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春日局は、主君だった信長を裏切って本能寺で殺した明智利三の娘なのに、なぜ徳川家の三代将軍家光の乳母になれたのですか?
織田信長の次は、天下人徳川家に娘を送りこんできたのだと思うのですが、謀反人家系を何故受け入れたのですか?

質問者からの補足コメント

  • 権力が好きだからですか?
    春日局は、徳川家の大奥総取締にのしあがり、政治にまで口に出し、徳川を大奥から牛耳るようになりましたよね。

      補足日時:2020/06/09 04:45
  • お江(信長の姪)と春日局(信長を殺した男の娘)の対立。はたして、乳母にこんな力があるんでしょうか?しかも家光推しは狂気じみてました。
    家光は春日局の本当の息子だったという噂もありますね。しかし春日局は稲葉の妻だったのに、こんなことあるんでしょうか?
    権力に近づいて、自分が権力になろうという謀反体質は、明智家の血かもね。

    No.2の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2020/06/09 11:40

A 回答 (4件)

春日局は本名をお福と言い、明智光秀の重臣・斎藤利三(としみつ)と、稲葉通明の娘・おあんとの間に生まれています。

お福は、13歳のとき、京都で公家へ奉公に出ます。その後、美濃の稲葉重通(しげみち)の養女となり、稲葉家の養子・正成(まさなり)の後妻となります。正成の主君である小早川秀秋(ひであき)は関ヶ原の戦いで西軍でありながら東軍に通じ、それを画策した正成は秀秋から遠ざけられ浪人となりました。お福は京都の母のもとへ身を寄せますが、二代将軍・秀忠に子どもが生まれ乳母を必要としていることを知り、京都所司代・板倉勝重(かつしげ)の推挙を受けて江戸へ下りました。乳母として面倒を見ることになった竹千代(のちの三代将軍家光)は病弱でしたが、結局、弟である国松ではなく兄の竹千代が選ばれ、20歳で三代将軍職に就くこととなりました。

おそらく「長男」を優先するという考え方ではないでしょうか。また、国松は性格が悪かったようで、後に改易、自刃して果てているはずです。(歴史専門家の間では最近「お江とお福が将軍の跡継ぎ争いをした」というエピソードそのものが、後から作られた「逸話」であるという説が有力だそうです。)
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明智利三でなくて、家老の斉藤利三の娘ですよ。


徳川家にとっては、明智光秀は謀反人ではありません、かえって目の上のたん瘤を取ってくれた、
有り難い位置付けなのかも?
選ばれたのは、本人の乳母としての資質が高く備わっていると認められるたからです。
今までは、二代将軍の秀忠は家康と家光の間で評価の低い存在でしたが、徳川250年の世の基礎を
創った人物として、評価が見直されてます。

春日局が跡取り存続のため、大奥を作りましたが、嫡流は7代で終わってしまいました。

その日暮らしの牢人の身から、城持ち侍に、取り立ててくれた、信長を教養人の光秀が、殺したのは、
何故なのか良く判ってません。(主君殺しは大罪なのは変わりませんが)
現在、巷にいわれているのは、江戸時代に作られたもので、資料に乏しく根拠が薄い物ばかりです。
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春日局は幼少期から親戚筋の公家の家で教育を受けていた人物だ。


武家に嫁いだのだから武家の作法・心構えも熟知している。

将軍の後継ぎ最有力候補の長男の乳母役は、教育係も兼ねている。乳が出ればよいというものではない。
必要な時期に乳が出るうえに、武家としての教養ばかりでなく、公家の教養も兼ね備えた女性なんて滅多にいない。彼女ほどの適役はいなかっただろう。

春日局が権力を志向したのは、乳母として愛した家光の将軍継承に暗雲が漂ったからだ。将軍秀忠と生母の崇源院は病弱で口下手な家光よりも利発な弟の忠長を溺愛していたからだ。自分が何とかしなければ家光が廃されてしまうと必死だったからだ。
この回答への補足あり
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乳母候補 そんなに都合よく沢山いたわけでなく、厳選した結果残っていったってことでしょう。


教育がかりも兼ねますからね。明智家は今は情報少ないと云われてますが、名門だったのかもね。
そこらの子供生みたての商家(百姓でも)のむすめってわけにいかないでしょ。
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