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答えの見つからない問題に「何故、人を殺してはいけないのか?」という問題があります。いけないと言うのは正しくないと言うことです。つまり何故、人を殺すのは正しくないのか?ということです。この問いを解くためには「正しいとは何か?」が分からなければ解けません。「正しい」が分からずに「何故、人を殺してはならない(正しくない)のか?」が分かるはずはありません。

さあ、皆さんに問います。一体、正しいとは何でしょうか? あなたが考える「正しいとは何か」を教えてください。

質問者からの補足コメント

  • 正しいを辞書で引けば「あるべき姿があり、それと合致する様」と書いてあります。つまり本当に正しいもの(あるべき姿)があり、それと合致していれば正しいと言えるのです。これは科学的正しさですが、道徳的正しさもまた「本当に正しいもの(あるべき姿)があり、それと合致していれば正しいと言えるのです。

    ですから道徳的正しさも本当に正しいもの、絶対的に正しいものを見つけて、それと自分の考えが一致しているから自分の考えは正しいと言えるのです。ですから自分の考えは正しいと言うためには絶対的に正しいあるべき姿を見つけなければなりません、いわゆる絶対善ですね。

      補足日時:2019/06/06 20:55
  • 正しい、正しくないが必要となるのは何か問題が起きた時です。何にも問題がないなら正しい、正しくないなんて必要ありません。ですから正しいはその問題と切っても切れない関係なのです。あらゆる問題の答えは常にみんなの為になる答えが正しいのです。みんなの為にならない答えなどそもそも答えではありません。ゆえに問題における正しい答えはみんなの為に合致する答えである、となります。ゆえに正しいこと、いわゆる絶対善は公(みんな)の為ということになります。

    公、みんなとはある問題に関係のある人達であり利害を共有する人たちです。もし問題を間違ったならばみんなが大きな不利益を蒙ってしまいます。ですからみんなで一致団結して正しい答えを出すように議論しなければなりません。その時最も正しい方法(絶対善)が「私欲を抑えて公の為」とみんなで考えることなのです。

      補足日時:2019/06/06 20:56
  • 善を辞書には「道徳的に正しいこと、またそのような行為」と書いてあります。つまり善には正しい事と正しい行為の二つがあるのです。ですから絶対的に正しい事(絶対善)は公の為であり、その為に絶対的に正しい行為(絶対善)が「私より公を優先すること」となります。このように絶対的に正しい事(絶対善)も絶対的に正しい行為(絶対善)もどちらも公の為と表せます。ゆえに私は「絶対善は公の為である」と表現しているのです。つまりソクラテス達が探していた絶対善は公(みんな)の為だったのです。

    善は道徳的に正しい事や正義ともいわれます。善、正しいこと、正義とは公の為なのです。公の為ならあらゆることが善であり、公の為でないならあらゆることが悪である。皆さん、絶対善はあるのですよ。
    何故、人を殺してはいけないの?の答えは「人を殺すことが公の為なら善であり、公の為でないなら悪である」となるのです。

      補足日時:2019/06/06 21:00

A 回答 (48件中1~10件)

宇宙のオーナーとしてあなたもわたしも育て破壊今後。

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この回答へのお礼

何だ、あなたは神様だったのですね。道理で神の言葉は理解できないはずです。

お礼日時:2019/06/10 20:26

#45です。



1.
>「この域を出ていません」と言うことはこれらと同じようなものであると言っているのと同じではありませんか?

『shinwood さんが現状おっしゃっていることは、この域を出ていません。』と申し上げているのですから、

shinwood さんが現状おっしゃっていることは、これらと同じようなものであると言っているのと同じである。

と言っています。
私がそう思っているという意味ではない。

2.
>絶対的に正しい、絶対善と言うためには論理的、道理的に客観的な正しさでなければなりません。私が見つけた絶対善は道理的、論理的に導かれたものであり客観的なものです。ですからあなたが言う「絶対善とは、自分が絶対的に正しいと思うものである」というのは主観的であり間違いです。絶対善はみんなで議論し考えることが基本です。

『絶対善はみんなで議論し考えること』で、何が『道理的、論理的に導かれたものであり客観的なもの』としての絶対善であるかを決める。
こういうことですね?
しかし、
『みんなで議論し考える』過程で、何が『道理的、論理的に導かれたものであり客観的なもの』なのか?
について、当然意見が割れますよね?
その場合、何が絶対善なのか(何が公の為なのか)を、どうやって決めるのですか?
shinwood さんの今までの論理では、その点に関する指標がまったく示されていませんよね?
それとも、その場合でも『みんなで議論し考える』のですか?
これはトートロジーです。

3.
>「絶対善の解釈が異なるからこそ発生する問題の解決手段が絶対善である」ではなく「皆さんの価値観が異なるから解決できない問題の解決手段が絶対善である」です。

絶対善とは『私より公を優先すること』なんですよね?
「価値観が異なる」というのは、

何が『私より公を優先すること』なのか?

という点についての価値観が異なる、ということ。
つまり、shinwood さんは、

(何が『私より公を優先すること』なのか、という点について)皆さんの価値観が異なるから解決できない問題の解決手段が『私より公を優先すること(=絶対善)』である。

とおっしゃっていることになる・・・。
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この回答へのお礼

>その場合、何が絶対善なのか(何が公の為なのか)を、どうやって決めるのですか?
shinwood さんの今までの論理では、その点に関する指標がまったく示されていませんよね?<

補足の2番目を見てください。あらゆる問題はみんなの為になる答えであると言うのは自明のことでしょう。今回はこの辺でいいでしょう。

お礼日時:2019/06/10 20:23

どこも何も正しいのです

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この回答へのお礼

あなたはもしかしたら賢人なのかもしれない。しかし如何せん、猪突先生のような公の為の心がない。

お礼日時:2019/06/09 21:53

#42です。



>あなたが言うように多数意見に従うのが正しいならそれは現在やっていることではないですか。そんなものは絶対善にはなりません。

わたしが『多数意見に従うのが正しい』と言ったと捉えておられるのですか?
申し上げた文脈をそのように解釈するようでは、論理立てた文を書くのは難しいでしょう。
であれば、これ以上、何を申し上げても不毛かもしれませんね。
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この回答へのお礼

>少数意見は多数意見に従う。これが絶対善。このように少なくとも、shinwood さんが現状おっしゃっていることは、この域を出ていません。<

「この域を出ていません」と言うことはこれらと同じようなものであると言っているのと同じではありませんか?

>申し上げた文脈をそのように解釈するようでは、論理立てた文を書くのは難しいでしょう。であれば、これ以上、何を申し上げても不毛かもしれませんね。<

それでは42についてもう少し詳しく説明しましょう。

>言葉というものは、人間が作り出したものなので、「正しい」をどのように定義しようとも、それは「正しい(と思う)」とう意味にしかなり得ません。<

絶対的に正しい、絶対善と言うためには論理的、道理的に客観的な正しさでなければなりません。私が見つけた絶対善は道理的、論理的に導かれたものであり客観的なものです。ですからあなたが言う「絶対善とは、自分が絶対的に正しいと思うものである」というのは主観的であり間違いです。絶対善はみんなで議論し考えることが基本です。


>原発は事故が怖いから無いほうが利する、と考えもあれば、便利で安定しているから有るほうが利するという考えもある。『利害を共有』できないから、もっと言えば価値観が異なるからこそ問題が発生するわけでしょう。つまり、絶対善の解釈が異なるからこそ発生する問題の解決手段が絶対善である、とおっしゃっていることになるのでは?論理破綻ですよね。絶対善自体の決定的定義が必要だということだと思います。<

「絶対善の解釈が異なるからこそ発生する問題の解決手段が絶対善である」ではなく「皆さんの価値観が異なるから解決できない問題の解決手段が絶対善である」です。絶対善は問題を最も正しく解く最高の方法なのです。いろんな考えが在れどもまず「私欲を抑えて国民の為になる答えは何なのかとみんなで考えること」なのです。どうしても結論が出ないなら少数意見も尊重して多数決で決めるしかありません。

絶対善とは絶対的に正しい事と絶対的に正しい行為、方法を示すものです。絶対的に善い事は社会の安寧秩序、みんなの幸せが守られていることであり、その為に最も優れた、絶対的に善い方法が「私より公を優先すること」なのです。

お礼日時:2019/06/09 21:52

それはあなたが正しいからです。

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この回答へのお礼

>それはあなたが正しいからです。<

どこが何が正しいのですか?

お礼日時:2019/06/08 21:54

あなた正しいことは分かります。


それはあなたが正しくないからだす。
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この回答へのお礼

>それはあなたが正しくないからだす。<

どこが間違っているのか指摘してくれますか?

お礼日時:2019/06/08 21:40

>正しいを辞書で引けば「あるべき姿があり、それと合致する様」と書いてあります。

つまり本当に正しいもの(あるべき姿)があり、それと合致していれば正しいと言えるのです。

根本的な点で勘違いなさっておられるようです。
言葉というものは、人間が作り出したものなので、「正しい」をどのように定義しようとも、それは「正しい(と思う)」とう意味にしかなり得ません。
つまり、

>ですから自分の考えは正しいと言うためには絶対的に正しいあるべき姿を見つけなければなりません、いわゆる絶対善ですね。

というのは、

ですから自分の考えは正しい(と思う)と言うためには絶対的に正しいあるべき姿(と思うもの)を見つけなければなりません、いわゆる絶対善ですね。

という意味になるので、

絶対善とは、自分が絶対的に正しいと思うものである。

と言っているにすぎない。
無意味なことをおっしゃっていることがおわかりになるかと。

>みんなの為にならない答えなどそもそも答えではありません。ゆえに問題における正しい答えはみんなの為に合致する答えである、

おっしゃることはよくわかりますし、特に反対ではないのですが。
しかし、何が『みんなの為』なのか?
という点について見解が分かれるからこそ『問題』が発生するわけだからねえ。

>公、みんなとはある問題に関係のある人達であり利害を共有する人たちです

これも同じなのですが、原発は事故が怖いから無いほうが利する、と考えもあれば、便利で安定しているから有るほうが利するという考えもある。
『利害を共有』できないから、もっと言えば価値観が異なるからこそ問題が発生するわけでしょう。
つまり、絶対善の解釈が異なるからこそ発生する問題の解決手段が絶対善である、とおっしゃっていることになるのでは?
論理破綻ですよね。
絶対善自体の決定的定義が必要だということだと思います。
たとえば、

少数意見は多数意見に従う。これが絶対善。

のように。
少なくとも、shinwood さんが現状おっしゃっていることは、この域を出ていません。
ケチばかりつけてすみません。
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この回答へのお礼

>根本的な点で勘違いなさっておられるようです。<

正しいと言う意味はあるべき姿があり、それに合致しているから正しいと言うのです。何の間違いもありません。


>絶対善とは、自分が絶対的に正しいと思うものである、と言っているにすぎない。<

私が思うと言うより論理的にそうなると言うことです。


>しかし、何が『みんなの為』なのか?という点について見解が分かれるからこそ『問題』が発生するわけだからねえ。<

ですから、ある問題について見解が分かれていればさらにみんなが妥協をしてみんなが納得する答えにすればいいのです。


>これも同じなのですが、原発は事故が怖いから無いほうが利する、と考えもあれば、便利で安定しているから有るほうが利するという考えもある。『利害を共有』できないから、もっと言えば価値観が異なるからこそ問題が発生するわけでしょう。<

日本で原発を続けるべきか、やめるべきかはどちらもその方が日本国民の為になるから賛成反対と言っているのでしょう?ですからどちらも私欲を抑えて本当に日本国民の為になるのはどちらかとみんなで話し合って決めればいいのです。絶対善とは方法を言うのです。私欲を抑えて公の為とみんなで考えること、これが絶対的に正しい方法(絶対善)なのです。善は道徳的に正しい事(目的)、と正しい行為(方法、手段)を言います。善には事柄と行為の二つがあるのです。結果ではありません。


>少数意見は多数意見に従う。これが絶対善。<

絶対善は社会の安寧秩序を守る事、みんなの幸せを守る事です、つまり公の為(目的)。その目的のために最も正しい行為、方法が「私より公を優先する行為、つまり公の為」が絶対善です。絶対善には事柄と行為があります。これらはどちらも公の為で表現できます。ゆえに絶対善は公の為と言っているわけです。

例えば現在の日本では原爆をなくせと言うのが多数意見ですが原爆は怖いからなどという感情論、私欲をまず抑えて本当に日本の為になるのはどちらなのかと話し合えば日本は原爆を持つべきとなるはずです。論理的に考えればそうなるのです。勿論私欲を抑えて公の為と話し合ってもどうしても決まらないならば多数決で決めてもいいのです。あなたが言うように多数意見に従うのが正しいならそれは現在やっていることではないですか。そんなものは絶対善にはなりません。

お礼日時:2019/06/08 20:00

私個人としては、【正しい=ある対象を考えるときに、自分が信じる考え方、とらえ方に沿っていること】という考え方をしています。

沿っていないもの、対立する考え方を「悪」と捉える感じがしてます。

そもそも「正しい」は、ある対象に対して、他者の存在や考え方もある中での「自分個人の立ち位置」が定まった上で浮き彫りになるものだと思っています。

例えば、無人島で自分一人しか存在しないところで「私は、〇〇が正しいと考えている」と言ったところで、誰の反応もなく、正しかろうがどうであろうが影響もない状態であれば、なんとも立ち位置が定まらない一意見という感じがします。

社会生活を送る中で、他者とのかかわり合いがあることが前提になるので、それぞれの人が自分の「正しさ」を持っていると、時には対立することもあると思います。それで「どちらが正しいか?」から始まって複雑な価値観の乱立みたいな状態になるのだと。お互いに一理ある場合、本当に困ってしまいます。

世界の全員が同一の価値観を持っているわけではなく、多くの人が「正しい」と賛同する考え方でさえ、異なる考え方の人も存在するのが現実だと思います。まして、国や文化が違うとなれば一つの考え方でまとまらないのはなおのこと。一つの国においても、国内では取引先との関係や、自分の職場や人間関係において、対立することが多いですし。


人の数だけ「正しさ」があると考えると、【ある対象】を絞ってから「正しさ」を考えた方が立場が定まって把握しやすいと思いますけど。

ちなみに、私個人が「何故、人を殺してはいけないのか?」について考えるとき、いけないと思う心があるから、としか答えられません。自分の存在の外側の決まりごとに従ってそう思うように仕向けられているわけではないです。心がそう感じるからです。

それを説明するのは難しいし、そもそも【答えが見つからない問題】といえるのは、この問題に関しては各々の心の反応からくるもので、それぞれが置かれた状況によっては、唯一の理由に定まらないからだと思います。
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この回答へのお礼

>ちなみに、私個人が「何故、人を殺してはいけないのか?」について考えるとき、いけないと思う心があるから、としか答えられません。自分の存在の外側の決まりごとに従ってそう思うように仕向けられているわけではないです。心がそう感じるからです。<

それはいい着眼点です。何故、人を殺してはいけないのか?ではなく、何故、人を殺してはいけないと感じるのか? これをもう少し考えて何故私たちはそのように感じるような仕組みになっているのだろうかと考えれば、みんなに共通する善が分かってくるのです。みんなが人を殺してはいけないと感じているのです、人間みんなに共通する何かが在るのです。そこを深く考えて見られたらどうでしょうか。

お礼日時:2019/06/08 19:57

本当の正しさ



( ̄~ ̄;)?

自己満足の可能性は
無いかな?

現実に社会は問題ばかりなんだけどね!
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この回答へのお礼

>自己満足の可能性は無いかな? <

在るかもしれませんね。でも私の言う絶対善で「何故、人を殺してはいけないのか」などの難問もすぐ答えが出ますからね。このように多くの問題を解いて絶対善は正しいと証明していくしかないでしょうね。

>現実に社会は問題ばかりなんだけどね!<

それは皆さん「正しいは人それぞれでいいのだ」なんて相対主義で考えているから、共産主義者やヒトラーなんていうやつらが出てきてよけいな問題を起こします。そうではなく私の言う善的絶対主義「問題はみんなで議論して決めようぜ、それが絶対的に正しいと考えようぜ、自分の考えこそ正しいなんて考えはもう止めようぜ」という風になればずいぶんと問題は減っていくと思いますがね。

お礼日時:2019/06/08 19:57

「正しい」にこだわるあなたが循環参照してどーすんの。


「正しい」を理解するにはその中で「正しい」は使えません。
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この回答へのお礼

>「正しい」を理解するにはその中で「正しい」は使えません。<

ですから私は正しいとは何かをすでに理解していますから、それが正しいかどうかわかると言うことです。

お礼日時:2019/06/08 19:56
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