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ある日本史の解説書に次のような説明がありました。
吾妻鑑によると、頼朝の上洛を止めた武士がいたそうです。、
千葉常胤と三浦義澄と上総介広常の<三人が頼朝の馬の手綱を抑えて「京都に行ってはいけません。」>と説得したそうです。
ところで、”頼朝の馬の手綱を抑えて”というの本当に手綱を抑えたのでしょうか?
あるいは、説得の比喩なのでしょうか?

A 回答 (2件)

吾妻鑑はある程度の脚色もありますので、すべてが真実とはいいかねます。


「馬の手綱を抑えて」というのはおそらく比喩でしょう。

もし頼朝が上洛しようとするたならば、普通は事前に有力御家人に相談しますよね。
ですので出発しようとする将軍の馬の手綱をおさえてというのは考えられません。
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この回答へのお礼

早速のご回答ありがとうございました。
<もし頼朝が上洛しようとするたならば、普通は事前に有力御家人に相談します>ですね。
突然、出発はしませんね。
<脚色>であり、比喩なんですね。

お礼日時:2020/07/27 17:49

https://www.yoritomo-japan.com/yoritomo/yoritomo …

http://www5a.biglobe.ne.jp/~micro-8/toshio/azuma …
10月21日 庚子
  小松羽林を追い攻めんが為、上洛すべきの由を士卒等に命ぜらる。而るに常胤・義澄
  ・廣常等諫め申して云く、常陸の国佐竹の太郎義政並びに同冠者秀義等、数百の軍兵
  を相率いながら、未だ武衛に帰伏せず。就中、秀義が父四郎隆義、当時平家に従い在
  京す。その外驕者猶境内に多し。然れば先ず東夷を平らぐの後、関西に至るべしと。
  これに依って宿を黄瀬河に遷せしめ給う。安田の三郎義定を以て、遠江の国を守護せ
  んが為差し遣わさる。武田の太郎信義を以て駿河の国に置かるる所なり。

この箇所には、「頼朝の上洛を止めた」 諫め申し 
「然れば先ず東夷を平らぐの後、関西に至るべし」とはあるようですが、
馬の手綱のことはないみたいです。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
<諫め申し>なのですね。
<馬の手綱のことはない>のですね。
解説者が読者へサービス?で、手綱を挿入したのですね。

お礼日時:2020/07/29 10:50

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