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織田信長の遺体は豊臣秀吉が墓荒らしに合わないように極秘で埋葬した?

織田信長が普段から肌身離さず持ち歩いていた義元左文字を豊臣秀吉は織田信長の死後に引き継いで持ち歩いていた。

義元左文字は桶狭間の戦いの際に、今川義元を打ち破った織田信長が自身の戦後時代の最初の勝利で験担ぎで以後は持っていた。

織田信長は明智光秀に本能寺で殺されたがなぜ本能寺の織田信長のそばにあったはずの義元左文字が豊臣秀吉が持っているのか。

遺体と義元左文字は明智光秀が手にしていたら見せびらかしていたはず。

なぜ豊臣秀吉は織田信長の遺品の義元左文字を持っていたのか。

あと不思議なのが織田信長は義元左文字は使わずに槍と弓で本能寺を戦ったという。

義元左文字は本能寺になかった?

どういうことでしょう。

義元左文字は織田信長は本能寺のときには身につけてなかった?

A 回答 (3件)

織田信長の遺体は豊臣秀吉が墓荒らしに合わないように極秘で埋葬した


>極秘にする必要はないと思います
信長の権力を受け継ごうとする秀吉にとって、当の信長がひょっとすると生きているかも、と人々に思わせることはまずいことですから。
だから、もし信長の遺骸が見つかっていれば、信長の死を人々に明らかにするために、極秘埋葬なんて言う事はしないと思われます。
信長の死が明らかなので、その敵を討った自分(秀吉)が、信長の孫の三法師の貢献となる(結果的に織田家を牛耳る)
ということを正当なこととして世間に広めたかったはずです

なぜ豊臣秀吉は織田信長の遺品の義元左文字を持っていたのか。
>その名刀は、信長と共に本能寺にあったか、または安土城に置いてあったはず
光秀が信長を討ち、刀を手に入れた→それを討った秀吉が光秀から刀を奪い取った という可能性もあるが、
そうでなくても、わずかな日数の内に畿内は秀吉によって(信長の息子や、織田家臣団によって)制圧された。
名刀は畿内から出る可能性は少ないので、畿内の争いが収まると間もなく、
秀吉家来または畿内の人々によって発見され、(褒美目当てやゴマをするためと言う目的もあり)
日本一の勢力を誇る織田家の最有力者となった秀吉の元に届けられたということでは。
どの時点で、義元左文字が秀吉の手元に届いたかは不明でも、秀吉の権勢が高まれば高まるほど、天下の名刀などは
権力者の元に集まってくるというのはあまり不思議な事とは言えないと思います。
義元左文字のような名刀を発見したものが、最高権力者に献上してご機嫌取りをすれば、褒美ももらえるだろうし、領地を安堵してもらえる可能性も高くなるし、政権内でより高い地位につけてもらえるかもしれないという考えが働くのは自然なことですから。

あと不思議なのが織田信長は義元左文字は使わずに槍と弓で本能寺を戦ったという。
義元左文字は本能寺になかった?
どういうことでしょう。
義元左文字は織田信長は本能寺のときには身につけてなかった?
>資料が無ければ分かりません。
義元左文字は本能寺になかった のかもしれないし
義元左文字は本能寺にあったが、家宝を抜いて戦うのをためらったのかもしれないし
そもそも、刀では敵との間合いが近いので合戦ではあまり使われず、間合いが長い武器(槍、弓、鉄砲~石投げなど)を使うのが主流であったという説もあります。だから、信長が刀を使わなかったとしてもそれは自然なことです。

もっと言えば、総大将が率先して敵と刃を交えるというのは、とても常識はずれな行動です。
いくら信長と言えども、自ら前面に立ち、敵と戦っていたというのは実際には考えにくい事なのかもしれません。
家来に敵の侵入を阻止させている間に、自分は戦場から少しでも離れ、逃げる段取りをつけるか、自害するか という行動を取っていたと考える方が自然です。
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この回答へのお礼

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お礼日時:2019/07/31 20:10

義元左文字は、一度、焼けて鞘も無くなってます。

刻印に金細工が施してあるのですが、その文字も高温で滲んでいる痕跡があるらしい。本能寺の変の際、火を掛けた際の痕跡と考えて良いと思いますけど、明智に取り囲まれてる状態では持ち出せないので埋めてたかしたのだと思うけどね。

信長は、密偵の知らせで、明智光秀勢の動向を早々と知る事が出来た為、もうだめだと腹をくくり自決したのだと思います。

その遺体は家来に焼かせたという文書が残っているらしいよ。

オウム返しで秀吉が明智を討ち取り、あだを取った後には、焼け寺からか、織田信長の弟・阿弥陀寺の清玉上人から、義元左文字のありかを教えてもらって譲り受けたのだとの予測です。

信長の弟は出家してて、近くの寺のお坊様だったので、火事場で、明智勢に疑われず小細工ができたということでしたけど
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以前に聞いた一説ですが。


織田信長の家臣には弥助という人物がいました。
元々、日本へ連れてこられた体格のいい黒人の奴隷だったのですが、変わり者の信長が彼を気に入って家臣にしたのです。

本能寺に滞在時、織田信長と森蘭丸が共に行動していたことは有名ですが。弥助も一緒にいました。
そして、恐らくは織田信長は義元左文字も所有していたと思います。
織田信長自身、家臣の誰かが謀反を企てるとは思っていなかったため、まったく油断していたはずです。
そのため、信長の元にはあまり兵がおらず、多勢に無勢でした。
刀で戦えるほど近い距離を詰められたら一瞬にしてお終いでした。弓と槍はそのためです。

本能寺に火がつけられたとき、信長は絶命することをわかっていたので、家臣の弥助に織田信長の首を持ち本能寺から逃げるように言いました。
理由は燃え跡から織田信長の首を明智光秀が見つけた時、明智光秀の思惑どおりに事を進むことを防ぐためでした。
戦国時代といえば、敵将の首を取り持ち帰ることが手柄と倒した証明だったからです。
持ち帰る首さえなければ、明智光秀が正式には織田信長を打ち取ったとはいいきれない。首がない以上、しばらく猶予時間があり、秀吉はその猶予を利用して優位に働いたわけです。織田信長の策のような説です。

自害した織田信長の首を弥助は持って、燃える本能寺から走って逃げました。そして、どこかに埋めて隠したのでしょう。
もしかしたら、弥助はその時、一緒に刀も持っていたのかもしれません。当時の日本人は背が低く小柄ですが、黒人の弥助は背が高く大柄だったそうですから、首と刀の両方を運んだとしても可能でしょうね。
その後、弥助は13日の間に明智光秀に会っているのですが、弥助だけは黒人だからと差別的に見逃されています。
ここからは個人的な意見も少し入っていますが、見逃された弥助が再び埋めた場所に戻り、刀だけ取りに戻り、その刀を誰かに渡したのかもしれません。
秀吉の手元に渡ったのは献上されたためだからです。

信長を討とうとした明智光秀を討ったものの手に刀が渡るように、生前の信長が仕向けたことであれば、三日天下なんていわれますけど、実際は明智光秀は首も刀も結局は信長から何一つ奪えなかったことにもなりますし。
この説が個人的には一番しっくりきますね。
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