アプリ版:「スタンプのみでお礼する」機能のリリースについて

下記サイトに野田尚史氏の見解がまとめられています。
https://yousei.arc-academy.net/manbow/index.php/
彼は両者の差異を5項目に分類しているようですが、目から鱗の部分を感動的に取り上げつつ、蛇足と思われる部分などを批判する形で述べてみたいと思う。
長くなるので、一項目づつ取り上げるつもりです。
今回は、2番目の項目である下記記述(※)について。
因みに個人的には、
a.「は」の意義は「主題提示」。
「が」の意義は「主体、または可能・希望・好悪・巧拙などの対象を特定・指定する」。
です。
辞書には多くの語釈が列挙されていますが、これら a. b. が根本的な意義であることを理解することが重要と考える次第。


(2)現象文か判断文かによって使い分ける方法。
  現象をありのままに、話し手の主観的な判断を加えずにそのまま表現する文を「現象文」と呼び、現象文の主格には「が」が付く。これに対して、現象に対して話し手が主観的な判断を加えて表現する文を「判断文」と呼び、判断文の主格には「は」が付く。以上のことを基準にして使い分ける方法である。
 ・(他の人に間違えて持って行かれそうになった傘を指して)それは私の傘です。(判断文)
 ・(目の前の犬を見て)犬が寝そべっている。(現象文)
 (全体の構成上、例文の順番を入れ替えています:質問者)

この分類というか解説文には感動しました。
佐々木鼎氏の「品定め文」「物語文」にも感動したのですが、こちらはさらに分かりやすい文になっていると思います。

a-2 「は」⇒現象に対して話し手が主観的な判断として表現する文。(判断文)(←一部改変)
b-2 「が」⇒現象をありのままに、話し手の主観的な判断を加えずにそのまま表現する。(現象文)

上記例文以外も(あえて難しい例文で)ひとつ検証してみます。
 ・鈴木さんは校長です。⇒「鈴木さん」について、「校長である」という現象を、主観的な判断として述べている。「主観的な判断」という表現が若干奇異に映るかもしれませんが、「主題提示」なので「鈴木さんについて(私が)述べるならば・・・」という意図の文であることに留意すると良いかと。
 ・鈴木さんが校長です。⇒校長であるという現象を『そのまま』表現している。

ということで、実に的を射た解説になっていると思います。
特に、
[ は ] 主題提示=主観的な判断として表現。
[ が ] 主体、または可能・希望・好悪・巧拙などの対象を特定、または指定する。=主観的な判断を加えずに(事実として)そのまま表現。
という点で私の中では整合性も取れている。
ただ、検証例が少ないので、何か齟齬が発生するのではないかという懸念がないわけではありません。
この点も含め、みなさんのご見解をお聞かせいただければ幸いです。

質問者からの補足コメント

  • #6お礼欄からの続き

    ・個別的判断か、特殊的判断か、普遍的判断かという判断は、当然に肯定判断や否定判断と認識構造においてむすびついている

    というようにも三浦は述べている。
    しかし、これらの判断を具体化的に明示しているのが助詞であり助動詞であるはずなのに、
    >係助詞そのものが「支配する」わけでもない。

    などという矛盾を結論として述べている。
    一体に、こうした誤謬が三浦記述には多いと感じます。
    ただ、
    >用言そのものが「力を持つ」わけでもなければ、

    という点は、勉強になっていると思います。

    No.6の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2019/08/22 21:53

A 回答 (20件中1~10件)

運営に頼めば、質問をそのまま移してくれるはずなんですが。


まあ、せっかくだから前回の回答をコピペしておきます。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

「ハ」が主題なのはいいんですがね、ただ、主題にもいろいろあって、全部一緒くたでいいのか、という問題があります。

普通の主題
・鈴木さんは校長です。

対比主題(強勢がある)
・(目の前の犬を見て)こっちの犬は寝そべったままだが、あっちの犬は飛び起きた。

舞台設定
・この国では、犬は食料である。(場所の設定)
・昔は、夏は涼しかった。(時の設定)

???
・この臭いは、ガスが漏れてるね。
この文がやや破格であることも説明しなければならない。



「ハ」に比べて、「ガ」は非常にやっかいで、「その他条件」「非該当性条件」「Elsewhere Condition」で処理すべきだと思われる。
たとえば、
・彼は右目だけがつむれる。
・彼は右目だけをつむれる。
「ガ」のほうは、「左目はつむれない」という意味だが、「ヲ」のほうは「ウィンクができる」という意味。
これを「ガ」の意味から導くのは非常に難しかろう。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。(お手数おかけしました)

1.
>ただ、主題にもいろいろあって、全部一緒くたでいいのか、という問題があります。

話者の立場で「ハ・ガ」の相違に主眼を置く場合、一緒くたでいいと思っています。
ただ、聞き手の立場では、おっしゃるように当然分ける必要がありますね。
いずれも、あくまで文脈次第、という条件つきですが【基本的には】以下のように2つに分類できると思っています。

普通の主題
・鈴木さんは校長です。⇒普遍的事象・属性としての主題。(アスナロウ氏言うところの普遍性)

対比主題(強勢がある)
・(目の前の犬を見て)こっちの犬は寝そべったままだが、あっちの犬は飛び起きた。⇒限定としての主題。(アスナロウ氏言うところの特殊性)

舞台設定
・この国では、犬は食料である。(場所の設定)⇒限定としての主題。
・昔は、夏は涼しかった。(時の設定)⇒限定としての主題。

???
・この臭いは、ガスが漏れてるね。⇒限定としての主題。

>この文がやや破格であることも説明しなければならない。

それは言えそうですね。
考えてみます。

2.
>たとえば、
・彼は右目だけがつむれる。
・彼は右目だけをつむれる。
「ガ」のほうは、「左目はつむれない」という意味だが、「ヲ」のほうは「ウィンクができる」という意味。
これを「ガ」の意味から導くのは非常に難しかろう。

可能の対象を特定する特記の「が」ということになるのでしょう。
「特定」つまり「限定」という意図があります。
可能性を限定する意図なので、左目の場合の可能性を否定する結果が導かれやすいかと。

「ヲ・ガ交替」はよく取り上げられますが、本質的な違いは、「を」は特定ではなく「指定」だということかと。
・彼は英語が話せる。
などの場合は、基本的に中立叙述であり(特定ではなく)「指定」です。
そのため、同じ用法を持つ、
・彼は英語を話せる。
という表現に言い換えることができる。

このように、「を」に「特定」の意義はない、という点が主な前提になるように思います。

・彼は右目だけをつむれる。

は、右目だけつむれる ことを淡々と指定しているにすぎず、その意味で、

・彼は右目だけがつむれる。

という特記用法とは意図が異なると言えるかと。
あくまで独断的見解ですので、適当に聞き流していただいても。

お礼日時:2019/08/22 17:29

相変わらず曖昧な用語が好きですね~。



>>この分類というか解説文には感動しました。

何に感動されたのか不明ですが、まず「主観」とは何かを明確にする必要があります。
当方の認識では、脳の機能です。

従って、「は」「が」は愚か、判断は主観なしにはありえず、主観的な判断を加えずに(事実として)そのまま表現など出来る筈がありません。

かんねん‐ほんいつ〔クワンネン‐〕【観念奔逸】

考えが次々と方向も決まらずにほとばしり出る状態。躁病によくみられる。
【デジタル大辞泉の解説】

も主観なしにはありえない症状です。この場合、主観的な判断を加えずに表現されますが、【(事実として)そのまま表現】ではなく、考えが次々と方向も決まらずにほとばしり出る状態で、これは文にはなりません。語の羅列で、「が」だけではありません。

なお、再三再四指摘していますが、「は」「が」は語で、文ではありません。

a-2 「は」⇒現象に対して話し手が主観的な判断として表現する文。(判断文)(←一部改変)
b-2 「が」⇒現象をありのままに、話し手の主観的な判断を加えずにそのまま表現する。(現象文)

これは、相変わらずの頓珍漢な定義ではないでしょうか。■
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

1.
>相変わらず曖昧な用語が好きですね~。

まあ、敢えて否定はしませんが、アスナロウさんがおっしゃるとブーメラン的なギャグになってしまうかも?(笑)

2.
a.
>まず「主観」とは何かを明確にする必要があります。

「主観」
いろいろな現象を意識し、物事を考える心の動き。(学研国語大辞典)
という語釈がわかりやすいでしょう。

b.
>当方の認識では、脳の機能です。
従って、「は」「が」は愚か、判断は主観なしにはありえず、主観的な判断を加えずに(事実として)そのまま表現など出来る筈がありません。

ごもっともなご指摘と思います。
ただ、そうおっしゃる方を想定して、わざわざ(事実として)と補足してあるわけです。(笑)
[ が ] 主体、または可能・希望・好悪・巧拙などの対象を特定、または指定する。=主観的な判断を加えずに(事実として)そのまま表現。

・彼が社長だ。⇒「社長だ」の主体が彼であることを、主観的な判断を加えずに(事実として)そのまま表現している。
・彼は英語が話せる。⇒「話せる」という可能状況の対象が英語であることを、主観的な判断を加えずに(事実として)そのまま表現している。

こうした事例においては、たしかに、『脳の機能』として前項の【いろいろな現象を意識】することまではおこなっているのですが、後項の【物事を考える心の動き】をするまでには到っていません。
【いろいろな現象を意識】するだけなら、それを特に主観とは呼ばない、いうことがおわかりでしょう。
つまり、『主観的な判断を加えずに(事実として)そのまま表現』することが可能なわけです。

c.
>かんねん‐ほんいつ〔クワンネン‐〕【観念奔逸】
考えが次々と方向も決まらずにほとばしり出る状態。躁病によくみられる。
【デジタル大辞泉の解説】
も主観なしにはありえない症状です。この場合、主観的な判断を加えずに表現されますが、【(事実として)そのまま表現】ではなく、考えが次々と方向も決まらずにほとばしり出る状態で、これは文にはなりません。

たしかに、そういう方もおられるでしょうね。
誰とは申しませんが。(笑)
ただ、『方向も決まらずにほとばしり出る』という判断の信憑性についても検証が必要になりそうです。
申し上げにくいのですが、読解力が関係してくるかと。

お礼日時:2019/08/22 18:03

なお、ノンフィクションは主観的な判断を加えた、(事実として)そのままの表現ではありません。



そもそも、語と文、文章の関係をどのように理解されているのでしょうか。

何か、ボロボロのお粗末な提起としかいえませんが。

本質を捉えることなく、思い付きを並べるとこういうことになります。■
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>何か、ボロボロのお粗末な提起としかいえませんが。
本質を捉えることなく、思い付きを並べるとこういうことになります。

理解できない方に「ボロボロのお粗末な提起」「思い付き」と言われるのは止むを得ないでしょうね。
いずれにせよ、対論を示さない批判は不毛ですし見苦しいと思いませんか?

「が」と「は」の違いについて、本質を捉えた、思い付きではない持論をぜひお示しください。

ただし、「が」と「は」の使い分けや差異が可能な限り分かりやすくなるような方向での表現が本旨なのですから、この主旨との関係性を明らかにできない持論を展開することだけはなさらないようお願いいたします。

お礼日時:2019/08/22 18:18

すいません。



ノンフィクション⇒フィクション

の誤りです。謹んで訂正させていただきます。

あまりの馬鹿馬鹿しさに、ついカッとなり間違えてしまいました。■
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>あまりの馬鹿馬鹿しさに、ついカッとなり間違えてしまいました。

正直なのは美徳ですね。(笑)
また、訂正・修正はご自身の品格を高めるのに寄与します。
(内容の正否は別にして)人一倍優れた知見をお持ちなのですから、他者の言説が『馬鹿馬鹿』しいかどうかの検証をじっくりおこなおうとする素直さが備われば、鬼に金棒かと。

お礼日時:2019/08/22 18:09

早速の応答を有難うございます。



>>いろいろな現象を意識】するだけなら、それを特に主観とは呼ばない、いうことがおわかりでしょう。

では、何と呼ぶのでしょうか。
主観なしに、【いろいろな現象を意識】できるのであれば、動物や機械でも可能ということですが。
動物や、機会は言語を話しません。

これが、厳然たる事実です。■
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>では、何と呼ぶのでしょうか。

認識じゃないですかね。

>主観なしに、【いろいろな現象を意識】できるのであれば、動物や機械でも可能ということですが。

でしょうね。

>動物や、機会は言語を話しません。

認識できるから話せるわけではないので。
しかし、人間にはわからない言語は持っていますよ。

お礼日時:2019/08/22 21:02

#3 です。



>>この主旨との関係性を明らかにできない持論を展開することだけはなさらないようお願いいたします。

「は」と「が」についての論理的な説明を以下に引用しておきます。

 まず「が」であるが、この使いかたはいくつかあるにしても、そこには共通点がある。「わが涙」「わしが在所」「梅が枝」「夢が浮世か浮世が夢か」など、体言をつなぐかたちのものが文語に多く、また「言わぬが花」「知らぬが仏」「目に見るがごとく」など、用言の下につくこともある。これらは、むすびつきとして意識する以上のものではない。

  風【が】吹いて、木【が】ゆれる。
  彼【が】行かなければ、私【が】行きます。

 これらの形をとっても、物ごとのありかたはやはり単純なむすびつきでとらえられていることは同じである。風については吹いていることだけをとらえ、目を転じて、木についてはゆれることをとらえている。彼と私は対置させられているが、彼のありかたも私のありかたも単純な結びつきでとらえている以上のものではない。

  これ【が】父で、これ【が】母です。
  これ【は】父で、これ【は】母です。

 たとえ同じ対象をとりあげても、この対象をとりあげる話し手の意識にはちがいがある。「が」を使うときは個人を一人一人別々にとりあげているにすぎない。ならんでいる動物を、「これが犬で、これが猫です」というのと同じような意識である。しかし「は」を使うときには、父のときはそれ以外の人間ではなく、母のときはそれ以外の人間でないことを意識して、集団の中での特殊性においてとりあげている。山田のいいかたを借りれば、「排他的」なとらえかたをしている。

  誰【が】何といっても、私【は】平気だ。
  彼【が】行かなくても、私【は】行きます。

 ここでは「排他的」なことがさらに明らかである。他人のことは単純なむすびつきでとらえるが、それと対置されている自分のほうは、全体の中の自分として異質な存在であることを意識したり、彼と自分とは異質な人間で自分は主体性を持っていることを意識したりして、「は」でその差異を強調する。

  梅【は】咲いたか、桜【は】まだかいな。
  梅【は】春に咲く。

 この二つは、「は」の使いかたがちがっている。前者はこれまた「排他的」で、花全体の中での梅の花や花全体の中での桜を、それぞれ他を意識してとりあげているのだが、後者は「梅」といわれているものすべてに共通した普遍的なありかたをとりあげている。この二つは正しく区別しなければならない。

  反作用【は】つねに作用と方向【が】反対で大きさ【が】等しい。
  全体【は】部分より大きい。

 科学の法則は、普遍的に存在する関係をとりあげているのだが、このときもわれわれは「は」を使っている。

 以上のように見てくると、われわれは、対象を概念としてとらえて言語で表現するとはいうものの、その概念がまず個別的概念か、特殊的概念か、普遍的概念かに区別することができるし、これらの概念の自己自身による規定作用としての判断も個別的判断か、特殊的判断か、普遍的判断かに区別することができる。そしてこれらの判断は、当然に肯定判断や否定判断と認識構造においてむすびついているものと見なければならない。宣長は直観的に、【てにをは】における係と結とのつながりをとらえたのだが、この表現構造における現象の背後にはいろいろな判断のからみ合いという認識構造がかくれていたのである。用言そのものが「力を持つ」わけでもなければ、係助詞そのものが「支配する」わけでもない。(『認識と言語の理論 (第二部)』第四章より) ■
この回答への補足あり
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>これらは、むすびつきとして意識する以上のものではない。  
>彼と私は対置させられているが、彼のありかたも私のありかたも単純な結びつきでとらえている以上のものではない。

要するに中立叙述ですよね?


  これ【が】父で、これ【が】母です。
  これ【は】父で、これ【は】母です。

 たとえ同じ対象をとりあげても、この対象をとりあげる話し手の意識にはちがいがある。「が」を使うときは個人を一人一人別々にとりあげているにすぎない。ならんでいる動物を、「これが犬で、これが猫です」というのと同じような意識である。しかし「は」を使うときには、父のときはそれ以外の人間ではなく、母のときはそれ以外の人間でないことを意識して、集団の中での特殊性においてとりあげている。山田のいいかたを借りれば、「排他的」なとらえかたをしている。

シチュエーションの設定をせずに、そうした決めつけをするために紛れが生じやすくなるのです。
アルバムを見せてもらいながら「君の両親はどの方?」に対する、
  ・これ【が】父で、これ【が】母です。
は特記でしょう。
つまり、特定・限定です。
  ・これ【は】父で、これ【は】母です。
の場合は、たしかに「排他的」と捉えるシチュエーションが多い。
おっしゃるところの特殊性ですよね。
私的には「限定」。

上の内容を要約すれば、
「は」=主題提示 [ 普遍的事象・属性としての主題 / 限定としての主題 ] 。
「が」=主体、または可能・希望・好悪・巧拙などの対象の特定・指定 [ 特記 / 中立叙述 ] 。

  梅【は】咲いたか、桜【は】まだかいな。⇒特殊性
  梅【は】春に咲く。⇒普遍性
でしょ?


  反作用【は】つねに作用と方向【が】反対で大きさ【が】等しい。
  全体【は】部分より大きい。

 科学の法則は、普遍的に存在する関係をとりあげているのだが、このときもわれわれは「は」を使っている。

「は」を使うから科学の法則というわけでもないのに、こういう余計なことを言うからややこしくなる。
・反作用を主題提示することで、反作用について言えば~という意図を表わす。
と言えば済むこと。
『科学の法則』だとは知らない人が、
・全体【は】部分より大きい。
と言ってはいけないのですか?

以下補足欄

お礼日時:2019/08/22 21:44

#6 です。



>>しかし、人間にはわからない【言語】は持っていますよ。

どんなものですか。言われる【言語】とはどのように定義されるものですか?

もっとも、「人間にはわからない【言語】」とは4次元の世界でしょうか。■
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>どんなものですか。言われる【言語】とはどのように定義されるものですか?

そんな難しくかんがえなくても、カラスだって親を呼ぶ声と餌を見つけたときの声を使い分けているはずですから、それは一種の言語でしょうよ。
クジラは何10キロも先の仲間に居場所を伝えることができる。

お礼日時:2019/08/22 21:55

ちょっと横から口を挟みます。

失礼お許しください。


No. 6から

     彼【が】行かなければ、私【が】行きます。
   これらの形をとっても、物ごとのありかたはやはり単純なむすびつきで
   とらえられていることは同じである。(略)
   彼と私は対置させられているが、彼のありかたも私のありかたも単純な
   結びつきでとらえている以上のものではない。

   彼【が】行かなくても、私【は】行きます。
   ここでは「排他的」なことがさらに明らかである。他人のことは単純な
   むすびつきでとらえるが、それと対置されている自分のほうは、全体の
   中の自分として異質な存在であることを意識したり、彼と自分とは異質
   な人間で自分は主体性を持っていることを意識したりして、「は」で
   その差異を強調する。

こういうのを、「場当たり的な説明」と言います。

次の例も、「場当たり的」になら、同じように説明できるのでしょうね。

     私は、彼がいかなければ、いきます。

     たとえ彼はいかなくても、私はいきます。
     たとえ彼がいかなくても、私がいきますから、ご心配は要りません。 
     たとえ彼はいかないと言っても、私がいきますから、ご心配は要りません。

なお、発話者が自分の意志的行動を「~が」で言うのは、特別な意図がある場合で、「単純な結びつき」ととらえるのは語感が悪すぎます。

saburoo
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>ちょっと横から口を挟みます。失礼お許しください。

とんでもございません。
むしろ、こうしたサイトの理想形じゃないでしょうか。
厚みを増していただき、質問者としては大いに有難いことです。
どしどしご参加いただければ幸甚に存じます。

>なお、発話者が自分の意志的行動を「~が」で言うのは、特別な意図がある場合で、「単純な結びつき」ととらえるのは語感が悪すぎます。

中立叙述であっても、ということですね。
個人的には、特定(特記)と指定(中立叙述)のように解釈しています。
しかし、

・彼【が】行かなければ、私【が】行きます。

というのは、たしかに『意志的行動』なわけですから、それを【主観的な判断を加えずに(事実として)そのまま表現。】と捉えるのが妥当なのかどうか・・・という検討点を図らずもご提示いただいたと思います。

・彼【が】行かないので、私【が】行った。

なら【主観的な判断を加えずに(事実として)そのまま表現。】と言えるのですが。
おそらく、

・この「が」は、「行きます」という意志が存在するという事実に対して【主観的な判断を加えずに(事実として)そのまま表現】している。

といった理屈になると思うのですが、この辺りをどうわかりやすく表現すべきか・・・。
良い課題を頂戴し感謝いたします。

お礼日時:2019/08/22 22:41

#7 です。



>>そんな難しくかんがえなくても、カラスだって親を呼ぶ声と餌を見つけたときの声を使い分けているはずですから、それは一種の言語でしょうよ。
クジラは何10キロも先の仲間に居場所を伝えることができる。

それは、人の言語とは何の関係もありません。
単なる、信号の交信です。
そんな難しくかんがえなくて、無限定な概念展開は科学、学問とは無縁です。■
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

文意をちゃんと把握するよう努めてください。
動物でも【いろいろな現象を意識】できる、ということが論点。
『人の言語』と関係あるか無いかは、この場合関係ない。

お礼日時:2019/08/23 13:13

#6お礼欄 について。



>>「は」を使うから科学の法則というわけでもない

当然のことで、表現ということが理解できていません。
文の意味ではなく、語の意義を問題にしているということが根本的に理解できないためです。
単なる結果論に過ぎません。

>>・反作用を主題提示することで、反作用について言えば~という意図を表わす。

主題とは何か、意図とは何かを明らかにせず、得意のチャランポランな用語ですね。

>>・全体【は】部分より大きい。
と言ってはいけないのですか?

別に。この場合、部分に対する全体という特殊性の認識を表わす「は」です。

>>>係助詞そのものが「支配する」わけでもない。
などという矛盾を結論として述べている。

語は概念、つまり意義を表わすもので、<係助詞そのものが「支配する」わけでもない>のは当然です。これを矛盾とする方が、矛盾しています。

>>>用言そのものが「力を持つ」わけでもなければ、
という点は、勉強になっていると思います。

これこそ、前項と矛盾しています。

相変わらず、チャランポランで、好き放題ですね。
まず、論理、論理的とは何かという基本に返る必要があります。■
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>「は」を使うから科学の法則というわけでもない
⇒文の意味ではなく、語の意義を問題にしているということが根本的に理解できないためです。
単なる結果論に過ぎません。

科学の法則だから「は」を使う、といった記述には何の意味もないですよね、と申し上げた箇所。

>主題とは何か、意図とは何かを明らかにせず、得意のチャランポランな用語ですね。

辞書を引く習慣をつけましょう。

>別に。この場合、部分に対する全体という特殊性の認識を表わす「は」です。

科学の法則という認識が無くとも「は」は使えるだろう、と申し上げた箇所。

>語は概念、つまり意義を表わすもので、<係助詞そのものが「支配する」わけでもない>のは当然です。これを矛盾とする方が、矛盾しています。

対象を支配できなければ、意義とは呼べないのでは?

>これこそ、前項と矛盾しています。

・用言そのものが「力を持つ」は不可だが、
・係助詞そのものが「支配する」は可だ。
と申し上げている。
矛盾でもなんでもありませんよ。
相変わらず文意を読めてませんねえ。(笑)

お礼日時:2019/08/23 13:27

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