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新撰組は京都御所に住む天皇陛下を守る徳川家の幕府から送り込まれていた天皇家をお守りする全国から集まった刀の名人の集まりで天皇陛下の親衛隊だったんですか?

新撰組って江戸時代の話ですか?

でも天皇陛下が新撰組の解体を徳川幕府に指示したので、薩長戦争の徳川幕府軍の戦闘部隊として徳川家側の兵として鉄砲部隊率いる西郷隆盛の薩長軍に刀の名手の集団である新撰組は鉄砲と刀の戦をして全滅した?

あとなぜ新撰組の吉田?は新撰組時代にお金に執着していたの?

質問者からの補足コメント

  • 吉田ではなく吉村でした

      補足日時:2018/03/03 21:01

A 回答 (1件)

全く違います。


結論から言うと真逆です。

幕末の京都は政治の中心地であり、諸藩から尊王攘夷・倒幕運動の志士が集まり、従来から京都の治安維持にあたっていた京都所司代と京都町奉行だけでは防ぎきれないと判断した幕府は、清河八郎による献策で浪士組の結成を企図します。

その後、近藤勇や芹沢鴨らが京都守護職の会津藩主、松平容保の庇護のもと、新選組の前身である「壬生浪士組」(精忠浪士組)を結成。一方、江戸に戻ったメンバーは新徴組を結成します。
壬生浪士組は壬生村の八木邸や前川邸などを屯所とし、第一次の隊士募集を行って、その結果36名余の集団となり、京都守護職の松平容保から、主に不逞浪士の取り締まりと市中警備を任されます。

新撰組の名が一躍世に知らされたのは元治元年(1864年)6月5日、池田屋事件で尊王攘夷派志士を斬殺・捕縛。8月、禁門の変の鎮圧に参加した功績が認められ朝廷・幕府・会津藩から感状と200両余りの恩賞を下賜されると、同年9月に第二次の隊士募集を行い、更に近藤が江戸へ帰郷した際に伊東甲子太郎らの一派を入隊させます。
最盛期には新選組は200名を超す集団へと成長し、隊士を収容するために壬生屯所から西本願寺へ本拠を移転しました。
しかし、慶応3年(1867年)10月に将軍・徳川慶喜が大政奉還を行ったあと、新選組は旧幕府軍に従い戊辰戦争に参加するが、初戦の鳥羽・伏見の戦いで新政府軍に敗北。榎本武揚が率いる幕府所有の軍艦で江戸へ撤退します。
この時期、戦局の不利を悟った隊士たちが相次いで脱走し戦力が低下しました。
その後、幕府から新政府軍の甲府進軍を阻止する任務を与えられ、甲陽鎮撫隊と名を改め甲州街道を甲府城へ進軍するが、その途中甲州勝沼の戦いにおいて新政府軍に敗退します。
再び江戸に戻りますが方針の違いから永倉新八、原田左之助らが離隊して靖兵隊を結成します。
近藤、土方らは再起をかけ、流山へ移動しますが近藤が新政府軍に捕われ処刑され晒し首にさらされます。
新選組はその後、宇都宮城の戦い、会津戦争などに参加するが、会津では斎藤一らが離隊します。
残る隊士たちは蝦夷地へ向かった榎本らに合流し、二股口の戦い等で活躍します(蝦夷共和国も参照)。新政府軍が箱館に進軍しており、弁天台場で新政府軍と戦っていた隊士たちを助けようと土方ら数名が助けに向かいますが、土方が銃弾に当たり戦死し食料や水も尽きてきたため、新選組は降伏し事実上の解体となりました。

武士でない農民で結成された新撰組は烏合の衆と呼ばれ、それら浪人集団を統率する為に「局中法度」(局中法度書)といわれる隊規を定めました。隊規は厳格に運用され違反した組員は粛清→切腹されました。

実際、鳥羽・伏見の戦い以前の5年間での新選組の内部における死者は45名にのぼります。
内訳を見ると倒幕志士との戦闘による死者数は6名で、その他は殆どが切腹や暗殺等の粛清絡みのものです。
文献や記録を見る限りでは、新選組は自組織内での相互不信と内部抗争に明け暮れて、敵よりも同志を殺した数のほうが圧倒的に多かったことが判明されています。

以上のことから、長くなりましたが、新撰組は天皇の親衛隊などではなく、武士に憧れて江戸でスカウトされた農民出身の若者たちを、会津藩が雇って天皇中心の国→尊王攘夷派を一掃する使命を受けた暗殺集団だったというのが事実です。
当然ながら天皇が新撰組解体を幕府に指示したりしていません。新撰組解体時には幕府は無くなっていましたし、天皇が幕府に指示するようなことはありません。
あと、私が知る限り新撰組に吉田という人物は文献や隊士目録には存在しません。
会計で一人、河合喜三郎という人物が切腹させられています。
原因は諸説あり、近藤の度重なる女性関係の浪費に、隊費管理の責任者として難色や苦言を呈したために、排除対象人物とされ粛清されたという説。
何らかの理由で資金を流用していたためという説。
何らかの反乱工作を企てようとして露見したという説。
単に私用で使い込みをしたという説がありますが、定かではありません。
河合は切腹を免れるために親元に足りなくなった資金を借り入れるために使いを出しましたが、たまたま実家で騒動が起きていて資金を送るのが遅れてしまい、結果資金は河合切腹直後に届けられたという説があります。
切腹を聞いた親は大変怒り、新選組が立てた墓とは別に息子を供養するための立派な墓を壬生寺に建てています。
吉田が誰なのかわかりませんがお金のトラブルで切腹させられたのは河合一人です。

最後に新撰組を英雄視したり、マンガやドラマではあたかもヒーロー扱いされていますが、彼等のせいで日本は大政奉還が遅れ、アメリカやイギリスの殖民地になるところだったのが真相です。

彼等は武士に憧れて幕府に利用されて捨てられた可愛そうな集団です。
ただ、あなたのように間違った認識で歴史が歪曲されるのは良くありません。

歴史は勝者の作ったものですが、敗者もいます。
彼等は勝者でもあり敗者でもありました。
彼等を英雄視することは間違っていますが、戊辰戦争を長引かせた張本人のような言われかたをされるのは疑問を感じます。

長くなりましが、わかっていただけたでしょうか?



法として機能し始めたのは「新選組」と名を改め近藤・土方を中心とする組織が整ってからで、伊東甲子太郎ら一派の暗殺の際にも適用されたといわれる。第一条「士道ニ背キ間敷事」等のように、内容は抽象的で、解釈は局長や副長の一存に委ねられるものであった。



同様の配下の京都見廻組が幕臣(旗本、御家人)で構成された正規組織であったのに対して、新選組は浪士(町人、農民身分を含む)で構成された「会津藩預かり」という非正規組織であった。

隊員数は、前身である壬生浪士組24名から発足し、新選組の最盛時には200名を超えた。任務は、京都で活動する不逞浪士や倒幕志士の捜索・捕縛、担当地域の巡察・警備、反乱の鎮圧などであった。その一方で、商家から強引に資金を提供させたり、隊の規則違反者を次々に粛清するなど内部抗争を繰り返した
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この回答へのお礼

ありがとうございます

お礼日時:2018/03/04 10:16

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