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科学の観点から意識や自由意志は錯覚だとされています。
これは事実だと思いますが、なにを楽しみにして生きていけばいいのかがわからなくなります。
つまり、この「私」とは映画を観ている観客のようなような存在。
虚無感に襲われて辛いです。
自由意志はないと考えている人は何を楽しみにして生きていますか?

A 回答 (14件中1~10件)

何かいろいろ勘違いされているように思います。



>科学の観点から意識や自由意志は錯覚だとされています。
いませんよ。
科学と言うのは「そう言う説がある」と言うだけです。
そしてそう言う説は、常にひっくり返る可能性を秘めています。
ひっくり返る可能性が、あるものが科学です。

>自由意志はないと考えている人は何を楽しみにして生きていますか?

自由意志(と、他人が考える物)が、
あっても無くても(本人)変わらないんです。
だって「あなた自身」は、変わらないんですから。

最初から自由意志が無かったんなら、
生まれてからずっと
「映画を観ている観客のようなような存在」だったはずで、
それで当たり前ですから、何も感じないはずです。
今になって「虚無感に襲われて辛くなる」のはおかしいです。

生まれてから、何一つ楽しみは無く、
「楽しみ」と言う言葉の意味自体を、理解出来ないはずです。

>科学の観点から意識や自由意志は錯覚だとされています。
と聞いたから、
>この「私」とは映画を観ている観客のようなような存在。
>虚無感に襲われて辛いです。
となったんじゃないですか? 
 
「そう言われたから」
「そう考え、そう感じるようになって」
「結果、虚無感で辛くなった」
だと、
思うんですよ。

別に何も変わってないし、持っているんです。
その持っている物を、自由意志と呼ぶか?呼ばないか?、
錯覚と考えるか?考えないか?の、違いだと思います。
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>>科学の観点から意識や自由意志は錯覚だとされています。



これは誤りです。意識や自由意志は実在です。
この場合の科学とは、素朴実在論、俗流唯物論の立場に過ぎません。

錯覚であれば、虚無感に襲われる必要はありません。

>>この「私」とは映画を観ている観客のようなような存在。

現実の自分から観念的に自己分裂し、現実の自分を対象化している観念的な存在です。
映画の世界に没入している観念的な私と同じです。
何を楽しみに生きるかは本人の自由です。
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質問者さんのおっしゃる”科学”と言うのは、脳生理学の見地から、脳の働きは、全て脳内物質の働きによるもので、自分の意思と思っていても、実は、脳に操られた幻想である、という、記事によったものでしょうか。



あるいは、LA在住の哲学者風の作家さんの、”自由意思”と言う本によったものでしょうか。

脳生理学者も、作家さんも、自由意思は存在しない、と、言いながらも、恋をして、結婚をして、子供たちを育てているので、ご心配なさならくても大丈夫です。サム・ハリス氏には奥さんがいて、二人のお子さんもおられます。彼は、無神論者と呼ばれているらしい。

また、脳生理学者さんは、脳生理学がすべてなので、どうしても、脳の働き至上主義になりがちです。

一つの反証として、もし、自由意思というものが錯覚であれば、取り返しのつかない犯罪=殺人を犯した犯人を、さばくことは誰にもできなくなります。なぜならば、彼は、錯覚に踊らされていたから、彼には、彼の行動に責任をとる必要がなくなる。脳生理学者が、この問題をどう判断するか、調べてみたいと思います。

私は、米国在住ですが、オバマ政権時代は、リベラルの天国でした。現在は、保守の揺り返しの時代です。自由は尊いものですが、それは、大きな責任の裏打ちがなければ、社会の混乱を招きます。

ご質問を読んで、そんなことを考えました。

現在は、人生80年、または100年の時代です。私は、もう、60歳ですが、まだ、目の前に二十年あります。その二十年をどんなふうに暮らしてゆくか、たくさんの選択肢があります。もちろんすべてが”自由”ではありませんが、未来が広がる選択をしてゆくのが、”楽しさ”に繋がっていきます。たぶん、質問者さんは、私よりお若いでしょうから、賢い選択をなさって行けますように。

わかりにくかったら、ごめんなさい。
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質問者さんに質問があります。

質問者さんはキリスト教徒の方ですか。なぜなら、自由意志という概念は、ユダヤ=キリスト教の一神教文化圏に固有な概念だからです。日本のように多神教文化圏の世界観を持っている文化には自由意志なる概念そのものが意味をなしません。

一神教の世界では、この世界を作りたもうた唯一絶対で全未来全過去をお見通しの完全無欠な神がおられると主張しております。ですから、その神にとってこの世界は全未来全過去にわたって既に存在していることになります。そして、完全無欠ですから、その神にとって何か想定外のことも新しいことも起こりません。要するに、神にとってこの世界は時間が意味をなさない無時間の世界なのです。だから、人々は神の作りたもうたシナリオに反する何か新しいことを自分の意思として自由に考え出したい、その意思に従って行動すことなどあり得ない。そうなると、我々の日々の行動規範を自分の意思で決めていると思い込んでいるのは矛盾ではないか、さあどうしようっていうのが自由意志の問題です。すなわち、自由意志が問題になる世界では、人々は自分の未来の構築に参加できない世界に住んでいることになります。

でも、もしこの世の中に少なくとも二柱の神がおられるなら、次に何を起こさせようかということに関して、この二柱の神の間で論争が起こってしまいます。だからそのような世界では、まだ未来が与えられておらず、その二柱の神ですら、次に何が起こるか判らなくなってしまいます。そうです、多神教の世界では、その世界を構築している各々の個体の自由な意思と決意によって、これから起こる未来の構築に参加できる世界なのです。私は、その構築に私自身が参加できる世界に住んでいるのだと思っております。

日本人はその多くが無宗教であると思っている人を時々見かけますが、これはとんでもない誤解です。若い頃宗教に興味がないと言っていた人でも、そのほとんどの人は自分の親が亡くなる、その遺影に手を合わせるようになります。これがまさしく神道の真髄であり、親を含めた自分の先祖が自分たちを見守ってくれているとなんとなく思っているのです。このように神道はまさに多神教の典型なのです。ですから、一神教の信者でもない限り、日本人は皆自分自身の自然な意思で日々を過ごしていると考えております。そのように考える人には、なぜ自由意志なるものが問題になるのかすら馬鹿馬鹿しくて論じる気になれない。

一神教を深刻に信じている人ならともかく、一神教の信者でもないのに、自由意志を語る人は、自由意志の意味を理解していない人か、あるいは思春期の頃に目覚めた理屈の世界に魅了されたままそこで成長が止まってしまった未熟な理屈好きの連中だと考えると、彼らの行動が理解できそうです。
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>科学の観点から意識や自由意志は錯覚だとされています。


深層意識からはなれての、完全な自由意志というのは錯覚でしょうね。

>なにを楽しみにして生きていけばいいのかがわからなくなります。
楽しいことを楽しめば、別に錯覚でも良いじゃないですか?

>「私」とは映画を観ている観客のようなような存在。虚無感に襲われて辛いです。
映画を見ている観客だったら、それを楽しめば良いですよ。

>自由意志はないと考えている人は何を楽しみにして生きていますか?
楽しいことを楽しめば良いんです。
こんなことで悩んでいても時間の問題でしょう。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
おっしゃる通りだと思います。

お礼日時:2019/07/12 20:22

へーそうなんですか。

科学の観点から意識や自由意志は錯覚だとされているんですか。私は科学の観点から幽霊を見た人がいるとされているのですが、これも事実なんでしょうかね。んで、質問者さんは意識や自由意志は錯覚だと科学の観点から理解しているという理解をして良いのでしょうか。どこがどう科学の観点から説明されているのか教えてくださいませんか?そんなことはないと思いますが、もし質問者さんがこれを科学の観点から理解してるつもりになっていることが間違いだっら、質問自体が無意味になりますが、それでも宜しいんでしょうか。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
脳科学の観点から自由意志はないのだろうと感じました。また、人間の意識は脳から生じ、脳は物質であるため、物理の法則に支配されます。このように考えると自由意志は無いように思えてきました。

お礼日時:2019/07/12 20:22

★(№7お礼欄) ですが自由意志がないと思うとどうしても虚無感に


襲われてしまいます。これも私の自由意志によるものではなく自動的に
湧いてくる感情なのでしょう。
☆ 《何の思考もそして意志もなく おのづから虚無感に襲われてしま
う》とのこと。

そのとき確かに自由意志が何もはたらいていないとしても おそらく自
由意志を自分は持ち合わせているはずだと――証明抜きの公理としての
ごとく――思っているゆえに その虚無感が湧いて来るのではないので
すか?


あぁ そうか われわれには自由意志はないんだと納得したのなら そ
のような虚無感は――そして 想像するにぎゃくにそのことのよろこび
も―― 起きないでしょう。

起きても ただちに あぁ そんな感情は意味のないことだと分かって
すぐに消えて行きましょう。


ところが じっさいにはそうではないから・・・。つまりは科学がまち
がっていると思うから・・・。
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科学の観点から意識や自由意志は錯覚だとされています。


 ↑
そういう説もある、というだけです。
かつては、地球は静止しているとするのが
科学でした。



これは事実だと思いますが、なにを楽しみにして生きていけば
いいのかがわからなくなります。
  ↑
自由意志の有無と、楽しみの有無は
別問題でしょう。
借りに自由意志がない、としても、現実として
人生を楽しんで
いる人は沢山おります。



つまり、この「私」とは映画を観ている観客のようなような存在。
虚無感に襲われて辛いです。
自由意志はないと考えている人は何を楽しみにして生きていますか?
 ↑
事由意志がないのであれば、そんなことを
考えるのは無意味です。
虚無感に襲われるのも、必然になるからです。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
おっしゃる通りこのようなことを考えるのは無意味でしょう。ですが自由意志がないと思うとどうしても虚無感に襲われてしまいます。これも私の自由意志によるものではなく自動的に湧いてくる感情なのでしょう。

お礼日時:2019/07/07 07:53

まず、注意しなければいけないのは、科学的な実験で言及されているのは、特定の肉体動作に関して、動作の準備と思われる神経活動と、動作の表意動作とのタイムラグがあり、動作の準備と思われる神経活動が先行しているという実験結果が得られたと言う事です。


これは、哲学で議論されている「自由意志」とは、厳密には違いがあります。(若干似ている面もありますが、本質的には違うと思われます)
哲学で議論されている「自由意志が存在するか?」とは、人間の意志そのものが、制約(ある決定論に基づいている)されているかどうかです。
完全な「自由意志」は、制約からは一切自由である必要があります。
制約により、「自由意志」が存在しないという立場は、制約が存在すると言う立場です。
制約が無いと言う立場は、「自由意志」には、一切の制約が無いと言う立場になります。
科学的な実験に関しては、この哲学的議論としての「自由意志」は分析対象になっていません。(もしくは、分析する事が不能です)
科学的実験では、被験者は、自由にある行動を行い、その行動に対する神経活動の測定と、行動に対する表意動作を行います。
つまり、行動に対する制約は、実験では無いわけです。(これは、哲学的な意味の「自由意志」は成り立つと言う前提が無ければ、成し得ません)
科学的実験では、被験者の行動の決定は、被験者の中で行われているので、その行動が外的制約を受けているかどうかは、わからないわけです。(また、なんらかの外的制約があったとしても、実験時間にさかのぼっての実験再開は不可能ですから、制約があったかどうかは検証不可能です)
人間の肉体の動作時間は、神経伝達時間の制限によります。(したがって、極端な短時間での動作は、物理・科学的制約から、不可能です)
したがって、神経動作活動と、表意行動による神経動作活動は、当然ながら、一定のタイムラグが生じるのは、当たり前です。
また、表意行動そのものが、精神活動とリアルタイムに連動している保証すらありません。
科学的実験では、ある動作が、精神活動より先行している可能性がある事を示唆していますが、精神活動そのものを測定出来ない以上、何も言えないのは、明白です。(正確には、動作活動と表意行動のタイムラグがあったと言っているだけです)
どちらにしろ、なんらかの動作は行っているので、その行動に対する「自由意志」が何によるかなどは、説明していません。
哲学的には、このような実験は、単なる肉体と神経活動の実験を行っているだけとしか言えないでしょう。(動作そのものの「自由意志」が何によるかは、明示できていないと言う事です)
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カントもショーペンハウワーもそう言ってるし、反論できる人は居ないみたい。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
私も完全に反論はできる人はいないと考えています。

お礼日時:2019/07/07 07:56

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