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合理性の定義を辞書で調べると以下の説明が出てきます。

客観 主観から離れたもの
論理 演繹法 帰納法
道理 正しいとされる筋道
能率 無駄のないこと

しかし、この説明では腑に落ちません。誰がどう見てもそうだと認めるものや、正しいとされる考えを合理性というのであれば、合理的判断などというものは誰にもできないのではないでしょうか。なぜなら真に正しいものが何であるか誰にもわからないからです。

「偏見 バイアス 認知の歪み」などの概念は、合理性の概念を前提に語られているため、合理性を定義できなければこれらの概念も定義することができません。

合理性についてどのように考えれば納得できるでしょうか。意見を聞かせてください。

A 回答 (8件)

しめされた《根拠》が 合理性を満たすかどうか。



これを判定する仕事が残っている。
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「合理性」


1 道理にかなった性質。論理の法則にかなった性質。
2 むだなく能率的に行われるような物事の性質。
https://dictionary.goo.ne.jp/jn/75449/meaning/m1 …
辞書ではこのようになっていますが、これはこの辞書の編纂者が、このように判断した、ということにすぎません。

何事もそうだと思うのですが、たとえば何らかの対象に対して何らかの判断を下す場合、それはそう考えた人の主観にすぎない。
言葉というものが人間による創造の産物である以上、それは避けられない事実でしょう。
つまり、人類普遍の「合理性」というものは存在しようがない。

とはいえ、この合理性がないと互いに会話をすることすらできないのもまた事実。
そのため、それぞれが自らの合理性を主張するにあたっては、その根拠をあたかも料理レシピを示すが如く明らかにするのが基本的なマナーとなる。
それを示さぬまま、俺が作った料理だからうまいに決まっている。ごたごた言わずに黙って食え的な会話しかできないのは、駄々っ子か認知障害者であると認定せざるを得ない。
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合理性とはある特定の視点から見た質問者様が辞書で調べられた定義かと思います。

誰しも自分のいない世界を合理的だとは思わないと考えます。
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貴方がこれは合理的な論理だと色々な事例で思索してみて、その合理的な説明と全く反対なこと実は正しかったんだという経験を繰り返して行くうちに、合理性についてどのように考えれば納得できるかが解ってきます。

そのような、合理的説明と事実の乖離を繰り返し経験しない限り、合理性とは何かを納得することはできません。
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合理性についてどのように考えれば納得できるでしょうか


 ↑
私見ですが、合理性、というのは正しい結果に
至るモノの考え方だと思います。

例えば啓蒙主義と経験主義の対立があります。

人間の理性を信用する啓蒙主義からみれば
理性に従うのが合理的です。

しかし、理性を信用せず、経験を重視する
経験主義からすれば、経験に基づく試行錯誤
に従うのが合理的です。




誰がどう見てもそうだと認めるものや、正しいとされる考えを合理性というのであれば、
合理的判断などというものは誰にもできないのではないでしょうか。
なぜなら真に正しいものが何であるか誰にもわからないからです。
 ↑
その通りです。
科学だって、新しい発見発明により
コロコロと変わります。
何が正しい、なんてのは判りません。

だから、考え方だ、というのです。
正しい結果に至る考え方が合理的か否か、という
ことでしょう。
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まるで 合理性を満たす合理性の定義を示せという問いであるようです。



合理性は 経験合理性のことだと思われます。

ということは その普遍性というのが 《だいたいみんながそのように
捉えみとめている》という内容を言っており またその程度なのだと考
えられます。

誰かが世界を――あるいは 一定のモノや出来事を――認識したとき
それが合理的であるか? という問いは その一人の人間の主観がみん
な(つまり あいまいなみんなです)によっても 妥当であると認めら
れたとき そこに合理性がある。

主観の共同化――コモンセンス――が成った認識内容を 普遍性がある
と見なし そこに合理性を捉える。

その意味での合理性を持った常識は 時代とともに・あたらしい認識に
よる批判を受けて 変わって行くことにもなります。




▲ 道理 正しいとされる筋道
☆ については 人間関係〔にかかわる人びとの心〕を認識する場合に
問題とされます。

つまり 一般に事実認識としての共同主観〔における合理性〕を問うだ
けではなく ひとの意志――存在や人格の中核をになう自由意志――を
とうとぶかどうかを問題にします。

相手の――あるいは 自分自身の――意志をとうとばない・つまり具体
的には すでに意志表示がなされているとき これをないがしろにする。

これは 心ないし人間の関係を考慮することのない不合理なことだと見
なされます。

つまり 道理に悖ると。意志をふみにじることです。
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> 真に正しいものが何であるか誰にもわからない



そんな事は、ありません。
たとえば数学には正解があります。そうすると、数学を応用して出した結論は、論理的であり合理的という事になるでしょう。

物理学のような自然科学の分野でも、正しいと認められている理論体系があります。その理論体系に基づいて得られた結論は、論理的であり合理的と言えるでしょう。
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合理性ちゅうのは、経験知に依存しないことや。



つまり、17歳のJKと、80歳の爺いが同じ結論に達する事や。
例えて言えば、塩分濃度と浸透圧の関係みたいなモンやで。

一方、合理的でないものとは経験知に依存するものや。
例えて言えば、男女の中とセックスの相性の相関関係みたいなもんや。
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