あなたの習慣について教えてください!!

本能寺の変で謀反起こした後、明智光秀が細川家へ家臣になれと送った手紙の内容の「俺の家臣になれば、攝州と但馬、若狭をお前にくれてやる」の中の、攝州と但馬、若狭とは、もともっ明智光秀の領土だったのですか?
それとも織田信長の領土ですか?

また細川藤孝が、光秀に味方をせず、この手紙を公にしたのは何故ですか?

A 回答 (1件)

>もともと明智光秀の領土だったのですか?



信長の家臣団の領国は、信長からあたえられたもので、与えられた領国というのはたえず変化しています。
「攝州と但馬、若狭」は光秀の領土ではありませんが、天下人になれば。そうにしてやるということでしょう。

細川藤孝が光秀に見方をしなかったのは、光秀が天下人になれないと判断していたのでしょう。
北陸には柴田勝家がおり、尾張には織田信雄がおり、中国には豊臣秀吉がいました。
これらの軍勢が、いずれは京都に引き返し、光秀と一戦をかまえることははっきりしています。

それだけではありません。
本能寺の変を知った秀吉は各戦国大名に「信長公は無事脱出した」との書簡を数多く送っています。
実際に本能寺の変では信長の死体はみつからなかったわけですから。
もし信長が脱出していたら、光秀に味方など恐ろしくてできないでしょう。
秀吉軍がすばやく毛利と講和を結び、怒濤のごとく進撃していた情報は当然入手していたはずです。

戦国時代の大名は、いかに勝ち馬にのるかという判断が必要です。
実際に、秀吉軍が中国大返しをやるなかで、次々と戦国大名の軍勢が参加し、規模が数倍になっていますもの。

こうした中では、これまでのしがらみよりも勝ち馬にのるという判断は当然だと思いますよ。
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