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その“認識正式”は人それぞれ、七十億人の人の“形式”があると云う事!

或る質問への回答を見て、このようなことを思いつきました。

ご意見、いただきたく思います。

宜しく!

質問者からの補足コメント

  • どうやら当初の曖昧な解釈はハズレているのかな?と思い始めています。

      補足日時:2018/09/25 16:15
  • 認識形式と云う言葉を説明する記事を見ても、形式がどんな形なのか云ってるものが無いですね。

      補足日時:2018/09/25 16:21
  • 網膜の話の続きですが、これを読んでいると形式って表現する必要は、認識には共通の“式”があるからと云うことのように思います。認識を道具としたならば、有る事柄については共通の道具を使っているとか、同じ事柄でも違う道具を使う事があるとか、また人によっては違う道具を使うとか。
    こんなイメージで受け止めていいでしょうか。

    また、認識と意識に付いては次のように考えています。
    認識は生物ならみんなしている。でもそれを意識する、又できるのは人間だけであると。
    認識は感覚的なものも含まれるが、意識は百パーセント精神作用である、とも。

    No.4の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2018/09/26 07:04
  • たくさんの回答(№13まで)を頂いての感想は、大変だったけど楽しかった、です。

    まだ半分も理解できてないとは思いますが、そんな中での感想はカントのやっていることは精神分析なんじゃないの?と云うものです。
    そしてその哲学的活動は、心理の根拠をつかみ取ろうとしているように思えました。

    皆様ありがとうございました。

      補足日時:2018/09/26 20:28

A 回答 (13件中1~10件)

№11をおぎないます。



対象はそれを認識するとき 《物自体》と《ともかく認識した内容》とに分かれる。
これらは:
☆☆(№11) 6-1.☆ おそらく《認識し得ない本体》と《その仮象〔とし
て認識し得たその内容〕》とに分けて捉えられるであろうか。

この《仮象》のようなものでも その認識は 普遍性を持ち得るということを そ
の認識内容がつねに共通の《形式》を帯びているということに カントは 捉えた。



たとえば 貴乃花の年寄り引退についての記者会見を見た。これを認識の《対象》
として考えてみよう。

(あ) まづ《感性 と 〈空間〉および〈時間〉という知覚(認識)形式》

(い) 意外と余裕のある姿に見えた。

(う) 《姿》は テレビ画面では二次元だが 空間は一般に三次元だと知ってい
る。つまり そのような空間という形式をとおして その姿は われわれと同じ人
間だと知る。

(え) 《意外と》というのは 遠くない過去に《急に卒倒した》という事件があ
ったからです。つまりこれは 《時間》という認識の形式をとおして知ることだ。

(お) このような空間と時間とは 誰にとっても同じ認識の形式として作用して
いる。




(か) カテゴリー表の《③ 関係》の内の《因果性》なる形式を当てはめてみるな
ら 卒倒事件の前には 弟子の暴行被害事件がありその告訴があり またその取り
下げといった一連の経過があった。

(き) 一般に時間というのは 過去は現在の記憶にあり 未来は現在の期待(予
想)にあり そして現在は現在の直観としてあると言われるので もし現在におい
て余裕を持っているとしたら 過去からの因果の関係はこれを超えて来ているとも
見られる。
――といった認識を得る。

(く) 認識内容がつねに普遍性を持つというのでなくても 普遍性を持ち得るよ
ように《③ 関係 その因果性》なる形式が はたらいている。



(け) このこと――カテゴリー表の一例――は すでに《判断》にもかかわって
いる。貴乃花の現在の状態を 推測によってでありながら 判断している。

(こ) つまり 《判断表》のやはり《③ 判断の関係 / 仮言判断 「AはBであれ
ば、CはDである」》と相応している。すなわち 《現在の姿として余裕があるよう
なら 過去の・世の中を大きく騒がせた事件の影響は あまり見えないようである》。

(さ) この一例の認識や判断がそのまま《ただしい》というのではなく そうで
はなく 知覚と認識とのそれぞれ形式は 認識の偏頗なあり方をまぬかれさせ普遍
性を保障するようなハタラキをしている。






☆ さて 全体として見て どうであろう? 何が言えるか?

(し) 《物自体》は 要らないのではないか? 人間の知覚や認識の能力が つ
ねにただしいということは――相対性の世界に生きているからには――あり得ない。
・・・と言えば済むことではないか?

(す) 知覚や認識の形式は 認識の普遍性をあたかも担保しており 有効なハタ
ラキを持つと見られる。見られるのだが それは 《形式》が保証しているという
よりは 実際には 認識の内容について いわゆる自同律や因果律に則っているな
ら 妥当性を持つということでしかない。のではないか?


(せ) 物自体と仮象としての認識(特にその形式)とに分けて 認識行為を分析
する意義は どこにあるか?

(そ) 感性の形式としての《時空間》や 認識および判断の形式としての《関係
性かつその内の因果性》は けっきょく大きく広く《認識という行為》をするにあ
たってそれぞれ認識の対象でもある。に過ぎぬ。

(た) 過去とそれをつなぐ因果性というのは そもそも貴乃花という人物を認識
するにあたって その認識の――必ずしも形式としてではなく――ふつうに対象と
して現われて来るものなのだ。

(ち) あらかじめ《形式》として取り出しておいてもよいが けっきょくつねに
対象と一体となっている。はずなのだ。

(つ) 《時空間》という形式ないし枠組みあるいは物指しをあらかじめ用意して
おいて これを道具として認識を始める・・・のであろうか? 

(て) その場やその情況としての時空間は 人物を見て把握しようとするときに 
すべてが一体であり したがって対象の全体となって われわれ認識の主体に飛び
込んで来る・・・のではないだろうか?

(と) 額の皺は 歳を取るという時間性と 対象の全体を構成する・・・と見た
ほうが 自然でふつうであるように思う。
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この回答へのお礼

これは分かりやすかったです。たぶん、分かったと云えるのではないかと思います。

《物自体》は要らないのではないか?というところ以外は。

お礼日時:2018/09/26 20:15

哲学用語が難解なのは訳の問題もあるかと思います。

やはり母語の方が圧倒的に分かりやすい。後は、誰も考えた事がない、公表された事がない事柄を言語表現することに、どうしても造語が伴いがちという事があると思います。聞いた事がない言葉なので理解が難しくなる。

難しいですが、楽しいですね。考えることは。
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この回答へのお礼

楽しい反面、智者の皆様から頂く回答に反応するのは苦痛でもあります。

ウィキなどを頼りに即席知識を得なければならず、大変なんです。

でも、おかげさまで勉強になります。
すぐ忘れてしまうけど。

お礼日時:2018/09/26 20:09

▲ 「本当である」とはどういうことか≪超越論的な真理は本当か5≫


http://sets.cocolog-nifty.com/blog/2010/08/5-373 …

§ 「真である」とはどういうことか?

1.▲ カント以前の「本当」(真なる命題)というのは、実在論の視点による
正しさか、観念論の視点による正しさかの、いずれかでしかなかった。
1-1.☆ いや。それらは いづれも人間の認識し得る《相対的な主観真実》
に属する。

1-2. あるいは 多数の主観真実の内容について公約数を取り出し人びとが
共有した《主観共通性なる真実》である。そしてさらには むしろ或るひとりの
主観真実が その妥当性をみとめられ 《共同主観(常識)と成った真実》であ
る。

1-3. ところが世界には これら経験事象にかんする相対的な真実を超える
《ナゾの何ものか》があるかも知れない。

1-4. それは おのが主観真実が 人びとみんなのみとめるところとは成ら
ず むしろ反対の内容の別の主観真実が 《ただしい》とされてしまった。とき
うったえる場としてのナゾである。――その被害者(と本人は思っている)は 
この経験世界を超えた――つまり同じ人間が構成する最高の法廷をも超えた――
高いところとしてのナゾの何ものかに 判定をあおぐ。これが 真理である。

1-5. 真理は したがって 絶対性によって成る。変わらざる真実を言う。

1-6. 真理は 有るか無いかは分からない。分かるか分からないかが分から
ない。それでも 人びと〔の少なからぬ割り合い〕は この真理をあおぐ。ふつ
うには 《かみ》とよぶ。

1-7. 言いかえると (1)の《実在論》は 《実体》とも呼ばれる《神》
を立てて その神の真理から――その内容はじつは人間には分かりがたいにもか
かわらず――すべてが 《合理的に》推論することよって判断され得て 実証さ
れ得ると説いていたのだった。


2.▲ 実在論では、世界がどのような形で存在しているかという問いの答えが、
神の視点と呼ぶべきようなものによって、あらかじめ決定されているので、「本
当のこと」とは、「その正解と照らし合わせてみて、食い違いが無いこと」であ
った。
2-1.☆ 要するに《超経験なる場》が 経験存在たる人間によって認識され
得ると強弁したのである。デカルトの阿呆。――つまり そんなバカな!と言っ
て批判したのが 次の《観念論》とここで呼ばれた《経験論・感覚説》だ。


3.▲ それに対して、観念論では、あらかじめ決められている世界などという
ものは単なるおとぎ話の世界でしかないとし、「本当のこと」というのは、「私
が感じたこと・認識したこと」でしかないとする。

4.▲ 実在論によるなら、おとぎ話の中の神に世界を委ねなければならなくな
り、観念論によるなら、今抱いている世界像が本当かどうかをどこまででも疑い
得ることになり、懐疑論に陥ってしまう。
4-1.☆ 《実在論・合理主義》は 神を真理と――想定するのではなく――
勝手に規定し これを固定した世界観によって世の中にはお花畑をしか見なくな
る。

4-2. 《観念論・経験主義》によるなら すべては相対性によって成る世界
であり 諸行無常のみの移ろいゆかざるを得ない世の中だとなる。



5.▲ しかし、カントによって第3の道が発見された。(あるいは発明と言う
べきか。)物自体はあるのだが、到達できないとしたのだ。
5-1.☆ これは 《超経験のナゾの何ものか》が おそらく経験事物に属す
る〔がそれが何であるかは一義的にナゾであるところの〕《物自体》に《変形さ
れ別種のもの》として捉えられた。

5-2. 《超経験の変わらざる真理》が 《経験事物であるが認識し得ないと
規定した〔おそらく移ろいゆくことのある〕物自体》で示された恰好である。

5-3. このヌエ的存在は 曲者である。



6.▲ 物自体は存在し、それによって我々は物自体に関する様々なデータを得
ることができる。しかし、「物自体」自体はもともと自らを形づけることができ
るような意味を持たない。
6-1.☆ おそらく《認識し得ない本体》と《その仮象〔として認識し得たそ
の内容〕》とに分けて捉えられるであろうか。

7.▲ データは時空やカテゴリーなどの形式に当てはめられてはじめて意味あ
るものになれるのだから、「物自体」自体にはそれがどのような形で存在してい
るかの正解が無いというのだ。
7-1.☆ 真理であるような人間の真実であるような。

8.▲ だから、世界の正しい像を示す神の視点などというものも存在せず、実
在論のいう「本当の世界」などはもともと無いことになってしまう。
そして、物自体は実在しているので、懐疑論に陥ってしまうことにもならないと
言うのだ。
8-1.☆ 超経験と経験とのふたつの貌を持つかに見える《物自体》について
大いに《懐疑》を持たざるをえなくなってしまう。

8-2. 神は 人間が知り得るとも知り得ないとも証明できないのだから た
だナゾとして想定すればよいものを――片や《いや 実在するのだ》と凝り固ま
ったり 片や《おとぎ話だ。世界は懐疑しかないとさとった》と言い張ったりす
るふたつの説から すり抜けて しかしながらそれらの両義性を持つようなあい
まいな概念を作り出してその――《物自体》なる第三の道を打ち出して来た。

9.▲ このことを、カントは「主観的経験的な実在論であり、超越論的観念論
である」と言う。
9-1.☆ ・・・(どうでしょう?)・・・

・・・(中略)・・・

10.▲ ~~~~~~~~~~~~~~~~~
「なあーんだ」である。

結局、「真なる命題」と言ったって、自分で立てた形式に対して正しいことが分
かるだけの、「消極的な真」でしかないのだ。そんな自己満足的な「真」に何の
意味があるのだろうか。

しかし、それしかないのだ。
おとぎの国の神の視点を頼りにした「本当の」世界など、「積極的な真」などと
いうものは、どこにもないのだ。
それ以上の「真」など存在しないのだから、この「消極的な真」を積極的に胸張
って受け入れるしかないのではないだろうか。
実在論でありながら、神の視点というおとぎ話に陥らず、
観念論でありながら、懐疑論に陥らないで、
その間のギリギリの所で、世界を開く細い道を見つけていかなければならないの
だ。

確かに、「本当」や「真」という言葉の意味をスライドさせただけだという見方
もできる。
しかし、これによって、「自分には分からないだけで、本当は○○かもしれない」
という宗教的だとでもいいたくなるような世界観は、意味を失くすことになる。
この「消極的な真理」は議論をずらしただけに見えて意外とタフな所もあるよう
だ。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

☆ どうなんでしょうかねぇ。



補註 8-2-1☆ だから 神は 有る無いを超えているのだから 人によっ
て好みで 《神は有る》派と《神は無い》派とに自由に分かれていればよいのだ。

8-2-2 つまり 《物自体》も曲者なのである。
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この回答へのお礼

やっぱりカントの頭の中には神が存在していたのでしょうね。

それを物自体はあるのだが・・・という考えになったのではないでしょうか。

お礼日時:2018/09/26 20:05

カントの認識形式について少し私も調べています。

それで思うところを喩えでもって書いてみようと思いました。

クッキーの喩え

クッキーの生地→物自体
クッキーの型→認識形式
店に並ぶクッキー→対象

食べる人は、星型とかハート型、丸型などに焼き上げられたクッキーをクッキーだと認識します。ところが、クッキーの正体は生地の方にあり、型はあくまでクッキーを楽しく食べ易くするためだけにあるのですね。

カントの認識形式も同じく、物自体のままでは認識出来ず、認識形式がそれをある程度整えて、対象として認識出来るようにしているのではないでしょうか。

物自体→無分別
認識形式→分別

という風にも言えそうです。

また次のような、現代の笑い話を聞きます。
ある子供が、海で泳ぐシャケの絵を描きました。ところがそのシャケは切り身のシャケだったのです。

この笑い話の原因は、本当のシャケの姿を子供の経験上、知り得なかったことによります。消費の現場でしか育ってこなかった子供の認識の実態を示すエピソードと言う事ですね。

この世に生まれて、この世に元々ある条件に縛られて生きて行かざるを得なかった人類が、この認識形式と言うアイデアによって、逆にこの世を形作っていくと言う生き方を獲得した、その事実を明らかにした、そう言う事なのではないかと思います。カントが認識形式を発明したのではなく、認識形式と言うものがあるのではないか?と提示したのですね。

カントが、人がアプリオリに持っているとした空間と時間の認識形式も、アインシュタインによれば空間は歪み時間は遅速すると言う新たな発想によって覆されましたが、それは認識形式が更新されたのであって、認識形式自体のアイデアが損なわれたのではありません。

認識形式を如何することによって、生きる世界が変わって行くのではないでしょうか。
私は一先ずこのようにカントの認識形式について考えています。
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この回答へのお礼

この回答を見るのもこれで三、四回目になります。他の回答もそのようにして来たので、なんとなくキサラギさんの解釈が分かるようになってきました、、、が。

シャケの笑い話は作り話だと思います。(比喩なのでしょう)
なぜかというと、その子供は切り身のシャケの前に魚と云う生き物の姿を知っている可能性があるからです。
だから、他の魚を想像してそれに似たような絵をかけた筈です。

この、シャケは魚だから・・と云う認識は形式に当たるのでしょうか。

お礼日時:2018/09/26 19:49

お礼ありがとうございます。


正直に言えば、知覚から認識までのプロセス(過程)が認識形式なんだと思います。
各論で言えば、ロック、カント、ヘーゲルなど、多くの認識論を探究している人が、それぞれの類型、形式を提示しています。
言語化された概念については、正直、クオリア(感覚質)などは、必要性は無いと思いますが、個としての認識形式を考えるならば、それを抜きに考える事は出来ないでしょう。
ただ、言語化された対象(赤いとかの色覚情報、丸いなどの形状情報など)が、実際に、どう認識されているかは、本人しかわからないのは確かです。(他人の認識した情報そのものは、不可知だからです)
我々は、たまたま、ある対象が与える情報に、共通の言葉をラベリングしているだけに過ぎません。
したがって、言語自体は、ある程度の冗長性をもっていないと、共通化が出来ないと言えるでしょう。(厳密に分類した場合は、必要な言葉が増えてしまうからです)
抽象化(複数の対象から、共通と思われる情報で、同一の概念を与える事)なども、人間の特質と言われますが、なんらかの事情で抽象化が出来ない人もいます。
このような状態になった人は、細かな差異を無視できなくなるので、リンゴと言う抽象概念ではなく、リンゴA、リンゴBなど、個別のラベリングを行います。
脳科学などの場合は、仮説として、神経興奮状態の重ね合わせのパターンが認識情報を基礎付けるなどと考えている学者もいます。(これは、哲学的な論理認識形式では、瞬時の判断が、神経応答速度では、まかなえないと考えるからです)
また、実際の反応の連鎖が、意思行動の時間的流れと無関係に起きているのでは無いかと考える学者もいます。(この場合は、意思は、後付けで、結果から、意思があったと自分で判断しているように思えると言う事です)
2人が、白い花を見たとしても、それぞれの白の認識が一致している保証はありません。(ただ、2人が、白い花と言う言葉に、それぞれの認識結果を関連付けているだけです)
科学の場合は、そこまで深く認識を考える必要は無いので、お互いに白い花と言う言葉を関連付けられる、知覚対象に関しては、「白い花」と見なすと言う事にしています。
人間に関しては、言語化可能な知覚形式があり、認識は、その言語化により表現できるという形式を持っているのは、確かでしょう。
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この回答へのお礼

カントのやっていることは精神分析と云った事なんでしょうか?

お礼日時:2018/09/26 19:22

認識の形式についての資料です。



▲ 独今論者のカップ麺:「感性・悟性・理性」と「時間空間・カテゴリ
ー・理論」≪超越論的な真理は本当か4≫ ~~~~~~~~~
http://sets.cocolog-nifty.com/blog/2010/08/post. …

1. 感性の形式

  時間および空間

2. 悟性の形式

2-1. 判断表 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
(すべての内容を取り除いて、判断する思考機能の形式)

① 判断の量

全称判断 「すべてのAはBである」

特称判断 「いくつかのAはBである」

単称判断 「このAはBである」

② 判断の性質

肯定判断 「AはBである」

否定判断 「AはBではない」

無限判断 「AはBではないものである」

③ 判断の関係

断言判断 「AはBである」

仮言判断 「AはBであれば、CはDである」

選言判断 「AはBであるかCである」

④ 判断の様態

可能判断 「AがBであることは可能である」

現実判断 「AがBであることは現実的である」

必然判断 「AがBであることは必然的である」

2-2. カテゴリー表 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

(悟性の論理的な概念・純粋知性概念)直観に与えられた多様な素材を
悟性による判断の論理的な機能に照らして規定される。この時の機能が
カテゴリーである。

① 量

単一性

数多性

全体性

② 性質

実在性

否定性

制限性

③ 関係

付属性と自存性(実体と偶有性)

因果性と依存性(原因と結果)

相互性(能動的なものと受動的なものの相互作用)

④ 様態

可能と不可能

現実存在と非存在

必然性と偶然性
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
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この回答へのお礼

次節で、までを読みました。
判断表が形式、と受け止めていいですか?

お礼日時:2018/09/26 07:54

色の話が出ましたので、さらに例を出しますと、イヌイットたちの言語には、数十色の白色があると言います。

彼らの住む世界は雪と氷で白いので、それを微細に分別することができるようになっているのですね。我々から見れば一面の銀世界であっても、イヌイットから見れば実に豊かな(白)色の世界が存在するという事になります。
これは民族や地域の認識形式の別という事になります。

同じように、画家と普通の人とでは見る世界が違いますね。これは個の認識形式の別という事になるでしょう。
実に多様な認識形式がこの世に存在し、また作り出すことができ、また深めることもでき、それによって世界が変わるというのであるから、確かにこれはコペルニクス的転回と言えると思いませんか。
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この回答へのお礼

人は認識形式の違いからお互いを理解しえない、なんて表現も可能なのですね?

なんで、こんな分かりにくい表現を使う必要があるのでしょう。
哲学、だからですか?

お礼日時:2018/09/26 07:40

巨大隕石の話は、原始人と現代人でも同じことが言えるので、時代の別と言っていいでしょう。

恐竜と比べるべくもなかったですね。
例えばイカだったか魚だったか、四原色が見える動物がいますが、三原色しか見えない人と比べると、この場合は人(生物)としての別という事になるでしょう。
或いは、古代アステカなどでは太陽は毎日生まれ変わるとされていました。太陽の周りを地球がくるくると回っていると知らなかったので、祈りや儀式などを通して太陽が昇らない事のないように願っていました。これは時代や民族の認識形式の別という事になるでしょう。

認識形式の別によって生き様や生き方が大きく異なるという事が重要なのではないでしょうか。つまり現代人の場合に限定しても、学べば人生は変わるという事です。

本能的な部分に近いほど人同士でも認識形式は共通しており、後天的に獲得されるものほど認識形式には差異が生まれ、送る人生にも差異が生じるという事になると思います。

つまりこれがコペルニクス的転回と言われるのは、能動的な人生が可能であるという事を示唆しているからではないかと思いました。認識形式を如何に構築するかによって、世界観が変わり、生きる世界も変わるという事なのですから。それ以前は、世界はありのままにあるものと考えられていたと思われます。私がどうこうしようが、人間かどうこうしようが変わらないという風に。つまり、これは前者に比べれば受動的な人生だという事です。
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この回答へのお礼

だいぶ分かってきたような、そうでもないような、、自信はまだないですが、形式ってスタイル、て云う感じでしょうか。或いは姿勢。或いは形態。

多分その形式なるものは、こんな形だと示せるものではないのでしょうね。認識と云う働きに、なんとなくの“制約”或いは“規則性”のようなものを感じて、そのことを形式と表現したのかなと思い始めています。

認識は生まれつきの形式と、学ぶことで形作られる形式とがあるのでしょうか。

お礼日時:2018/09/26 07:34

認識の微妙な違いは勿論あるでしょうが、インターネットでつながっていなかった昔に比べて


現在はそのバリエーションの幅がとても小さくなっているのではないでしょうか?

文明の中には常識というものがあり、それはつまり「当たり前のこと」ということですから、
証明する必要のない「公理」的なものと言っていいと思います。
それは、意識するとしないとにかかわらず「哲学」です。

それを元に発想するわけですから、似たような認識になっていると思います。
違いと言えば、物がよく見えている、いない、ということになると思います。
即ち、いまいち退屈ということになります、多様性の減少ということで。
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この回答へのお礼

ニャンポコリンさんが、認識形式と云う時の“形式”を別の言葉にするとしたら、どんな言葉になりますか?

お礼日時:2018/09/26 06:44

認識形式とは日本語のことです。



『虹の色数の話』http://suwa3.web.fc2.com/enkan/zatu/18.htmlを参考にすると、十人十色はイケそうだけど、70億人はむりぽ。70億人10色くらいです。たしかにパソコンのトゥルーカラーだと1677万7216色だから70億人1677万7216色にできる。どんどん細かく分類できるみたいだから2^33=8589934592で33ビット諧調の8589934592色にできる。だから70億人70億色にできるが…ところでこーゆーはなしなんだろうか。

『内容の対義語は?』 https://ameblo.jp/ateliermilne/entry-12082696329 …を参考にすると上の段落は内容についてのはなしだった。形式は何かというと『網膜の不思議』https://www.santen.co.jp/ja/healthcare/eye/eyeca …
 視細胞には錐体(すいたい)細胞と桿体(かんたい)細胞の2
 種類があります。
ってことになります。何色が見えるかじゃなくて紫外線や赤外線が見えないよ。ってことに着目すると70億の形式があるのではなくて可視光だけ見えるという1つの形式があります。70億人無紫外赤外色…やっぱしこーゆはなしでいーんだろーか。

Q認識と意識に付いて。-No.13さんによるとhttps://oshiete.goo.ne.jp/qa/9501171.html?isShow …
 認識について理解するには、「感受」と「知覚」と比較するべきです:
 1.刺激(データ)を感受する。
 2.対象・事象(情報)を知覚する。
 3.事象が真であること(知識)を認識する。
 すなわち、
 感受---データ
 知覚---情報
 認識---知識
 という対応に対して狭義の「認識」は定義されています。認識
 論を学べば分かりますが、上の説明も1つの立場です。この狭義
 の定義で重要なことは知識は真である命題ですが、データも情
 報も真であるとは言えないことです。すなわち、「~が真である
 ことを認識する」というのがこの狭義の定義のみそです。
ということなので、知覚すると網膜と脳の解像度で諧調がでてきて、認識すると7諧調になるのは日本語だからです。というわけで冒頭に戻って認識形式とは日本語のことです。
この回答への補足あり
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この回答へのお礼

形式って外から見える姿。
これを認識形式の形式に当てていいですか?

内容の対義語は形式、ですか。
私には外観、の方がしっくりしますが。

網膜には網膜としての働き=形式がある、と受け止めていいですか?
これだと分かりやすいです。

☆ 時間が無くなったのでまた後で。

お礼日時:2018/09/25 16:47

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