プロが教える店舗&オフィスのセキュリティ対策術

このカテで、田沼意次の賄賂について質問たところ、
5名もの方から大切な回答を頂き、感激しているところであります。
関連して賄賂について教えて下さい。

江戸時代は、賄賂は日常行われており、特に咎められることではない、ようでしたね。
しかし、今の時代は、賄賂は非難されるべきこと、ととらえられておりますね。

この変革は、どのような契機で起きたのでしょうか?

A 回答 (4件)

それは収賄側が独立した権力者から雇用者に変わったために起きたことです。

例えば田沼君は汚吏ではなく地位に見合った権力の行使に対して、その行為で利益を得る者から常識の範囲内の謝礼を受けていただけだということは、すでにお分かりだと思います。幕府の要職はある意味名誉職で彼らは将軍家の家人ですから給与にあたるのは封地だけです。地位に応じて手当が支給されますが、冗談ほど少ないのです、ですから能吏になればなるほど出費は莫大になりそれはほとんど自腹で、そのため一時期を除いてはその手当で潤うことなどありませんでした。それはだれにとっても明白なことだったので、施策に対して賄という形で返礼をしないと幕政は滞ってしまったのです。
ですが、明治維新以後たとえ伊藤博文にどんな巨大な権力が集まろうと、彼は政府に明確に雇われている形になり、施策はだれが決めるか分かりませんが何しろ国家予算でまかなわれることになりました、ですから明治天皇が言ったように女癖さえ悪くなければ伊藤博文は模範的人格者だったのです。付け届けをしてもだれも何もしてくれないので賄は自然消滅してしまいました。政府内部で昇格や配置のために贈られる額は江戸時代の賄の数百分の一から数千分の一に減りました、それは当たり前で、江戸時代の賄は組織が存続を賭けて贈るものでしたしそれが予算の代わりでもありました、明治になったら贈るのは個人で各人の懐からしか出て来ないのです。動いていた主要な部分は政商からの組織的な賄だったと思われます。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。
今の時代、<雇用者>は、(充分な?)俸給を得てており、業務(施策)に使う費用は、支給されるのですね。
しかし、昔は、雇用者というか請負者が、少額の俸給を得、業務(施策)に使う費用は、支給されるのですが、十分でないのですね。これらの不足分は、自分が実施する業務(施策)から捻りださねばならないのですね。これが賄賂とみられることもあったのですね。
うろ覚えなのですが、平安時代かな、地方へ派遣された役人は、収入(収穫)のなかから中央政府へある程度の税金分を納めればよく、残りは自分の才覚で収入にしてよい、のでしたよね。

お礼日時:2018/08/08 19:24

享保4年(1719年)7月27日、紀州藩士から旗本になった田沼意行の長男として江戸の本郷弓町の屋敷で生まれる。

幼名は龍助。父・意行は紀州藩の足軽だったが、部屋住み時代の徳川吉宗の側近に登用され、吉宗が第8代将軍となると幕臣となり小身旗本となった。吉宗は将軍就任にあたって紀州系の家臣を多数引きつれて幕臣とし、特に勘定方と将軍および子供たちの側近に配置して幕政を掌握したが、意次は紀州系幕臣の第二世代目に相当し、第9代将軍となる徳川家重の西丸小姓として抜擢され、享保20年(1735年)に父の遺跡600石を継いだ。 ~
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E6%B2%BC …
..

 事の発端は、将軍吉宗まで、さかのぼるのではないでしょうか。
気になるのは、財政悪化ですか? 商人を始め、町人・役人の生活が金銭中心にながれていく腐敗を止めることが出来なかったのではないでしょうか?
所詮、足軽の子は足軽とでも、詩でも詠んで終わったのではないでしょうか?
権力・金品、それらが、一部の者たちにある、一部の者たちの元にあるから、そこに滞るから、騒動が勃発したのではないでしょうか。
フランス革命の自由、それなどは、世界史とでもなるのでしょうか。
賄賂、一部のものが操作し、おのれの保身を図(計)ったのでしょう。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

御回答ありがとうございました。
田沼意次が、重商主義を取ったため、<商人を始め、町人・役人の生活が金銭中心にながれていく腐敗を止めることが出来なかった>のですね。この改革の結果として(すべての人に平等に利益が出るわけでなく、どうしても偏りやすく<権力・金品>が<一部の者たちにある、一部の者たちの元にあるから、そこに滞るから、騒動が勃発した>のですね。本当の深い原因より、賄賂の意次を悪者にしたほうが世間の納得が得やすかった、のでしょうね。

お礼日時:2018/08/12 17:10

江戸幕府は世界史的に見ても、精錬潔癖な政府だった。

老中の田沼についても、盆暮れの付け届けが少々多い程度で賄賂というほどのものではなかった。
むしろ明治政府では、井上馨は、金についての公私混同が最悪で、公金横領を犯罪とは考えていなかったようだ。
この金に対して汚い一部の官僚のおかげで、西郷が明治政府から離れることになったと言われている。
ちなみに、中国の歴代の王朝の汚職は人知を超えていて、江戸幕府の役人がその実体を知ったら気絶するだろうと言われている。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
江戸幕府は<精錬潔癖な政府>だったのですね。田沼の賄賂といっても、歳暮中元程度だったのですね。そして、犯罪も少なく治安のよい街、時代だったのですね。これらのおかげで、明治維新以降、日本の近代化が、アジア諸国をしりめに、順調に進んだのでしょうね。

お礼日時:2018/08/06 08:37

明治維新からです。



維新当時は、日本は列強から脅かされる
地位におりました。

そのため、天皇の下、日本人が団結することが
要求されます。

汚職は、天皇に対する犯罪として厳しく評価
されるようになりました。
(団藤重光 刑法綱要 各論)

そのため、汚職溢れるアジアでは、日本だけが
比較的清潔だったのです。

戦後は、汚職は主権者国民に対する犯罪だ
ということになり、増加します。
役人の意識としては、天皇の方が偉いのですね。

増加はしましたが、世界的にはかなり少ない方
とされているのは、戦前のこうした価値観が
残存しているからだと思われます。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

早速のご回答ありがとうございます。
困った際には<tanzou2)様々です。
<汚職は、天皇に対する犯罪として厳しく評価>」
なのですね。これが、明治維新の意気込みであり、理想であり、成果なのですね。ここらから<汚職溢れるアジア)とは一線が引かれる、のですね。
そして、江戸時代も賄賂で大幅に私腹を肥やす、というのはあまりなかったらしいようです。ここらが、新たな明治の建国の理念に引き継がれたのでしょうね。

お礼日時:2018/08/02 15:07

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!