アレルギー対策、自宅でできる効果的な方法とは?

新羅と日本は仲が良かったのでしょうか?

八世紀の日本と新羅について質問です。

白村江の戦いで日本は新羅と対立していたと思います。ですが、その後、贈り物を送りあったりしているのを習いました。教えていただきたいのは、贈り物をしあうきっかけとなったのはどう言う出来事ですか?二つ目に、日本は新羅と贈り物をしあうことでメリットがあったのですか?

日本史が苦手で知識が無く、おかしい文章になっているかもしれません。

A 回答 (2件)

日本も一枚岩ではなかった、って感じでしょうか。


ヤマト王権はありましたが、九州は九州で勝手にやってるようなところもありましたしね。

百済は親日本国で、その百済を滅亡させたのが新羅ですので、当然日本勢(当時は日本ではなかったですが)は百済の味方だったろうというのがずっと思われていた考え方だったのですが、数年前に新羅の贈り物が発見されたために、日本のなかでも百済に味方して戦う勢力もいれば、新羅に味方して戦っていた勢力もいたようだ、ということが新たに分かったのです。
新しい見解ですので、詳細は今からかもしれません。

その後、百済は新羅(と唐)に滅ぼされ、百済の再興をめざして起こしたのが白村江の戦いで、数万人の兵を送り込んで負けたのはご存知の通りです。それで2万人くらいの百済の人々が日本に渡ってきて、日本の文化にも大きく影響を与えたと言われています。
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この回答へのお礼

助かりました

理解が深まりました。ご丁寧にありがとうございました。

お礼日時:2017/07/10 14:04

>白村江の戦いで日本は新羅と対立していたと思います



その根拠は?

日本は、新羅に出兵していませんよ

今の朝鮮という国に文字の文化がありません、高句麗・百済・新羅で起こったことは全て中国や日本の伝聞という形でしか残っていないわけです
特に日本は海を隔てていますから、それが伝わるのも遅く、そのほとんどが中国からの伝聞ですよね、真偽は定かではありません

文字を持たない文化圏、文化を残そうとしない民族ですから
今もって、それを実証するのは不可能ですから、想像するしかありません
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この回答へのお礼

(倭は唐・新羅に対し根強い抵抗を示す旧百済勢力による百済復興を支援するために大軍を派遣したが白村江の戦いで唐・新羅連合軍に大敗した。)という文章を正しく読めていませんでした。文字を持たない文化など知らなかったことだらけでとても勉強になりました。ありがとうございました。

お礼日時:2017/07/10 14:02

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なぜ昔の都?が置かれた場所に、港町が少ないのでしょうか? 京都も奈良も、九州の大宰府も安芸国の西条も、海と接していません 貿易や輸送の観点からいくと海辺が有利で発展しやすいと思うのですが… 古代の日本人はなぜあえて山の中に中心部を置いたのでしょうか??

Aベストアンサー

治水や排水の能力がない時代には、川の下流域は沼地として放置されていたか、そうでなくても、たびたび洪水になって多数の人が住んだり大規模に耕作するのにむいていないからです。
排水能力がなければ、ひとたび洪水になれば、自然に水がひくまで待つことしかできませんから、多人数が定住するような「都」は作れないです。

耕作したり人が住んだりするには、水を供給する(灌漑)と、多すぎる水を排出する(排水)、の2つがセットで必要です。
このうち、排水は灌漑に比べて技術的に圧倒的に難しいです。
灌漑は、つまり、高所にある水源から、低地にある畑にむけて水路を作れば、勝手に流れていくわけですが、
排水は、低地の畑から水をくみ上げないといけません。
また、灌漑は、1ヶ所にある水源から、多数にある畑に水を配るものですが、
排水は、多数の畑から余分な水を集めてきて、1ヶ所にまとめて捨てなければいけません。
いずれにせよ、排水は灌漑に比べて大変です。

歴史上、大規模な灌漑システムは古代文明の時代からありますが、
大規模な排水システムができたのは、16世紀くらいのオランダ(風車を利用したシステム)が最初です。それまで、大規模な排水システムというのは、世界中どこにもありませんでした。

四大文明(エジプト、メソポタミア、中国、インダス)は、みな、
基本的には乾燥している(排水の心配をする必要がない)土地で、水の供給(灌漑)のみを考えればよい、という土地で発展しています。

日本でも同様で、例えば、各地の府中と呼ばれる町の多くは、排水の心配をあまりしなくてよい、川の中流域の扇状地が多いです。
また、耕作が大変そうな山奥に棚田があったりするのも、棚田であれば排水が簡単(弁を開ければ余分な水は勝手に流れていく)だからです。

治水や排水の能力がない時代には、川の下流域は沼地として放置されていたか、そうでなくても、たびたび洪水になって多数の人が住んだり大規模に耕作するのにむいていないからです。
排水能力がなければ、ひとたび洪水になれば、自然に水がひくまで待つことしかできませんから、多人数が定住するような「都」は作れないです。

耕作したり人が住んだりするには、水を供給する(灌漑)と、多すぎる水を排出する(排水)、の2つがセットで必要です。
このうち、排水は灌漑に比べて技術的に圧倒的に難しいです。
灌漑...続きを読む

Q日本には奴隷制はなかった?

ウィキペディアで被差別民を調べると、次のようなのがでてきます。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A2%AB%E5%B7%AE%E5%88%A5%E6%B0%91
①インドのカースト制における不可触民
②カーストシステムそのものから排除された形で共同体を形成する部族民
③日本の被差別部落民
④イスラームのズィンミー等がある。

また賎民は次のとおりです。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B3%A4%E6%B0%91
①日本・・・五色の賎、穢多・非人
②インド・・・アウト・カースト
③中国・・・奴婢や生口等の奴隷が労働力の中核
④朝鮮・・・僧侶、胥吏、女官、妓生、医女、男寺党、奴婢、白丁

ヨーロッパやアメリカの説明はありませんが、奴隷はいたので、奴隷=被差別民・賎民と考えていいですか?

ときどき『日本には奴隷制はなかった』という人がいますが、五色の賎、穢多・非人は奴隷とはいえないでしょうか?

また、奴隷と被差別民・賎民のちがいって何でしょうか?

ウィキペディアで被差別民を調べると、次のようなのがでてきます。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A2%AB%E5%B7%AE%E5%88%A5%E6%B0%91
①インドのカースト制における不可触民
②カーストシステムそのものから排除された形で共同体を形成する部族民
③日本の被差別部落民
④イスラームのズィンミー等がある。

また賎民は次のとおりです。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B3%A4%E6%B0%91
①日本・・・五色の賎、穢多・非人
②インド・・・アウト・カースト
③中国・・・奴婢や生口等の奴隷が労働力の中...続きを読む

Aベストアンサー

日本にも奴隷はいたし制度としてあった時期もありました。
ただ、奴隷制がメインではありませんでした。

なんでこんな話になっているかというと、その一つにマルクス主義とそれへの反論があります。
マルクス主義の歴史学では、古代は奴隷制、中世は農奴制とされています。
ヨーロッパでは古代ギリシア・ローマで奴隷がメインだったと当てはめるのはいいとして、日本がどうだったかというのは考慮されていませんでした。
かつては日本でもマルクス主義を導入した研究があって、古代に奴隷制の要素もあるとして無理にマルクス主義に当てはめようとしていました。
その後、実証主義になり奴婢などの奴隷がいたとしても奴隷制がメインというのはおかしいのではないかという考えが増えて行きました。

ですので、「マルクス主義のいう奴隷制は日本にはなかった」という意味で言っていると思います。
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あと天照大神はなぜ色んな言い方があるのですか?

日本書記は天照大神のことを大日めの貴と言っていますよね?他の書も天照大神のことを別に名前で呼んでたりします。なぜ色々な名前があるのですか?

Aベストアンサー

日本書紀の編纂責任者は天武天皇の息子舎人親王(676-735)ゆえ朝鮮人ではない。 編纂メンバーに朝鮮人が加わっていた可能性は排除できないが。 我が国の正史(国の定めた正式な歴史書)という意味では、「日本書紀」(720)が確実に最古だけど、単に歴史を書いた書という意味では、「古事記」(712)の方が古い。 ただし、古事記以前に「帝紀」や「旧辞」と言った歴史書が存在していた記録はあるが、今は散逸して存在していない。

Q倭寇が歴史エンターテイメントの題材にならない理由

西洋では、海賊は「パイレーツ・オブ・カリビアン」「カリブの海賊」などエンターテイメントの題材になっており、日本の漫画である「ワンピース」も、日本的というより西洋的な海賊を描いているといえます。

日本人は時代劇やチャンバラといった日本の歴史エンターテイメントは結構好きだと思いますが、日本の海賊である倭寇がその題材になることがほとんどないのは何故でしょうか?

Aベストアンサー

カリブの海賊だけが特別で、その他はただの
賊だったからだと思います。

カリブの海賊は、一時期、英国海軍の下請け
みたいなことをやっていたからです。

つまり、体制側の海賊です。

当時のカリブ海は、イギリス領土でしたが
スペインの攻撃があり、イギリス海軍だけでは
手薄だったので、海賊に特別免許を与え
領土を守る、ということをやりました。

つまり、その時は正義の味方だったのです。

その他の海賊はただの犯罪者ですから
英雄視するわけにはいかなかったのでしょう。

ちなみに、倭寇は元寇の報復だ、という
有力な説があります。

Q火薬はむかしどうやって作られていたのか 教えてください。

火薬はむかしどうやって作られていたのか
教えてください。

Aベストアンサー

>火薬はむかしどうやって作られていたのか

 むかしとは?

 例えば

 戦国時代 黒色火薬は硝石(硝酸カリュウム)、硫黄、木炭の混合物
硝石は日本で産しないので輸入

 しかし、鉄砲が種子島に伝来後
火薬の製法も伝わって、火薬も日本で製造されるように・・・

 硝石の作り方として有名な方法として、
硝酸菌の硝化作用によって生成される方法

 また、江戸時代に佐藤信渕という
人の著した『硝石製造弁』だと、

・炎天下で刈り取った草を1日干す。
・30センチから60センチの高さに積み上げた土の上に、
上記の干し草を敷き詰める
・その上から、下水のたまり水、風呂の水、
古池の腐り水、魚のはらわたや鳥の死骸などを
漬けて腐らせた水をかける。
・積み上がったら、雨風があたらないようにする
・月に一度、土と草の積み直しをし、牛馬の糞尿や腐れ水をかける。
・上記の作業を3年続けると「硝石」がとれる

他に蚕のフンやヨモギから作った火薬もあったようです。

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40代独身者が全員死ねば豊かな国に戻れるなら40代独身者を全員死刑にする法律を作れば日本は豊かな国になれる?

Aベストアンサー

>日本の悪の元凶は40代独身者

このソースをお願いします。

Q【三国志】三国志って実話なんですか? 中国古典に三国志という書物がないんですけど日本人が歴史を読んで

【三国志】三国志って実話なんですか?

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Aベストアンサー

中国では「三国演義」というアルヨ。
三国志は中国の正史アルネ。

Q満州国のラストエンペラーの愛新覚羅溥儀の最後はどういう死に方だったのですか? ラストエンペラーが日本

満州国のラストエンペラーの愛新覚羅溥儀の最後はどういう死に方だったのですか?

ラストエンペラーが日本に亡命しようとしていたときに持っていた金銀財宝の国宝はどこに消えたのですか?

満州国の奉天市の飛行場からラストエンペラーは逃げたわけですが、飛行場は緒方宏が経営していた。

日本は天皇が敗戦の降伏を読み上げて、満州国に豪華な列車が止まり、ラストエンペラーが乗って避難した。

ラストエンペラーは日本に亡命を希望していた。

天皇は東京で一緒に過ごすのは無理だが京都になら住んで良いと言った。

ラストエンペラーは列車に乗って満州国の新京から奉天まで出て日本に亡命する予定だった。

奉天に着いて日本には飛行機で行くことになった。

ラストエンペラーは奉天の飛行機で日本に向かおうとしている時にソ連の軍隊が飛行場に入って来てラストエンペラーは捕られて捕虜となった。

ラストエンペラーは捕虜になったがラストエンペラーの財宝を積んだ航空機は日本に向けて飛び立ったと言われている。

ソ連はラストエンペラーを捉えることしか頭になくて、まさかラストエンペラーが日本に亡命しようとしていたとは思っていなくてラストエンペラーの財宝を没収せずに日本行きの飛行機はそのまま飛び立ったと言われている。

で、緒方宏のむすこである緒方重威は後に日本の公安調査庁の長官となっている。

で、緒方重威は日本の朝鮮総連本部のビルを個人で買おうとした人物でもある。

長官とはいえ公務員の給料だけでは朝鮮総連の本部ビルは買えないのでどこからか隠し財産を脱税して親から引き継いでいたと思われる。

その隠れ資金がラストエンペラーの財宝を奉天の飛行場を経営していた父の宏が日本政府に黙って着服していた疑いがあると言われている。

でも日本行きに飛び立ったラストエンペラーの財宝を積んだ航空機が日本に着いていたら、日本にはラストエンペラーの国宝がいっぱいあるはずなのにない。

けど日本に飛び立ったという。どういうことでしょう?

日本に着いた財宝はどこに消えたのですか?

ソ連も持ってないし、日本も持ってないし、アメリカも持ってない。

ラストエンペラーは財宝を持ってなかった?

満州国のラストエンペラーの愛新覚羅溥儀の最後はどういう死に方だったのですか?

ラストエンペラーが日本に亡命しようとしていたときに持っていた金銀財宝の国宝はどこに消えたのですか?

満州国の奉天市の飛行場からラストエンペラーは逃げたわけですが、飛行場は緒方宏が経営していた。

日本は天皇が敗戦の降伏を読み上げて、満州国に豪華な列車が止まり、ラストエンペラーが乗って避難した。

ラストエンペラーは日本に亡命を希望していた。

天皇は東京で一緒に過ごすのは無理だが京都になら住んで良いと...続きを読む

Aベストアンサー

ラストエンペラーラストエンペラーうるさい。
「溥儀」ではまずいのか?


>満州国のラストエンペラーの愛新覚羅溥儀の最後はどういう死に方だったのですか?

なんで調べればわかる事を他人に聞くんだろう。

【「教えてちゃん」になると残念な結果になる2つの理由】
http://yukomotoyama.com/shiraberukuse/



何を読んだか知らないが、質問文には資料は出さず伝聞と推測しかありません。

>財宝を積んだ航空機は日本に向けて飛び立ったと言われている。

まず、↑=事実 が確定しないとそれ以降の話ができないんだが。

Q江戸時代の農民は貧しかった?

昔から疑問でした。
学校では農民は苦しい生活とか習いましたが、感覚と一致しないです。

貧乏で生活するだけで必死なら文化なんて生まれないんじゃないですかね?

各地の郷土料理。祭りもあるし?
死ぬ前に一度は伊勢参り?
茶屋だってあるし?

巡業だってあったでしょう?

村の寄り合い?に遅れたら駆けつけ3杯?お酒のんでるじゃないですか?

江戸で白米ばっか食べてた町民よりはよっぽどいい食事をしてたのでは?

そこそこ普通に生活してたんじゃないですか?

Aベストアンサー

救いようがない程の貧乏村はゼロではなかったでしょうが平均的な言い方をすれば普通に生活をしていたというのが小生の考えです。
きっかけは小生の生まれたところ。村高250石、殿様への年貢が200石、免(年貢率)は何と8割。ですが酷税に泣かされたといった悲惨な伝説はありません。寺も神社もあるし酒も飲んでいました。伊勢参りの記録は確認していませんが四国遍路の記録はあります。

なぜ免が異常に高いか
村高は豊臣秀吉が各地の領主に命じて調べさせたのが最初。しかし領主が役人を派遣して調査したのはごく少ないようで一般的にはやり方を説明して各村々にやらせ報告書を提出させた。これを「差出検地」といいます。村高が決まると年貢が決まる。村人は年貢は少なくしたい。ならば貧乏村にしてしまえ、というわけで過少申告した村があった。でもすぐにばれる。ばれると正しい年貢に増量されますが村高は訂正されなかったので免だけが異常に高くなった。
その後領主が変わるなどして再検地があると村高は訂正されることもあったようです。しかし小生の故郷は江戸時代を通じて領主の交代はなかったので再検地もなかったようです。

小生が知る範囲で最も重税なのは備中羽山村。村高58.5石、年貢が93.8石、免は160.3%(万治3年、1660年)。年貢の量が村高の1.6倍。年貢の常識論では有り得ない値。
この村、2年後には村高は128石余に増えている。農民の負担が増えた、村は苦しんだなどと言った史家先生がいたのではないかと思うが年貢の量は94.1石とほぼ変化なし。免が73.5%と何とか常識的な値に下がっているのだ。
史家の多くは村高基準で年貢制度を語っているようですがまちがい。年貢の絶対量を基準にしないと農民の負担はわからない。余計なことですが史家は算数ができないのかと疑いたくなることがよくある。

領主に納めた年貢の量を村の人口で割って1人あたりの年貢の量を調べたことがある。備中の20数か村でやったのですがどこの村も3斗5升から4斗とほぼ一定になった。小生の故郷も 年貢200石÷人口500人=0.4石 となる。村高や免の値とはほぼ無関係にこうなる。ただし宿場町や漁村は例外。さらに5才程度以下の子供は人口として数えられていないことがあるので要注意。上の羽山村は人口のデータが見つからないので計算できず。
1人あたり食糧が米1石、年貢0.4石、衣料費など雑費が最低1石必要と考えれば2.5石程度が1年間生活するために最低限必要な経費ということになる。村の数字の記録がどうであろうと1人あたり2.5石(米換算で)の生産があったということになる。当然冬の生産も含まれる。村高は夏の生産だけしか考えていないのでこのことも注意が必要。
逆に言えば人口がわかれば村の生産量が推定できるということになる。

農民はアワやヒエばかり食べていたか
年貢は土地(一般に田、畑、屋敷)に対してかかります。何を栽培しようと、逆に何も作らなくても年貢の額は変わりません(変えた領主もいたようですが)。米を作ろうとヒエを作ろうと年貢は変わりませんから誰でも最も高価な米を作ろうとしたはず。何故アワやヒエだったか、その理由は気候風土の問題で米が作れなかったのです。
関東地方などでは丘陵が多く水が乏しかったため水田は少なく、多くが畑。少ない水で育つ作物でないとダメだったのです。しかし畑の年貢も米で納めるのが基本。僅かに取れた米は全部年貢に。それでも足りないと他所から買ってきて年貢に充てました。それを見た、恐らく西日本出身の人が「米が食えない貧乏村」と言ったのでしょう。

救いようがない程の貧乏村はゼロではなかったでしょうが平均的な言い方をすれば普通に生活をしていたというのが小生の考えです。
きっかけは小生の生まれたところ。村高250石、殿様への年貢が200石、免(年貢率)は何と8割。ですが酷税に泣かされたといった悲惨な伝説はありません。寺も神社もあるし酒も飲んでいました。伊勢参りの記録は確認していませんが四国遍路の記録はあります。

なぜ免が異常に高いか
村高は豊臣秀吉が各地の領主に命じて調べさせたのが最初。しかし領主が役人を派遣して調査したのはごく少...続きを読む

Q日本で奴隷制が発達しなかったのはなぜですか?

欧米の歴史を見ると、古代から中世はスラブ人やアラブ人、近代は黒人を奴隷として大規模に酷使していました。

一方、日本の歴史を見たら、人身売買は皆無でなかったもののいずれも小規模なものに留まり、また他民族・他人種を奴隷にするという発想もなかったようですが、それは何故でしょうか?

Aベストアンサー

奴隷制についてはかなり研究しました。日本で諸外国のような奴隷制が発展しなかった理由は主に4つあります。

・日本が島国で異民族との戦争・侵入をほとんど経験していないから
・日本は大宝律令の時代にほぼ現代に匹敵する統一国家を作り上げたから
・律令時代を結果的に終わらせた墾田永年私財法によって、土地所有権がすべての個人に認められたから
・日本は近代まで騎馬民族の文化などを拒否したから

奴隷制の始まりは「異民族を支配すること」に端を発します。ユーラシア大陸は様々な民族が隣り合って住んで居るのが普通で、その間で戦争が起こり、一方が勝つと最初の頃は負けた民族を皆殺し、にしていたようです。しかし、時代が下って農業生産力が上がって養える人口に余裕が生まれたこと、鉄器などの生産などに労働力が必要になった事、などから、次第に負けた民族を「奴隷」として使うようになります。
 また、様々な民族を横断して必要なものを流通させた商人たちは、戦勝民族から敗戦側の人々を買い取り、その他の必要とする民族や都市などに売るようになりました。

たとえば、ある民族が負けると、王様と王妃は殺されるのが普通でしたが、政府の官僚や軍人、学者などは知識があるので、他の地域で高く売れたので儲かったのです。
ユーラシア大陸における「奴隷」は基本的に、その体を誰かの所有にする、ということであり、現代でもISISなどが行っている奴隷売買はほとんど同じ形を取っています。

日本は、たしかに魏志倭人伝の時代などは大陸との交易のために、奴隷を送っていました。この時代の奴隷は大陸一般の奴隷制度とほとんど同じだったといえるでしょう。なぜなら、魏志倭人伝の時代の日本は、大陸同様、豪族が別の豪族と戦って、負けたほうを皆殺しにするような時代だったからです。なぜ皆殺しにするかというと、土地の生産性が低く、負けた側の人口を養う余裕がなかったからです。

これが変わったのが大宝律令以後になります。律令は、すべての人民に口分田を与えて、国民として処遇したからです。もっとも律令制には奴婢制度と呼ばれる奴隷制度がありましたが、持統天皇が一度禁止したりして、だんだんに大陸型の奴隷制度からは乖離していきます。

この奴婢制度が完全に崩壊したのが、平安中期で私田制度による律令制の崩壊とともに奴婢制度は廃止されます。

鎌倉時代になると、人身売買は再度禁止されます。奴婢制度はすでにないはずなのですが、借金などで奴隷状態になっているものは常に居たため、それを売買することが何度となく禁止されたのです。

ただ、この時に注意が必要のは、日本の人身売買は「借金」の問題であって、人種とか敗戦民族などではなく、すべて日本国民だった、ということです。この「日本国内での日本人による日本人の売買」というのが、その後の性格を決定します。なぜそうなったかというと、日本が外国とほとんど交流をしなかったからです。逆に室町期など外国と交流が増えると、大陸式の人身売買も増えていきました。

次の転機は戦国時代になります。
豊臣秀吉が南蛮貿易での人身売買に怒ったのは有名ですが、なぜ怒ったかというと、商習慣が違ってトラブルになったからです。
なにがちがったかというと、値段と条件です。大陸の奴隷制度は「買った人の所有物」であり、家畜と同等です。たとえば農夫レベルを20歳ぐらいで購入したとすると、後20年ぐらいは使役できるわけですから、値段もその金額で計算されます。
学者や職人など付加価値があれば、それを得てもたらされる利益も上乗せされるのが普通でした。

しかし、日本は何度となく奴隷が禁止されていましたので、事実上「借金の負債分の拘束」でしかなかったのです。そのため、売買金額は背負っている借金と同額でしたので、基本的には欧米の奴隷書価格の半分から1/3という値段であったと言われています。

貿易で来た奴隷商人は、当然ですが日本でも奴隷を買おうとします。日本の奴隷商人は大陸の奴隷制度を知りませんから、日本の取引価格で提示します。多少上乗せしたとしても、一般的な価格よりも大幅に安かったのです。

そのため、戦国時代はものすごい数の奴隷が海外に売られていったとされています。同時に、売春婦や傭兵なども商人と一緒に答案アジアまで行き、日本人街ができる都市もあったようです。

さて、豊臣が政権を担っていた時期に、奴隷で売られた日本人が戻ってきます。そして秀吉に「約束が違う」と訴えるわけです。本人としてみれば「借金の方」に売られたはずなのに、実際に現地についてみれば「他人の所有物」として一生を拘束されていたわけです。

実際天正十年(1582年)にローマに派遣された少年使節団も
『実際、我が民族中のあれほど多数の男女やら童男・童女が、世界中のあれほど様々な地域へあんなに安い値でさらっていって売りさばかれ、みじめな賤業に就くのを見て、憐憫の情を催さない者があろうか』
と書かれています。世界的に見て非常に安値で買われたのは、制度そのものが違ったからです。


これを知った秀吉は、キリスト教宣教師にこう詰問します。
「予は商用のために当地方に渡来するポルトガル人、シャム人、カンボジア人らが、多数の日本人を購入し、彼らからその祖国、両親、子供、友人を剥奪し、奴隷として彼らの諸国へ連行していることも知っている。それらは許すべからざる行為である。よって、汝、伴天連は、現在までにインド、その他遠隔の地に売られて行ったすべての日本人をふたたび日本に連れ戻すよう取り計らわれよ。もしそれが遠隔の地のゆえに不可能であるならば、少なくとも現在ポルトガル人らが購入している人々を放免せよ。予はそれに費やした銀子を支払うであろう。」

なぜ秀吉が「すべての日本人をふたたび日本に連れ戻すよう取り計らわれよ」と言えたのか、というとすでに当時の日本では原則的には奴隷制度が存在せず、拘束し使役を強制できるのは「借金の分だけ」とされていたからです。ですから、借金分を返し終えた日本人はすべて帰国できるのが、日本の制度として正しい、わけで、だからこそ、秀吉は「予はそれに費やした銀子を支払うであろう」と言っているのです。

秀吉が愛国者であり、日本人が売られるのが我慢できなかった、とか宣教師が好き勝手やって怒った、という説がたくさんありますが、実際には「日本の人身売買制度を誤用して、安い値段で買いたたいて、だまして外国に連れていった」という日本の法規を危うくする状態だったから、これを正そうとしたのです。

これが江戸時代になって、年季奉公が許されるひとつの法理になっていきます。江戸時代は、人身を他人の所有物とする奴隷は禁止でありましたが、借金の返済のために自由を拘束されるのは合法だったからです。

現代でも日本が「人身売買が行われている国」に指定されるのは、このような「借金のカタ」という考え方が生きているからです。

で、ここから先は推測なのですが、
どうも古来から、日本人は騎馬民族の文化を忌避する傾向が強いように思います。
律令制度を取り入れた時も結局「宦官」は受け入れませんでした。宦官は自分の一物を切り落として官僚になる方法で、中国では一般的でしたし、古代のエジプトなどからアジアには普遍的な制度でありました。

この宦官は、馬の去勢からヒントを得ているもので(牡馬を去勢しないと荒っぽすぎて人間が制御できない)、人間を家畜として扱う奴隷制度も、非常によく似た側面を持ちます。ローマ時代の農業経営指南書には「牛・馬に投資すべきか、奴隷に費用を使うほうが採算性が高いか」ということが論じられているぐらいです。

このような「人間を家畜」として扱う奴隷制度は、少なくとも日本という国号になってからは存在が消えていくのです(奴隷を禁止した持統天皇の在位期間と日本という国号を使用した史実の時期は一致します)

どうも、農業文化を主体とする日本人は騎馬民族の血なまぐさい生き物の扱い方を嫌ったように思います。そして、日本の土地が個人所有になるにつれて、個人を他人の所有物とする法理は成り立たなくなっていくわけです。

逆に、外国との接点もほとんどありませんから、外国の奴隷を受け入れることもないし、日本の制度から言えば「いや、あなたの所有物ですよ」と言われても処遇に困るでしょう。

良くも悪くもいったん律令で人民が一律に国民として権利が与えられた後は、比較的フラットな階層構造であった日本では「公家も武士も農民も元はみな同じ」という考えが根付いていて、外国との戦争を経験していませんから、大陸式の奴隷制度を知ることも無かったのだと思います。

実は日本に大陸型の奴隷制がなかったであろう、証左はもうひとつあります。それは明治時代の四民平等です。
封建的な制度を廃止したものですが、それ以後日本では不思議なぐらい階級差がなくなっていきます。アメリカなんてあれだけ新しい国なのにいまだに人種問題や奴隷問題に苦しんでいるのに、日本ではそういうことがないのです。

これはすなわち「奴隷のような断絶を生む階級制度がそもそもなかった」ということだと思います。

ということで、日本には大陸型の奴隷制度はなかったのです。

奴隷制についてはかなり研究しました。日本で諸外国のような奴隷制が発展しなかった理由は主に4つあります。

・日本が島国で異民族との戦争・侵入をほとんど経験していないから
・日本は大宝律令の時代にほぼ現代に匹敵する統一国家を作り上げたから
・律令時代を結果的に終わらせた墾田永年私財法によって、土地所有権がすべての個人に認められたから
・日本は近代まで騎馬民族の文化などを拒否したから

奴隷制の始まりは「異民族を支配すること」に端を発します。ユーラシア大陸は様々な民族が隣り合って住ん...続きを読む


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