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1. 特殊絶対性とは 《われ 神を見たり》なる主観を外から否定も肯定も
成し得ないというときその神観としての主観を言う。〔(5)に見るごとく
神は 非知ゆえである〕。

2. 言いかえると 《われ 神の声を聞けり》なる主観は 外へ出かけるな
ら意味を成さない。意味を成すとすれば 神を人間の認識しうる概念としての
み扱った場合に限る。

3. ゆえに 宗教は それがもし神を他人に向けて心に受け容れなさい(つ
まり 信じなさい)と説くのならば ただの譫言である。または 神なる概念
の弄びである。宗教は 存在理由が無い。



4. 《絶対》とは 経験事象としての有る無しを超え因果関係から自由な場
ないしチカラである。《非経験の場》とよび そう想定する。

5. 非経験の場は 認識のあり方として 《非知》である。

  経験事象
    可知
      既知(間違いだったと分かることもあるが知ったとする)
      未知(いづれ既知になるであろうと推察されている)
    不可知(未知でしかも知り得ないと証明し得たものごと)

  非経験の場
    非知(知り得るか知り得ないかが知り得ないナゾ)

6. 非知なる非経験の場 これを――《神 またはその一定の名》において
――心に受け容れたとき(つまり 信じたとき) わが心には《非思考の庭》
が成る。
ヒトたる生物の身と心とから成る自然本性に ぷらす α としてやどる何ものか
の自覚が起きる。

  【 α : 霊我】:信じる:非思考の庭:ヒラメキ・良心
  -------------------------
  【心:精神】:考える:思考の緑野:コギト 
  【身:身体】:感じる:感性の原野:センスス・コムニス

7. 非思考の庭は 受け容れる器(ミクロコスモス)とその対象(非対象:
マクロコスモス)との一体性として示される。類型として梵我一如とよぶとよ
い。または 霊霊一如である。

  A. ブラフマニズム:梵我一如
   梵:ブラフマン・・・・・マクロコスモス。神
   我:アートマン・・・・・ミクロコスモス。霊我

  B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(=無神論)
   無梵:空(シューニャター)・ゼロ
   無我:アン‐アートマン;ニルワーナ

  C. ブディズム:仏仏一如(=有神論)
   仏:アミターバ・ブッダ(阿弥陀如来)
      / マハーワイローチャナ・タターガタ(大日如来)
   仏:タターガタ・ガルバ(如来蔵)・ブッダター(仏性)

  D. クリスチアニズム:霊霊一如
   霊:神・聖霊
   霊:《神の宮なるわれ》

  E. (プラトン?):霊霊一如
   霊:宇宙霊魂(プシュケー・コスムー) / 世界霊魂(アニマ・ムンディ)
   霊:《われ》

  F. 《もののあはれを知る》
   霊:かみ(超自然およびその依り代としての自然)
   霊:われ(自然本性)

  G. ユダヤイズム:霊霊一如
   霊:ヤハヱ―;(エローホ=神)
   霊:われ

  H. イスラーム:霊霊一如
   霊:アッラーフ(イラーハ=神)
   霊:われ

8. したがって 非経験の場 ないし 非知なる神は そのまま普遍神であ
る。名が違うのみである。また それら有神論に対して 《無い神》と名づけ
る無神論も いづれも普遍神についての互いに同等の説明である。
――これが 一般絶対性である。



9. 個別絶対性とは ひとりの人の信仰 すなわち 《普遍神とわれとの関
係》をめぐっての説明となる。

10. というのは 普遍神をよぶ名前が異なっているだけではなく 個人ご
との信仰が――〔非〕対象である神は 普遍神ひとつであると想定されるにも
かかわらず―― 互いに同じであるか どう同じであるかが 人間には分から
ないからである。

11. それは いわゆる証明抜きの公理として持たれる信教・良心の自由と
いう内容につながっている。目に見える現象としては互いに異なるところがあ
ると言わねばならないはずだが その信仰は 個人ごとの個別絶対性として捉
えられる。また それとして とうとばれる。つまり 信教・良心の自由。

12. 個別絶対性は 神が普遍神であること および その神とわれとのカ
カハリとしての信仰が霊霊一如なる普遍的な類型において成ること――つまり
は 一般絶対性理論――からみちびかれる。

13. 個別絶対性は さらに具体的な個人にあって《普遍神とわれとの関係》
が――生身の人間にとってゆえ――多様性を持つと見られるとき 特殊絶対性
として捉えられる。


14. ちなみに 信仰から得られた観想を 倫理規範としまた世界観とした
のは 宗教のオシヘである。オシヘは すでに思想である。

15. ところが もし宗教がこのオシヘをかかげ 無条件に受け容れなさい
(つまり 信じなさい)と説くなら いまの絶対性理論の外にある。オシヘは 
思考の緑野の中におさまり 《考える》ものである。《信じる》とは 何の関
係もない。神論としてアウトである。

☆ ご見解をどうぞ。

A 回答 (2件)

そうですね、全体的にもう少し用語の定義を与えてくださると読みやすいと思います。


自分は大学で哲学と数理論理学を専攻していますが、まずこの手の哲学は読み手へ強く訴え出る為の理解、その足がかりとなる用語の定義を丁寧に行います。
完全に理解したわけではないですが、なかなか興味深い内容に思えます。
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この回答へのお礼

そうですか。

いちおう表題の四つの主題について 必要最小限での説明をしたつもり
ではあります。

そして さらにほかに 非経験の場・非知・あるいは非思考の庭などが
あたらしい用語です。

非思考の庭――つまり 信仰のあり方――が 梵我一如なる類型だとい
う仮説。

すなわち 仏仏一如と言える場合があれば 霊霊一如と表わせる場合も
あるといったこと。

そこで 神は ブラフマンであろうが ヤハヱ―と呼ぼうが それらが
仏であったり霊であったりしても みなそれぞれ同じひとつの神のこと
を表わしているはずだ。つまり 普遍神だ。・・・と。

宗教の批判は まだ説明が少ないかも分かりません。とは思います。

理解しづらいところがありましたら 具体的にもどうぞ。


ご回答をありがとうございます。

お礼日時:2017/08/11 00:33

各々のエリクチュールに対する定義が不足していて評価しかねます。

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この回答へのお礼

どこが分からないですか? つまり定義不足ですか?



ご回答をありがとうございます。

お礼日時:2017/08/11 00:07

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