これ何て呼びますか Part2

1. 神などはいるもんかと言う。
――けれども いると言ってもいないと言っても何と言っても そのことに
よって神が決まるなどということはあり得ない。《絶対》なのだから。

2. 人間がこしらえたものに過ぎないと言う。
――けれども こしらえることが出来たなら 神は人間のあやつり人形にな
る。《絶対》ということを知らないから そんなお遊びをしている。

3. 神は 精神だと言う。
――けれども 精神は 人間のもの。自然本性としてそなわったもの。《絶
対》がどうして この有限で相対的でうつろいゆかざるを得ない経験事象で
あるのか。




人びとはどうして神のことが分からないのか?

質問者からの補足コメント

  • つづき1

    ★ 有無を超えているものは絶対なのでしょうか?
    ☆ はい。人は――いまのところ―― 東京にいて 同時に大阪にもい
    るということは 出来ません。両方に・あるいはどこにでも遍在しうる
    というのが 神です。

    これは 《〈有無から成る経験世界〉を超えている》ということは そ
    の経験世界を 覆い包むことがあり得ることを意味します。あるいは 
    ニュートリノのごとく貫いていることがあり得 あるいは例の絵のごと
    く指と指とがまさに触れなんとする状態がつねに起きているかも知れま
    せん。《絶対性》には起こり得ます。

    それが 神というナゾだと思います。


    つづく

    No.11の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2018/12/25 22:45
  • №11への補足 つづき2

    ★ ・・・神が謎であるならば、それが一であるとか全であるとか、遍
    在であるとは言うことができないからです。
    ☆ 次のように神にまつわる派生概念が 人間によって持たれました。

    神 = 無限・絶対性・超経験
    →属性:真理・至高の善・慈愛・遍在性
    →擬人化:絶対者
    →物語化:創造主

    ☆ 初めの想定による定義から こうして派生させた概念については
    慣れ親しんだがごとく ナゾではなくなった感があります。


    ★ 神が謎であると言うなら、言葉では言い表すこともできないし、経
    験することもできないので、その場合は、神は”表現不能”であると言う
    べきではないでしょうか?
    ☆ 《知り得ない・または表現し得ない》と言い切ってしまうと その
    認識のかぎりで《知り得た》ことになります。それは 《絶対性》に関
    して間違った認識になります。

    《知り得た》と言い切る場合も 同じです。

      補足日時:2018/12/25 22:49
  • №15への補足です。

    仮説法(アブダクション)を用いるというのも 経験科学における
    ふつうの方法です。

    その中での《想定》ですから ただの想定とは別です。

    No.15の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2018/12/27 14:41

A 回答 (16件中1~10件)

微妙ですか。


絶対と言うのは本当に知ったり体験したりする事の出来ない事なのでしょうか。
もしそうなら、絶対と言う言葉の持つ意味すら存在しないのではないか。
人間は絶対と言うものを予感しているのではないでしょうか。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 微妙ですか。
☆ 補足欄にも触れましたが 経験科学の方法として仮説法を使って
いますので 《想定》は決してただ仮想したというものではありませ
ん。

そして 《無限》なる概念が やはり学問の共通して用いるものです
から だいじょうぶです。

《微妙です》という表現を 限りなく薄い意味内容で捉えてくださっ
てけっこうだと思います。


★ 絶対と言うのは本当に知ったり体験したりする事の出来ない事な
のでしょうか。
☆ 《永遠》を経験できますか? それと同じです。

★ もしそうなら、絶対と言う言葉の持つ意味すら存在しないのでは
ないか。
☆ 経験事象――あるいは相対性なり有限性なりの概念――から導き
出すことができるということです。


★ 人間は絶対と言うものを予感しているのではないでしょうか。
☆ 言いますねえ。そう言いたい気持ちはあります。哲学の議論の片
隅で。

お礼日時:2018/12/27 15:41

神が絶対であるというのも想定ですか?

この回答への補足あり
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この回答へのお礼

それは 違います。微妙ですが 違います。

――ご回答をありがとうございます。


どの言語にも 《かみ》という言葉があります。

果たしてこの神とは 何だろう? という不思議にこたえようとする
のが 哲学ですが 次のふたつの手続きを採って 定義します。

1. ともかく何が何だか分からないナゾであるようだ。

→ ということは 事実を知ることから出発しその事実認識にもとづ
き 探究をすすめるといったふつうの経験科学の行き方を採ることが
出来ない。

→ したがって 仮説法を採用する。想定によって概念として捉えこ
れを定義しておくことから始める。


2. ただし 概念を当てるについては さいわいよい概念がある。

→ 《無限》が いちばんふさわしい。二で割っても三で割っても商
は もとの無限のままである。という概念。

→ 《絶対性》も 使える。相対世界において経験する《有る無し》
を超えており あるいは《ものごとの原因と結果の関係》といった事
象から自由であるという内容。これが 絶対性。

☆ まとめて繰り返すなら: 
1. ともかく《神》を想定して扱うこととする。
2. そのときの定義内容は 《無限・絶対性・あるいは 超経験・
超自然》だ。

☆ 単なる想定ではないというのは 《無限》は 経験科学において
ふつうに用いられる概念だからだ。

お礼日時:2018/12/27 14:27

神の事を知りたいのなら、自身の心を見つめることですね。



人の心は神そのもの、と取り合えず云っておきます。
この場合の神とは、創造主としての神の事です。
でも、キリスト教的な創造主ではありません。宇宙そのものを創造していると捉えます。
宇宙の神羅万象は神の心の現れであると見るのです。

神は精神力の塊。その力が宇宙を存在させ物質的現象を繰り広げています。
いわば、神の精神活動が宇宙なのです。

当然、地球が現われたのも神の精神の理的な力(理性と意力)によるもので、でも偶然としか思えないその環境は必然と云うか、生命が出現してしまうものでした。

因って、生命の心は神のこころ。当然、人の心も神の心と同質と云えます。

宇宙の現象は誕生と生滅の繰り返し。生命も同じく。
誕生や成長・発展は良しとし、衰退や消滅を悪しとするのは生命の情ですが、その善も悪も含んでいるのが宇宙の創造主としての神なのです。

人の心に善悪が生じるのはこの宇宙の精神と同質だから。
ただ、人間としては情的な神があって、それが良心となっているのです。

故に、神は実感できるのです。自身の好ましい方の心を見つめる事。これが神とのコンタクトとなります。
現代の宗教、信仰心はここが出発点。スタートラインですね。

絶対とは、相(あい)対するものの無い、或いは二つとない、と云う意味ではないでしょうか。
そう思えばこの宇宙の存在こそ絶対、と云えると思います。

☆ 神は絶対、ですね。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 神の事を知りたいのなら、自身の心を見つめることですね。
☆ よさそうですが じゅうぶんではないでしょうね。

★ 人の心は神そのもの、と取り合えず云っておきます。
☆ そういう命題は 何千年も前から アートマンやブッダターとして提示されて
来ています。

★ この場合の神とは、創造主としての神の事です。
☆ 創造主あるいは絶対者というように擬人化して捉えた場合は 哲学の理論とし
て傍系になります。

★ でも、キリスト教的な創造主ではありません。宇宙そのものを創造していると
捉えます。
☆ それなら ブラフマンです。

★ 宇宙の神羅万象は神の心の現れであると見るのです。
☆ 維持がヰシュヌ 破壊がシーワということになっています。
三神一体(Trimurti)ですね。

ですが いまさらそんな分かり切っていることを回答されても・・・。

★ 神は精神力の塊。その力が宇宙を存在させ物質的現象を繰り広げています。
いわば、神の精神活動が宇宙なのです。
☆ それも あたらしい知見はありません。ヰキぺ:ブラフマン をどうぞ。

★ ~~~~~~
当然、地球が現われたのも神の精神の理的な力(理性と意力)によるもので、で
も偶然としか思えないその環境は必然と云うか、生命が出現してしまうもので
した。

因って、生命の心は神のこころ。当然、人の心も神の心と同質と云えます。

宇宙の現象は誕生と生滅の繰り返し。生命も同じく。
誕生や成長・発展は良しとし、衰退や消滅を悪しとするのは生命の情ですが、
その善も悪も含んでいるのが宇宙の創造主としての神なのです。

人の心に善悪が生じるのはこの宇宙の精神と同質だから。
ただ、人間としては情的な神があって、それが良心となっているのです。

故に、神は実感できるのです。自身の好ましい方の心を見つめる事。これが神
とのコンタクトとなります。
現代の宗教、信仰心はここが出発点。スタートラインですね。
~~~~~~~
☆ これぢゃ 鎌倉時代には庶民にも知られていたでしょうし その昔の最澄
や空海なら 朝飯前の知識です。

★ 絶対とは、相(あい)対するものの無い、或いは二つとない、と云う意味で
はないでしょうか。
☆ まだ不十分です。シーチンピンですら それを目指しています。

あいにくでした。

お礼日時:2018/12/27 10:32

今日は教えてgooにアクセスできないと表示されたので


違うのかもし得レマ円が
いスクロー
ルしました
旧約聖書ではやい尽くす差揚げ物が重要で紆余ね。
新約聖書の十以下の神学というのかパル路というのかでは
十字架の女系が

印度を新薬リタ民z区がアグニだの
バラモン教とかでは
焼き尽くす差が物と似ている異様なとか
あるいは内面的に理化してニルヴァーナとか

でも十字架でイエスが生贄になったのが重要であるならば
なんか甲ズレが有るような木がするのですが
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。


〇 青銅の蛇
☆ で検索してみてください。

▲(ヨハネによる福音 3:14-16 :蛇のごとくイエスも上げられる)~~~

そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、

人の子(=イエス)も上げられねばならない。

それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。

神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。

独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。


▲(民数記 21:6-9 :モーセと《青銅の蛇》) ~~~~~~~~~~~

〔☆ 民がせっかく奴隷状態にあったエジプトから脱出してきたというのに
そのことを荒れ野をさ迷うあいだに悔い始めたので〕 主は炎の蛇を民に向
かって送られた。蛇は民をかみ イスラエルの民の中から多くの死者が出た。

民はモーセのもとに来て言った。

  「わたしたちは主とあなたを非難して、罪を犯しました。主に祈って、
  わたしたちから蛇を取り除いてください。」

モーセは民のために主に祈った。
主はモーセに言われた。

  「あなたは炎の蛇を造り、旗竿の先に掲げよ。蛇にかまれた者がそれ
  を見上げれば、命を得る。」

モーセは青銅で一つの蛇を造り、旗竿の先に掲げた。蛇が人をかんでも、そ
の人が青銅の蛇を仰ぐと、命を得た。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

お礼日時:2018/12/27 04:09

うーむ。

では、ブラジュロンさんは、神のことが分かっているわけではなく、想定していると言う事でしょうか?
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

そうですね。

神は 絶対ですが 神論は 相対的なものです。

ですが いま現在において――つまり 自負があるのですが――人知の
およぶ範囲で 想定上としてでも もっとも合理的で納得のゆく理論
(仮説)だとは思っています。

あとは クオリアです。その理論をたずさえていれば 居心地がよいと
いうようなことです。

お礼日時:2018/12/26 15:54

ふむ。

この場合、絶対というものが謎なのだという事としてよいのでしょうか?
神=絶対=謎は真なのだとしてよいのか?

知り得るか知り得ないかが知り得ないという謎、それが神である、ここまでは、ふむ、と言う感じなのですが、それが何故、絶対と呼ばれるのか分からないです。
絶対と言うのはむしろ明らかなことに使う言葉ではないでしょうか。

例えば、
・絶対分からない→分かるという事が必ず無い
・絶対ある→無いという必ず事が無い
・絶対だめだ→OKという事が必ず無い

相対世界を超えたものが、絶対だという保証はどこに見出せばよいでしょう?有無を超えているものは絶対なのでしょうか?本当のところは、それが絶対かどうかも分からないのではないですか?だって、そこは相対世界において証明はおろか定義すら不能の場所となるはずでしょう?

絶対というものは、比較を必要としないもの、と言うのならわかります。相対を超えているのではなく、それは相対しないという意味です。例には、一とか全とか、遍在などは、神の様態を表す言葉として多くの人の認めるところです。ですがこの場合は、神はむしろ明らかなのであって謎ではない。神が謎であるならば、それが一であるとか全であるとか、遍在であるとは言うことができないからです。

神は謎であるという提唱は面白いですが、神は絶対だと言ってしまうと、それでは”謎”じゃないのでは?となってしまう。本来は、神が謎であると言うなら、言葉では言い表すこともできないし、経験することもできないので、その場合は、神は”表現不能”であると言うべきではないでしょうか?
この回答への補足あり
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ ふむ。この場合、絶対というものが謎なのだという事としてよいの
でしょうか?
☆ 初めには 認識の対象として捉えるものと思われます。知りたい対
象は 初めにはみなナゾです。

可知(既知と未知)や不可知の分類に入らないものが――想定としては
――出て来る。絶対性が 仮説されます。
(そんなものは ゼロだとかどうでもよいとして扱った場合にも ゼロ
やどうでもよいの内容を説明しておくようにと促されますし そのとき
には やはり絶対性なのだとみとめることになるはずです。相対世界を
超えているとするからには。そしてゼロ派は 《無い神》派になるでし
ょう)。

★ 神=絶対=謎は真なのだとしてよいのか?
☆ 《真偽》の問題には この最初の仮説理論としては 馴染まないと
言うべきでしょう。

そもそも なぜ人びとは《神》という言葉を持っているのか? そんな
ものは要らんと言っているのは なぜか? と言っているとき この神
という言葉について哲学よ 説明せよ――というところから始まってい
ます。

人は 限りなくは生きられないのに どうして《永遠》という言葉を持
っているのか?

《想定による》のだと捉えるわけです。そういう位置づけのために――
最初は――解き明かすのですから 真偽や善悪とは別の作業だと思いま
す。

★ ・・・神・・・が何故、絶対と呼ばれるのか
絶対と言うのはむしろ明らかなことに使う言葉ではないでしょうか。
☆ そうですかね。先ほどの《永遠や無限》と同じ意味だと思うのです
が?

★ 例えば、
・絶対分からない→分かるという事が必ず無い
・絶対だめだ→OKという事が必ず無い
☆ これらは 言葉の派生用法です。《有無を言わさない確定を表わす
こと》から派生して けっきょく《ものごとの確実性を強める用法》と
なっています。(主観表現であるに過ぎませんが)。

これらの場合は 相対世界の事柄を扱っていて 《絶対》がその言葉通
りにはならないことが しばしばです。


★ 相対世界を超えたものが、絶対だという保証はどこに見出せばよい
でしょう?
☆ いえ。想定(仮説法)による定義の問題です。


つづく

お礼日時:2018/12/25 22:41

ん~


言い方適当だけど結構真面目に考えてるんだけどね
「後継者の居ない真理に意味が有るのか?」
って問いです
そこんところどう考えてるのかが良く解らんのだよね

少なくとも、数十年、数百年後
かつてとある質問サイト発祥の思想
絶対的普遍神、その思想の根底に成りうるのは
「アルケー」の方だと思いますよ

後世に伝える継承者が居ない哲学者、思想家程
悲しいものは無いような気がしますがね
まぁ真理を抱いて野垂れ死ぬのも哲学者の理想的な
死に方だと思ってますので貴方の生き方を否定はしませんよ
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 後継者
☆ は 関係ないでしょう。どうとでもなるでしょう。


★ アルケー
☆ を持ち出してくるのは まだわけが分かりません。

名前として――つまり 普遍神のひとつの名づけとして――自分の
神にするのは 自由です。

それなら 普遍神〔とわれとのカカハリ〕の理論をみとめたことに
なります。



全体として何を問題にしているのか(どの点を批判しているのか)
が はっきりしません。

お礼日時:2018/12/25 20:58

神は謎である。


神は絶対である。
この二つが同時に成立するのは矛盾ですが、その矛盾を解いて説明していただけますか。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

1. 神は 何であるか?

2. ★ 神は絶対である。
☆ が 無限であるや 超経験・超自然であるとともに 答えとなります。

3. たとえば《無限》とは 二で割っても三で割っても その商がやは
り同じ元のままの無限です。

4. あるいは 超経験とは――経験世界を超えているからには―― 経
験的な事象である《有る無い》を超えており 《因果関係》から自由だと
なります。

4. このようなナゾは どういうことか?

5. 人間の認識行為という視点から見るなら 次のようだと考えられま
す。

 経験事象
  可知(知り得る)
    既知(知り得た。間違っていたと知ることもある)
    未知(ナゾだが いづれ既知になると捉えられている)
  不可知(知り得ないと証明されたナゾ。証明にかかわっては知られて
     いる)

 非経験(経験事象を超越した場・チカラを想定する)
  非知(知り得るか知り得ないかが知り得ないナゾ)

☆ かんたんですが ナゾのいくつかについて区別され得たと思います。

★ 矛盾
☆ としては ここで《想定した》非経験の場あるいは非知なるナゾが
経験存在であるわれわれ人間にとって どういうカカハリを持つかをめ
ぐって 現われます。

要するに カカハリがあると〔想定〕するなら 人間たるわれにおいて
《相対と絶対》とが・《有限と無限》とが・《経験と非経験》とが共存
するかのごとくになるからです。

つまりは 早い話が 《ブッダター(仏性)が凡夫にやどる》かどうか
といった矛盾っぽい問い求めになるわけです。

早い結論としては 《非知なるナゾ》なら 《やどるかも知れないし宿
らないかも知れない。いづれとも 人間には分からない。分かるか分か
らないかが分からない》というかたちになります。

考えるや感じるによっては 知り得るか知り得ないかが知り得ないナゾ
ですから そのような《神とわれとのカカハリ》は 信じるという言葉
で表わします。

非知なるナゾを 無条件で無根拠にてわが心に受け容れる――これを信
じると言うのだと捉えます。

無条件・無根拠というところでは このナゾたる神を 《有る》と言っ
ても《無い》と言っても どちらも自由に互いに対等であることになり
ます。

お礼日時:2018/12/25 20:58

有りもしないモノなんかについて分かる必要など無い。

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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

☆☆(趣旨説明欄) 3.・・・《絶対》がどうして この有限で相対的で
うつろいゆかざるを得ない経験事象であるのか。

☆ もの・ことが《有る・無い》というのは 経験事象であり相対的な捉え
方の問題です。《絶対》は この有無を超えているのです。

あるいは いわゆる原因結果の関係。これも 言うまでもなく経験事象であ
り 相対世界の出来事です。

この因果律を 絶対なる神は 難なく超えています。



★ ・・・分かる必要など無い。
☆ かも知れないけれど 知っておくと かっこいいかも。

お礼日時:2018/12/25 18:48

日本における神の概念は八百万の神と言われるように、農耕なり狩猟なりを基礎とするそれぞれの集団に神があって、みずからの集団の神を集団全体が祀り、一定の形式でその祭りを行うことによって、神はその共同体の生産を保証し共同体の生命が世々受け継がれてゆくことを保証する。

つまり、社会そのものが一つの宗教を支え、共同体の祭りがその主要な内容。人間は集団のメンバー、一つの共同体を構成する要素。集団の一員である以上の意味を認められない。よって個人の内面にかかわる救いの問題や教義の体系化は発達する余地がない。
キリスト教の神は本質的に違う。世界を造り人間を造り、その人間を愛してやまないと説く。皇帝であれ庶民であれ神の前には同等で、共にその前にひれ伏すべき世界であり、皇帝も庶民と同じくはかない人間であること、いわば神の前における人間の同等性を指し示すものである。
日本でのキリシタン弾圧はやはりこの教義に対する脅威であろう。キリスト信者が増えることは幕府にとっては看過できないことだった。迫害を恐れない人間を制御する術はない。そのため当時の幕府は仏教を手厚く保護し檀家制度などを整備していったと聞く。
当時の為政者の渾身の統制によって人心からキリスト教の神は次第に姿を消していった。日本人の心にはなかなか根付かないキリスト教の神が。おそらく今もそうなのだろう。ほんとうに救いを得ている人は一握りで、ほとんどの人が神がわからず神などいないのではないかと絶望的な淵に立っているのだ。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 日本における神の概念は八百万の神と言われるように、・・・(割愛し
て中略します)・・・よって個人の内面にかかわる救いの問題や教義の体系
化は発達する余地がない。
☆ ひとつには №2お礼欄にしめしました図解をごらんください。

そこで やほよろづの神々は ただひとつなる普遍神のそれぞれ分身あるい
は依り代であるという説明になります。

そのような神ないし神々をいだいて昔からの日本人は どのように社会生活
をいとなんだか? ――これには おっしゃるような側面がかなり基本的な
内容として 推移して来たであろうし あるいは要するに ブディズムやコ
ンフーシアニズム さらには クリスチアニズムやマルキシズムなどを着せ
替え人形のごとく着たり脱いだりして来たのでしょう。

ただしいまは 神とは何か? に絞りたいのですが?



★ キリスト教の神は本質的に違う。
☆ それは すでに宗教となったオシヘにおける違いでしょう。神は いづ
づれも 名が違っても 同じひとつの普遍神でしょう。(№2お礼欄)。

★ 世界を造り人間を造り、その人間を愛してやまないと説く。
☆ オシヘの出現とは 次のようです。:
かみ:超経験・絶対性
→(擬人化) 絶対者
→(物語化) 創造主
→(倫理規範化) 信仰(それは 非思考)を思考においてオシヘとする。

★ 律法皇帝であれ庶民であれ神の前には同等で、・・・
☆ 神の前の平等は 普遍神のもとなるヒトという構図ですが それはいま
《無い神》であっても もうオシヘは無しにして 成り立つ思想です。



★ 日本でのキリシタン弾圧は・・・
☆ 政治等の社会力学の前にどうであったかは やはり宗教の問題だと思わ
れ いまは神とは何かに絞りたいです。


★ ほとんどの人が神がわからず神などいないのではないかと絶望的な淵に
立っているのだ。
☆ じつは 《すくひ》の問題にしても いまは二の次にしています。神と
は何か? です。(勝手ながら)。

お礼日時:2018/12/25 18:42

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