1. 或る回答を引用して 問うものです。規約違反であれば したがい
ます。

2. 前々から分からなかったのですが ひとまとまりの説明を得ました。
なお分からないのですが 疑問を呈して問い求めをすすめ得ればと考えま
す。


◆ 《彼は我であったかもしれず、我が彼であったかもしれない》~~~

3. 我々の身体は原子からできているし、宇宙はブラックホールにより
誕生したのかもしれない。

4. しかし、その原子やブラックホールが何からできているのかは永遠
に不可知だろうと思います。

5. むろん、どちらも、その大元を辿れば1次元の拡がりをもつ弦( 超
弦)であると推測されるところまで来ているようですが、では、その超弦
は何からできているのか、ということになるでしょう。

6. つまり、理由が分かったとしても、その理由に対する理由が永遠に
付きまとうわけなので、永遠に不可知と言わざるを得ません。

7. よって、

  「人智の及ばぬ自然宇宙の絶対的摂理(=あらゆる事象をバランスさ
  せる力)に起因して我々は生まれた。( A )」

を定理として認めざるを得ない。

8. この場合、

  「我々は [ 人類の一員としての我 ] でありさえすれば摂理の要件を満
  たすに十分なのであって、 [ 自我としてのこの我 ] が存在しなければ
  ならない必然性は(摂理にとって)皆無である( B )」

7. よって、

  「彼は我であったかもしれず、我が彼であったかもしれない( C )」

という命題が結論として導き出される。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

8. まづ用語です。
《不可知》は 質問者としては 《知り得ないと証明されたものごと》と
定義しますが どうもここでは 《知り得るか知り得ないかが知り得ない
ナゾ》としての非知のことを指して言っているように思われます。
その点 どうなんでしょう?

9. 《大元の大元》としてここでは《ナゾ》という言葉で統一したいと
思うのですが (7)なる命題(つまり A )は 次のようにみちびかれ
ているのでしょうか?

9-1.(編集版A‐1) ナゾはナゾであり続けるゆえ それを《人智の
及ばぬ自然宇宙の絶対的摂理(=あらゆる事象をバランスさせる力)》と
呼び 同じくそのように説明する。

9-2.(編集版A‐2) われわれは ナゾによって・絶対的摂理によっ
て・あらゆる事象をバランスさせる力によって生まれた。

10. (8)の B なる命題について:

10-1. 《摂理の要件を満たす》とは どういうことか? すでにこ
の摂理によってわれわれは生まれて来ているのではないか? すなわち生
まれて来たときに 《[ 人類の一員としての我 ] でありさえ》しているの
ではないか?

10-2. 《 [ 自我としてのこの我 ]》が分からない。《[ 人類の一員
としての我 ]》と《自我としてのこの我》とは 別なのか? 別だとすれ
ば 《自我》について説明が欲しい。

11. (7)の C なる命題において 《我 や 彼》は どうなのか?
つまり おのおのが《[ 人類の一員としての我 ]》であるその人間のこと
か?

11-1. もしそうだとすると この命題で《彼は我であったかもしれ
ず うんぬん》というとき 一方では 《[ 人類の一員としての我 ]》どう
しとしては互いにその存在を共通のものとしていると言えると同時に 他
方ではなぜ――だからと言って――それぞれが互換が可能であるかのよう
な見方をしなければならないのか? という疑問がとうぜん起きる。

12. 果たして 命題 C は どういう意味なのか? つまり おのおの
の意志自由は互いに――社会的に相対的に――独立しているはずであり だ
からいわゆる個性があり得ると考えられるとき それらをめぐって 何を言
おうとしていると解釈すべきなのか? 

12-1. 人間は 人類として重んじられるが 一人ひとりの存在はど
うでもよいものだ――と極論して受け取らざるを得ないようにも感じるの
ですが 果たして どうなんでしょう?

質問者からの補足コメント

  • つづき。

    命題 Aにおける《摂理》をめぐって それは経験事象に片足を入れている。
    それゆえにも:
    ★★ (=あらゆる事象をバランスさせる力)
    ☆ といった説明が添えられています。つまり 《事象;バランスさせる》
    というのは あくまで経験世界におけるものごとです。

    つまり――《人智の及ばぬ》とはありますが・ですからこれは 非知では
    なくむしろ不可知のものではないかと推測されますが その――《経験的
    な力に起因して われわれは生まれた》と言っていることになるのでは?

    だとすれば これは まづい。でしょうね。《非知なるナゾ》のままにし
    ておくのが ひとつの手でしょう。派生的な見方として 摂理を持ち出す。
    か?

    でも 摂理は 扱いがやっかいです。世の中には どこにでも《自然本性
    から外れた思いや考えも そしてその行動もが起きている》からです。思
    案のしどころではないでしょうか。

    No.6の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2017/04/18 16:56
  • 生成原因ないし要するに神に《意志》はあるか?

    神とわれとのタテの関係――非思考の庭なる動態――では 神に意志がある
    と見ることは 自由。無いと見るのももちろん自由です。

    われと他のわれとのヨコの関係――思考の緑野&感性の原野――では 神な
    いしその信仰は 直接にカカハリを持ちません。

    ヨコの関係において神について話をしてもよいでしょうが それは基本的に
    神についての感想やまた思想としてのお話です。神論や信仰論〔ましてや宗
    教〕と 神や信仰とは 別です。

    つまり 人間どうしのヨコの関係では 神に意志があるとたとえ主観が見て
    いるとしても その神の意志は お呼びではないとなります。

    フクシマは 神罰だといった物語にしかなりません。

    神はわが人生の節々でその事態やそれにかかわるわれ自身をバランスさせて
    くれていると 非思考の庭なる主観において思っていても 自由でしょうね。

    No.20の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2017/04/24 09:30
  • 神は――非知かどうかを問う前に――あくまで超経験・超自然です。

    つまり もうそれだけでも 既知ではない。未知だと思っても 人智を超えて
    いるからには 可知ではないと知られます。

    では 不可知かと言うと 不可知だと証明されてはいないだけではなく 超経
    験で人智を超えているからには 不可知だと証明される気遣いはないとなりま
    す。これが 非知です。

    ○ 世界についての人間の認識のあり方 ~~~

      経験事象について:
         
        可知(知り得ると人は思っている)
          既知(間違いだったと分かることもある)
          未知(いづれ既知になるであろうと推察されている)

        不可知(未知でしかも知り得ないと証明し得たものごと)

      非経験の場を想定して:
         
        非知(知り得るか知り得ないかが知り得ないナゾ)

    ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

      補足日時:2017/04/25 21:31
  • ○ カミ(普遍神)とわれ 

    【?(非知)】:非経験の場(絶対):カミ〔有る神(梵・仏・霊);無い神(無梵)〕
    ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
    【われ】:経験存在(相対):カミの分有(霊我・仏性・霊我;無我)



    ☆ カミの分有は 次のごとく 思考や感覚ではなく 非思考の庭なる信仰において
    ――自然本性にあってすでに――成ると想定。



    ○ われ 

    【信じる】:非思考の庭:梵我一如(仏仏一如・霊霊一如;無梵無我一如)
    ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
    【考える】:思考の緑野:ここに 思想とすでに成った宗教のオシヘが入る
    【感じる】:感性の原野:ヒラメキ(まぼろし?)

      補足日時:2017/04/25 21:44
  • 摂理というのは 次のごとく《神とわれとのタテの関係(つまり信仰)》から派生
    した視点であり そこから導き出されたあとは 経験的な思考形式と成っている。

    摂理の内容として たとえば善因善果・悪因悪果のごとく因果応報説にまで概念化
    しているならそれは すでにヨコの関係にあって ふつうに思想の問題である。つ
    まり 神をあつかっているが 神からは離れている。思考なのだから。

    ○ 摂理とは:

      神          神          神
      |          |          |     タテ
     (非思考)      (非思考)      (非思考): の   :(信仰)
      |          |          |     関係
      |          |          |
     われー(思考・感覚)ーなんぢー(思考・感覚)ーかれ : ヨコの関係:(オシヘ・摂理)

      補足日時:2017/04/25 21:53
  • 神は:
    ★ 「既知となるか未知となるか知り得ないと思う」という思考(認識)を
    する立場
    ☆ は 《神は 超経験だ》という常識にどのような根拠でさからうのか?
    を明らかにして欲しいと思います。

    初めに《非知》なら 可知(既知&未知)や不可知とはその初めから なじ
    みません。

    という手法です。

    神は 既知だ(既知となりうる)や 未知だや あるいはそちらの定義では
    未知と同じ内容となる不可知だといった判断は いったいどこから出て来る
    のか? 不思議でなりません。

    超経験だという前提を外していますし もしそれを問わないとしても 神が
    既知だという人が 一般にその言っていることがみとめられたことはあるの
    でしょうか?

    いままでありえなかったことを どうしていま持ち出して来るのですか?

    No.36の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2017/04/26 18:56
  • りゅぱんさん できましたら お願いがあります。

    【Q:屁理屈と詭弁】
    https://oshiete.goo.ne.jp/qa/9732494.html

    この質問への回答№20と№23とのやり取りについて どう思われますか?

    非知をめぐっての議論です。

    じつは そのあとわたしが応答する番なのですが 質問者からブロックされて
    しまいました。

    何かりゅぱんさんにも 言うことがあるとお思いでしたら そうなさってくだ
    さいませんか?

    ☆☆(上記質問への回答№20=ぶらじぇろーぬ) ~~~~
    水は 経験事象であり 水に溶けることも 同じくです。いまの仮定における
    地の塩は 経験事象を超えているという想定です。

    ですから 《霊なる人間が 水に溶ける》かどうかは どこかで推論や前提を
    間違えたといった問題にはかかわりがないのです。
    ~~~~~
    ☆ ここが鍵であると思います。すみません。

    No.49の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2017/04/29 05:50
  • (エ)★ 《不可知》というものは、《不可知と思う》のように定義せざる
    を得ない、というのは論理的に真だと思っています
    ☆ でも この不可知という用語を当てているその対象は 大元のナゾなん
    です。

    《宇宙が存在する意味》つまり要するに神のことです。神は 不可知であり
    それは 《不可知と思う》ということなんだと。

    ところが この《宇宙が存在する》なるその意味つまり神は 《人智の及ば
    ぬナゾ》なんです。

    人智の及ばぬものについて どうして《・・・と思う》ということが当ては
    まるのでしょう?

    No.65の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2017/04/30 19:13
  • 不可知の定義で 互いにどうしても違いが出るということ。これの
    原因が分かりました。

    経験事象と超経験とを区別することは おおむね成されていると思う
    のですが どうもこれら二つの領域が連続している・・・とそちらで
    は捉えられているのではないだろうか。ここです。

    まづ 両者には絶対のへだたりがあります。

    次に――人間の思わくとしてながら―― 絶対なる非経験の場は 経
    験世界を覆い包むと見られる。・・・ここから連続性があると思われ
    て来る。

    連続性は基本としてありません。地続きではありません。

    あると見えるのは 人間の思わくです。哲学としての神論ではなく 
    神観として広く人生観を成すような要素に成っているのかも分かりま
    せん。神への甘えです。

    摂理や自然法は 神から――人間が忖度して――派生させて得る経験
    知であり 経験世界の側から神に投影するものではないわけです。

      補足日時:2017/05/01 08:22
  • 次のくだりをおぎないます。:

    ☆☆(№73お礼欄) ~~~~
    br-1: その〔《非経験の場なるナゾ》たる絶対から 相対世界へと何らかの
    ハタラキカケがあるという〕場合には・ただし このハタラキカケが具体的に
    どういうふうにおこなわれるのか。これは 分からないとなります。
    ~~~~~~
    ☆ これは モノ(質料)の自己運動にまかせている。

    時空間なる場――宇宙の全体――の《自主的な?》ウゴキにゆだねている。

    言いかえると 摂理としての法則性がある場合とそれが分からない場合とがあ
    る・・・というズルイ見方です。

      補足日時:2017/05/03 11:04

このQ&Aに関連する最新のQ&A

A 回答 (84件中11~20件)

#74です。



分割のおまけ。
他の方用に使っていただいても構いません。
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#73です。



分割を忘れていましたので。
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この回答へのお礼

№73お礼欄からのつづきです。

(イ)
ここは 非思考か思考の停止かをめぐっての《連続・非連続》の問題ではな
いかと。

★ 「思考の停止」を否定する必要はないという気もするのですけどね。
☆ これはですね。前回はまづい表現をしたかも知れません。そうではなく 
ずばり:

タテの関係:〔非連続ならば〕非思考;〔連続ならば〕思考の停止〔と見る〕
ヨコの関係:〔連続・非連続を問わず〕 思考および感性(=共通了解)

という図式になるのではないでしょうか?

★ その場合、(本来の)信仰が思考停止であるとして、それは、むしろ
bragelloneさんにとっても本意ではないか、という印象も受けるのですが、
☆ 《本意》はですね。 非思考ならば 思考を停止・休止するか継続する
かとは 別のカテゴリにあると思うんです。思考は あくまでヨコの関係に
おいての意志行為ですから。

ただし 非思考の庭にあっても 思考を《仮りに》あたえようとはします。
それは つねに《憶測や思わく》でしかないという前提があるということに
なります。


(ウ)
★ ~~~~~~~ 
ここも実によくわかるのですが、(イ)と同様、
 ★神と摂理の食い違い
についてつまびらかにしないまま論じるのは難しいように思います。
 ☆非連続
と前提するなら、たしかに
 ☆神は非知
と言う論理は成立するでしょうね。
この辺りの論理はおかげさまで腑に落ちました。
ただ、そうした前提が(神に対して)妥当か否か、という問題と、仮に妥当
だとして、それを「絶対的摂理」にも適用することが妥当か否か、という2
つが論点としてあると思われます。
わたしの場合、現時点では、とりあえず、後者については(見解の相違とい
う形ではありますが)否定しつつ、前者については積み残しの状態と言える
でしょう。
~~~~~~~~~
☆ いやア これはありがたいことですね。見解の相違が 待ち構えている
かも知れないのではありますが。

この《2つの論点》について (イ)の議論とそして〔№73お礼欄での〕
(ア)の議論とで 取りあえずいくらかは――なお幕引きを遮って――すす
め得たかも分かりません。

早く言った場合には 《絶対的摂理》という表現は どう言いますか《赤裸
々》すぎるように感じます。

№75のお礼欄は 大事に取っておきます。

お礼日時:2017/05/02 18:43

#71です。



>あとは 前回(№70)で明らかになった《連続か非連続か》の主題にみ
な収れんするものと思います。

そのようですね。
新たな切り口が出てきそうな気もしますが、明日当たりにでもまた。

>補足欄が あと一回になりました。
ご回答は 二つ三つに分けてお寄せくださるとさいわいです。

了解です。
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この回答へのお礼

お互いに――ようやく でしょうか――ゆったりとした気持ちと心とで こ
の対話にのぞむことができているようですね。

ご回答をありがとうございます。


あなたの:
★ 象徴としての神
☆ は――これも分からなかったのですが――どうも わたしの見方に引き寄
せるなら  次のような議論としての《シルシによって神を指し示す》という
問題と同じではないか? という感じがして来ました。

☆☆(№64お礼欄:神は シルシで指し示す) ~~~~~~~
★ しかし、「神は非知」には違和感がある、ということ。 / なぜなら、
「神は」と主題提起してしまっているわけですから、「神」がすでに思考対
象として認識されていることになる。
☆ 《人智の及ばぬ》という規定は 《人智の及ばぬナゾ》について人智で
思考し判断した結果です。

《知り得るか知り得ないかが知り得ないナゾ》という規定は やはり人智で
思考してそう定義しようと判断した結果です。

たとえ《人智の及ばぬナゾ》であっても 人間の言葉で表現すれば その表
現の指し示す先なるナゾ(つまり 指ではなく 指の指し示すその先のナゾ)
が互いに伝わると思っておこなうのが 《想定による仮説法》です。



言葉で表わすのですが 人智の及ばぬ神については 言葉をそのシルシとし
て用いています。シルシだけとして当てています。

言葉が概念として持つ意味内容そのものを 神の中身として対応させている
わけではないということです。

でも 意味内容を持つかぎりでその内容に応じて――神を扱うときにも――
人間は 思考しています。シルシを捉えシルシで思考しています。

神をその限りで――シルシなる仮りの小世界における限りで―― 思考の対
象として扱っています。

けれども だからと言って:
★ 「神」がすでに思考対象として 認 識 さ れ ていることになる。
☆ ことは ありません。思考され認識されているのは あくまで神を指し
示すシルシとしての言葉であり その概念内容なのです。

超経験を扱う場合には つねにそうなります。非知と規定した場合には つ
ねにそうなります。

経験と非経験とを分けるというのは そういった表現の問題をも巻き込んで
います。
~~~~~~~~~~~~

お礼日時:2017/05/01 22:47

#69です。



>★★ ~~~~~~
《不可知と思う》からこそナゾと表現する。
《不可知と思わなければ》ナゾではない。
~~~~~
☆ 単なる未知でも不思議なナゾだと言いますし とりわけ非知なら 大い
なるナゾです。
この問題は 分かり切っていますよ。

虚言を弄するのは感心しませんねえ。
★《不可知と思う》からこそナゾと表現する。
★《不可知と思わなければ》ナゾではない。
が分かりきっていたなら、
★ゆえに、
《(不可知と)思わなければ 既知にもなり得るナゾ》
という事例は存在し得ない。
ことも当然、
☆分かり切って
いなければならない。(しかも、その箇所を意図的に引用しないという姑息さのおまけつきときている)
つまり、
★存在し得ないものを明らかにすることができないのは明らかである。
ことも当然認識していたはずなのだから、

 ☆☆ または ナゾ(大元の大元)が既知となった事例
を挙げてください。
☆ この問いにはまだ答えてもらっていません。
ナゾは《不可知と思う》と定義するゆえに 《思わなければ 既知
にもなり得る》とまでは 判明しています。ですが その事例を明
らかにしてください。(#57お礼欄)

といった要請が出るはずはないじゃありませんか。
>分かり切っていることを問い求めていて 話が堂々巡りになるならば 一たんとしてでも打ち切るのが 賢明だとわたしは考えます。

とも続けておられますが、そういう無茶振りをするから、そうでないことに気づいて、また最初から組立てなければならなくなるわけで、
☆堂々巡りになっているのは、
そちらの責任ですよね?(むろん、この点については、という意味ですが)
それを恰もこちらに原因があるかのような、とは明確には言っていませんが、そのように取れる、あるいは、自分側だけに責任があるわけではない、といったニュアンスになるような表現を使っている。
何度か採用している、ひょっとすると身についた手法なのかもしれませんが、こうしたことはやめたほうが良いですよ。
あなたが頭の良いことはみなさん知っているのですから、多少の勘違いがあったからといって、そのことまで否定する人はいません。
むしろ、人格、品位の問題として、以後、留意されるよう苦言を呈しておきましょう。
特に無ければですが、この件については、これ以上申し上げません。ここで打ち切ります。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ (しかも、その箇所を意図的に引用しないという姑息さのおまけつき
ときている)
☆ 《凍結》する前の段階にもどれと言われるのでしたら 意図的に引用
と論評を避けたのです。

あなたの論理〔で表現された文章〕をそのまま受け取ったかたちに成りす
ぎてしまっていたからです。

その不用意さについては よくなかったとみとめています。そういう問題
だと思いますが。

《分かり切っている》というのも 不可知でなくても未知であっても ナ
ゾであり得ることを言っています。議論がという意味に採れるようでした
ので これもあやまります。

あとは 前回(№70)で明らかになった《連続か非連続か》の主題にみ
な収れんするものと思います。




補足欄が あと一回になりました。
ご回答は 二つ三つに分けてお寄せくださるとさいわいです。

お礼日時:2017/05/01 18:28

#69です。



では、いままでのみなさんとのやりとりから得られた知見も採用しながら私見を再確認しつつ、論点を整理してみたいと思います。
まず、今は下記命題の解釈を巡ってということになるでしょう。
「人智の及ばぬ自然宇宙の絶対的摂理(=あらゆる事象をバランスさせる力)に起因して我々は生まれた。( A )」
ここの「絶対的摂理」を「神」と呼ぶべきか否かなどの問題にまでは、まだ踏み込んでいないわけですが、象徴という意味でそう呼ぶことは否定していない。ただ、
☆☆ ところが 神は宇宙の法則であると言うひとがいて これに賛同する人も多いようなのです。(#54お礼欄)
とおっしゃっているので、今の論議においてはですが、「絶対的摂理」と「神」を同義で使ってしまうと紛れが生じる場合はでてきそうですね。
いずれの場合も、様々な解釈が可能である、という表現上の問題が必然的に立ちはだかることになるわけですが、紛れが生じないよう、基本的には「絶対的摂理」を採用しておきます。

(ア)
【 絶対的摂理(神) 】
『太陽の周りを地球が回っている。高速で自転・公転しているにも拘わらず地球上の存在が宇宙に放り出されることもない。
また、あらゆる生物、無生物が原子・素粒子から組成され、またされ続けている。何より、そうしたあらゆることを含め、世界というものが実在しているという現実がある(経験事象A)』
基本的には物理的(あるいは化学的)法則とは思いますが、では、そうした物理的法則はなぜ存在するのか、といったことも含め、
★「あらゆる事象をバランスさせる力」
を「絶対的摂理」と呼ぶことはできるでしょう。
つまり、「物理的法則を含む法則=絶対的摂理」ですが、「絶対的摂理」と言った場合、次のような解釈が可能になる。
[ 解釈 a ] ⇒「絶対的摂理=経験事象 A 」。
[ 解釈 b ] ⇒「絶対的摂理=経験事象 A を顕現させている法則(力)または原因」。
これらを混同すると(お互いに)かみ合わなくなるのは当然。
以降は、表現を拝借して、
[ 解釈 a ] ⇒「絶対的摂理=超経験という事実 」
[ 解釈 b ] ⇒「絶対的摂理=超経験の原因」
のように表現します。
まず、ここを再確認しておきたい。

(イ)
【 絶対的摂理は不可知である 】
(「象徴としての」という認識を共有できているのなら、「神」を使っても問題はないのですが)
この場合、あくまで[ 解釈 b ] を適用していることが容易におわかりになると思います。なので、
「超経験という事実は既知だが、超経験の原因は不可知である」と言ってることになる。
しかし、bragelloneさんは、
『 超経験の原因自体が《人智の及ばぬもの》なのだから、そういうものについて「超経験の原因は不可知である」のような判断を下すということ自体が矛盾だ。』
このようにおっしゃっているわけですよね?
その論理の中に、
[ 解釈 a ] ⇒「絶対的摂理=超経験という事実 」
という概念が採用されていないために喰い違いが生じるのだと思うのですが、どうでしょうか。

(ウ)
新しい、補足を拝見しましたので項目を追加いたします。
 (イ)の内容とうまい具合に噛み合っているような気もしますが、もっと別のこともおっしゃっているようです。
>まづ 両者には絶対のへだたりが

あるのですか。
これはちょっと(わたしにとって)新しい視点かもしれません。さらには、
>次に――人間の思わくとしてながら―― 絶対なる非経験の場は 経
験世界を覆い包むと見られる。・・・ここから連続性があると思われ
て来る。

と。
ふむふむ、なるほど。
この辺りのおっしゃりたいことは理解できます。

>連続性は基本としてありません。地続きではありません。
あると見えるのは 人間の思わくです。哲学としての神論ではなく 
神観として広く人生観を成すような要素に成っているのかも分かりま
せん。神への甘えです。
摂理や自然法は 神から――人間が忖度して――派生させて得る経験
知であり 経験世界の側から神に投影するものではないわけです。

ここも、ひとつの捉え方として、おっしゃりたいことはわかりました。
つまり、
★([ 解釈 a ] )という概念が採用されていないために喰い違いが生じる(イ)
のではなく、
[ 解釈 a ] ⇒「絶対的摂理=超経験という事実 」
と、
[ 解釈 b ] ⇒「絶対的摂理=超経験の原因」
の間に、
☆連続性は基本としてありません。地続きではありません。
とおっしゃるわけですね。
いかなる場合にも、
☆神は超経験
を大前提として持ち出してきた今までの遣り取りを振り返るなら、
★[ 解釈 a ] ⇒「絶対的摂理=超経験という事実 」
を認識なさっていたとは、にわかには信じがたいのですが、とりあえず論点が明確になったようですから、細かいことは言わないでおきましょう。
結局のところ、

☆摂理や自然法は 神から――人間が忖度して――派生させて得る経験
知であり 経験世界の側から神に投影するものではない
のか否か?

これが論点ということになるのでしょう。
このように明確になってみれば、すでにこの時点で、つまり、最初から「見解の相違」が定まっていたということになってしまいそうですね。
若干の根拠らしきものを述べるとすれば、
そもそも、摂理・自然法・神のような認識が芽生えるということ自体、
★経験世界の側から神に投影するもので
あることになりませんかね。
しかるに、そうではない、とおっしゃるのですから、
☆神は超経験
を大前提として持ち出す(それが正当な行為だとする)理由も明確になり、腑に落ちました。
根拠(理由)が腑に落ちたということは有難いことですよね。感謝申し上げます。
ただ、個人的には、これは「思考の停止」と位置づけます。
つまり、
☆神は超経験
を大前提として持ち出すこと自体が、です。
ここにきて「見解の相違」が成立したと思いますがいかがでしょう。
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この回答へのお礼

謝謝。

★ ここの「絶対的摂理」を「神」と呼ぶべきか否かなどの問題にまでは、
まだ踏み込んでいないわけですが、象徴という意味でそう呼ぶことは否定
していない。
☆ 《絶対的 および 人智の及ばぬ》にもとづき 超経験なる神だとし
て扱っています。

(ア)★ 〔経験事象 A から〕「あらゆる事象をバランスさせる力」を
「絶対的摂理」と呼ぶことはできるでしょう。
☆ この段階では 《絶対的》と呼ぶのは早いと思います。かも知れない
わけですが。

★ [ 解釈 a ] ⇒「絶対的摂理=経験事象 A 」。「絶対的摂理=超経験と
いう事実 」
☆ やはり《絶対的》は早すぎますし 早くない場合にも それと《経験
事象》がひとしいとは成らないと思います。《超経験》もまだ早いです。

物理現象⇒物理法則⇒さらにその抽象化・純粋化したイデアとしての摂理
:これなら《絶対的で超経験》と言えるという人間の思わくだと見ます。

★ [ 解釈 b ]
☆ については 表現の問題だと捉えて保留します。《超経験》という
基本が 共通の了解事項です。

(イ)は はこぶるさんの推論の論理にしたがえば そういうことです。

問題は (ア)からつづくものがあります。
★ 超経験という事実は既知だが
☆ この《超経験》は [ 解釈 a ] の《経験事象 A 》を言っています。
つまり《事実》であり 《超》の語は まづいと思うのですが?

(ウ)★ ~~~~
そもそも、摂理・自然法・神のような認識が芽生えるということ自体、
 ★経験世界の側から神に投影するもので
あることになりませんかね。
~~~~~
☆ 前提に《非連続》が成り立っている〔と認められる〕なら 人間から
の投影〔という作業が実際にあったとしてもそれ〕ではないという一般性
が ただよいます。

(ア)での《物理現象⇒物理法則⇒その抽象化・純粋化》は 非連続を無
視していると見られてしまいます。

じつは それゆえにも――詭弁を弄すると映るかも知れませんが――《非
知》という想定を初めに持って来るのです。人間の思考としての投影作業
を この定義の仕方によって切ったのです。

ですから:
★ ただ、個人的には、これは「思考の停止」と位置づけます。
☆ に対しては 《非思考》を掲げるわけです。

《神は超経験》のほうは 一般論だと思います。

お礼日時:2017/05/01 18:13

#63以降のお礼内容に応じようとしましたが、どうも、最初からボタンの掛け違いがあるようで、個別に反論していても埒が明かないようです。


その掛け違いをまず解消する必要がありそうなので、改めて論点を整理することから始めさせてください。
いや、これこれの点に関してはちゃんと答えてもらわなければ困る、といった箇所があるようでしたら、そこはご指摘いただければ答えることにやぶさかではありません。

その意味で私のほうからひとつありまして、それは、次の箇所です。
#65で、
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
bragellone:
ナゾは《不可知と思う》と定義するゆえに 《思わなければ 既知
にもなり得る》とまでは 判明しています。ですが その事例を明
らかにしてください。
hakobulu:
☆《思わなければ 既知にもなり得る》
ような事例をあげろ、とおっしゃるわけですか。
これは、無茶振りですね。
というか、論理の立て方に誤り(好意的に捉えるなら誤解)があるようです。

《不可知と思う》からこそナゾと表現する。
《不可知と思わなければ》ナゾではない。
ゆえに、
《(不可知と)思わなければ 既知にもなり得るナゾ》
という事例は存在し得ない。
存在し得ないものを明らかにすることができないのは明らかである。

およそ、こういったことになるでしょう。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
このようなやりとりがあり、それに対してお礼欄で、
bragellone:
(ウ)a. ★ #50の(ウ)ですでにお答えしたはずですが、それでは納得
できない、ということですかね。
☆ 分かりました。これ以上は わづらわせたくありません。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
というコメントを返していただきました。
なぜこの部分に関してだけ
☆わずらわせたくありません
なのか?という疑問がわくのですが、まあ、それはさておきましょう。
確認したいのは、
★論理の立て方に誤り(好意的に捉えるなら誤解)がある
という点に関してはお認めになるのですか?
ということです。
つまり、
☆《思わなければ 既知にもなり得る》
ような事例をあげろ、と言ったのはたしかに無茶振りであった、お認めになりますか?
ということ。
無茶振りをしてしまうのは誰にもあることですが、そうだと判明したなら、しかも重要な論点のひとつなのですから、何かひとことあってしかるべきではないですかね?
☆ 分かりました。これ以上は わづらわせたくありません。
で済ませようとするのは、ずるい上に、実に見苦しく(と受け止められても仕方のない)、人間性を疑われかねない応じ方だと思います。それとも、

★《不可知と思う》からこそナゾと表現する。
《不可知と思わなければ》ナゾではない。
ゆえに、
《(不可知と)思わなければ 既知にもなり得るナゾ》
という事例は存在し得ない。
存在し得ないものを明らかにすることができないのは明らかである。

なんていう論理のほうが誤っている、とおっしゃるのですか?
であるなら、理由とともに、その旨、明記してください。
いずれにせよ、無茶振りだったのかそうではなかったのか、(端的な表現で、つまり、イエスノーで済む話なのですから)はっきりさせるべきところでしょう。
論点整理は、回答欄を改めて述べさせていただきます。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ ~~~~~~~~~~
(ウ)a. ・・・
なぜこの部分に関してだけ
☆わずらわせたくありません
なのか?という疑問がわくのですが
~~~~~~~~~
☆ 堂々巡りに成っていると知ったからです。

★ ~~~~~~~~~
確認したいのは、
★★論理の立て方に誤り(好意的に捉えるなら誤解)がある
という点に関してはお認めになるのですか?
ということです。
~~~~~~~~~
☆ 新たには進まないと決めたことは それまでのすべてを凍結するという
意味です。

もし凍結がいやだということでしたら 堂々巡りではない回答をまづ提出し
ていただきたいと思います。

★ ~~~~~~~
確認したいのは、
★★論理の立て方に誤り(好意的に捉えるなら誤解)がある
という点に関してはお認めになるのですか?
~~~~~~~
☆ ここは 相手の・つまりはこぶる式の発想をそのまま受け取ったかたち
で問い返しているということです。

★★ ~~~~~~
《不可知と思う》からこそナゾと表現する。
《不可知と思わなければ》ナゾではない。
~~~~~
☆ 単なる未知でも不思議なナゾだと言いますし とりわけ非知なら 大い
なるナゾです。

この問題は 分かり切っていますよ。分かり切っていることを問い求めてい
て 話が堂々巡りになるならば 一たんとしてでも打ち切るのが 賢明だと
わたしは考えます。

お礼日時:2017/05/01 15:55

#67です。



>「神は人智の及ばぬもの」だからこそ、「神は人間の能力では知ることができない」
と思うこと。
このどこが
 ☆不思議
で、何を指して、
 ☆人をおちょくっているのか。
という暴言につながるのか・・・。
~~~~~~~~~
☆ ふたつの文(判断)は 同じ内容だと思わないということですね そうすると。
同じ内容のことを ふたたび言い出すことは おかしくなく あり得ます。
しかしながら それらを《だからこそ》でつなげることは 考えられません。
あるいは たとえあったとしても 哲学の推論を成すくだりでそれを出して来ると
は 考えられません。意味がない・ただの感想や感慨なのですから。

☆同じ内容
とおっしゃいますが、厳密には違いますよね?
「彼女は美人だ」と「彼女は美人だと思う」が同じ内容なんですか?
経験事象とは違うなどという詭弁を弄するのだけは勘弁してくださいね。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 「彼女は美人だ」と「彼女は美人だと思う」が同じ内容なんですか?
☆ 同じ内容であり得ます。《だ》で断定する場合にも 感慨をふくめて
――その発言者の主観のかぎりでですが――言う場合があるからです。

むろん 違う場合もあり得ます。《だと思う》のほうが 確からしさの度
合いが低いといった違いです。

同じような内容の二文なわけですが これらを《だからこそ》でつなげる
とは まさか ですよね?

お礼日時:2017/05/01 00:54

#66です。



その前のお礼については、また明日ということにしますが、とりあえず。


★ 「人智の及ばぬもの」だからこそ、「人間の能力では知ることができない」
と思うことは別に不思議ではないでしょう。
☆ 不思議です。
同じことを少し別の言葉で言いかえているだけだと思われます。
そのふたつの命題(判断ないし表現)が どうして《だからこそ》でつながれ
るのか? 
人をおちょくっているのか。あるいは ほんとうに自分で分からなくなってい
るのか。・・・ほかにどういう事態だと考えられるか?

なんでそうなりますかねえ????
ほんと不思議です。たとえばですが、
「神は人智の及ばぬもの」だからこそ、「神は人間の能力では知ることができない」と思うこと。
このどこが
☆不思議
で、何を指して、
☆人をおちょくっているのか。
という暴言につながるのか・・・。
いやはや、困惑しております。
一杯引っかけながらのご投稿ですか?
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ ~~~~~~~~~~
「神は人智の及ばぬもの」だからこそ、「神は人間の能力では知ることができない」
と思うこと。
このどこが
 ☆不思議
で、何を指して、
 ☆人をおちょくっているのか。
という暴言につながるのか・・・。
~~~~~~~~~
☆ ふたつの文(判断)は 同じ内容だと思わないということですね そうすると。

同じ内容のことを ふたたび言い出すことは おかしくなく あり得ます。

しかしながら それらを《だからこそ》でつなげることは 考えられません。

あるいは たとえあったとしても 哲学の推論を成すくだりでそれを出して来ると
は 考えられません。意味がない・ただの感想や感慨なのですから。

これらの場合を考えるかぎり それをまともな議論だと言われた日にゃ おちょく
っているのだろうかと言わないほうが 暴言になりましょう。

お礼日時:2017/05/01 00:28

#65ですが、取り急ぎ。



>人智の及ばぬものについて どうして《・・・と思う》ということが当ては
まるのでしょう?

人智が及ぼうが及ぶまいが、なにごとに対しても「不可知」とは「人智では知ることができない(と思われる)こと」という意味に他なりません。
なぜなら、「人智では」なのですから、あくまで人間の能力では知ることができない、という意味になるから。
つまり、「人間の能力では知ることができない」と人間自身が断定しているにすぎないわけです。
絶対的な事実としてそのように定まっているわけではない。
「人智の及ばぬもの」だからこそ、「人間の能力では知ることができない」と思うことは別に不思議ではないでしょう。
「何かわけのわからぬ対象」について、つまり、非知についてそう言ってるわけじゃないので混同されませんように。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 「人智の及ばぬもの」だからこそ、「人間の能力では知ることができない」
と思うことは別に不思議ではないでしょう。
☆ 不思議です。

同じことを少し別の言葉で言いかえているだけだと思われます。

そのふたつの命題(判断ないし表現)が どうして《だからこそ》でつながれ
るのか? 

人をおちょくっているのか。あるいは ほんとうに自分で分からなくなってい
るのか。・・・ほかにどういう事態だと考えられるか?


但し書きとしては:人智の及ぶものについては そのとき《いや 人智では知
ることができない》とか《そう思う》とかと言う場合はあります。ただし そ
れは 哲学の議論としてではないでしょう。


ほんとうに不思議体験です。

これでは 命題 A・B・C を世に送り出すことはむつかしいです。むろんわたし
個人の見解です。

お礼日時:2017/04/30 23:30

#57です。



(ア)
>★ そんなことはわかってますよ。
☆ ぢゃあ 適切だとも分かっていて なぜ訊くんですか?

☆仮説した限りで推論の前提となり得
るのは、あくまで一般論だろ、ということ。
★神について論議に際しても、
一般論として捉え、
★「だってみんなが言ってるじゃん」を仮説とすることが適切
だと思っているのですか?
と尋ねている。
日本語の構文として、そんなに難しいですかね?

(イ)
>☆☆ おしまいとなります。
☆ は おしまいと成るのです。あなたの《不可知》の定義が そ
のように《不可知と思う》というのでは ということです。
この場合 ほかには問題はありません。
☆☆ どのように証明したのですか? それとも証明は要らないの
ですか? 自分がそう思えば不可知なのですか?
☆ と尋ねることによって 《自分で 不可知だと思う》という定
義だと判明したのです。

それは邪推ですね。
可知にせよ不可知にせよ、可能性に関する人間の判断にすぎないことは明らかでしょう。
「可能性」という事実は存在しないわけだから。
★「宇宙」は経験事象ですが「宇宙が存在する意味」は経験事象ではありません。
しかし、そのような事柄を「(仮に)想定」できるからこそ、永遠に知ることができないと思えば「不可知」と言うし、永遠に知ることができないとまでは断定できないと思えば「未知」と表現するわけです。(#7)
ということも既に述べています。

(ウ)

a.  ☆☆ または ナゾ(大元の大元)が既知となった事例
を挙げてください。
☆ この問いにはまだ答えてもらっていません。

#50の(ウ)ですでにお答えしたはずですが、それでは納得できない、ということですかね。

★人智の及ばぬ自然宇宙の絶対的摂理(=あらゆる事象をバランスさせる力)
というのは、《絶対的摂理(=あらゆる事象をバランスさせる力)》とはどういうものであるのか、という、その中身については《人智の及ばぬ》と言っているだけです。
誰かは知らないがいつも花を届けてくれる(むろん経験談ではありません)、といった比喩で申し上げるとわかりやすいかもしれません。
《人智の及ばぬ事象》が存在すること自体は、《人智の及んでいる事実としての事象》でしょう。

とすでに述べている箇所を、よくお読みください。
☆ナゾが既知となった事例を挙げ
る必要がないことも、合わせてご理解いただけるはずです。(#50)

>ナゾは《不可知と思う》と定義するゆえに 《思わなければ 既知
にもなり得る》とまでは 判明しています。ですが その事例を明
らかにしてください。

☆《思わなければ 既知にもなり得る》
ような事例をあげろ、とおっしゃるわけですか。
これは、無茶振りですね。
というか、論理の立て方に誤り(好意的に捉えるなら誤解)があるようです。

《不可知と思う》からこそナゾと表現する。
《不可知と思わなければ》ナゾではない。
ゆえに、
《(不可知と)思わなければ 既知にもなり得るナゾ》
という事例は存在し得ない。
存在し得ないものを明らかにすることができないのは明らかである。

およそ、こういったことになるでしょう。

b.
>前提となる用語の定義において 仮説をおこなうとき《一般にみと
められている常識》にもとづきそうする。そういう仮説なら 哲学
として通る。・・・と言っているのですから 

いやいや、ですから、
☆と言っている
こと自体が不合理でしょう、という批判を展開しているわけですから、それに対する反論の根拠として、
☆・・・と言っているのですから 
を持ち出すのは二重の意味での不合理、と言わざるを得ないでしょう。

(エ)
>☆☆《実質的に人びと一般がみとめている》 ★ようなこと、
に関して、果たして[・・・]それは本当だったろうか?という考察
をするところから哲学というものは発するのではないか。
☆ いまの場合は 《神は超経験》という話を前提にするというこ
とです。
もしその一般性をうたがうときには その批判をおこなえばよいわ
けです。
その《考察》をあなたの場合は 《不可知と思う》のように定義す
ることによって 回避しているのです。

そのような邪推をなさるのは、
☆《不可知と思う》のように定義すること
を否定しているからでしょう。
わたしは、
《不可知》というものは、
☆《不可知と思う》のように定義
せざるを得ない、というのは論理的に真だと思っていますので、
☆回避している
というご指摘は当たらないですね、とお答えするしかありません。
ま、この辺りも「見解の相違」ということになるのでしょう。
回答の順序が前後しましたので、もしお考えが変わっているようでしたら、その旨お知らせください。
この回答への補足あり
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

(ア) こう尋ねなおします。:《神は 超経験である》は 一般論ですか? 

一般論であるなら 仮説の前提になります。(ウ)b. も同じです。



(イ)★ ~~~~~~~~~
  ★★「宇宙」は経験事象ですが「宇宙が存在する意味」は経験事象ではあ
  りません。

しかし、そのような事柄を「(仮に)想定」できるからこそ、永遠に知ること
ができないと思えば「不可知」と言うし、永遠に知ることができないとまでは
断定できないと思えば「未知」と表現するわけです。(#7)
~~~~~~~~~
☆ すでに触れていますが 《「宇宙が存在する意味」を考える》のは経験事
象です。

ですから・言いかえると 《宇宙が存在する意味 または そのナゾ(分かり
やすく《原因》とよぶともお聞きしました)》について――それが 経験事象
ではないとするからには―― それ相応の定義の仕方が不可欠になります。

非経験の場に対しては それにふさわしい用語で定義する必要があります。

《永遠に知ることができない》かどうか・・・では なおまだ経験事象を扱っ
ているのと違わないからです。



(ウ)a. ★ #50の(ウ)ですでにお答えしたはずですが、それでは納得
できない、ということですかね。
☆ 分かりました。これ以上は わづらわせたくありません。


この項目のもとで 《不可知が 既知に成り得る》という命題(判断)につい
ての議論がありました。それをめぐっては あらたに次のように問いたいと考
えます。:

★★ 《絶対的摂理(=あらゆる事象をバランスさせる力)》とはどういうも
のであるのか、という、その中身については《人智の及ばぬ》と言っているだ
けです。
☆ ということは 《バランサーとしてのハタラキは 経験事象である。その
大元の中身は 非経験の場であって人智は及ばない》。

こういう意味に解しますが そのときの問題は 《バランスにかかわる経験事
象とそして非経験の場とが どうしてそのようにつながっていると言えるのか
?》でしょうね。

つまり 《不可知と思うナゾ》が《既知》と成り得るとは そのような――両
者のつながりの――問題だったようです。これは (エ)にも関連します。

つづく。

お礼日時:2017/04/30 19:05
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Q不完全性定理って 現実から離れた数学としての真理なのか? それとも 現実に即しているのか?

次の解説をめぐって 二つ目に引用した事例に沿って問います。

▲ (哲学的な何か、あと科学とか:不完全性定理) ~~~~~~~~~
http://www.h5.dion.ne.jp/~terun/doc/fukanzen.html
不完全性定理は述べる。

「どんな理論体系にも、証明不可能な命題(パラドックス)が必ず存在する。
それは、その理論体系に矛盾がないことを
その理論体系の中で決して証明できないということであり、
つまり、おのれ自身で完結する理論体系は構造的にありえない」

▲ (同上) ~~~~~~~~~
たとえば、ボクが、「ボクは嘘つきだ」と言ったとする。

もしこの言葉が「真実」であれば、ボクは「嘘つきである」ことになるが、
そうすると「嘘つきなのに、真実を言った」ことになってしまい、
おかしなことになる。

一方、この言葉が「嘘」だとすれば、
ボクは「正直者である」という事になるが、
そうすると、「正直者なのに、嘘を言った」ことになってしまい、
おかしなことになる。

結局、ボクの言葉が、真実でも、嘘でも、
おかしなことが発生してしまうのだ。
~~~~~~~~~~~~~~

☆ おそらく取り上げた事例がふさわしくない――つまり ただの論理だけで
現実のものごとを扱っている――と思うのですが このタトへなら 

 《ウソをつかない人間はいない》

と返しておしまいではないのだろうか?

定理がどうの数学的真理がこうのと言うまでのことではないのではないか?




具体的に見ても その《ボク》が生きて来ている歴史においてその振る舞いを
実際に捉えてみれば すぐ分かることだ。つまり: 

 《ほんとうのことを言う場合もあれば ときにはウソをつくこともある》

と。あるいは:

 《社会に生きる人間であるなら ホンネは違っていても止むを得ずタテマヘ
 に従わざるを得ないと――おのが心で――判断し そのタテマヘに従うこと
 を 現実的なホンネとする》

ということ。――こうではないか?




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がそうであるように 現実から遊離した世界の中での或る種の真理をこそ・そ
してそれのみを扱っている・・・ということなのか?

それとも そうではなく まさしく人間の現実世界に対応している真理なのか?

どうなのでしょう?
なお ヰキぺの解説を見ても数式がよく分かりませんので 言葉で表現しても
らえればさいわいです。

次の解説をめぐって 二つ目に引用した事例に沿って問います。

▲ (哲学的な何か、あと科学とか:不完全性定理) ~~~~~~~~~
http://www.h5.dion.ne.jp/~terun/doc/fukanzen.html
不完全性定理は述べる。

「どんな理論体系にも、証明不可能な命題(パラドックス)が必ず存在する。
それは、その理論体系に矛盾がないことを
その理論体系の中で決して証明できないということであり、
つまり、おのれ自身で完結する理論体系は構造的にありえない」

▲ (同上) ~~~~~~~~~
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たとえ到達せずとも、その手前くらいまでは辿り着くと思いますが。

やっぱり神などはおらず、人類は特に目的なども無い生物なら、地球と言う惑星に偶発的に発生しただけの生物であって、いずれは死滅する存在じゃないかと。
そんな生物であれば、「人間とは?」などと大上段に考察する必要もなく、多少の知性などはあるものの、本質的にはアメーバーなどと大差は無い生物ってことで良さそうです。

一方、近年の宇宙科学とかでは、「ホンマかいな?」と言う様な発見や研究が多いのですよ。
たとえば、「重力は小さすぎる」なんてのが証明されて、「その力はどこに消えてるのか?」などが研究されるたり、「未知なる『第5の力』がある!」なんてことも言い出しました。
そうなると、高名な学者が「宇宙は少なくとも5次元以上で構成されているが、人間の脳は、まだ3次元までしか感知,認識し得ない」みたいな説を唱えたりもしています。

何か「言いたい放題」みたいな感じなのですが、1つのことが判れば、謎は深まるばかりと言う様相で。
ご質問も、それこそパスカルの時代から存在しつつ、誰も明確に正解を答えられない問いですが。
結局のところ、「人類はまだ、何も判っていない」に等しい状況と言えそうです。

もう一つ、興味深い説があって、宇宙には人類以外の知的生命体がいる存在は、否定されつつあります。
これはちょっと寂しい気もする説ですが、これが事実なら、冒頭の「真理を突き止められる可能性がある、宇宙で唯一の生物」と言うことになります。

また、上でも少し触れましたが、宇宙と脳には各種の関連性が指摘されていて、まあ人類も宇宙の子ですから、関連があって当然ながら、何らか「宇宙の意思」的なものがあって、その様に作られているのかも知れません。

いずれにせよ、人類は未だ「人間とは何か?」に対し、明確な答えを得ておらず。
その答えを得るためには、まだ戦争などの愚かしい行為も繰り返しながら、もっと科学技術などを高める必要性はありそうだし。
戦争などとは無関係に、宇宙や生命科学の真理を探求できる状態になる頃には、完全なる平和なども手に入れねばならないです。

現代に生きる我々に出来ることは、我々の子孫が真理を解き明かすことを願い、我々の時代を少しでも良くする努力をすることではないか?と思います。
また、もし真理に到達すれば、それが「宇宙の意思」そのものと言えそうで。
「人類こそが、宇宙の意思であった」と言えるのかも知れません。
あるいは、人類の産物であるAIなどが、人類の意思を引き継いで、それを実現するのかも知れませんが。
出来れば、私のDNAもちょっとは受け継いだ、人類であって欲しいです。

> 人間と言う者は 一体何なんでしょうか?

それを探求し続け、現時点では、その末にすべてを解明する可能性がある、宇宙で唯一の生物・・と言うところじゃないですかね?

もし仮に、「神」とか「宇宙の意思」なんてのが存在し、その意思のもと、人類が何らかの目的とか、何らかの使命を帯びて誕生した生物であれば、宇宙や生命科学の真理に到達するか?
たとえ到達せずとも、その手前くらいまでは辿り着くと思いますが。

やっぱり神などはおらず、人類は特に目的なども無い生物なら、地球と言う惑星に偶発的に...続きを読む

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Aベストアンサー

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思えますが、変化・成長があるということを考えますと、完全ではなく、「例外」
と呼べるものがあるはずだと思います。

またそれは、現在の人間の認識方法によるもので、宇宙の普遍性から見たときに
「正しい」とは全く限らないわけです。
そのあたりを、現代物理学が解明しつつあるように思えます。

もう少し言えば、なぜ変化・成長があるかと言えば、それは個別化された生命に
自由があり、その自由な能動的な創造という行為が変化・成長を産む、と。
その全体から見ればわずかな「歪み」が「例外的存在」となり、それを因として
全体が変化をする、と。

まあ、こんなことを考えて楽しんでいる私です。(^^♪

Q無謬性

人間は本然的に無謬性を求める、と言えると思います。
無謬性という概念は「信仰」につながると思います。

人々はかつては宗教にそれを見ました。「聖書の無謬性」などという言葉もあります。

現在は科学にそれを見ているのではないでしょうか?
わからないことがあるにせよ、科学的に証明されたものは「絶対に正しい」、と。

あるいは、人間は間違えるが、AIは絶対に間違えない、と。
そこから、AIに対する「神格化」の感情が急速に高まっていると思います。

しかし、AIは設定された条件内においては間違いはないと思いますが、その「条件」
の中に誤謬があるいは不完全性がありうると思います。

また、科学が証明したものは、宇宙の中のどの位置にあるのか?つまり、科学そのものの
無謬性は証明できるのか?

無謬性ということについて、あるいは無謬性と信仰について、無謬性と科学について、そ
の他、なんでも結構です、よろしくお願い致します。

Aベストアンサー

伝統的宗教が歴史の中で
人間にとっての社会を維持するために
直観的に正しいと思われる価値観の正当性の拠り所として
神もしくはそれに類する存在を土台にした無謬性を構築する必要があった。
というのは科学が未熟な時代を経ながら進歩せざるを得なかった
人類にとって避けて通ることができなかった必然の過程だと思います。
現代という時代は
そうやって積み重ねられた歴史の成果としての科学という客観的な拠り所によって
無謬性を検討できる時代にはなっていると理解していいのではないでしょうか。

物質科学の隆盛期にこじれた宗教と科学の関係も
物質科学の先に展開することが可能になった精神科学に照らして
整合性を検討することで新たな展開も期待できると思います。

科学の世界における無謬性においても人間の認識能力の構造的限界というものがあって
その閾値以下の部分においては信仰という拠り所の必要性はなくならない。
そしてその領域の拠り所を求められる局面もなくならない。
今のところそんなふうに考えています。

Q神と言えば 普遍神にきまってるぢゃん。

ほかにはない。

いかに?

Aベストアンサー

一つの神から無数の神々が分身として現れてると言う考えに問題は特に感じませんね。キリスト教なんかの一神教の神も、天使という一種の分身を持つ事を想定してるし。
このそれぞれの分身にどれだけの普遍性を見出すかと言う事に程度の違いはあるかもしれないけど、無数の神々の働きを一つにまとめてる神を一柱想定する事もあると思う。
天使の位階みたいに、それぞれの役割に応じて神々に位が定められていて、カテゴリ付けされてる場合を考えても、一番大きなカテゴリが一つあって、そこから分化していると言う神の構造のようなものを考えることはできると思う。

Q屁理屈と詭弁

「屁理屈」を辞書で引いてみると、
まるで筋の通らない理屈、道理に合わない理屈、とあります。

また、「詭弁」を辞書で引いてみると、
論理学で、外見・形式をもっともらしく見せかけた虚偽の論法、となりますので、
「屁理屈」と「詭弁」はもちろん違うものということになります。

要するに、「間違い」ということでは同じなのですが、「屁理屈」は間違いだと明らかに
分かりますので、「不愉快」ということ以外は実害はないと思います。

問題は「詭弁」です。

「詭弁」には何らかの意図がある場合が多く、またそれを証明することはできません。
そして、一般大衆においては、論理学をキチンと心得ていない人が大多数だと思います。

これは、そう簡単なこととは思えないのですが、「詭弁」に騙されないためには、どの
ような点に注意したらよいのでしょうか?

Aベストアンサー

こんにちは。緑萌ゆる季節になりましたね。
詭弁は、論理的思考や論理的対話におけるひとつのシステムと呼びうる地平で、誤謬を交えないことによって、制御できるものでしょう。

・要素であるものは何か、概念や共通理解をとおして明確であること
・作用また機能にかかわるような、必要な要素群は何と何か、明確に挙がっていること
・目的や結論をけっして要素としないこと
・木を見て森を見ないような視点を避け、何が部分であり何が全体であるかを区別し続けること
・論理は複数の論理と繋がっている構造物なので、論理間の正しさだけを問題とするのでなく、下位の論理について、ひとつでも複数でもいずれも正しくあること

こういう態勢にあれば騙されないと思いますよ。
ただ、言語活動の場合、要素とか部分とか、あるいは土台や隣接の論理とかが、経験的な合意形成だけで成り立つものですから、スルーッと流してしまう恐れがありますね。一方で、経験が蓄積されているほど、そうした経験的な合意の妥当性を判別することが出来るとも言えるでしょう。詭弁そのものを情報的要素とすることも可能だし、人間の知性の面白いところですね。

こんにちは。緑萌ゆる季節になりましたね。
詭弁は、論理的思考や論理的対話におけるひとつのシステムと呼びうる地平で、誤謬を交えないことによって、制御できるものでしょう。

・要素であるものは何か、概念や共通理解をとおして明確であること
・作用また機能にかかわるような、必要な要素群は何と何か、明確に挙がっていること
・目的や結論をけっして要素としないこと
・木を見て森を見ないような視点を避け、何が部分であり何が全体であるかを区別し続けること
・論理は複数の論理と繋がっている構造物なの...続きを読む

Q文章の美について、或いは人は文章を裁けるか?

こんばんは。

今回は比較的個人的な質問になります。
「文章の評価について」、なんだかカテゴリー違いのようですが、一応「古巣」ということで大目に見ていただきお付き合いください。

昨年Grass_Rootsの名でいくつか質問をしましたが、とりわけ「美」についての投稿が多かったように思います。今回は同じ「美」の範疇でも「文章の美」に関してです。


以前から「いい文章が書きたい」と思いつづけてきました。自分の文章に対して劣等感があるというのもひとつですが、同時に、下手の横好き、文章を書くことが好きなのです。書く以上はいいものを書きたい。

けれどもわたしの文章を読み「正当に」評価してくれる人は存在しません。
この春で6年目に入ったアート系のブログには、1万数千人のフォロワーがいますが、それ以上長く続けているメインのブログには一日に3名くらいの訪問者しかいません。こちらが乞うてもコメントを残してくれる読者もいません。

先に「わたしの文章を正当に評価してくれる人がいない」と言いましたが、
嘗て「美」について立て続けに質問を発していたとき、わたしのスタンスは、「美」とは、何を美しいと感じるかは、全く個々人の主観による、という立場でした。

ダリやピカソ、ポロックやフランツ・クラインの「どこがいいのかわからない」「無茶苦茶だ!」「グロテスク」という評価も全く的外れとは言えないはずです。

では文章に関してはどうでしょうか?

例を挙げます

1)「鰊が地下鉄道を通って食卓に運ばれてくる」 

これは安西冬衛(1898-1965)というモダニスト詩人の「春」という詩です。
残念ながらこの詩の良さはわたしにはわかりません。

例文2)これはお気に入りの文章です。

「ある晩 ココアを飲もうとすると あついココア色の中から ゲラゲラと笑い声がした びっくりして窓の外に放り投げた
しばらくたって ソーと窓から首を出してみると 闇の中で茶碗らしきものが白く見えていた
なんであったろうかと庭へ下りて いじろうとしたら ホイ! という懸声もろとも屋根の上まで放り上げられた」

こういう文章は素敵です。稲垣足穂の『一千一秒物語』から「ココアのいたずら」という作品です。

わたしは、繰り返しますが、いい文章が書きたい。では自分にとってのいい文章とはどういうものかというと、強いて言うなら「非・天声人語的」文章です。ウィリアム・バトラー・イエイツの言葉を借りるならいい文章とは「1にワンダー、2にワンダー、3にワンダー」です。

最近読んだ本で強く印象に残っているのは二階堂奥歯という人の書いた『八本脚の蝶』という本です。
2016年の「本屋大賞」で「超発掘本」大賞に選ばれた2006年の本です。

アマゾンのレヴューでは、例えば評論家(?)の小谷野敦氏などは、この本について「ただただ気持ち悪いだけ」という評価を下しています。

つまりわたしがいくら「いい文章を書きたい」と願っても、ある文章が「いい文章」であるかないかという基準は存在しないし、それ故何人もある文章に対して「正当な評価」はできないということになるのではないか?

なんだか要領を得ない質問になってしまったようです。なにか感じられた方だけ、お答えください。

そういえば昔Okwaveにlittlekissさんのという方がいて、彼女の文章のうまさにはいつも舌を巻いていました。 

ではみなさん、よい週末を。

追記ー

二階堂奥歯の『八本脚の蝶』は2003年に彼女が自死するまで書き続けていたウェブ日記を基に書籍化されたもので、今でもブログ部分は読むことはできます。

http://oquba.world.coocan.jp/note5_p10.html

この2002年4月6日(土)のストーリーなど素晴らしい!

こんばんは。

今回は比較的個人的な質問になります。
「文章の評価について」、なんだかカテゴリー違いのようですが、一応「古巣」ということで大目に見ていただきお付き合いください。

昨年Grass_Rootsの名でいくつか質問をしましたが、とりわけ「美」についての投稿が多かったように思います。今回は同じ「美」の範疇でも「文章の美」に関してです。


以前から「いい文章が書きたい」と思いつづけてきました。自分の文章に対して劣等感があるというのもひとつですが、同時に、下手の横好き、文章を書...続きを読む

Aベストアンサー

Ooops!がタイトルだとは。してやられました。汲み取れず、失礼いたしました。
2008年も読みつつありますが、わからない。何が悪いのかが。
最初のテーマは愛ですねえ。孤独を守りつつ、どうあるか。うーむ。どこが悪いのだ?
2015年ですと、教訓を垂れることを巡って、山田氏と見解の相違があるのかないのか、とにかくテーマ化されています。

まあこれ以上の詮索はやめましょう。私には何が問題かが、わからないようです。非常に細かいところが問題で、それは文体のような問題ではないと思うのです。生きかたの問題、ものを書くということをめぐる考え方の問題とでも言いますか。それは十人十色でいいのでしょう。一つの色を決め、その人としか付き合わないというなら、距離を取る他ありません。
山田氏はそんなに器の小さい人物なのでしょうか。私はちょっとわからないです。距離の置き方が決裂でなければよかったでしょうが、GRさんの場合、いろいろと読んでいくと、些事でも決裂になることがあるのだとお察ししました。山田氏はこの頃合いがわからず、不用意に変なことを言ってしまったということはないでしょうか。

あと文体論ということで、一つだけご助言を。「・・・(苦笑)」というのが、伝わりにくいです。「(苦笑)」という言い回しを避けた方がいいとは言いませんが、ここの心理は一文くらい足して補った方がいいと思うのです。
なんというかな、書いてもお前ら読者にはわかんないだろう、分かる人だけわかればいいや、という書き手の傲慢さを、私は感じてしまうのです。精神障害者の独特な見方を示すと銘打っているだけに、一旦、読者が小馬鹿にされていると思うと、もう取り返しがつきません。精神障害者と言っているが本当は健常者で、内心で小馬鹿にしているのではないか、という疑いを持つ可能性があります。
私自身が書くときはあまり気にしていませんが、もしさらなる向上を目指すなら、ここは丁寧にやった方がいいと思うのです。

そして雑談。「ワンダー」についてですが、ホッケの『文学におけるマニエリスム』はお手に取ったことがありますか。まさにワンダーの宝庫と言って良いようなものですし、まあはっきり言えば「ワンダー」にあたる概念が説明されており、さらに類型が列挙されています。ここを手掛かりにいろいろ探していけるとも思うんですよね。すでにご承知ならお許しを。

ニュートラルさんもいらっしゃったし、私がここで長居しても、あまり良くないでしょう。
この問いはこれくらいで失礼いたします。

Ooops!がタイトルだとは。してやられました。汲み取れず、失礼いたしました。
2008年も読みつつありますが、わからない。何が悪いのかが。
最初のテーマは愛ですねえ。孤独を守りつつ、どうあるか。うーむ。どこが悪いのだ?
2015年ですと、教訓を垂れることを巡って、山田氏と見解の相違があるのかないのか、とにかくテーマ化されています。

まあこれ以上の詮索はやめましょう。私には何が問題かが、わからないようです。非常に細かいところが問題で、それは文体のような問題ではないと思うのです。生きかたの問...続きを読む

Q不可知を 未知と分けて――哲学なら――用いなければいけない

不可知も まだ知られていないこととしては 未知でしょう。

では わざわざ不可知と言うのは どうしてでしょうか?

定義してください。

Aベストアンサー

#76です。

1.
>☆☆ 非知
☆ のほうが だいたいほかの方法よりよさそうだと言おうとしています。

了解しました。

>でも 哲学する人は ぶらじゅ何とかというどこの馬の骨とも分からないや
つが 非知を言い始めたと知って ほかの方法を考えようとするでしょうね。

いえいえ、そうとは限りませんよ。
☆ 非知
に関しては、
☆ のほうが だいたいほかの方法よりよさそう
といった謙虚なるご見解は不要で、
むしろ、それしかないと言えるほど稀有の視点ですよ。
少なくともわたしはそう認めています。
ただし、人間存在の最終原因とか、神とか、摂理とかいったように、その思考の対象がすでに定まったものに対して適用するのは妥当とは思われない。
つまり、
『 過去、人間は、未知・既知といった経験事象としての概念の他、知り得ないと判断する思考現象としての不可知という概念を操ってきた。しかし世界には、知り得るか知り得ないかが知り得ない、と言わざるを得ないような [ 何か ] は常に存在しているのであり、それは 非知 とでも呼ぶべき対象なのである。』
といった脈絡で採用されるべき視点ではないか、と思う次第。

2.
そのあとの記述も精査しましたが、
>★ つまり、連続説の場合も、(ⅲ)の内容については大いに同意するものです
が、
 ☆’《とはいえ、経験事象が そうしたナゾの影響を受けていることもまた事実
 である》
★ といった続きがあるわけです。
☆ この《続き》は 一たん非連続(つまり 淵があって超えねばならなかった)
を認めたあとの《手続き》としてなのです。さもなければ 《無限》が 有限世
界と地続きだとなります。

☆超えねばならなかった
ものではなく、あくまで、当初から並立しているもの です。
こういった内容に象徴されるように、すべてが 非知を大前提にした論理展開 となっていますよね。
なぜ、非知でなければならないのか?
ここが示されない以上、弱いのではありませんか?

3.[ おまけ ]
>☆ というのは 《絶対の隔たりが 〈無限〉と人知とのあいだに ある》と認
めた上でそのあと それでも わたしは連続説に立つのだという宣言なのです。

違います。
あくまで「宇宙の摂理の象徴としての神」の場合にはですが、
☆絶対の隔たり
は当初から認めていません。
よって、
>★ ここで〔☆ こそ〕また連続・非連続の論議に舞い戻ってしまうわけで〔☆
それに関しては〕やはり見解の相違と判定するのが妥当じゃないですかね。

といった甘言に篭絡されるいわれもありません、ということになりそうです。

>★ むろん、この場合の「直接」は、一般の経験事象同士における直接とは意味
が異なることは、128回ほど申し上げているので、すでにご承知のはずでしょ
うけど。
☆ 鯉の滝登りではありませんが 一たん有限から無限の夢幻境へと論理で駆け
上ったからには その《精神の軌跡》を抜きにして この《直接》の意味内容を
考えるわけには行きません。でしょう?

★原因が分かったとしても、その原因に対する原因が永遠に付きまとうので、最終原因は永遠に不可知と言わざるを得ません。
という言及に関して、
・原因=有限での経験事象
・最終原因=無限の夢幻境での事象
のように分けてお考えなのだと思います。
しかし、
★原因が分かったとしても
という表現は、
「あ、これだ!」のように
★原因が分かったとしても
といった意味ではありません。
★原因に対する原因が永遠に付きまとう
というのは、論理的合理性に基づいて、つまり、これだけで成立している命題なわけです。
説明上、例として挙げることはありますが、経験事象としての原因を必須の要素として必要としているわけではない、という点にご留意いただければと思います。

#76です。

1.
>☆☆ 非知
☆ のほうが だいたいほかの方法よりよさそうだと言おうとしています。

了解しました。

>でも 哲学する人は ぶらじゅ何とかというどこの馬の骨とも分からないや
つが 非知を言い始めたと知って ほかの方法を考えようとするでしょうね。

いえいえ、そうとは限りませんよ。
☆ 非知
に関しては、
☆ のほうが だいたいほかの方法よりよさそう
といった謙虚なるご見解は不要で、
むしろ、それしかないと言えるほど稀有の視点ですよ。
少なくともわたしはそう認めていま...続きを読む

Aベストアンサー

No.25です。
前回でもう終わりにするつもりでしたが・・・

> ☆ この回答は 残念ながら 回答には成っていないと申し上げなければ
> なりません。
>
> ただの可能性を――そしてそのひとつのみを――言い当てた。だけのもの
> だからです。

それはおかしいですね。
貴方のご質問は
「同じような内容で何度質問しても しかるべき反論や批判が出ないのは 賛同したということでしょうか」
です。
ですので、「賛同してない例」を上げました。
1件でも賛同してないという例が挙がれば、「全ての『しかるべき反論や批判を行わなかった人』が賛同しているとは言えない」ということになります。(もちろん、その例が荒唐無稽なら別ですが。)
逆に、貴方の質問の回答として「賛同した」と言うには、「全ての『しかるべき反論や批判を行わなかった人』が賛同しているという根拠を示す必要がある」のです。もしくは、「賛同していない例は存在しない」ということを示すのでも良いでしょう。

また、あくまでも「可能性」であって、事実とは限らない、というご指摘かと思いますが、何しろ、私は「しかるべき反論や批判を行わなかった人」本人ではありませんので、可能性以外を指摘しようがありません。
「事実」以外不要、とのことでしたら、ご質問文に「私の過去質問に回答をした人、または、回答しないまでも見たことのある人限定で」と書くべきでしたね。

貴方の求める回答は何でしょうか?
互いに意見を戦わせ、議論をしたいのだと受け取りましたが、貴方の態度はそれと正反対に感じられます。
もしも、過去質問においてもそのようなやり取りしかないのであれば、回答者様たちは、それを不毛に感じて「しかるべき反論や批判」をする意欲を失ったのでは・・・と思いました。
まあ、過去質問を拝見してませんので、単なる感想です。

この回答にどのような返信をいただいても、私はもう回答はいたしません。
さすがに少々疲れました。
ご了承ください。

No.25です。
前回でもう終わりにするつもりでしたが・・・

> ☆ この回答は 残念ながら 回答には成っていないと申し上げなければ
> なりません。
>
> ただの可能性を――そしてそのひとつのみを――言い当てた。だけのもの
> だからです。

それはおかしいですね。
貴方のご質問は
「同じような内容で何度質問しても しかるべき反論や批判が出ないのは 賛同したということでしょうか」
です。
ですので、「賛同してない例」を上げました。
1件でも賛同してないという例が挙がれば、「全ての『しかるべき反論や批判...続きを読む

Q殺人はいけない

殺人がいけないのは当たり前です。道徳から導かれる当然の答えです。
法律があるからは法律がなかったらいいと言いますが道徳心が心配です。

殺人をひとくくりでいけないと言うのは間違いです。
条件により答えは変わるからです。

戦争はしてもいい殺人と言いますが、単に罰せられないと言うだけです。
殺人をして褒めるのは国だけであり罪のない一般市民を殺すことが
正当化されるわけではありませんし、自分は褒めません。
実際兵士は、殺した分傷つきトラウマになり自殺したりします。

殺人を一言でいけないとしないのは正当防衛など許される殺人があるからです。
しかも自分が心から許す事の出来る殺人になります。
道徳からはいけないとされる殺人を何故心から許せるのかは、
自分を危険にさらしたり悪事を働く者に対しその人を守ろうとする気持ちにならないからです。
死刑も同様の理由で国民が納得する殺人になります。

殺人がいけないのは当たり前ですが、いけない理由が気になると思います。
まず、殺人がいけないのは罪もない人を殺すことに対してです。
逆に、悪に対しては殺してもいい答えが導かれます。
戦隊ヒーローものも、ヒーローが悪を殺して怒る人などいないわけです。

殺したら殺し返されるからと言う理由は、自分中心の考えになります。
道徳とは関係ありません。

道徳でいけない理由は、恐らく命を奪うとはその人の人生を奪うことであり、
他人の人生を脅かしたり狂わせたり奪う権利を持っていない、
それがいけない事だからとなります。

つまり、殺人がいけないのは人の人生を奪う最低な行為だからと言う道徳からくる、
答えではないかと言うことです。

他に納得できる理由があればどうぞ。

殺人がいけないのは当たり前です。道徳から導かれる当然の答えです。
法律があるからは法律がなかったらいいと言いますが道徳心が心配です。

殺人をひとくくりでいけないと言うのは間違いです。
条件により答えは変わるからです。

戦争はしてもいい殺人と言いますが、単に罰せられないと言うだけです。
殺人をして褒めるのは国だけであり罪のない一般市民を殺すことが
正当化されるわけではありませんし、自分は褒めません。
実際兵士は、殺した分傷つきトラウマになり自殺したりします。

殺人を一...続きを読む

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これに尽きますな。

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