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質問させていただきます。
江戸時代において徳川幕府は田畑勝手作りの禁や田畑永代売買禁止令を出して本百姓体制を維持しようとしました(最終的に享保の改革で質流し禁令を撤回したことで本百姓体制を諦めた、と評価されています)。
また佐賀藩の鍋島直正も均田制を実施して本百姓体制を維持しようとしました。

なぜ幕府や藩は本百姓体制を維持しようとしたのでしょうか。年貢収入だけならば本百姓からの納入でも寄生地主からの納入でも同じに思えます。

また明治政府は本百姓体制をあっさり放棄して土地売買を完全に自由化しました。

なぜ幕藩体制は本百姓体制を必要として、明治政府は本百姓体制を必要としなかったのでしょうか。

宜しくお願い致します。

A 回答 (2件)

身分制度を維持しようとしたのでは


ないですか。

農地売買を自由にしたら、百姓が他の仕事を
するようになります。

人口の大部分を占める百姓が自由に職を変え
場所を変えなどしたら、身分制度が維持できなく
なります。

その先は武士支配の終焉です。

明治政府は、もはや身分制度は必要ない、弊害ですら
ある、ということで廃止しましたので
本百姓制度にこだわる必要はなかった、のだと
思います。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
非常に納得いたしました。
単に年貢収入を維持するだけではなく、身分制度の維持も重要な課題であったという訳ですね。

そう言えば律令国家の崩壊も逃亡や離散などで国家が農民を管理できなくなり(戸籍制度が崩壊)、現地支配者の開発領主などが強大化したせいでした……。
本百姓体制が動揺すると武士が農民を支配管理出来なくなってくる。
土地を中心とした封建的国家では本百姓体制の動揺は収入の面でも人民支配の面でも死活問題であったと。
しかし明治政府の近代的な中央集権制によって国家による一元的な国民支配(なんか左翼っぽい……?)が確立して本百姓体制は不要となったわけですね。

大変助かりました。有難うございます。

お礼日時:2017/08/16 17:07

経済的基盤を固めていたのではないですか。


>年貢収入だけならば本百姓からの納入でも寄生地主からの納入でも同じに思えます。
本当でしょうか?寄生地主(?)は浮遊性があり、年貢収入の減額は避けられないのでは。

明治政府は、納税の制度を年貢米の制をはずしたのではなかったですか。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
本百姓体制の動揺はそもそも年貢収入においても問題であったと。
明治政府にも言及いただき、「なるほど!」と目を開かされました。
確かに地主と言っても土地の売買は禁止されているので「質流れ」という非常に曖昧な所有関係となり、年貢収入が不安定になると思いました。
明治政府は土地売買を解禁しましたが、地券を発行して税と所有権を明確化しましたので、その辺が江戸時代との違いなのですね。

とても助かりました。ご教授有難うございます。

お礼日時:2017/08/16 17:13

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畳は日本の文化って大嘘ですよね?

戦国大名の豪邸でも床は板で大将が座る高座として畳が使われていた。

日本の和室が出来て和室全部に畳を敷くようになったのは昭和ですよね?

Aベストアンサー

存在する最も古い畳は奈良時代の畳です。
「御床畳」(ゴショウノタタミ)という木でできた台の上に置かれたものが、
奈良東大寺の正倉院に保管されています。
安土桃山時代の茶室は畳でしたよ。
一般的になったのは江戸時代後期です。
畳を作って生業とする「畳職人」「畳屋」という職業としての畳職人が
確立していき、庶民の家にも使用されるようになったようです。

Q歴史について 幕府軍は鳥羽伏見の戦いで薩長軍に敗れたのですが兵力で大きく上回る幕府軍のはずの幕府軍の

歴史について
幕府軍は鳥羽伏見の戦いで薩長軍に敗れたのですが兵力で大きく上回る幕府軍のはずの幕府軍の敗因は何ですか?

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錦の御旗が原因です。


一万五千と五千の兵力差だけでなく、政治情勢的にも誰もが徳川慶喜なしの政権はないと考えていた時代です。
大久保利通ですらそう思っていました。

慶應四年一月四日までは。


それが変わったのは、鳥羽伏見の二日目です。
二日目には、「徳川慶喜は政権に絶対戻れない」と皆が思うようになりました。



一日目と二日目の間に何があったのかは、錦の御旗が原因としか考えられません。




>薩長軍を叩き潰せば錦の御旗は旧幕府軍の物にならないんですか?

ならならないです。本物なら。
ただ、その時点では「偽物だ!」として無視させる事も出来たかもしれません。わずか一日の話です。真偽を確かめる術などないので、指揮官の指示を信じるかどうかになります。

しかし、多くの徳川側の兵が信じ込んで、連鎖反応をして雪崩現象が起きて形勢がひっくり返ったのです。

「敗北の原因となった錦の御旗ですが、そもそも幕府側がそれを信じ込んでしまった原因は何ですか?」については、私も詳しくは知りません。

錦の御旗の作戦を事前に知っていた、大久保利通ですらこの作戦がここまでうまくいくとは思っていなかったでしょう。もし勝利の秘策として確信があるなら、初日に「二十年の苦労が土崩に帰した」と日記に記したりはしないはずです。

大久保利通は敗北を覚悟したのです。しかしその翌日は全く逆の情勢になっていました。
(岩倉具視は、ここまで作戦がうまくいくと予想していたかもしれませんが知りません。)

錦の御旗が原因です。


一万五千と五千の兵力差だけでなく、政治情勢的にも誰もが徳川慶喜なしの政権はないと考えていた時代です。
大久保利通ですらそう思っていました。

慶應四年一月四日までは。


それが変わったのは、鳥羽伏見の二日目です。
二日目には、「徳川慶喜は政権に絶対戻れない」と皆が思うようになりました。



一日目と二日目の間に何があったのかは、錦の御旗が原因としか考えられません。




>薩長軍を叩き潰せば錦の御旗は旧幕府軍の物にならないんですか?

ならならないです。本物なら...続きを読む

Q池上彰の戦争を考えるで零戦に【爆弾をロープでぐるぐる巻にして】という言葉がでてきましたが本当にロープ

池上彰の戦争を考えるで零戦に【爆弾をロープでぐるぐる巻にして】という言葉がでてきましたが本当にロープでぐるぐる巻きにしたのでしょうか?
そもそも零戦には小型爆弾搭載用のフックがついているはずですし、それを改造して500キロ爆弾を搭載したと聞いたことはあったのですが
ロープの件は検索しても出てこなかったので…

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はじめまして

もともと零戦には小型爆弾の搭載を前提としていましたので、ご指摘の通り改造して500kg爆弾を搭載したものもありましたが、荒縄でぐるぐる巻きにした機体もあったそうですよ。工場に送って改造している余裕がなかったんでしょうね。それ以外でも爆弾をハンダ付けをしたものもあったそうです。

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http://buton.sakura.ne.jp/021miyabe.html

Q私は昭和23年の生まれだが、各地に朝鮮部落があり我々日本人の子供と朝鮮部落の子供との間で集団喧嘩は日

私は昭和23年の生まれだが、各地に朝鮮部落があり我々日本人の子供と朝鮮部落の子供との間で集団喧嘩は日常茶飯事であり、日本人の間では確かに朝鮮人に対する差別はあった。韓国は歴史認識がどうのこうのというが、あの差別を考えれば日本人に対する仕返しとして無理からぬことだと思う。差別は無かったという記述を観るとちょつと違うなと思う。親の話を思い出すに戦前、戦中、前後を通じて差別が無かったという見解には疑問を禁じ得ない。異論かあれば聴きたい。

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差別はあります。 日本のことは皆さまがいろいろ書かれているので韓国の視野から書きます。

これは、以前親しかった、日本人で韓国で学者をしている先生から聞いた話です。

日本人が最初韓国語を習うのは、とうぜん、韓国や朝鮮文化に興味をもち、また韓国語そのものが好きだから学ぶようになった。 でも、韓国の大学で学び、大学院でさらに学ぶうえにおいて、この地、韓国で日本に対する偏見がおそろしく酷く、自分は何のために朝鮮文化および韓国語を学ぶようになったのか悩む日々が多い。

韓国で教えている日韓問題は、韓国側が都合よく捻じ曲げたものであり、義務教育でそれをおしえるものだからねそれが「真実」と韓国人は信じている。 韓国の辞書にしたところで、日本に関する記述は偏見そのもので真実はまったく読めない。 多くの韓国人が、英語を学び、世界にでて本当のことを学んでほしいのだが・・・。

自分は、この先どうしたらよいのか、韓国の大学に留学した日本人はいつも悩む。 韓国に残っても日本語教師としてか生きていくことはできないし、日本に戻ったところで、韓国朝鮮文化を専攻していたら就職先も危うい。 韓国にのこっても、日本と比較したら賃金は安いが、それでも物価が日本より安いので、それなりの暮らしはできる。 しかし、いつも、日本人悪しの視線で生活していかないといけないことは、心苦しい。

いちばんいいたいのは、韓国人に英語を学び、米国などにいき、本当の朝鮮半島の歴史を学び真実を知ってほしい。 韓国語に訳されたものは、どれも「都合よくねつ造された文化」で真実は、韓国では誰も教えてくれない。

---

ここまでですが、前国連事務総長のバン・ギムン氏も、事務総長として活躍していた時と、韓国大統領選に立候補したときは、まるで異なり(のちに辞退しましたが)、世界の舞台で、世界の常識を百も承知のバン・キムン氏でさえ、韓国人の偏見には負けてしまったよい例かもしれません。

しかし、韓国政府は巧みに外交戦術を利用し、日本海を「東海」と改めるように図るなど、すさまじい戦略にでています。

日本国外務省も対抗して、次のアドレスで、日本語、英語、アラビア語、中国語、フランス語、ドイツ語、イタリア語韓国語、ロシア語、スペイン語でビデオを載せています。


http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/nihonkai_k/index.html

下側に照会したのは韓国政府が「東海」が正しいとした韓国政府公式ビデオです。 日本語版は用意されていないので英語版を載せました。 (ビデオは英語版のほか、韓国語版、アラビア語版、中国語版、フランス語版、ドイツ語版、ロシア語版、スペイン語版)がありますが、日本語版はなぜか作成していないようです。

https://www.youtube.com/embed/YFKbpsx3EeE

差別はあります。 日本のことは皆さまがいろいろ書かれているので韓国の視野から書きます。

これは、以前親しかった、日本人で韓国で学者をしている先生から聞いた話です。

日本人が最初韓国語を習うのは、とうぜん、韓国や朝鮮文化に興味をもち、また韓国語そのものが好きだから学ぶようになった。 でも、韓国の大学で学び、大学院でさらに学ぶうえにおいて、この地、韓国で日本に対する偏見がおそろしく酷く、自分は何のために朝鮮文化および韓国語を学ぶようになったのか悩む日々が多い。

韓国で教えてい...続きを読む

Q延暦寺はなぜ中世日本仏教のトップになったか

質問させていただきます。
日本史を勉強していると、比叡山延暦寺が多くの名僧を輩出しているのに驚きました。
密教の僧侶ならまだ理解できるのですが、『往生要集』の源信をはじめ、鎌倉新仏教の開祖たち(法然、栄西、日蓮)も比叡山で学んだそうです。
九条兼実の弟で『愚管抄』を書いた慈円も天台座主ですね。高級貴族の子弟などの出家先としても非常に重んじられていたのだと思います。
ふと疑問に思ったのですが、密教自体は日本仏教の中でもそれほど歴史は深くないと思います。例えば東大寺などの古い寺院に比べてなぜ延暦寺はこれほどまでに影響力を持つようになったのでしょうか。
鎌倉新仏教の開祖たちを見ていると、「仏教を学ぶなら取り敢えず延暦寺」という印象を受けますが、彼らが律宗や華厳宗などの旧仏教ではなく例えば「興福寺で学ぼう」とならずに比叡山に登ったのはなぜでしょうか?

個人的には(当時としては)「最先端の仏教・学問」だったのかなあ?と考えました。
よろしくお願いします。

Aベストアンサー

日本での仏教は護国の手段として採用され、僧はそのための行事催行者として公職任用されたもので、個人のかってでなるものではなかったのです。 その後、個人の死後の幸福?を招来するマジシャンのような役目を果たすようになって、各宗派が南都で成立繁栄することになります。 でも、それはあくまで、きちんと仏教の教理を勉学していないと効果がでないからというような認識に基づくものでした。
ですが、南都仏教とは立場というよりも、志向するところが違ったのぽつぽつでてきて、何を目指したかというと、仏教の本当の教え、究理はなにかを徹底的に知ろうとする人が出てきたのです。仏教公務員になることがねらいとうよりも、"私はもっと知りたいんだ!"のような志向です。 そういう志向でも、東大寺戒壇院を目指したのですが、東大寺戒壇院は基本は仏教行政という重要な役割から離れられない国家的性格があって、どうもしっくりない面が残っているし、密教的なもの、個人的学問追求には向いてないので、最澄は、山岳宗教的な個人研鑽修行も実行できる山の中に学習所を作ったのです。 ですから最初から、後代に円仁が説いた円密一致のようのを当然とするスタンスをもっていたし、最澄はとてもとてもとても厳しい研鑽と学問研究への専念を求めたのです。 そうした厳しい環境であることを知ってそこを目指したもの達がいたのですから、落後してしまう学僧が多数でたにしても、後代、優れた学僧、新しい理論を打ち立て信念で独立して新宗派をつくるものも輩出することになったのです。
高野山の場合は、叡山のようには様々な仏教思想を学び吸収するというような姿勢ではなかったので、スゴイ僧が出たとしても、叡山ほどには多数のスゴイ僧が次々開祖として宗派を作っていくようにはならないし、薬師寺、円宗寺、法勝寺、興福寺なども学僧の修練には熱心で論議を盛んに行っていたけれども、山中に三塔十六谷の諸堂があり 広学竪義を盛んにしたという経歴もあって、他の諸寺とはだいぶ違う状態になっていったのでしょう。
https://kotobank.jp/word/%E5%BA%83%E5%AD%A6%E7%AB%AA%E7%BE%A9-1312963

日本での仏教は護国の手段として採用され、僧はそのための行事催行者として公職任用されたもので、個人のかってでなるものではなかったのです。 その後、個人の死後の幸福?を招来するマジシャンのような役目を果たすようになって、各宗派が南都で成立繁栄することになります。 でも、それはあくまで、きちんと仏教の教理を勉学していないと効果がでないからというような認識に基づくものでした。
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Qなぜ小作地より自作地を好むんですか?小作地にはなにかデメリットがあるんですか?中3の歴史です

なぜ小作地より自作地を好むんですか?小作地にはなにかデメリットがあるんですか?中3の歴史です

Aベストアンサー

小作地は自分の土地でないから、凶作でも地代払わないといけない。
自作地に地代はかからない。

Q日本には奴隷制はなかった?

ウィキペディアで被差別民を調べると、次のようなのがでてきます。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A2%AB%E5%B7%AE%E5%88%A5%E6%B0%91
①インドのカースト制における不可触民
②カーストシステムそのものから排除された形で共同体を形成する部族民
③日本の被差別部落民
④イスラームのズィンミー等がある。

また賎民は次のとおりです。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B3%A4%E6%B0%91
①日本・・・五色の賎、穢多・非人
②インド・・・アウト・カースト
③中国・・・奴婢や生口等の奴隷が労働力の中核
④朝鮮・・・僧侶、胥吏、女官、妓生、医女、男寺党、奴婢、白丁

ヨーロッパやアメリカの説明はありませんが、奴隷はいたので、奴隷=被差別民・賎民と考えていいですか?

ときどき『日本には奴隷制はなかった』という人がいますが、五色の賎、穢多・非人は奴隷とはいえないでしょうか?

また、奴隷と被差別民・賎民のちがいって何でしょうか?

ウィキペディアで被差別民を調べると、次のようなのがでてきます。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A2%AB%E5%B7%AE%E5%88%A5%E6%B0%91
①インドのカースト制における不可触民
②カーストシステムそのものから排除された形で共同体を形成する部族民
③日本の被差別部落民
④イスラームのズィンミー等がある。

また賎民は次のとおりです。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B3%A4%E6%B0%91
①日本・・・五色の賎、穢多・非人
②インド・・・アウト・カースト
③中国・・・奴婢や生口等の奴隷が労働力の中...続きを読む

Aベストアンサー

日本にも奴隷はいたし制度としてあった時期もありました。
ただ、奴隷制がメインではありませんでした。

なんでこんな話になっているかというと、その一つにマルクス主義とそれへの反論があります。
マルクス主義の歴史学では、古代は奴隷制、中世は農奴制とされています。
ヨーロッパでは古代ギリシア・ローマで奴隷がメインだったと当てはめるのはいいとして、日本がどうだったかというのは考慮されていませんでした。
かつては日本でもマルクス主義を導入した研究があって、古代に奴隷制の要素もあるとして無理にマルクス主義に当てはめようとしていました。
その後、実証主義になり奴婢などの奴隷がいたとしても奴隷制がメインというのはおかしいのではないかという考えが増えて行きました。

ですので、「マルクス主義のいう奴隷制は日本にはなかった」という意味で言っていると思います。
ただし、結論だけをみて「日本には一切の奴隷はいなかった」のように間違った捉え方をしてしまっている人もいます。
古代の奴婢や中世の人身売買では奴隷でしょうから。

Q源義経 軍事的天才と呼ばれている理由

源義経が軍事的天才と呼ばれている理由はなんでしょうか?

わがままでもうしわけないのですが具体的にお願いします_(._.)_

Aベストアンサー

恐らく我が国では最初の、「大規模な奇襲作戦」を成功させたのが義経です。
「一の谷の戦い」がそれで、ほぼ無名だった義経を、一躍有名にしました。

木曾義仲に京都を追い出された平家ですが、それでも充分に兵力を温存し、巻き返しを図るべく福原(兵庫県神戸市)に万全の布陣。
その追討が源範頼(義経の兄)を総大将とする源氏ですが、この時点で源氏の6万に対し、平家は7万とも10万とも。

更に、西国に勢力を有す平氏は、どんどん陣容を増し、逆に源氏は兵糧の輸送などにも心配がある有様。
従い、源氏側としては、短期決戦したいものの、まともにぶつかっては勝てるかどうか。
そこで副将格の義経が、別働隊を率いて平家の後方を衝き、その混乱に乗じて範頼の主力軍が攻め込むと言う作戦を提案し、これが大成功と言う戦です。

別に平家側も油断していたワケではないのですが、まさか険しい山側から騎馬隊が攻撃してくるなどとは思ってもいなかったから、義経の狙い通りの大混乱。
これが有名な「鵯越の逆落とし」です。
おまけに義経ってば、自ら率いた逆落とし別働部隊とは別に、これも有名な武将ですが、熊谷直実に側面攻撃部隊を率いさせると言う、用意周到さです。

ちなみに、この戦で熊谷直実に討ち取られたのが、平家一門の平敦盛で、この逸話は平家物語や、能の『敦盛』や幸若舞の『敦盛』として扱われ、超有名。
織田信長がよく口にしたとされる「人間五十年、化天のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり」も、幸若舞『敦盛』の一節です。
この先には、那須与一が見事、弓矢で扇を射抜いた話とか、義経の八艘飛びなど、源平の戦には多くの逸話があることも、義経人気に一役買ってますね。

東西と北に敵を構えた平氏は、南側の瀬戸内海に逃げるしかありませんが、7万の軍勢が一斉に船に乗って逃げられるハズもなく、溺死者なども多く出て。
この戦で平家は大惨敗を喫し、実質、崩壊してしまいます。

追討軍の指揮は、引き続き源範頼が執るのですが。
この兄ちゃんは、ちょっと出来が悪いのか、モタモタしちゃうから、一番上の頼朝兄ちゃんが怒って、義経に「アイツはダメ。お前が討伐へ行け!」と命じ。
義経は、短気な頼朝兄ちゃんの期待に応えるべく、ちょこっとの船で、海路、平家討伐に向かい、ここでも奇策や奇襲を重ね、見事に勝利を収めます。

一方でダメ兄ちゃんの範頼も、陸路、九州あたりまで平家の残党討伐を行い・・。
平家の本体を討伐し続けた義経と合流しして、最後の決戦「壇ノ浦の戦い」で、平家を滅亡に追い込みます。

義経の軍事的な才能は、「型破り」と「スピード」でしょうか?
軍事の天才に求められるのは、「少数で大軍を撃破」みたいなエピソードかと思いますが。
義経は、それを策略などではなくて、型破りな奇襲と、それを相手どころか味方も驚く様な早さで、やってのけてます。

「やあやあ我こそは!」の時代に、思わぬところから、突如、騎馬隊が現れて、陣地に火矢を射込むなどして暴れ回ったりしたら・・。
現代で言えば、いきなり東京湾に謎の潜水艦群が浮上して、ミサイル発射・・くらいのインパクトかも知れません。

ただ義経は、危うさもあって、後白河法皇から「大将が先陣に立って戦っちゃダメ!」と叱られたりもするのですが、「コッチはハナから、死ぬ気でやってんだよ!」と逆らったりしてます。
もしかすると義経の「型破り」さは、「命懸けの強さ」とか、そんな覚悟から来る発想かも?とも感じます。

従い、後の戦国武将とかでも、上杉謙信などは義経を尊敬していましたが、武田信玄あたりは、あまり尊敬していなかったみたいで、武田家も、お家がゴタゴタしたので、最後は頼朝に殺された義経を、「出しゃばりすぎ」と見ていた様です。
しかし、謙信も信玄も、義経と同じく軍事的天才に挙げられるので、その二人に教師や反面教師とされた義経は、やはりスゴいですね。

恐らく我が国では最初の、「大規模な奇襲作戦」を成功させたのが義経です。
「一の谷の戦い」がそれで、ほぼ無名だった義経を、一躍有名にしました。

木曾義仲に京都を追い出された平家ですが、それでも充分に兵力を温存し、巻き返しを図るべく福原(兵庫県神戸市)に万全の布陣。
その追討が源範頼(義経の兄)を総大将とする源氏ですが、この時点で源氏の6万に対し、平家は7万とも10万とも。

更に、西国に勢力を有す平氏は、どんどん陣容を増し、逆に源氏は兵糧の輸送などにも心配がある有様。
従い、源氏...続きを読む

Q東京裁判

太平洋戦争後 東京裁判が行われ日本人7名が死刑となりましたが、この戦争でこのような裁判が行われ死刑になったのは、日本だけですか?

Aベストアンサー

こちらをどうぞ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8B%E3%83%A5%E3%83%AB%E3%83%B3%E3%83%99%E3%83%AB%E3%82%AF%E8%A3%81%E5%88%A4
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8B%E3%83%A5%E3%83%AB%E3%83%B3%E3%83%99%E3%83%AB%E3%82%AF%E7%B6%99%E7%B6%9A%E8%A3%81%E5%88%A4

Q浅井長政って信長さえ裏切らなければ大大名確実だったのではないですか?

北近江の戦国大名である浅井長政は信長の妹であるお市の方を嫁とし、信長と同盟関係・縁戚関係を結んでいましたが、信長に反抗したために姉川の戦いで敗れ、自害します。
上洛を果たすほどの大勢力を築いた信長との武力の差は明らかであり、力の差を冷静に見極めて反抗さえしなければ、いくら信長でも義弟を攻めるようなことはしないでしょうし、信長に協力を続けていれば北陸地方の覇者の座は堅いでしょう。

また、史実の通り秀吉が長政の娘(淀殿)を妻とすれば、すなわち天下人の義父であり、信長の弟・秀吉の父というだけでほとんどの大名がひれ伏すような存在になったはずです。五大老の一員くらいは堅いでしょう。
関ヶ原の戦いでどちらにつくかで大きく変わってきますが(領地が近いので、争いに巻き込まれる可能性が高い)、それさえ乗り切れば江戸時代まで続く、伊達家・島津家・毛利家と並ぶ大大名になれたのではないでしょうか。
姉川の戦いに入る前に長政は相当悩んだでしょうが(昔の繋がりに味方するか妻の実家に味方するか)、その判断の過ちが大大名になるか自害するかの分かれ道になってしまったのではないでしょうか。

北近江の戦国大名である浅井長政は信長の妹であるお市の方を嫁とし、信長と同盟関係・縁戚関係を結んでいましたが、信長に反抗したために姉川の戦いで敗れ、自害します。
上洛を果たすほどの大勢力を築いた信長との武力の差は明らかであり、力の差を冷静に見極めて反抗さえしなければ、いくら信長でも義弟を攻めるようなことはしないでしょうし、信長に協力を続けていれば北陸地方の覇者の座は堅いでしょう。

また、史実の通り秀吉が長政の娘(淀殿)を妻とすれば、すなわち天下人の義父であり、信長の弟・秀...続きを読む

Aベストアンサー

そうだと思います。ただ、政治は合理的判断だけで下されるわけではありません。

信長も、兵站が絶たれるリスクは承知していましたが、合理的に考えていくら浅井が朝倉の属国で通知なしに朝倉攻めをしても、浅井が裏切るとはありえないと考えたのです。合理的に考えればその判断は正しいです。

しかし、浅井家では、朝倉の属国であり続けたいと言う意見が勝利しました。
長政本人の心のうちは永遠に分かりません。




>信長に反抗したために姉川の戦いで敗れ、自害します。

「姉川の戦いで敗れ、自害」とは、長政の事ですか。
姉川の戦いで敗れてからも、長政も浅井軍も健在です。

姉川の戦いは、実はただの局地戦です。
姉川の戦いは教科書では強調されて載っていますがそれほど戦況には影響していません。おそらく、徳川家が大活躍した戦いなので江戸時代にプロパガンダのように強調されて今にもその影響が続いているのでしょう。

姉川の戦い以降も、朝倉・浅井軍は健在です。それに加えて石山本願寺や三好三人衆などの第一次織田包囲網まで発展して、信長軍は東を守れば西が攻められ、西を守るために軍を動かせば東が攻められ、見たいな状態でどうにもならなくなります。

最終的には信長の巧みな外交力で講和に持ち込みますが、「講和に持ち込まなければヤバイ」と言うほどピンチだったと言う事です。
そうでないなら、圧倒的な軍勢で踏み潰せばよいだけなので。



長政や浅井一族が自害するのは、第二次織田包囲網で武田信玄が急死して戦況が一気にひっくり返って織田勢力が一気に優勢になり、小谷城を囲み本丸を落とした後です。

もしも武田信玄が後一年寿命が長ければ、織田家は滅んでいたでしょう。
勿論、その場合は浅井家は「朝倉についていて良かった」となります。



>上洛を果たすほどの大勢力を築いた信長との武力の差は明らかであり

信長が「天下は時間の問題」となったのは第三次織田包囲網で上杉謙信が死んでから信長が死ぬまでの三年三ヶ月だけです。
それまでは、薄氷の勝利を重ねています。全く余裕のない戦いを続けています。





>その判断の過ちが大大名になるか自害するかの分かれ道になってしまったのではないでしょうか。

分かれ道は、織田信長を裏切るかどうかです。
浅井にとっては、その後はターニングポイントはありません。

そうだと思います。ただ、政治は合理的判断だけで下されるわけではありません。

信長も、兵站が絶たれるリスクは承知していましたが、合理的に考えていくら浅井が朝倉の属国で通知なしに朝倉攻めをしても、浅井が裏切るとはありえないと考えたのです。合理的に考えればその判断は正しいです。

しかし、浅井家では、朝倉の属国であり続けたいと言う意見が勝利しました。
長政本人の心のうちは永遠に分かりません。




>信長に反抗したために姉川の戦いで敗れ、自害します。

「姉川の戦いで敗れ、自害」とは、...続きを読む


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