【大喜利】【投稿~9/18】 おとぎ話『桃太郎』の知られざるエピソード

人は死ぬと誰かれ構わず皆成仏するのでありまする。
人は死ぬと誰から構わず皆成仏して土に還るのでありまする。
それは仏様がそーしてくれるからでございまする。
善人であれ悪人であれ仏様は誰かれ構わず皆成仏させてあげるのでございまする。
たとえ極悪人であろーが仏様は必ず成仏させてくれるのでありまする。

人は死ぬと皆成仏するのでありまする。
成仏できぬ者などおりませぬ。
成仏できぬ者がいるというのは人間でございまする。
成仏できぬものは人間が作るのでございまする。
それは肉食妻帯蓄髪坊主の仕業でございまする。
成仏できぬ者がいるというのは肉食妻帯蓄髪坊主の作り話でございまする。
肉食妻帯蓄髪坊主はそのよーな作り話をしてお経を読むのでございまする。
お経を読んでお金を頂戴するためでございまする。
実のところ最も成仏し難い者とはこの肉食妻帯蓄髪坊主本人なのでございまする。

A 回答 (9件)

キリスト教徒やイスラム教徒等には迷惑な話でしょ!(勝手に仏教で成仏させられても、たまったものじゃ無いよ)

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死んでから涅槃寂静に行ってもしょうがないだろうが。


生きているうちに涅槃寂静に行くために出家して、厳しい修行をするんだろうが。
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死ぬと成仏


何処の経典にあるんかい

無学 無知 はだまっとれ
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我欲を捨てろ、というのが仏教です。



成仏というのは我欲を捨てることです。

人間にはこんなことは不可能です。

だから死んで始めて成仏出来るのです。





最も成仏し難い者とはこの肉食妻帯蓄髪坊主本人なのでございまする
  ↑
我欲を捨てることが不可能だ、というので
捨てることができた、と称する者が現れます。

それが修行を積んだ坊主です。
俺は修行を積んだから我欲を捨てることができた。

その時点で既にアウトです。
そんなことが出来る人間はおりません。
捨てた演技をしているだけです。

無理だから、それを正面から認め、開き直ったのが
肉食妻帯蓄髪坊主という訳です。
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死とは何でしょうか。

死んだ後私は何かを感じるのでしょうか。
その為には、私は誰なのか考えなくてはなりません。大抵の人は、これが私ですと自分の体を指すでしょう。

 では仮に、手が切り取られたらどうでしょう。手と残りの体とでは、どちらが私でしょう。手は私では無く、残りの方が私ですと答えるでしょう。では首が取れたらどうでしょう。首の方が私ですと答えるでしょう。では脳を取り出したらどうでしょう。脳の方が私ですと答えるでしょう。では脳を半分に切ったらどうでしょう。どちらが私でしょうか。脳を切り刻んだらどうでしょうか。どれが私でしょうか。脳の中のどの部分が私なのでしょうか。

 そもそも、体の中の物質は、3年に一回全てが入れ替わっています。では、3年後の私は私ではなくなっているのでしょうか。

 赤いとか熱いとか感じているのが私です。では、赤い熱いと言う感じは、物質でしょうか。赤い色は、心の外の世界には存在しません。物質の表面に当たって反射する光の波長が存在するだけです。

 では、音はどうでしょうか。外界には、色々な波長の空気の振動があるだけです。私たちが感じている様な音は存在しません。

 この様に、心が作り出したものを取り去ると、何も残りません。従って、赤い熱いと言った感じは、物質ではありません。幾ら科学が発達して、全てを見ることが出来る顕微鏡が出来たとしても、脳の中を覗いたところで、熱いと言う感覚を見ることは出来ません。触ることも出来ません。ただ、私が感じるだけです。物質ではないものを感じている私も物質ではありません。

 私の感じている世界は、私が心の中に作り出したものです。心の外の世界がどうなっているか、私には全く知る術がありません。しかし、心は外界に出来る限り似せて、心の中に世界を作り出しています。

 例えば部屋の中で、テレビを見ている様なものです。テレビは、実際の現場に似せて場面を作り出しています。しかし、決して現場そのものを見ている訳ではありません。あくまでも、テレビが作り出した場面を見ているだけです。
 部屋の中にいる限り、外の現場を直接見ることは出来ません。

 テレビを見ているのが私です。決して、テレビが私なのではありません。 テレビが壊れても、修理すればまた見える様になります。見ている私が壊れた訳ではありません。

 もし、見ている私が壊れたのであれば、幾らテレビを修理しても元通りに見える様にはなりません。テレビを修理して、元通りに見える様になったと言うことは、私自身は何も変わってはいなかった事を証明しています。

 同様に、もし病気で脳が壊れて、何も感じなくなったとしても、医学が発達して、脳を直す事が出来る様になれば、また私は前と同じ様に感じることが出来る様になるでしょう。

 この事は、私は何も変わっていなかったことを証明しています。病気をしても、年を取ってボケても、そして死んでも脳を元の状態に戻せば、元通り感じることが出来るので、私自身は何も変わってはいません。

 ただ脳が信号を送らなくなったので、何も感じなくなっただけです。テレビが壊れて直せなくなっても、新しいテレビを買えば元通りに見ることが出来ます。脳が死んでなくなっても、新しい脳が私に信号を送る様になれば、また元の通りに感じることが出来ます。

 科学が発達し、かつて脳を構成していた、物質を掻き集めて、元の通りに組み合わせて、脳を作ったら、また、私は元の通り感じるようになるでしょう。

 私自身は、生じるものでも無くなるものでもありません。穢れるものでも、清くなるものでもありません。増えるものでも、減るものでもありません。宇宙の初めから存在しており、宇宙の終わりまで全く変わらずに存在するものです。

 死んだ後の状態は、生まれる前の状態と何一つ変わりません。何か違いを指摘できるでしょうか。
 生まれる前の状態から、人は生まれてきました。死んだ後の状態から生まれることは、何ら不思議なことではありません。
 「不生不滅不垢不浄不増不減」です。

質問者さん、この様に脳が死ぬと精神である私に刺激を送るものが無くなるので、私は何も感じません。新しい脳がまた私に刺激を送る様になると、私はまた元のとおり感じる様になるでしょう。
死んだら、気が付くと母の胸に抱かれていることに気が付きます。誰しもそうです。ですから、死んだ人にもまた次の生或はその次の生で出会えると考えます。

詳細は、下記のホームページを参照下さい。
http://catbirdtt.web.fc2.com/sitohananika.html
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生きているうちに悟り(互助)、


自己と等価に他を愛し(他我)、
社会への貢献を意志し(利他)、
肉体を超えた充足を得る(愛)。
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成仏、という言葉の起源の一つは。


人間には、4つの性格がある。
 1 人を苦しめ、自分も苦しむ者
 2 人は苦しめても。自分は苦しまない者
 3 人は苦しめず、自分が苦しむ者
 4 人を苦しめず、自分も苦しまない者
人を苦しめ、自分も苦しむ者は、地獄、であり
人を苦しめず自分も苦しまない者は、仏、である。
ホテルなどにおいてある、仏教経典、ブッダが言ったと書いてあった、詩句でしょう。
死後どうなるかについては。
すべては、変化してゆくものである、悟った者は、この世(俗世、心の世界)を捨て、かの世(知恵、悟りの世界)に至る。
心なる実体は存在しない、世界の在り方に我の心は関係ない、と悟った者は、この世も、かの世も、共に捨て。再びこの世に生を受けることはない。
みたいな詩句がありました。
どうでもいいいことでしょうが、日本人のなかで、神の存在、死後の世界、超常現象、精神霊魂の存在などを、最も信じていないのは、弁髪僧侶の一派だとも。言われています。
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表面だけを見ています。

つまり、表には裏があることがあるのと同じで、もう一回自分で書いたことを考えてみましょう。
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トリビアを1つ


成仏の本来の意味は仏に成る、つまり仏陀になる、目覚める、悟ることなんですね

葬式仏教が死人に成仏を使うようになり、それが一般的になりましたが。
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