高校の時に日本史の先生が、信長は日本全土を統一した後に、有力な家臣(柴田、羽柴、明智など)を殺すつもりだった。なぜなら、彼らを処分しておかないと信長の跡を継ぐ子供たちの脅威になってしまう。柴田や羽柴をはじめとする重臣には大きな領土と多くの軍隊を持たせている。そのままの状態にしておけば必ず織田家の支障になると考えていたはずなので。それに気づいた光秀は信長を恐れ、本能寺の変を起こした。
と言っていました。これを聞いた時はショックを受けたのですが、歴史に詳しい人にとっては当たり前の知識なのでしょうか?
信長はこのように考えていたと思いますか?
No.3
- 回答日時:
日本を統一したぐらいで満足したかどうか分からないですけどね。
イスパニアと覇権をかけた世界大戦を行った可能性もなかったわけではないですから。
なので、家臣を無駄駒にするよりも中国大陸などへの進出の駒に使ったような気もします。
No.4
- 回答日時:
>信長は日本全土を統一した後に、有力な家臣(柴田、羽柴、明智など)を殺すつもりだった。
それはその教師の単なる推測にすぎないでしょう。但し同じようなことはいつの時代にもあります。
例えば鎌倉幕府を開いた頼朝は弟の義経を殺しましたし、室町時代には義満が幕府成立に尽くした土岐康行を挑発して
滅ぼしましたし、大内義弘も滅ぼし、山名氏も滅ぼしました。
政治力学で説明すると、政権を打ち立てる際には敵対勢力を討伐する切った張ったなど、喧嘩に強い武将が必要です。
しかし政権を打ち立ててしまった後は却ってそういう武将は邪魔になります。
政権が安定すると、切った張ったの得意な武将より、そろばんの得意なというか統治能力にたけた武将の方が
重要になります。武功にたけた武将は、権力者にいつ政権を転覆させるかという不安すら抱かせるようになります。
鎌倉や室町の上で述べたものはそのような力学の中で発生しているわけです。
明智光秀は謀反を起こしたとして秀吉が討伐する口実を与えてしまいましたし、柴田勝家も秀吉に滅ぼされました。
ken-118さんの高校時代の教師も、こういう力学から推し量って言ったことと思われます。
少なくとも信長が天下を統一できてない時点で、柴田勝家や明智光秀、羽柴秀吉を殺そうとした証拠は何もありません。
まだまだ彼らの力は必要でしたから。
No.6
- 回答日時:
天下を取った後、家臣を殺す、ってのは中国でよく見られたものです。
なので、日本でも同様に天下を取ったものが家臣を殺す(のではないか)と言われることがよくあります。しかしながら中国と日本では環境が違います。中国は、この世の中の中心であり、ここを取れば世界を取ったと同じであり、歯向かうものは誰も居ない、という中華思想が裏にあり、なので家臣を殺しても安泰なわけです。日本の場合は、少し離れたところにその中華帝国がありますから日本を取っても安泰とはならず、いつまた元寇のようなことが起こるかもしれず、家臣も殺せないのです。信長を継ぐ形となった秀吉は、朝鮮出兵を行っていますが、この大陸への進出も、信長の考えを継いだものではないかという説もあります。私は支持しませんが、まだこちらのほうがありそうだと思います。
No.7ベストアンサー
- 回答日時:
>信長はこのように考えていたと思いますか?
思わないです。
>柴田や羽柴をはじめとする重臣には大きな領土と多くの軍隊を持たせている。そのままの状態にしておけば必ず織田家の支障になると考えていたはずなので。
信長の方面軍は誤解されています。
一般的なイメージの方面軍は、北陸方面に柴田、関東方面に滝川、中国方面は羽柴、四国方面は凡羽、そして明智という面々が各方面の統帥権を持ち、信長の方針さえ守ればその軍隊をどのように使うかはの手段は自由である。自由な裁量が許されたから強かった。しかし、謀反のリスクもある。
みたいなイメージでしょう。
方面軍の実態は、信長の手足です。手段の自由などありません。
よい実例を紹介します。
1579年9月に事件が起きます。毛利についていた宇喜多家が秀吉に寝返ります。秀吉は、宇喜多の本領安堵を約束して話をまとめました。簡単に言うと戦わずして宇喜多の領土と優秀な部下を手に入れたのです。
ただ、本来は信長の許可を得てからでないと秀吉が勝手に決めてはいけない事なのですが、このような交渉ごとはスピードが大事です。相手の気が変わらないうちに話をまとめる必要がありました。
事後に信長に報告しました。
信長は激怒しました。理由は「俺はそんな令を下していない」です。
方面軍に、自由な裁量など全くありません。信長の手足として信長の言うとおりに動いていただけ。それが方面軍の実態です。
よって、「柴田や羽柴をはじめとする重臣には大きな領土と多くの軍隊を持たせている。そのままの状態にしておけば必ず織田家の支障になると考えていたはずなので。」という前提自体が間違いです。
しかし、その方面軍に唯一例外的に裁量が任されたものがいます。それが明智光秀です。
信長の明智光秀への評価は絶対的で、そもそも今までうまく行ったのは明智のお陰です。
信長のイメージは、信長の個人的な力だけで成功したというイメージの人が多いでしょうが、実態は全く違います。
室町幕府の官僚機構の吸収と朝廷のコネを非常にうまく使う事で成功しました。それを可能にしたのが明智光秀です。
(勿論、その優秀な明智が信長についていったのは、信長の努力と力量が合っての事ではあります。)
明智なくして信長の成功はありえませんでしたし、信長もそれは自覚しているので待遇も一番良く、唯一の本当の意味の方面軍としての権限も与えていました。そして信頼と言う油断もあったため、懐に明智を常に置いていました。
明智光秀が謀反をした理由は分かりませんが、その信頼と言う油断が謀反のチャンスを与えてしまいました。
「柴田や羽柴をはじめとする重臣には大きな領土と多くの軍隊を持たせている。そのままの状態にしておけば必ず織田家の支障になると考えていたはずなので。」
これが前提なら、殺す予定のものは明智のみとなります。それ以外の方面軍は完全にグリップしていて、自分の手足です。そのものが自分の手足から脱却しようと画策したら別ですが、手足である限り、自ら自分の手足を切り捨てる愚かな真似はするとは思えません。
しかし信長は、明智を殺す予定があったのでしょうか。もしその予定があるならば、まず明智は懐には起きません。
本能寺の変など起きるはずもないのです。
信長像は一般のイメージと学会のイメージでかなりギャップがあって、その先生は一般のイメージで語っているのでしょうね。
そのギャップを分かりやすく説明しているよい本が最近出ました。
『大間違いの織田信長』著:倉山満
「大間違い」と言っていますがこれは、著者の新説という意味ではなく、一般のイメージが間違っているので正しい信長像を伝えると言う意味です。著者が信長を貶める意図もありません。興味をもたれましたら読んでみてください。
ついでに言うと、この本もそうですが、教養書には参考文献も沢山載っていて、その参考文献も読めばその先生なんかよりも信長の知識を得る事ができるでしょう。
No.8
- 回答日時:
そこまでは行きつかない、その前に徳川家康だろ、家康は信長と共同経営者、領土が広がれば当然お互いにいつ殺してやろうかとすきをうかがう、明智光秀単独では天下は取れない、徳川家康がそそのかした可能性がある、いずれにしても殿様の胸中は分かるはずがない、結論は出ない自分で自由に想像してくれ、歴史とは曖昧なことが多い、見た奴は死んでいる。
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