません。(i、jは任意)
(A)は、生成原因を述べているだけで、その言説は(B)とは、トートロジーです。
したがって、ei∈Sは成立するでしょう。
(C)は、その意味において、解釈が異なってしまいます。
ei=ejは、(A)、(C)からは、言えません。
したがって、それぞれは、集合Sの要素だと言っているだけと解釈されるべきです。
つまり、(A)、(B)、(C)は、ei∈Sのトートロジーであって、それ以外は、何も述べていないんです。
ならば、そこから何が言えるかと言うだけの事ですよ。
つまり、人類の一員ならば、どうなるかと言うだけの事です。
生成原因は、この場合は必要な事ではありません。
必要なのは、同じ集合の要素だと言う事だけです。
余分な説明は不要です。
ただし、現実の個人は、Sの部分集合である、Siに所属しています。
Siと、Sjは、利害が衝突する場合に紛争が起きるわけです。
ここで、SiとSjは、Sの要素だから、紛争をやめろと言う論理が成り立つかどうかと言う事です。
論理的には、生成原因から見れば、個々の要素は、どうでも良いと言うか、区別してはいないかもしれません。
だから、その要素同士も区別しなくて良いと言う論理が成り立つかどうかなんでしょうね。
言ってることは、「人類みな兄弟」とか、「人類平等」なんでしょうから、その理由を生成原因に置くならば、生成原因を単一とする宗教となんら変わりは無いと思います。
ご回答をありがとうございます。
★ 生成原因
☆ については 微妙ですね。
つまり 非知なるナゾが起因となったというのなら まだその非知は
経験世界とそのまま隔たりを保っています。
摂理やあるいはモノゴトをバランスさせるチカラによって生まれたと
いう場合には 経験的なチカラが―― まだ知られていないとしても
――くわわっていると言っています。
つまり 非知なるナゾが――ナゾ自体は 非知にとどまるにせよ――
経験事象とあたかもつながっていると見てもいます。
ここだと思います。ひとつの問題点は。ええ。むしろ この点はなお
ざりにしてはいけないのだとわたしは 思うんです。
あとは 明確に分かったとは言えないにしても おっしゃるようなと
ころなのではないか。とは思います。
まだ 命題が完成していないですよね。
No.17
- 回答日時:
#16さんのご回答と、それに対するお礼を拝見して、再度おじゃまいたします。
A. lupan344さんへ
>論理的には、生成原因から見れば、個々の要素は、どうでも良いと言うか、区別してはいないかもしれません。
だから、その要素同士も区別しなくて良いと言う論理が成り立つかどうかなんでしょうね。
言ってることは、「人類みな兄弟」とか、「人類平等」なんでしょうから、その理由を生成原因に置くならば、生成原因を単一とする宗教となんら変わりは無いと思います。
:
いや、このように、ある程度正確にご理解いただけて光栄の至りです。
基本的には、そういった意図があります。
ただ、いくつかご理解いただいてないと思われるのは、「人類みな兄弟」とか、「人類平等」の理由を生成原因としているわけではないという点です。
先の回答欄でも何度か申し上げた「きれいごと」というのは、まさに、おっしゃるところの「人類みな兄弟」とか、「人類平等」などを指しています。
これらが「きれいごと」でしかないのは、兄弟であったり平等であったりする必然的、且つ妥当な根拠とでもいったものが示されていないように思われるからです。
わたしとしては、(A)(B)で、その(必然的、且つ妥当な)根拠を示すことができたと思っています。
(C)の結論だけから(と言わざるを得ません)『なんら変わりは無い』とおっしゃるのは短絡の謗りを免れないのではないかと思う次第。
直前の、
『論理的には、生成原因から見れば、個々の要素は、どうでも良いと言うか、区別してはいないかもしれません。
だから、その要素同士も区別しなくて良いと言う論理が成り立つかどうかなんでしょうね。』という箇所が要点を正確に浮き彫りになさっているだけに、画竜点睛を欠くといった風情のご投稿かと。
まあ、瑣末なことに拘っていても意味がありませんので、お示しいただいたこの要点について、若干述べさせていただきます。
『生成原因から見れば、個々の要素は、どうでも良いと言うか、区別してはいないかもしれません。』ではなく、「区別してはいない」と捉えるのが妥当だとわたしは思います。
なぜなら、生成原因に意志は無い、と考えるからです。
「ある(または、あるかもしれない)」と考える人は、神(の意志)を無条件で信じている人だけでしょう。
しかし、神を信じる信じないは個人の自由なので、その場合は、見解の相違ということで、それ以上語る必要はまったく無くなります。
『だから、その要素同士も区別しなくて良いと言う論理が成り立つかどうか』についても同様でして、あくまで、「その要素同士も区別されているはずがない」ということを、論理的事実として(納得できる根拠と共に)認識すること自体が重要ではないか、ということ。
極論としては、『SiとSjは、Sの要素だから、紛争をやめろ』と言いたいわけですが、ただ言うだけではほとんど効果は無いと思うのです。
また、Sの要素だからといっても、iとjが異なる要素であることに変わりはないわけで、利害が完全に一致するはずもなく、紋切り型でこのように言うことに何ら意味はない。
しかし、我々は、違う要素だけに着目しすぎる傾向がありませんかね。Sという共通要素を併せ持っていることは忘れがちでしょう。
この点を認識しておくことは重要ではないでしょうか。むろん、くどいようですが、納得できる根拠が伴なっている必要がありますし、それを(A)特に(B)でお示しした格好になっているかと思います。
なので、「その要素同士も区別されているはずがない」は本質的に間違っていないでしょう。
ただ、『アメリカとISは、Sの要素だから、紛争をやめろ』と言っているわけではない。
それは、この命題を個々人が、どのように咀嚼して言動として顕現していくかに掛かっていくはずです。
B. bragelloneさんへ
>★ 生成原因
☆ については 微妙ですね。
つまり 非知なるナゾが起因となったというのなら まだその非知は
経験世界とそのまま隔たりを保っています。
摂理やあるいはモノゴトをバランスさせるチカラによって生まれたと
いう場合には 経験的なチカラが―― まだ知られていないとしても
――くわわっていると言っています。
つまり 非知なるナゾが――ナゾ自体は 非知にとどまるにせよ――
経験事象とあたかもつながっていると見てもいます。
ここだと思います。ひとつの問題点は。ええ。むしろ この点はなお
ざりにしてはいけないのだとわたしは 思うんです。
:
これは、むしろ見解の相違ということになってしまうと思いますね。
前回も申し上げましたように、私は「非知」という概念に、その必要性を感じません。
上記文章の「非知」は、私としては「不可知」と置き換え可能なことも申し上げているはず。
「不可知」と言う以上、「何らかのモノゴト」を前提にした上で「知ることができない」と言っているわけで、
『つまり 非知なるナゾが――ナゾ自体は 非知にとどまるにせよ――
経験事象とあたかもつながっていると見てもいます。』
というような展開にはならない。
「不可知」の内容はナゾかもしれないが、不可知と認識される対象自体はナゾでも何でもない、ということ。
「神は非知」の場合、「知に非ず」と言いながらすでに「神」という認識について述べていることになるではないだろうか。
ここに大きな、そして本質的な矛盾が生じているだろう、ということでもあります。
前回は、非知は手法とおっしゃるので、それはご自由に、と申し上げました。
しかし、それをもって、『まだ 命題が完成していないですよね。』とつぶやける根拠とするには、いかにもご都合主義と言わざるを得ない、といった印象を受けますね。
よく飲み込めないので パスします。――というのが ほんとうの
ところです。
ご回答をありがとうございます。
それはそれとしても言えることは こうです。
不可知について あなたの定義は まだ聞いていませんよね。
わたしの場合は ただ《知り得ない》のではなく 《知り得ないと
証明された》場合のみを言います。
よかったら お知らせください。
なお 《知り得ないと知り得た》ということですから この不可知
は――《知り得た》という部分において――経験事象です。つまり
わたしが 非知とよぶ非経験の場ではないということにはなります。
非知は 知に非ずという表現ですが きちんと定義はしていますの
で その点についても いま――はっきりしないながら――お伝え
し得ると思います。
時間をさらに置いてからでもいいと思います。
No.18
- 回答日時:
#17です。
>よく飲み込めないので パスします。――というのが ほんとうの
ところです。
:
意外でした。
>不可知について あなたの定義は まだ聞いていませんよね。
わたしの場合は ただ《知り得ない》のではなく 《知り得ないと
証明された》場合のみを言います。
よかったら お知らせください。
:
人知では知ることができないこと。
https://dictionary.goo.ne.jp/jn/191172/meaning/m …
という意味で使っています。
むろん、「人知では知ることができないこと」だと人間が認識すること、という意味になるのは当然ですが。
>ただ《知り得ない》
:
という意味で使っていることになると思いますが、それにしても、
> 《知り得ないと証明された》場合のみ
:
と限定する意味がよくわかりません。
(揚げ足を取るつもりは全く無く純粋に疑問に思うのですが)
《不可知だと証明された場合のみ不可知》とおっしゃっていることにならないでしょうか。
それはさておくとしても、これは、
【《知り得ないと証明された》と人間が認識した場合】のみ不可知と呼ぶ、と言っていることにならざるを得ないわけで、【《知り得ない》と人間が認識した場合】を不可知と呼ぶ、ということと特に違いはないでしょう。
ご回答をありがとうございます。
ご説明をありがとうございます。
▼ (goo 辞書:不可知) ~~~~~~~~
▽13. 人知では知ることができないこと。また、そのさま。
▽ ふかちろん【不可知論】《agnosticism》
14. 哲学で、経験や現象とその背後にある超経験的なものや本
体的なものとを区別し、後者の存在は認めるが認識は不可能とする
説。
また、後者の存在そのものも不確実とする説。
★ ~~~~~~~~~~~
15. 「人知では知ることができないこと」だと人間が認識する
こと
~~~~~~~~~~~
☆ 16. 《神――〈超経験的なもの〉ですね――をおれは見た
んだ。知ったんだ》と誰かが言った場合 どう取り扱いますか?
17. 《知り得ない。つまり不可知》だから ウソだ。あり得な
い。と応えるのか?
18. その人が 神が不可知だというのは誰が決めたんだ? ど
うやって証明して 不可知なのは確かだと言えるのか? と問い返
して来たら?
19. 未知であることについて ただ――理由もなく――知り得
ないと誰々はその主観として認識したというに過ぎないのに それ
を不可知と言いかえているだけではないのか? と。
20. (13)や(14)のような《定説》が出回っているから
厄介なんです。
★ 「人知では知ることができないこと」だと人間が〔――自由に
好き勝手にそう認識したらそうなるというふうにして――〕認識す
る
☆ というのでしょうか? そう言っていますよね?
No.19
- 回答日時:
お礼ありがとうございます。
前回の回答では、生成原因については、特に問題としない形です。(そこに関しては、特に何かを言えるアプリオリな概念は無いと言う事です)
強いて言えば、原因があるとすればと言う形で、論理をトレースした形です。
(A)が最初の命題なわけですが、この内容は、検証しようが無いので、とりあえず、これは真と考えて、(B)、(C)をトレースしたわけです。
(B)は、生成原因により人類が生まれたとして、生成原因にとっては、人類の個々を配慮する理由が無いと述べているわけですから、単純に個々は、人類の一部だと言う意味しかないと言う事でしょう。 つまり、ei∈S(ei:個々の人類、S:人類全体の集合)を言っているだけです。(ここでは、生成原因の視点から見ている事に注意が必要です)
あえて、生成原因をGと言う記号にすれば、G→ei∈Sとなります。
(C)は難しいです。 ここで、視点をeiに移せば、ei→(ei=ej)∈Sとなりますが、これが成り立つかどうかはわかりません。
生成原因からは、G→ei∈Sが継続するだけです。(eiとejを入れ替える必要もありません)
G自体をアプリオリに認識出来ないので、「個々の人類を区別していないかもしれない」と言う表現にしたわけです。
「摂理」と言う言葉は、元々キリスト教の用語で、「神」の御業などの意味ですね。
科学者などが、絶対的な法則として、キリスト教の用語の「摂理」を使う場合もあるようです。
つまり、元々は、「摂理」には、行為者が存在するのですが、それがわからなくても、そのように認識されれば、使用する事は可能でしょう。
「摂理」には、言葉としては、意志が含まれるのですが、意志が無いとされているのならば、区別はしないと言うか、出来ないでしょう。
この場合は、生成物全てが区別されなくなると考えた方が妥当だと思います。
実を言えば、この視点で考えれば、「私は豚であったかもしれない」と言う論理も成り立つのですが、それでは後の論理が成り立たないので、これに関しては、特に言う事はありません。(一応、生物の種ごとの問題と言う事なんでしょう)
(A)→(B)→(C)では、視点が変わった論理が混合されています。
これが、全て生成原因の視点であれば、成り立ちそうな感じはします。
これが、「その理由を生成原因に置く」の意味です。
生成物の視点で、これが成り立つかを考える必要があると思います。
その場合は、「我々は、人類として同一の種である」(A)→「我々の個々は、人類として平等である」(B)→「したがって、個々の生存に関わる利害が生じない限り、無駄な争いはしなくて良い」(C)でかまわない気がします。
これは、現在の世界の状況を表しているだけですよ。(特に生成原因を考えなくても、成り立つでしょう)
紛争の正当性を紛争当事者が生成原因から選民されたなどとしている場合もあるかもしれませんが、それは本質では無いでしょう。
もし、個々の生存に関わる利害が無い紛争が生じているとしたら、解決するのはそれほど困難では無いと思います。
問題なのは、個々の生存に関わる利害は、必ず存在すると言う事ですよ。
これを解決するには、どうするかを考える必要はあると思います。
ただ、それは、哲学だけでは、解決出来ないでしょう。(哲学だけでは、飢えをしのぐことは困難だからです)
ご回答をありがとうございます。
★ 生成原因については、[・・・]強いて言えば、原因があるとすれば
と言う形で、論理をトレースした形です。
☆ こちらもそれと違ったことを言おうとしたわけではないのですが
字面はかなり異なっています。
原因――つまり因果関係――としては ほんとうには見ていません。で
も 絶対と相対存在とのカカハリとしては 前者から後者への何らかの
方向づけにおいて 捉えることが成り立つかと思われます。
そういう視点でのいくらかの問題点とわたしが捉えることについて触れ
ました。
★ (C)は難しいです。ここで、視点をeiに移せば、ei→(ei=ej)∈ S
となりますが、これが成り立つかどうかはわかりません。
☆ わたしが対話に応じたのは その話において一筋の(部分的な)流
れとしては成り立つと見なしてのことでした。
個々の人間が互いにヒトなる種を形成し共通性を持つという理由でです。
★ G自体をアプリオリに認識出来ないので
☆ これは 想定でよいと思いますよ。仮説法は便利だと思います。
★ 「摂理」には、[・・・]意志が無いとされているのならば、区別は
しないと言うか、出来ないでしょう。
☆ ええっとですね。《あらゆる事象をバランスさせる力》( A )だ
とすると――わたしの《忖度》では――《バランス》という表現に《良
し悪し》の感覚や判断がかかわっているのではないかと見ます。つまり
《意志》があると見なして差し支えないように思います。
ですから 基本的に(生まれつきの存在として) 良し悪しを知るとい
うこと・その意味で存在どうしを《区別する》ということがあり ただ
しそれでも その同じ自然本性について言って ヒトなる存在は互いに
《掛け替えが あ る》と言おうとしているのだと思います。命題 C で
すね。
自然本性が 互いに共通なんだからという理由でしょう。すなわち:
★ (A)→(B)→(C) [・・・]が、全て生成原因の視点であれば、成り立
ちそうな感じはします。
☆ わたしの反論は 人は自由意志とその発揮をとおして個性を形成す
る。しかも 意志自由は 生まれつきの自然本性である。よって 人が
互いに存在の共通性を持つとしても 自由意志のハタラキによって一人
ひとりが《掛け替えの な い 存在》たり得ている。です。
No.20
- 回答日時:
お礼ありがとうございます。
「バランス」については、確かに解釈が難しいです。(どうも、御本人は「摂理」が成り立つ事を「バランス」と呼んでいるような感じがします)
「バランス」とは、何らかの調整が法則に加えられているような感覚になります。(だから「摂理」なんでしょう)
ただ、御本人が意志(意思)が無いとおっしゃられているので、そのように定義されたと言う事でしか無いでしょう。(それなら、法則で良いような気もします)
ただし、(C)の根拠として、「摂理」が必要なようなので、そこには「摂理」を決める意志(意思)がありそうな感じはします。(どうも、生成原因としての「存在」がある事は前提のようですね)
個人的には、別に(A)、(B)、(C)は、無くても、その後で述べたい事は説明可能な気がします。
後半は、hakobuluさんへの補足のつもりでしたが、お答えくださってありがとうございます。
★ (どうも、生成原因としての「存在」がある事は前提のようですね)
☆ とどのつまりは そういうことではないか。と確かに思うんです。
ご回答をありがとうございます。
あらためて かなり重要点として整理できたのではないかと思います。
★ 個人的には、別に(A)、(B)、(C)は、無くても、その後で述べたい
事は説明可能な気がします。
☆ と言ってしまうのは 身も蓋もなくなりかけますが。
あと けっきょく人間は 《掛け替え》のある存在なのか? 無い存在
なのか? に収れんすると思います。
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つづき。
命題 Aにおける《摂理》をめぐって それは経験事象に片足を入れている。
それゆえにも:
★★ (=あらゆる事象をバランスさせる力)
☆ といった説明が添えられています。つまり 《事象;バランスさせる》
というのは あくまで経験世界におけるものごとです。
つまり――《人智の及ばぬ》とはありますが・ですからこれは 非知では
なくむしろ不可知のものではないかと推測されますが その――《経験的
な力に起因して われわれは生まれた》と言っていることになるのでは?
だとすれば これは まづい。でしょうね。《非知なるナゾ》のままにし
ておくのが ひとつの手でしょう。派生的な見方として 摂理を持ち出す。
か?
でも 摂理は 扱いがやっかいです。世の中には どこにでも《自然本性
から外れた思いや考えも そしてその行動もが起きている》からです。思
案のしどころではないでしょうか。
生成原因ないし要するに神に《意志》はあるか?
神とわれとのタテの関係――非思考の庭なる動態――では 神に意志がある
と見ることは 自由。無いと見るのももちろん自由です。
われと他のわれとのヨコの関係――思考の緑野&感性の原野――では 神な
いしその信仰は 直接にカカハリを持ちません。
ヨコの関係において神について話をしてもよいでしょうが それは基本的に
神についての感想やまた思想としてのお話です。神論や信仰論〔ましてや宗
教〕と 神や信仰とは 別です。
つまり 人間どうしのヨコの関係では 神に意志があるとたとえ主観が見て
いるとしても その神の意志は お呼びではないとなります。
フクシマは 神罰だといった物語にしかなりません。
神はわが人生の節々でその事態やそれにかかわるわれ自身をバランスさせて
くれていると 非思考の庭なる主観において思っていても 自由でしょうね。
神は――非知かどうかを問う前に――あくまで超経験・超自然です。
つまり もうそれだけでも 既知ではない。未知だと思っても 人智を超えて
いるからには 可知ではないと知られます。
では 不可知かと言うと 不可知だと証明されてはいないだけではなく 超経
験で人智を超えているからには 不可知だと証明される気遣いはないとなりま
す。これが 非知です。
○ 世界についての人間の認識のあり方 ~~~
経験事象について:
可知(知り得ると人は思っている)
既知(間違いだったと分かることもある)
未知(いづれ既知になるであろうと推察されている)
不可知(未知でしかも知り得ないと証明し得たものごと)
非経験の場を想定して:
非知(知り得るか知り得ないかが知り得ないナゾ)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
○ カミ(普遍神)とわれ
【?(非知)】:非経験の場(絶対):カミ〔有る神(梵・仏・霊);無い神(無梵)〕
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
【われ】:経験存在(相対):カミの分有(霊我・仏性・霊我;無我)
☆ カミの分有は 次のごとく 思考や感覚ではなく 非思考の庭なる信仰において
――自然本性にあってすでに――成ると想定。
○ われ
【信じる】:非思考の庭:梵我一如(仏仏一如・霊霊一如;無梵無我一如)
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
【考える】:思考の緑野:ここに 思想とすでに成った宗教のオシヘが入る
【感じる】:感性の原野:ヒラメキ(まぼろし?)
摂理というのは 次のごとく《神とわれとのタテの関係(つまり信仰)》から派生
した視点であり そこから導き出されたあとは 経験的な思考形式と成っている。
摂理の内容として たとえば善因善果・悪因悪果のごとく因果応報説にまで概念化
しているならそれは すでにヨコの関係にあって ふつうに思想の問題である。つ
まり 神をあつかっているが 神からは離れている。思考なのだから。
○ 摂理とは:
神 神 神
| | | タテ
(非思考) (非思考) (非思考): の :(信仰)
| | | 関係
| | |
われー(思考・感覚)ーなんぢー(思考・感覚)ーかれ : ヨコの関係:(オシヘ・摂理)
神は:
★ 「既知となるか未知となるか知り得ないと思う」という思考(認識)を
する立場
☆ は 《神は 超経験だ》という常識にどのような根拠でさからうのか?
を明らかにして欲しいと思います。
初めに《非知》なら 可知(既知&未知)や不可知とはその初めから なじ
みません。
という手法です。
神は 既知だ(既知となりうる)や 未知だや あるいはそちらの定義では
未知と同じ内容となる不可知だといった判断は いったいどこから出て来る
のか? 不思議でなりません。
超経験だという前提を外していますし もしそれを問わないとしても 神が
既知だという人が 一般にその言っていることがみとめられたことはあるの
でしょうか?
いままでありえなかったことを どうしていま持ち出して来るのですか?
りゅぱんさん できましたら お願いがあります。
【Q:屁理屈と詭弁】
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/9732494.html
この質問への回答№20と№23とのやり取りについて どう思われますか?
非知をめぐっての議論です。
じつは そのあとわたしが応答する番なのですが 質問者からブロックされて
しまいました。
何かりゅぱんさんにも 言うことがあるとお思いでしたら そうなさってくだ
さいませんか?
☆☆(上記質問への回答№20=ぶらじぇろーぬ) ~~~~
水は 経験事象であり 水に溶けることも 同じくです。いまの仮定における
地の塩は 経験事象を超えているという想定です。
ですから 《霊なる人間が 水に溶ける》かどうかは どこかで推論や前提を
間違えたといった問題にはかかわりがないのです。
~~~~~
☆ ここが鍵であると思います。すみません。
(エ)★ 《不可知》というものは、《不可知と思う》のように定義せざる
を得ない、というのは論理的に真だと思っています
☆ でも この不可知という用語を当てているその対象は 大元のナゾなん
です。
《宇宙が存在する意味》つまり要するに神のことです。神は 不可知であり
それは 《不可知と思う》ということなんだと。
ところが この《宇宙が存在する》なるその意味つまり神は 《人智の及ば
ぬナゾ》なんです。
人智の及ばぬものについて どうして《・・・と思う》ということが当ては
まるのでしょう?
不可知の定義で 互いにどうしても違いが出るということ。これの
原因が分かりました。
経験事象と超経験とを区別することは おおむね成されていると思う
のですが どうもこれら二つの領域が連続している・・・とそちらで
は捉えられているのではないだろうか。ここです。
まづ 両者には絶対のへだたりがあります。
次に――人間の思わくとしてながら―― 絶対なる非経験の場は 経
験世界を覆い包むと見られる。・・・ここから連続性があると思われ
て来る。
連続性は基本としてありません。地続きではありません。
あると見えるのは 人間の思わくです。哲学としての神論ではなく
神観として広く人生観を成すような要素に成っているのかも分かりま
せん。神への甘えです。
摂理や自然法は 神から――人間が忖度して――派生させて得る経験
知であり 経験世界の側から神に投影するものではないわけです。
次のくだりをおぎないます。:
☆☆(№73お礼欄) ~~~~
br-1: その〔《非経験の場なるナゾ》たる絶対から 相対世界へと何らかの
ハタラキカケがあるという〕場合には・ただし このハタラキカケが具体的に
どういうふうにおこなわれるのか。これは 分からないとなります。
~~~~~~
☆ これは モノ(質料)の自己運動にまかせている。
時空間なる場――宇宙の全体――の《自主的な?》ウゴキにゆだねている。
言いかえると 摂理としての法則性がある場合とそれが分からない場合とがあ
る・・・というズルイ見方です。