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学校には不要な科目が多いと思うのですが、皆さんのお考えはいかがですか?

小学校から英語やITの授業を導入という話を聞きますが、増やすためには減らすことを考えなくてはならないと思います。全く不要なものはないと思うので、あくまで優先順位の問題です。

具体的には以下の科目が不要だと思います。

古文
確かに枕草子や徒然草には「昔の人もそう考えていたんだ」と感心させられることが多々ありますが、それを知るために古文を読める必要はなく現代文訳で充分かと。古文単語でないと伝わらないニュアンスはそこだけ説明すれば良と思います。専門に学びたい人が大学で学ぶのはもちろん必要です。

漢文
自分の国の古文でさえ上の様に思うのに、ましてや他国の古文ならなおさら。漢文由来の面白い熟語や逸話は多々ありますが、習っても中国語を話せる様になるわけでもない漢文読解の学習の優先度はかなり低いと思います。古文同様、現代文による学習で充分かと。専門に学びたい一部の人については、古文と同じ。

大学での第二外国語
英語でさえままならないこの国で第二外国語が役に立ったと後々思う人はかなり少ないと思います。もちろん、英語以外の外国語に興味があったり、それが必要な職業に就きたい人は選ぶべきですが必修の必要はないと思います。

音楽・体育・技術・美術
これらは、好き嫌いや得手不得手の激しい割にやらなくても困らない科目だと思うので、2科目選択のような感じで好きだったり得意だったりするものだけやれば良いのでは?ITなどもこのカテゴリーに入れて良いと思います。因みに、独身男性や共働きが増えている昨今、家庭科は結構大切だと思います。エプロン作りみたいに一生やらないことでなく、もっと実践的なことを沢山教えると更に良いと思います。

他の科目の中の単元まで見ると優先度がかなり低いと思うものは沢山ありますが、話が細かくなりすぎるので、ここでは科目単位に絞りたいとおもいます。

皆さんの意見、よろしくお願いします。

質問者からの補足コメント

  • ・第二外国語の必修は不要というお考え、という意味ですか?
    なお、第二外国語の選択を迫られたのは数十年前のことですので個人的な心配はありません。

    ・体育の件は大変お気の毒だと思います。なお、体育を無くすのではなく他のいくつかの科目とともに選択にしたら良いのでは、という考えです。学年ごとに選択し直しても良いでしょうし、どれかを排除すべきとは考えておりません。

    ・とはいえ、古文や漢文については現代文に置き換えて読解することを授業では学びますよね?適切な置き換え方があるから教える事が出来得るのではないのですか?

    No.4の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2018/08/13 11:31
  • おそらく、私に近い考えなのだと思いますし、タイトルが誤解を招いているのかもしれませんが、質問の本文にあるように、
    ・どの科目についても無くすべしとは思っていません。古文・漢文・第二外国語について一年以上かけないとすると、それこそ文法よりもその内容に重きをおくことになるでしょうから、その意味で現代文で学べば良いという考えを書きました。そこで興味を持った人は大学で更に先へ進めば良いと思っています。
    ・私も広く浅く接する機会の提供は必須だと強く思います。質問に載せた内容で高校卒業までに全く接することなく終わる科目があるとすれば、音楽・体育・美術・技術のいずれかのうちうち小学校から12年間全く選択しなかったもののみです。そこまで嫌いならやらなくても良いのではないでしょうか?

    No.6の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2018/08/13 11:46
  • タイトルが誤解を招いているかもしれませんが、いかなる科目についても触れる機会の提供は必須だと考えているので、質問に書いたような内容になりました。ただ、現在の課程はその範囲を大幅に超えているものがあると思います。

    私があげた内容ですと高校卒業までに全く触れる機会が無いのは、体育・音楽・技術・美術について小学校からの12年間一度も選択をしない科目があった場合のみです。この4科についてはそこまで嫌いならやらなくても良いのではないでしょうか?

    No.7の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2018/08/13 11:54
  • タイトルが誤解を招いている懸念があるので訂正します。
    『学校で学ぶ内容は、全員が必修であるべきものを大幅に超えているものがあると思いませんか?』

    なお、私はすでにおじいさんの入り口におり、やりたくないのにやらなくてはならない科目を目の前にして文句を言っている学生ではありません。

      補足日時:2018/08/13 12:04
  • であるならば古典の必修はいっそやめてしまった方が良い、というお考えですか?
    それとも、古典の授業はより一層充実させるべき、というお考えですか?

    No.8の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2018/08/13 12:08

A 回答 (28件中11~20件)

古文や漢文はわが国の国語教育の伝統から残っているものですね。

戦前の教養の基礎は中国文化にありましたから、戦前の教養人は漢詩をつくれることがひとつのの嗜みとされた時代が確かにありました。なので「国語教育」という観点からは有意義なのでしょうが、おっしゃる通り現代では好きな人、興味のある人がやれば良い分野だと感じます。私も古文は大嫌いでした。この点は同意します。次の「大学における第二外国語」ですが、私は英語一辺倒の日本語の外国語教育に疑問を持っていますので、逆に英語以外の第二外国語の授業は大学教育の場には必要だと思います。言葉は改めて言うまでもなく、その国の文化そのものです。大学生ならば異文化に接する機会としても無くすべきではありませんね。最後に挙げられた「音楽、体育、技術、美術」は確かに「教育」というより「趣味」に属するカテゴリーの様に思いますが、それでも特に年少の頃に半ば強制的にこうした分野に接する事により、技能の世界特有の楽しさやそれが実現できる美しさに接する事は人格形成の上で非常に大切なものだと感じます。私もこうした「遊び」のある分野が大好きでした。なので、功利主義的な観点からのみバッサリ切り捨てるのではなく、子供たちの為には無くして欲しくないと分野だと思います。失礼しました。
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この回答へのお礼

貴重なご意見ありがとうございます。

第二外国語は専攻にかかわらずより充実させるべき、というご意見でしょうか?第二外国語を専門としない学科での第二外国語の内容や量は多くの場合『異文化に接する』からは程遠い状況だと思います。

なお、タイトルが誤解を招いたと思いますが、古文・漢文・音楽・体育・美術・技術、いずれについても廃止ではなく形を変えて残すべきという考えが質問に書いてあります。

お礼日時:2018/08/14 16:58

ちなみに日本が何で勝負をしていくかと言えば、学力ですよねー。

スポーツや音楽ではないです。学力と技術この二つを最優先としたカリキュラムが好ましい。あと道徳とね。やっぱり部活動している暇はない。
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この回答へのお礼

再度の貴重なご意見ありがとうございます。

お礼日時:2018/08/14 13:00

敢えて言わせてもらえば部活動でしょうか?あれは土日にしたい人がすれば良い。

平日は勉強のみですね。5時まで勉強しましょう。もったいないですね。部活動に費やすのはね。先生のレベルも上げてもらい塾にいかなくても東大に行けるようなシステムにしてもらいたい。勿論、部活動の大切さもわかってますけど、学生時代部活動をしなかった人が社会に出て他の人より劣っていると感じたことはありません。古文、漢文などは勉強した記憶すらありませんので、大学の選択課程でもいいとおもいますね。足してほしいのは医学を含めた栄養学、運動力学などですね。
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音楽や、体育、技術、美術 は


あった方がいいと思います。
運動は、特に大事です。 得意、不得意
関係なしにです。スポーツから 得られる
精神力 の強化、汗を かく事 は 必要だと思います。 その集大成が、部活動や、運動会
でしょう。団結力が 生まれます。
実際 部活動を とうして 学べる事は
たくさんあるでしょう。人間関係 だって
学べます。
音楽 も 大事です。合唱祭 など 私は
大好きでしたし、他の クラスの
合唱を 聴くのも 私は 大好きでした。
音楽は、素晴らしい ものだと
思いますよ。
音楽が 必要ないと 考えるのは、少し
ひねくれてるのでは ないですか?
美術 に ついてもです。
感性を 磨く 事は 大事です。
でないと、どんな 大人が 育つのか
とても 怖い…
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この回答へのお礼

貴重なご意見ありがとうございます。

読んいただければわかる通り、音楽をなくす考えは持っておりません。個人的には吹奏楽のアンサンブルをやっている程音楽は大好きですしとても素晴らしいものだと思います。

お礼日時:2018/08/14 12:56

学校教育はどうあるべきか、について


は二つの立場があります。

第一は、実学中心、というモノで
第二は、教養中心、というものです。

明治維新後、日本では教養中心の学校教育を
進めて来たのです。

欧米に追い付き、追い越すためには、実学
よりも、教養だ、という立場です。


少年よ大志を抱け、で有名なクラーク博士
も次のようなことを指摘しています。

技術などは、文化、教養の上に成り立って
いるのだ。
だから、欧米の技術だけを学んでも、欧米に
追い付くことは出来ない。


中国は、自国文化に絶対的自信を持っていたので
欧米の技術だけを学べばよい、という方針を採りました。

日本は、欧米の技術と共に、文化も学びました。

目先の実用だけを考えて
教養、文化を鍛えないと、真の国力はつかない
のです。
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この回答へのお礼

貴重なご意見ありがとうございます。

教養はとても大切だと思いますし、教養のない専門家がもっとも危険だとさえ思っております。

従って、中高生の間は古文漢文を原文で読む技術を学ぶより、その内容に注力した方が良いと思い考えを書きましたが、中高の間に原文を読む技術を身に付けることが教養熟成のために必要とのお考えでしょうか?そのことに全く意味がないとは思いませんが、あくまで限られた時間の中での優先順位の話です。個人的な経験から言えば、古文法や古文単語を覚える時間に古典の世界を早いうちにもっと口語で学べていたらなぁ、と感じています。

第二外国語にしても現状では大抵の学生は文法の基礎を学んで結局まともに文も読めるようにならず、その国の文化に触れる機会もなく終わるのが現実です。それでも、全員必修を継続すべきとのお考えでしょうか?

決して、自分と異なるお考えの方を説得しようというつもりはありません。もし、意見が異なるのであれば、そこに至るお考えを知ることが出来たら、と思うだけです。

お礼日時:2018/08/13 20:34

要らない科目もありますよね。

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補足読みました。



日本の教育システムそのものについて、大雑把に言わせていただくと、システムそのものが制度疲労を通り越して使い物にならないほど酷いと思っています。

おっしゃってる好き嫌いや得手不得手の課題は教える側や制度上の問題から起きてると思われますので、教科の削減や選択制には反対です。

このシステムは根本から正さないと、もはや腐りきっていて、どうしようもないんです。

極論に聞こえるかもしれませんが、正直に私見を述べました。お気に障りましたら、ごめんなさい。
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この回答へのお礼

早速の再回答ありがとうございます。

私自身は教育関係者ではなく、ましてや制度設計をすることに従事するものでもないので全く気にしておりません。ご安心を。

一部教科の完全削減、一切経験することのない当初段階からの完全選択制には反対です。その点、美術等については全部必修の期間はあった方が良いかもしれませんね。

制度が使い物にならないほど酷くなっている、という点については掘りすすめるととてもここで済ませられるないでは無いと思うので他の機会に譲らせていただきますが、私もそのようには感じています。点の話ですが、10年勉強しても外人に英語で道を教えることさえ出来ない英語教育には、根本的問題を感じざるをえません。日本の英語教育が全く役に立たないという意味ではなく、内容が著しくバランスを欠いているという意味です。この点についても、これ以上の議論は他の機会に譲らせていただきます。

ご意見ありがとうございました。

お礼日時:2018/08/13 14:16

>いっそやめてしまった方が良い


>より一層充実させるべき
私の提案は「選択化」です。
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この回答へのお礼

度重なるご回答ありがとうございます。

お礼日時:2018/08/13 13:29

補足拝見…。


まあ単位とか時間とか、そのバランス配分については思うこともありますね。

ただこれについては…
>そこまで嫌いなら
最低限の単位として組み込まれてるならブーブーいわずにやろう、そう思える程度に嫌悪感をなくしてやることも必要だと思いますよ。

そのための教え方を模索していくべきであって、なくすとか受けなくてよいようにするってのはどうかと思います。

職場のレクリエーションとかプライベートでもそこら辺のスキルが必要になってくることもありますよ。
嫌いだったからやらない! という姿勢はいかがなものだし、最低限のスキルもないまま参加して無残な展開になるってのも…。
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この回答へのお礼

再度のご回答有難うございます。

今回のご回答は教える側目線のお話ですね。そういう意味では、そのようなスキルを身につけることはとても大切だと思います。

私自身が学ぶ側や教える側にいるわけではなく、現在のシステムに対する皆さんのお考えを伺いために質問しております。

お礼日時:2018/08/13 13:22

学校がやっているのは目先の用に役立つ丁稚教育でなく


20年後30年後大成する人物としてのポテンシャルを得させるための教育である。
何かを知ること、それは知識のみならず、新しい考え方、新しい価値観の発見につながる。
有能な者はそこまでしゃぶり尽くす。

「人格は教養の上に成り立つ」
教養あるものが必ずしも人格者になるわけではないが、教養が人格を作る早道になるのは確かだ。
だから太平洋戦争時、大卒のエリートは国家のために(内心はどうあれ)進んで命を投げ出した。
学ばせてくれた国家への義務を果たすために。

第二次大戦たけなわにもかかわらず海軍兵学校が英語教育をやめなかったのは、そういう理由による。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

お礼日時:2018/08/13 13:27

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