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絶対テンスと相対テンスの見分け方を教えてください

「絶対テンスと相対テンスの見分け方を教えて」の質問画像

A 回答 (2件)

絶対的テンス、相対的テンスなどという区別はおそらく「日本語文法」の立場から使われ初めた用語でしょう。


 金田一春彦氏はその著書「日本語(新版)」=岩波新書 の中で、森鴎外の作品を引用しながら、人物の行動などを過去形で、風景や天候などを現在形で書くやり方を紹介しています。日本語では普通に行われる技法です。
 しかし、この問題はクイズみたいですね。
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この問題を作った奴はアホです。

そんなものは忘れて下さい。
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Q漢字は中国で発明されて、

漢字は中国で発明されて、中国語として使われて、後に朝鮮に渡って、日本人に漢字の書き方や読み方を教えたのは当時の朝鮮人ですか?回答をお願いします、

Aベストアンサー

まともな人がたどり着くひとつの結論だと思います。
しかし、残念ながらあなたの考えが正しいことを証明できません。
理由は、当時の音声記録がどこにも残っていないからです。
そのため、みんな好き勝手なことを言っています。

私はあなたよりももう少し進んでいて、古代朝鮮語が日本語の大元になっていたと確信しています。
 古代中国には戦乱の時期がありましたので、大量の移民が朝鮮半島に流入して土着していますが、これは何度か起きているようです。その際、戦禍を完全に逃れるため、日本に渡って土着した人も多いと思います。また、新羅による朝鮮半島統一の頃に大量の朝鮮人が移民として日本に流入して土着しており、日本史では渡来人と言う表現に変化しています。
これが、私の仮説で、根拠は以下のとおりです。

・現代日本の話し言葉と100年前の話し言葉はかなり違う。
・現代日本の話し言葉でも東北や鹿児島のお年寄りが方言で話している内容は、我々にはほとんど理解できない。
・中国語の文法は英語とほぼ同じであり、韓国語と日本語の文法もまたほとんど同じである。
・発音の特徴でみると、中国語と韓国では似たような発音もあるが日本語の発音は全く違っていて、日本語にはsとsh、rとLなどの発音の違いはない。
・古代中国の船は黄河や揚子江をさかのぼったり、渡河することが主な目的のため、古代ヨーロッパのような外洋船の造船技術や航海技術は有していなかった。
・このことから、古代における中国と日本の航海ルートは朝鮮半島経由のルートしかなく、他のルートについては漂着レベルである。
・古代における朝鮮半島と日本の航海ルートは、壱岐・対馬経由で、昼間の見通し航海が通常の方法。
・663年の白村江の戦いにより、日本と朝鮮半島との国交が途絶え、これ以後の遣唐使は、東シナ海経由による中国と日本の直接ルートになったが、遭難確率が異常に上昇する。
・また、日本に外洋船の造船技術や航海技術がないことが遣唐使の廃止に繋がり、遣唐使廃止により中国との公式な国交も途絶え、これ以後、日本語は独自の発展を遂げる。
・日本語による漢詩読破技術として、一、二点やレ点が生まれており、平安時代には漢字一文字を日本語の五十音にあてはめることにより、ひらがなが出来上がり、漢字かな混じり文の確立により日本語が飛躍的に進化する。
・李氏朝鮮時代の1446年にハングル文字が出来上がったことで、韓国は漢字を捨てハングル文字になっているが、これは全ての文章をひらがな文字のみにしているのと同じこと。現代日本人には到底考えられないことです。
・漢字は世界的に見て、非常に不思議な文字であり、日本人は漢字による多大な恩恵を受けています。それは、漢字を見ると意味だけではなくイメージすることができる。いわゆる漢字脳が出来上がっています。

以上長くなりましたが、とってもとっても素敵な質問、ありがとうございました。

まともな人がたどり着くひとつの結論だと思います。
しかし、残念ながらあなたの考えが正しいことを証明できません。
理由は、当時の音声記録がどこにも残っていないからです。
そのため、みんな好き勝手なことを言っています。

私はあなたよりももう少し進んでいて、古代朝鮮語が日本語の大元になっていたと確信しています。
 古代中国には戦乱の時期がありましたので、大量の移民が朝鮮半島に流入して土着していますが、これは何度か起きているようです。その際、戦禍を完全に逃れるため、日本に渡って土着し...続きを読む

Qこの人はいい人かもしれないと思ったら 「この人はいい人そうだ」といいます。 この人は賢いかもしれない

この人はいい人かもしれないと思ったら
「この人はいい人そうだ」といいます。
この人は賢いかもしれないと思ったら
「この人は賢そうだ」といいます。
しかし、
この人は可愛いかもしれないと思ったら
「可愛そうな人だ」というと失礼になります。
この時なんと言えばいいのですか?
何かちょうどいい言葉はありませんか?

Aベストアンサー

いい人らしい。
賢そうだ。
きっと可愛い(だろう)。(1311tobiさん提案)

Q旅とは文字通り命懸けだった とアニメの冒頭ナレーションを聞きました。 何故「旅」が文字通り命懸けなの

旅とは文字通り命懸けだった

とアニメの冒頭ナレーションを聞きました。
何故「旅」が文字通り命懸けなのでしょうか

Aベストアンサー

この場合の「文字通り」は「命懸け」にかかっているのでは。

 旅とは"本当に"命懸けだった
 旅とは"例えではなく"命懸けのものだった
 旅とは"掛け値なしに"命懸けのものだった

…といった意味合いに思えます。

Q「する」の可能形

「される」は「する」の受身、尊敬形だと思いますが、可能、自発形でもあるのでしょうか。

Aベストアンサー

>される には可能の意味もある(あるいは、あった)ということですね。
「勉強さ・れる」は「サ変動詞」の未然形に「れる」(「れる・られる」の「れる」の方)が付いたものです。これが今でも正しい形と考えられています。しかし、実際使うと「受身・尊敬・可能・自発」の意味を兼ねているため、分かりにくいのは確かです。
そこで、「勉強+できる」(勉強ができる)という「複合動詞」の方が分かりやすいことが理由で使われます。
 なお、「れる・られる」(せる・させるも同様)は、「れる」は五段活用に付き、それ以外の(上一・下一・カ変・サ変)活用には「られる」付くという分類が分かりやすいのですが、「サ変」だけは「五段」と同じように「れる・せる」がつきます。
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>できる が する の可能動詞と言えると思いますが語源的には する と できる は全く別のものでしょうね。「できる」は可能の意味を持った動詞です。(上一段活用)

Q吾輩も猫である

このような奇抜な表現は、なかなか凡人には思い付きませんね。

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Aベストアンサー

奇抜とは程遠いですが漱石つながりで。

三四郎⇒トウシロウ

おまけで。

赤毛のアン⇒縮れ毛のアン

注文の多い料理店⇒注文の無い料理店(廃業)

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アンナ・カレーニナ⇒アンナ・カレーいや(肉が入っていない)

Q雪山賛歌の歌詞「雪よ岩よ われ等が宿り」の我らが宿りとはどういう意味ですか?

雪山賛歌の歌詞「雪よ岩よ われ等が宿り」の我らが宿りとはどういう意味ですか?

Aベストアンサー

はじめまして。

山で50年のジジイです。
そんなことを疑問にもおもわなかったです。
大辞林の辞書の解説ではこうなっていますね。

大辞林 第三版の解説
やどり【宿り】
( 名 ) スル
① 旅先で泊まること。また、その所。 「湖岸に-する」
② 住むこと。また、その所。 「秋田刈る仮廬かりほの-にほふまで/万葉集 2100」
③ とどまる所。 「花ちらす風の-はたれかしる/古今 春下」
④ 星の、天体にしめる座。 「星の-」
https://kotobank.jp/word/%E5%AE%BF%E3%82%8A-648761

歌詞はそのあと「俺たちゃ 町には住めないからに」と続きます。
ですから意味からいえば②でしょうね。

Q「良かったです」「素晴らしいです」はもう世の中に認められたのでしょうか。

「歌わないです」について、間違った文だという質問が出ています。
(回答しようとしたらこの人からブロックされています。どうしてブロックされたか全く心当たりがありません。仕方なく、質問の形で話に加わります)

 形容詞「素晴らしい」に「です」をつける言い方は、一部の人にあり得ないと判断されています。これは本来、「素晴らしゅうございました」といったものです。ところが「ございます」を使う人があまりいなくなって、「形容詞」を丁寧形で表現することが出来なくなりました。そこで登場したのが「素晴らしいです」です。ところがこれに対する賛成者は<少ないです>。
そして、それに加えて「過去形」までもが加わってきました。「素晴らしっかったです」「よかったです」「楽しかったです」。否定的な人々には、一層違和感が加わりました。ではどう言えばいいのか。「素晴らしゅうございました」「楽しゅうございました」
 いくら何でも、そんな古めかしい言い方に戻れるものかという否定派は今もあります。ところがここでまた、「素晴らしかったです」「よかったです」を、「素晴らしかったでしょう」「良かったでしょう」と、「う」をつければスラスラ通じてしまいます。こんな話がこのサイトでも続けられてきました。
 さて、今度の質問は「歌わないです」が間違っているという話。これが、「美しくないです」だったらどうなるのでしょう。「歌わない」の「ない」は打消の助動詞。「美しくない」の「ない」は形容詞。「形容詞」+「です」は間違いという人がいても不思議ではありませんが、「助動詞(ない)」+「です」はあっても、また不思議ではない。(「ません」が普通ですが)
 皆さんのご意見をお伺いしたいと思います。

「歌わないです」について、間違った文だという質問が出ています。
(回答しようとしたらこの人からブロックされています。どうしてブロックされたか全く心当たりがありません。仕方なく、質問の形で話に加わります)

 形容詞「素晴らしい」に「です」をつける言い方は、一部の人にあり得ないと判断されています。これは本来、「素晴らしゅうございました」といったものです。ところが「ございます」を使う人があまりいなくなって、「形容詞」を丁寧形で表現することが出来なくなりました。そこで登場したの...続きを読む

Aベストアンサー

こんにちは。

「形容詞+です」この問題は古くて新しい問題ですね。
私の思うに、はっきりした解決、というか、こうなれば落ち着く、ということの言い難い問題です。文法の体系性という点で、小さな矛盾を含んでいると思うからです。

「用言+ないです」のほうでは、「ない」が2種、あるいは3種に分けられるということは、異論の少ない(いろいろ言う人はいますが)ところだと思います。
「形容詞」「助動詞」と、「補助形容詞」。この点については、1311tobiさんが紹介された chiebukuro の解説がわかりやすく、私も勉強になりました。(私は、意味がほぼ同じで活用などが同じなら、品詞をごちゃごちゃ議論することもないだろう、という怠惰な考えだったので、あまりまじめに考えたことがありませんでした。要は、同じ語形が「多少」違った使い方をされるだけで、「基本的な」ところは一緒だろう、と思っているのです。)

皆さんが触れられていない点で、私が重要だと思うのは、「です」にも2種類ある、という考え方です。
これは、たぶん私の学生時代(ン十年前です)から言語学のほうではそうだったと思うのですが、確証はありません。私はずっとそう考えてきました。
今回、改めて国語辞書の記述を見、辞書の付録の「助動詞活用表」などを見て、「です」が一つしかない(「丁寧な断定」という用法)ことにちょっと驚いたくらいです。まあ、国文法の分析が言語学(少し前の「日本語学」)と違うのはよくあることですが。

かんたんに言えば、「名詞/形容動詞+だ/です」の「です(1)」と、「形容詞+です」の「です(2)」は違うものだ、という分析です。(「形容動詞」を「ナ形容詞」と言い換えるのは、今回はやめておきます。)

上に書いたとおり、「です(1)」のほうは、「だ」の丁寧な形、です。「断定」(この用語は好きではありませんが)の助動詞で、丁寧さによって形が分化します。
   学生 だ/です   まじめ だ/です

それに対して、「です(2)」のほうは、「だ」とは対立しません。
   美しいです (×美しいだ)
この「です(2)」は、「断定」の機能を持たず、「美しい」という、すでに「断定」の機能を持った言い切りの形に「丁寧さ」を加えているだけです。つまり、「断定」の助動詞ではなく、「丁寧」の助動詞です。(動詞文の「ます」に対応します)

また、「です(1)」は活用を持ち、「でした/でしたら」という形になります。
   学生でした   紅葉の名所でしたら、例えば、、、
(「でしょう」を活用形とは考えません。「だろう/でしょう」は一語の助動詞と考えます。)

それに対して、「です(2)」は活用を持ちません。
   ×美しいでした (美しかったです)  ×美しいでしたら (美しかったら)

(ここで、「美しいなら」の「なら」を、「だ」の活用と見るか、という問題も関係するかもしれませんが、まあ、これは「なら」をどう考えるかという、もっと複雑な問題になります。私は、「だ」と「なら」は、少なくとも現代語では、別物と考えます。)

ということで、多少の言い訳を必要としながらも、形容詞文の丁寧体として、「美しいです」は一つの位置を与えられるわけですが、さて、それがなぜ「不自然/不安定」に感じられるのか、1131tobiさんによれば「厳密には誤用」と言われてしまうのか、です。

ちょっと話の流れを変えます。
日本語の文の分析法として、文を「命題+モダリティ」という形で考えるということがあり、かなり一般的になっています。(国語学では「叙述+陳述」という、似た考え方が昔からあります。)

これによれば、文の終わりには、話者(書き手)の、その文の内容に対する「断定」や「推量」など、話者の「意志」、あるいは聞き手に対する「命令」や「勧誘」、「確認」「質問」などの、ある種の「態度」が現れる、とされます。
これは、用言のいわゆる「活用形」や助動詞によって表されるわけです。「ね」や「よ」などの終助詞もモダリティを表すとされます。

ここで問題になるのは、「丁寧さ」というのはモダリティなのか、ということで、どうも文法の中の位置づけが微妙なものです。
前からの呼び方では「文体」の一つの要素なのでしょうが、それは文を文として成り立たせる必須の要素、つまり「文法」の一部なのか。

で、私の考えでは、「形容詞+です」の不安定さは、この、「丁寧さ」が文を終結させるためのモダリティとしては不十分だ、というところにあるのではないか、となります。

「名詞/形容動詞+だ/です」の「です(1)」は、「断定の助動詞」に丁寧さが加わったもので、立派な(文を終結させる「力」を持った)モダリティですが、
   学生/まじめ です(断定+丁寧)
「形容詞+です」の「です(2)」のほうは、「丁寧さ」だけの機能しかないので、
   美しい(断定?)+です(丁寧)
という形が、文の終わり方としてどうも安定しない、と感じられるのではないか。

「美しいです」が不自然だという人も、「美しいですか/ね/よ」などにすると安定するように感じる、というのはなぜか。これに対するうまい説明は今のところないように思うのですが、どうでしょうか。(単に私が知らないだけかも)
終助詞「か/ね/よ」が文終結のモダリティとしての機能を持つからだ、と考えるとうまく説明できます。
   美しい+です(丁寧)+ね/よ/か(確認/主張/質問など)
もちろん、「でしょう」をつけても、「でしょう」の持つ「推量(あるいは確認)」というモダリティによって文として安定します。
   (たぶん)美しいでしょう。
   (どうですか?)美しいでしょう?

これは、世代が違ってもあまり変わらないようで、今の若い人も「形容詞+です」には何らかの不安定さを感じるようですが、どうでしょうか。
「「ね」や「よ」をつければ自然だから、変じゃないよ」というのは、上に述べたように「形容詞+です」の弁護にはなりません。

以上、私の考えをざっと述べてきましたが、ただ、「モダリティ」という概念は、研究者によってかなり幅があって、不用意に使われすぎている感があります。この概念そのものの検討が必要であり、いろいろ行われているようですが、私は不勉強でよく知りません。
(さらに、「文が終わる」とはどういうことなのか、「文成立の要件」となると、もう、根本的な議論になり、わけがわからなくなります。「文とは何か」ですから。)

この「形容詞+です」の不安定さ加減は、話し言葉では語調によって文の自然さが変わってくるので、微妙です。

   「どうですか?」「いやあ、なかなかがんばってますねえ。面白いです!」

などと、ある種の強調を込めた言い方をすると、それなりに自然な文として成り立つように(私には)思われます。
(語調が(文終結の)モダリティの機能を肩代わりする? 語調が文の意味を変えることは、「ある。」「ある?」など、ごくふつうのことです。単に「歩く。」と言うと描写あるいは意志に過ぎませんが、「(さっさと)歩く!」とある語調で言うと「命令」になります。)

なお、「話しことば」と「書きことば」で、後者のほうが「正式な」ことば、「正しい文法」の基準になるようなものと考えることは、私はしません。

言語学の考え方では、話しことばのほうが言語として自然な形であって、書きことばはそれに何らかの人為的な手が加わっているものだと考えます。(明治期の「言文一致運動」などを考えればよくわかることだと思います。)
言語の音韻や文法は、人間の意図とは別に、それこそ「自然言語」であって、自ずから文法の体系ができあがっていき、また変化をするものだと考えます。

「書きことばの文法」というのは、「規範文法」への傾斜を持ちやすく、「素晴らしい言語文化・言語芸術」がその後ろ盾になります。そうすると、言語としての本来の自由さ・内発的なエネルギーが失われてしまいます。それでも、話しことばはそんなことにかまわず、本来、内部にあった動きがどんどん現れてくるのだろうと思います。
それに対して、より以前の文法を持った世代がいろいろ抵抗感を持つことは、当然のことですが、それはまあ、時代の流れということで。

上に述べた私の考えは、「形容詞+です」に関しては、「単に新たな変化の一つで、そちらへ(いやでもおうでも)動いていかざるをえないもの」というのではなくて、文の作り方として少し無理があり、世代が変われば移っていくものとはかんたんに言えない、という見方です。
あと50年もしたら、どうなっているのでしょうか。あまり変わらず、「ね」や「か」をつけて使われ続けているのでしょうか。(「動詞+ないです」のほうも、興味深い現象ですが、これはまた別の話だと思います。)

もう一つ、「国語審議会」が認めた、という話ですが、「これからの敬語」自体が国語審議会の答申の一つ、ということなのではありませんか?(今、「これからの敬語」のアドレスをコピーしようとしたのですが、なんと「メンテナンス中」だそうです!)

長くなりました。最後まで読んでくださった方に感謝します。

saburoo

こんにちは。

「形容詞+です」この問題は古くて新しい問題ですね。
私の思うに、はっきりした解決、というか、こうなれば落ち着く、ということの言い難い問題です。文法の体系性という点で、小さな矛盾を含んでいると思うからです。

「用言+ないです」のほうでは、「ない」が2種、あるいは3種に分けられるということは、異論の少ない(いろいろ言う人はいますが)ところだと思います。
「形容詞」「助動詞」と、「補助形容詞」。この点については、1311tobiさんが紹介された chiebukuro の解説がわかりやす...続きを読む

Q敬語について ア 結果を、お早めに「お知らせください」 イ 会議には、田中さんが「参られた」そうだ。

敬語について

ア 結果を、お早めに「お知らせください」
イ 会議には、田中さんが「参られた」そうだ。
ヴ これから父の事務所に「うかがいます」。

…この三つのうち、正しく敬語が使われているのはどれか、という問題で、正解はアだったのですが
ウ、はなぜ違うのでしょうか?伺うは謙譲語ではないのですか??

Aベストアンサー

謙譲語は「敬意を払うべき相手に対する自分の行動」をへりくだって表現するものです。
「伺う」は「行く」の謙譲語として使われていますが、「行く」という自分の行動の相手は父親です。
他人に話す場合、身内である父親に対して敬意は払わないので謙譲語を使うのは間違い。

Q先生が次の授業に話そうとしていたことを、ある生徒がその内容について早くも言及して、質問してしまったと

先生が次の授業に話そうとしていたことを、ある生徒がその内容について早くも言及して、質問してしまったとします。このようなことをなんと表現できますか?「早とちり」かな、と思ったんですが、意味が合わないようです。どなたかお願い致します。

Aベストアンサー

先走り
先回り
先取り

Q「ぐねる」ってどこの地方の言葉ですか?(多分足をくじく、みたいな意味だと思います)

「ぐねる」ってどこの地方の言葉ですか?(多分足をくじく、みたいな意味だと思います)

Aベストアンサー

ぐねるとは、足をくじく、捻挫すること。関西圏の方言。
https://dic.nicovideo.jp/a/%E3%81%90%E3%81%AD%E3%82%8B


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