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下記のうち、不自然に感じるのはどれでしょうか。
 主観でお答えになって構いませんが、できれば理由を添えていただけるとありがたいのですが。

  1)最適の判断
  2)最適な判断
  3)最悪の判断
  4)最悪な判断
  5)最高の気分
  6)最高な気分
  7)最大の好機
  8)最大な好機

質問者からの補足コメント

  • 暑い日が続きますね。ご自愛ください。

    No.11の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2020/08/09 11:43
  • 現在の考えは下記ぐらいです。
    https://ameblo.jp/kuroracco/entry-12617604177.html

      補足日時:2020/08/13 22:49
  • いったい何を主張したいのだろう。(No.30)
    https://oshiete.goo.ne.jp/qa/11788778.html

     辞書のひき方はわかったのだろうか。

    No.13の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2020/08/16 11:18
  • 某所で話をしたところ、フツーの日本語を使う人には意味のある表だとわかりましたのでお気遣いなく。

    No.15の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2020/08/20 18:09
  • 常識的な人の考えには、大きな違いはないはずです。それを「内輪のもたれ合い、乳繰り合い」と考えるのは異常です。

     辞書も間違い、論文も間違い、何もかもみーんな間違い。正しいのは経文と自分だけ……という主張が、客観的にどう見えるのかわからないのでしょうか。
     たいへんですね。おいたわしや。

    No.16の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2020/08/23 13:30
  • 本題に関しては、どこから手をつけてよいのかわかりません。
     岩波国語辞典の態度に関しては、以前別の場所で少し教えていただいたことがありましたが、ここまで複雑だとは。
     やはりこの問題について考えようとすると、下記の話に戻ってしまい、匙を投げるしか。

    【名詞なのか 形容動詞なのか 健全 安全 偉大〈1〉】
    https://ameblo.jp/kuroracco/entry-12416633329.html

     以下は一部の抜粋(重言)。
     形容動詞のなかで、「〜に」になりにくいもの、「〜な」になりにくいものetc.……を考え出すと、これはもう学者の仕事でしょう。
     当方は下記のリンクを張って黙ります。
    【ことば会議室】
    http://kotobakai.seesaa.net/article/8174276.html
    ===========引用開始
    (略)

    No.22の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2020/08/29 21:13

A 回答 (81件中11~20件)

本質問の回答は、No.66に尽きますが、いつものことながら質問自体に問題があります。



言語は話者の認識の表現で、単なる形ではありません。

質問者はこの点が理解できていないため、認識に基づく表現ではなく、単に機械的に「の」と「な」を入れ替えています。これは、「の」と「な」という形のビスケットを子供や猫が入れ替えたのと同じで何ら認識に対応したものではありません。

したがって、これは単なる物の形、絵でしかないということです。

これに対し、No.57,No.58,No.59,No.62 の回答で挙げられた諸例は話者の認識に対応した文で意味を持っています。そいて、No.66で指摘した通り、「~の~」の場合は「名詞+の」、「~な~」の場合は「属性表現の語(静詞)+名詞」ということです。

形容詞「赤い」の場合、「赤い帽子」になりますが、この語幹を名詞として使用し「赤の広場」と言います。

また先の回答者が指摘の通り、「自由の女神」の「自由」は名詞ですが、「自由な女神」の場合は「自由」は静詞になります。これを形容動詞、ナ形容詞などと呼んでいては問題の解決にはなりません。

また、名詞とは何かが理解できない以上、<それが「名詞+の(+名詞)」とは違う用法になっている>などと言ってみても何の論拠もない曖昧化でしかないことになります。

このように、形式主義/機能主義的な発想では物事の本質を正しく捉え、論理的に理解することができません。

この辺を正しく理解すれば、本問題は解決です。■
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この回答へのお礼

「本質問の回答は、No.66に尽きます」ということは、ほかの夥しい量の念仏はホニャララですか? 早く片づけてください。じゃまです。
 No.66に回答は、No.67のコメントの指摘どおりということにしておきましょうか。こういうちゃんと話をそのまま引用することをおすすめします。余計なことを書くからホニャララになります。

 ところで、
〈No.66で指摘した通り、「~の~」の場合は「名詞+の」、「~な~」の場合は「属性表現の語(静詞)+名詞」〉
 なんて書いてありますか?
「静詞」ってなんなのでしょう。SF文法の話はヨソでお願いします。

〈また先の回答者が指摘の通り、「自由の女神」の「自由」は名詞ですが、「自由な女神」の場合は「自由」は静詞になります〉 
 先の回答者って誰ですか? 〈静詞になります〉なんて誰が書いたのでしょう。

〈形式主義/機能主義的な発想では物事の本質を正しく捉え〉
 そんなことをしても、誰も理解できません。SF文法の話はヨソでお願いします。

お礼日時:2020/10/31 10:30

No.71 のコメントに



丁寧なコメントをいただきありがとうございます。
若干の誤解があるようなので指摘させていただきます。

>>「ケーキはおいしい」で、「です」が省略されている、なんてのはでたらめ。「ケーキはおいしい」は、何の「省略」もない完結した文で、「陳述」もあり、「判断」もある。

下記の通り、「楽しいです」という言い方は現在では認められています。
https://www.nhk.or.jp/bunken/summary/kotoba/term …

「歴史が浅いだけに年配の人の中にはまだ違和感を持つ人もいるわけです。」と記されている通り、回答者はお年寄りのようです。

これまでは判断を表現しないのが規範となっていましたが、すでに時枝誠記が零記号としてその認識の存在を指摘しているもので、これが表現されるようになっただけで合理的、論理的な変化、移行に過ぎません。

>>「です」が省略されている、なんてのはでたらめ。

などというのは、認識と表現の関係を理解されていない「でたらめ」な決め付けで、日本語を論じようとするのであれば、まずは時枝誠記『国語学原論』の第3章を読まれる必要があります。


>>「判断」のほうは、人により「「判断」の定義」が違うかもしれないから、「ある」という人がほとんどでも、「ない」という人もいるかもしれない。

陳述は判断の機能であり、判断についてはG.W.ヘーゲルが、『大論理学』の第三巻「概念論」「第二章」で次のように述べています。

判断とは、概念そのもののうちに措定された概念の規定性である。概念の諸規定は、先に示されたとおり、規定された諸概念であるものと同じである。それらはすでにそれだけで考察された。しかし、このような考察はむしろ主観的な反省ないし主観的な抽象であった。とはいえ、概念はそれ自身この抽象作用に他ならない。その諸規定を対立させることは、それ自身の規定作用なのである。判断とは、概念自身によって規定された諸概念をこのように措定する作用である。
(山口裕弘 訳『ヘーゲル 論理の学Ⅲ 概念論』作品社 2013.12 )

と述べている通りです。叙述もまた、判断の機能に過ぎません。ヘーゲルは以下、この判断の深化による概念の判断へ至る区分を展開しています。まずは、この辺を正しく理解しましょう。

>>「述定」「装定」とは、述語用法、連体修飾用法ということ。「きれい」だけでは何も決まらない。

当然、「きれい」の用法の相違ということです。
「多い」の装定用法と述定用法について
https://core.ac.uk/download/pdf/230301528.pdf
参照。

B
>>「連体修飾」をしているのだが、「名詞+の(+名詞)」という連体修飾とは違う、という点が議論の焦点になっている

何も異ならないということを明らかにしています。「異なる」というのであれば、何がどのように異なるのかを明らかにしないと、そもそも何を議論しているのかがわかっていないということになります。回答者による多くの引用がその言語事実を明かしており、それ以上の展開も論証もないのですが?


>>「ケチ」をつけているのは三浦である。

No.66 の引用を読まれれば判る通り、「ケチ」をつけているのではなく、

学者が「何を基として論をなせるか」を見ぬいて、理論的に反駁してはいない点を、明確に論理的に反駁したもので、回答者には全くこの点への言及はありません。

>>山田は例に挙げた語句を「副詞」(+「の」)だ、と言っているのだから。

ここが全くの独断的な誤読です。山田は『日本文法学概論』「連体格」の章で、<用言>が<体言>の資格を獲得するいろいろな場合をとりあげ、それを六つに区分しています。この中で<転成体言>の問題を取り上げているもので、<副詞>とされる語が連体格にたつことを論じ、<用言>が本来の性格を失うことなく<体言>に準じる性格のものだということを論じているということです。

この山田のダイナミックな体言論の主旨を正しく理解し、発展させなければなりません。

D 結論
>>「わずかの」をどう考えるかは、さらに議論が必要な、重要な問題である。
副詞が「の」を介して連体修飾に使われるということはどういうことなのか。
山田と時枝の問いかけは現在でも生きている。

山田と時枝の問いかけに応え、副詞が「の」を介して連体修飾に使われるということはどういうことなのかを明らかにしたのが三浦の論であるということです。


なお、「ゆっくりの」と「べたべたの」の「具体的な」例をあげられていますが、これらは、「属性を実体的に捉えた名詞」であることは三浦の論証により明らかなことです。話者が属性概念を実体として捉え直し表現しているということで、このダイナミックな認識の運動による<転成体言>という事実を理解しなければなりません。

>>「わずかの」をどう考えるかは、さらに議論が必要な、重要な問題である。

というのは、回答者が全く論理的な判断の根拠をもたず、単に事実を曖昧にするだけの理解力しかないことを晒しているということです。■
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No.69に。



この Yaguruma なる名前は、Amazon で、「「語」とは何か」という立派な研究書にまったくトンチンカンな「レビュー」を書いていたのを読まされた時に知った名前だ。
(その後で、そのトンチンカンな内容が三浦つとむの説のコピーだと知った。)

で、今回の流れを見てみると、No.67と同一人物なのか?
同一人物かどうかはどうでもいいが、論理の誤り方は同じだ。
それでも、内容が具体的な話になっているのはいい。それだけ、誤りの指摘がしやすい。

A まず、「述定」と「装定」の話。

   「述定」とは陳述で、判断が伴います。
   ケーキはおいしい(です)。
   の「です」が省略されており、丁寧形では表現されます。  

「ケーキはおいしい」で、「です」が省略されている、なんてのはでたらめ。

「ケーキはおいしい」は、何の「省略」もない完結した文で、「陳述」もあり、「判断」もある。

まあ、「判断」のほうは、人により「「判断」の定義」が違うかもしれないから、「ある」という人がほとんどでも、「ない」という人もいるかもしれない。

   <形容動詞>の場合、
    桜はきれいだ
   は、「だ」が陳述を表し「きれい」が「述定」になります。

これも何を言っているんだか。「きれいだ」全体が「述定」。

   「きれい」が「述定」になります

こんな「述定」の定義を誰がしているんだろう? 
「陳述」と「述定」は別になる? 「叙述(+陳述)」と混同していないか?

   つまり、「述定」と「装定」を表しているのは「きれい」で、
   「だ」「な」は判断辞、助動詞であり、

ここも上に同じ。このヘンな「述定」と「装定」の定義は誰かが言っている?
「述定」「装定」とは、述語用法、連体修飾用法ということ。「きれい」だけでは何も決まらない。
「述定」と「装定」について完全に誤解している。あるいは、まったくの独自説を主張している。


B「自然」と「わずか」の話。

   ここでは、「自然」を名詞とされ「自然の」を二語とされているが、
   「自然な」は一語なのか、二語なのか論理性がない。

「「自然な」は一語なのか、二語なのか」はここの議論では問題外。
どちらでもここの議論には関係しない。「自然+な」と考えても同じ。
「論理性がない」はトンチンカン。

   また、 b の二文で意味が異なるのであれば、a を挙げた意味が
   不明です。

「a では「自然」の意味に違いはない」と書いてある。
論証がたどれていない。

   この共通性は「わずか」という語の形式だけで、「お礼はわずかだ」は
   「お礼」の属性の表現、「わずかのお礼」は属性を実体的に捉えた名詞です。

「属性を実体的に捉えた名詞です」というが、その根拠は?
そもそもこの「名詞」は「わずかのお礼」全体を指しているのか?
それとも「お礼」だけ? あるいは「わずか」?? 表現があいまい。文章がヘタ。

「お礼」は名詞だが、「わずか」は副詞だ。(あるいは、形容動詞の語幹)
「副詞+の」の「の」はどういう機能を果たしているのか。そこを考えなければならない。

むろん、「連体修飾」をしているのだが、「名詞+の(+名詞)」という連体修飾とは違う、という点が議論の焦点になっているのに、それを何の根拠もなく「名詞だ」と言うのは、そもそも何を議論しているのかがわかっていない。

「「の」は当然格助詞です」とは? こういう議論で、根拠もなしに「当然」などと言ってはいけない。仮に格助詞だと考えるとしても、それが「名詞+の(+名詞)」とは違う用法になっている、ということがわかっているのか。


C 山田の論のこと。
前の投稿では、山田の論については、例が文語であることもあり、議論を省略した。
そして、現代語の例を問うた。

   >>三浦は、副詞に「の」がついたものはどう考えるのだろう?
    「ゆっくりの」とか「べたべたの」とか。

   これは、具体的な事例を挙げなければ論じようがありません。
   山田は具体的な事例を挙げていますが。

そう。山田は具体的に論じている。そして、副詞に「の」がついた形で「連体格」となる、とした。
つまり、時枝の説と同じであり、私の述べたこととも共通する考え方である。

それなのに、

   なお、名詞が実体概念であることを明らかにしたのは山田孝雄で、
   山田の論にケチをつける回答者は千年早いのではないでしょうか。

という最後の文は何なのだろうか。

私は山田の論に「ケチ」などつけていない。「ケチ」をつけているのは三浦である。

山田が「名詞が実体概念であることを明らかにした」という点については留保する(「実体概念」とは何か、の議論が必要)が、今回の問題ではそれはなんの関係もない。どこが関係するのだろう?

山田は例に挙げた語句を「副詞」(+「の」)だ、と言っているのだから。


D 結論
前の投稿と同じ。

  (三浦のあげた)「自然な/の」および「親切な/の」は、
   形容動詞(品詞名は何でもいいが)と名詞の<2つのはっきりと
   違った用法を持つ>が、
  「わずかな/の」はそうではない。

「わずかな/の」について、時枝はそう考えるし、山田もその線だ。
つまり、三浦の論は、何の内容もない。

「わずかの」をどう考えるかは、さらに議論が必要な、重要な問題である。
副詞が「の」を介して連体修飾に使われるということはどういうことなのか。
山田と時枝の問いかけは現在でも生きている。


なお、「ゆっくりの」と「べたべたの」の「具体的な」例をあげておく。
これらは、「属性を実体的に捉えた名詞」なのか?

NINJAL-LWP for TWCから
   今日はゆっくりの朝でした。
   最初はゆっくりのテンポからスタート。
   講座ではゆっくりの時間を過ごしました。
   速いペースとゆっくりのペースを交互に繰り返す。
   日本人にも早口の人もいれば、ゆっくりの人もいる。
   ゆっくりの動きがとてもとても心地よかったです。

   切ってみたら、白いべたべたのしるが出てきた。
   でも,ベタベタの雪で,みんなには遊びにくいですね。
   ベタベタのはちみつが乾いたころも割と美味しいのだ。
   ベタベタの汗は身体に必要な物質まで体外に出してしまいます
   もちろんベタベタのスキンシップがよいわけではない。
   べたべたの甘えん坊で、人に抱かれたり一緒に遊ぶ事を好みます。

saburoo

(以上はNo.70を見る前に書いたので、No.70についても一言。)

   三浦が明らかにしたのは次の事実である。
    「自然な/の」および「親切な/の」の、「自然」「親切」が
    属性表現と名詞の<2つのはっきりと違った用法を持つ>ように、
   「わずか」のように属性表現や<副詞>として使用される語もまた、
    実体表現の語として<名詞>に転成するという言語事実である。

「実体表現の語として<名詞>に転成する」というところが、何の根拠もない。
三浦がそう言っているだけ。山田はそんなことを言っていない。

    属性を実体的にとらえた<名詞>ではなかろうかと思われてくる

三浦にとって、そう「思われてくる」だけ。
これは言語学・文法学の議論ではない。個人的感想・幻想である。
後は上に述べた通り。

(で、別人なのか? どうでもいいが。)
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この回答へのお礼

>で、今回の流れを見てみると、No.67と同一人物なのか?
>同一人物かどうかはどうでもいいが、論理の誤り方は同じだ。

 おそらく同じ人物のヘニャララです。傍証はありますが、探すのがメンドーなので「おそらく」にしておきます。
 こんなホニャララなコメントを執拗に繰り返す人が複数いるとは思えません。

 一般にヘニャララを使う場合は、理由を書くはずです。
 コッソリ使い分けるのはルール的にどうなんでしょう(それならそれで少しはキャラを使い分けるものでは)。
 まして「No.68 への適切なコメントも見られます」などと書くのは自作自演にあたるので、相当問題があるのでは。論外としか言いようがありません。
 こういう話には極力関知したくありません。

 当方は、本題を離れたむずかしい話に口をはさみたくありませんが、あまりにもアンマリなので。
 なんで『明鏡国語辞典』を持ち出したのでしょうかね。
 しかも〈のように、<名詞>、<形容動詞>、<副詞>として使用され、「自然な/の」で「-な/の」の違いを指摘すれば、「わずかな/の」も同様に違うはずだと言えるのである。〉って……。
 SF文法では形容動詞という品詞分類は誤りのはずなのに……。

お礼日時:2020/10/25 15:29

No.68 への適切なコメントも見られますが、本質的な誤りを指摘しておきましょう。



>>「自然な/の」で「-な/の」の違いを指摘すれば、「わずかな/の」も同様に違うはずだと言えると思ったのだろうか。あさはかな。

「あさはか」なのは回答者です。「自然」は、

し‐ぜん【自然】
㈠  〘名〙 
❶ 人為によらないでこの世に存在する、すべての物や現象。森羅万象。天地万物。
「━を友とする」
「━の営み」
「━災害[科学]」
❷  〘形動〙 人為によらない、そのもの本来の状態であること。天然。
「━の/な 甘み」
「━のままの森林」

❸  〘形動〙 言動にわざとらしさがないこと。また、無理がないこと。
「━な解釈」
「━に振る舞う」
❹  〘形動〙 何もしないのに、ひとりでにそうなること。
「━の成り行き」
「━に生えてくる」
㈡  〘副〙 必然的な成り行きとして、そうなるさま。おのずと。
「内気だから━(と)友人も少ない」
「大きくなれば世間のことも━とわかってくる」
【明鏡国語辞典】

のように、<名詞>、<形容動詞>、<副詞>として使用され、「自然な/の」で「-な/の」の違いを指摘すれば、「わずかな/の」も同様に違うはずだと言えるのである。
この辺が理解できないのが奴シロウトの悲しさである。

「-な/の」の違いを指摘する論理を持たず、単に現象としての事例を並べる能しかなく、

>>以上、「最-な」の例を見てきて思うこと
  これらを「誤り」として片づけることはもうできないだろう。
  (それが「記述的言語学」というもの)
  しかしやはり、これらの語では、まだ「最-の」が圧倒的に多い。
まずはそれぞれの大きなリスト(と実例集)を作ることが基礎的作業かなあ、と。

などとピント外れの回答しかできないところに、記述文法という現象論を信仰する回答者の無内容な議論の限界が露呈している。言語事実をきちんと観察せず、そこから考えないため全く論理的な解明ができない結果になるしかないということである。

三浦が明らかにしたのは次の事実である。

「自然な/の」および「親切な/の」の、「自然」「親切」が属性表現と名詞の<2つのはっきりと違った用法を持つ>ように、「わずか」のように属性表現や<副詞>として使用される語もまた、実体表現の語として<名詞>に転成するという言語事実である。

それは、

>>名詞とは何か、ということ。
  1 ガ・ヲなどがついた格になることができる。
  2 「~の」の形で連体修飾になる。また、連体修飾される。
  3 「~だ」の形で述語になる。
この三つの用法が[名詞であること]の基本だと思うのですが、この三つをすべて同じように持つ名詞ばかりではないところが問題です。

などという形式主義者の逆立ち論では絶対に解明できないということである。実際、今回も単に事例を山ほど並べるだけで、

>> まずはそれぞれの大きなリスト(と実例集)を作ることが基礎的作業かなあ、と。

などと間の抜けた回答しかできない事実が明晰に明かしていることである。■
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No.68に。



興味深い議論を展開されていますが、論理に疑問を感じました。

>>日本語の形容詞は、「述定」と「装定」が同じ形でそのまま使える。
    ケーキはおいしい  おいしいケーキ
形容動詞は活用形が変わる。
    桜はきれいだ    きれいな桜

「述定」とは陳述で、判断が伴います。

ケーキはおいしい(です)。

の「です」が省略されており、丁寧形では表現されます。  

おいしいケーキ

の場合、「おいしい」は連体形のため判断は表現されません。<形容動詞>の場合、

桜はきれいだ

は、「だ」が陳述を表し「きれい」が「述定」になります。

きれいな桜

では、「な」が判断辞で連体形になっており、「装定」になります。つまり、「述定」と「装定」を表しているのは「きれい」で、「だ」「な」は判断辞、助動詞であり、「形容動詞は活用形が変わる」というのは誤りではないかということです。活用とは何かを理解されていないのでは。

>>ここで、何をもって「意味のちがい」とするか、が問題となる?

この自身の疑問に何を持って答えられているのか?

>>b では、二つの「自然」はまったく違うものである。
「自然の」は「名詞+格助詞」であり、「自然の中にある、自然に従った、法則」の意になる。

ここでは、「自然」を名詞とされ「自然の」を二語とされているが、「自然な」は一語なのか、二語なのか論理性がない。また、 b の二文で意味が異なるのであれば、a を挙げた意味が不明です。「親切」の例も同じ疑問が湧きます。

>>「お礼はわずかだ」と「わずかのお礼」の対に見られる「わずか」の共通性

この共通性は「わずか」という語の形式だけで、「お礼はわずかだ」は「お礼」の属性の表現、「わずかのお礼」は属性を実体的に捉えた名詞です。「の」は当然格助詞です。格助詞以外の品詞があるのか?

>>「わずかな/の」はそうではない、という言語事実があるということだ。

これは、具体的に何を指して言われているのか不明です。

>>その事実をどう理論的に位置づけるかにはいろいろ議論がありうるが

どんな議論があり、どう理論的に位置づけられるのかを示さない限り論たりえないのは明らかです。「論証ということを知らない者である。」ということになると思いますが。

>>これらの「の」がみな同じ「格助詞」であり、その前には「名詞」が来る、というのは、立証されるべき仮説にすぎない。

名詞でない事例を挙げずに、仮説とするのこそ何の根拠もなく、いかなる品詞なのかを明らかにしない限り無意味な主張です。名詞とは何かを明確にしなければ論になりえないのでは?

>>三浦は、副詞に「の」がついたものはどう考えるのだろう? 「ゆっくりの」とか「べたべたの」とか。

これは、具体的な事例を挙げなければ論じようがありません。山田は具体的な事例を挙げていますが。

これらの疑問に明確な回答をいただけると非常に参考になるのですが。

なお、名詞が実体概念であることを明らかにしたのは山田孝雄で、山田の論にケチをつける回答者は千年早いのではないでしょうか。■
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No.66に。



なんだかまともそうな議論があるようだな、と思ったら、時枝と山田の引用で、さすがに読ませるものがある。

No.60の何の内容もない、論理がつながっていない、ぐだぐだの論(?)とは雲泥の差だ。

しかし、その二人をもともと引用した三浦つとむは二人の論がわかっていないので、見事に的を外した議論をしている。あたりまえの話だが、時枝・山田と三浦ではレベルが違いすぎる。
三浦は所詮シロウト「文法研究者?」に過ぎない。山田の論にケチをつけるなど、百年早い。

ということで、三浦がどこで間違ったかの解説を。

時枝の「の」の「助動詞説」は確かに無理があるだろう。(青木玲子の論は知らない)
「だ」と「な」は関連があるし、「な」と「の」も同じ連体の位置に出現し、発音もna とnoで近い。それでかどうかは知らないが、これらを一つのものと考えたのか。

しかし、これらの「の」を単なる連体の格助詞とは違うと考えたのは、やはり時枝が言語事実をよく観察していたからだろう。

「滝【の】汗」などの比喩の問題は別とする。

問題は、比喩ではない「わずかな/の」の用法である。

   つぎに、同じ語に「な」を使ったり「の」を使ったりする事実が、これらは同じ
   性格のものと解釈されている。

この文、日本語としておかしいが、引用に誤りがあるのか。三浦の日本語がおかしいのか。
それはともかく、言いたいことはわかる。

ところが、その後の三浦の論は、論になっていない。

   「僅か【な】」とも「僅か【の】」ともいうし、「な」を「の」に変えても
   【意味は変わらない】と時枝は考えて、これを「の」<助動詞>説の一つ
   の根拠にした。果たしてそうか?
   「自然」という漢語は、「自然【な】ポーズ」「自然【の】法則」のように
   どちらもつけられるが、この場合「自然」の意味は同じだろうか?
   意味のちがいに気づくのは、それほど困難ではない。

時枝は「わずかな/の」で【意味は変わらない】とした。
その是非を論じるなら、「わずか」について考えるべきだ。

なぜ違う語「自然」を持ってきて、「自然なポーズ/自然の法則」で、
   意味のちがいに気づくのは、それほど困難ではない。
などと気取っているのか。

この辺がシロウトの悲しさである。
「自然な/の」で「-な/の」の違いを指摘すれば、「わずかな/の」も同様に違うはずだと言えると思ったのだろうか。あさはかな。

その後、「親切な友人」と「親切の押し売り」の例を出して、やはり違うという。
そして、「わずかな光」は属性表現で、「わずかのお礼」は、

   属性を実体的にとらえた<名詞>ではなかろうかと思われてくる

として、時枝の論を否定したつもりになる。

それにしても、「ではなかろうかと思われてくる」という程度の感想だけで、文法の議論になると思っているあたり、やはりシロウトである。何の言語学的論証もない。

もう少し、言語学らしい、文法らしい議論をしてみよう。

日本語の形容詞は、「述定」と「装定」が同じ形でそのまま使える。
    ケーキはおいしい  おいしいケーキ
形容動詞は活用形が変わる。
    桜はきれいだ    きれいな桜

「述定」でも「装定」でも、名詞の属性の表現として働く。「意味のちがい」はない。

問題の「わずかな/の」を考える。

    光はわずかだ    わずかな光
    お礼はわずかだ   わずかのお礼 (「わずかなお礼」とのちがいは?)

形容詞・形容動詞と同じように「述定」「装定」の形がなりたつ。
ここで、何をもって「意味のちがい」とするか、が問題となる?

では、「な/の」で「意味のちがい」がある「自然なポーズ/自然の法則」の例を考える。

   a (その)ポーズは自然だ  自然なポーズ
   b (その)法則は自然だ   自然の法則

a とb の違いは明らかだろう。a では「自然」の意味に違いはない。ともに属性の表現だ。

b では、二つの「自然」はまったく違うものである。
「自然の」は「名詞+格助詞」であり、「自然の中にある、自然に従った、法則」の意になる。
「自然だ」のほうは、ちょっと意味がとりにくいが、属性の表現として解釈するしかない。(これがどう解釈できるかをあれこれ考えるより、もっと意味の取りやすい、「自然な」言い方で言い換えるのがまずは先だろう。不自然な日本語の例から文法を考えるのは悪手である。)

もう一つ、「親切」の例。

   c (その)友人は親切だ     親切な友人
   d (その)押し売りは親切だ   親切の押し売り

これも、c とd の違いは明らかだ。「親切の」は「名詞+格助詞」である。むろん、d の「親切だ」は名詞ではない。

「お礼はわずかだ」と「わずかのお礼」の対に見られる「わずか」の共通性と、「押し売りは親切だ:親切の押し売り」との違いは明らかすぎるだろう。
前者は、むしろ「友人は親切だ:親切な友人」の対の「親切」に並行した関係にある。

以上のかんたんな議論から導かれる結論は、これまたかんたんなことである。

「自然な/の」および「親切な/の」は、形容動詞(品詞名は何でもいいが)と名詞の<2つのはっきりと違った用法を持つ>が、「わずかな/の」はそうではない、という言語事実があるということだ。

その違いに、三浦は気付いていない。言語事実をきちんと観察せず、そこから考えないから。ただ、できあいの解釈で無理に結論付けようとするだけである。(「~ではなかろうかと思われてくる」という曖昧な言い方だけで)

その事実をどう理論的に位置づけるかにはいろいろ議論がありうるが、言語事実そのものが見えていないのではどうにもならない。

その三浦を引用する者が、言語事実に基づかない空論を繰り返してばかりいることは、これまでにも十分明らかで、どうにかならないものか。

これらの「の」がみな同じ「格助詞」であり、その前には「名詞」が来る、というのは、立証されるべき仮説にすぎない。
「の」は格助詞なのだからその前の語は名詞である、と言って何かを主張したつもりになるのは、論証ということを知らない者である。

「わずかの」の「の」を、「自然の」の「の」と同じものだと考えるようなアタマでは、文法の議論はできない。

山田は古語の「副詞」について論じている。三浦の論ははっきりしない。

   これらは、属性表現として通常使われる語を、実体表現として<名詞>として使っている。

という「主張」は論になっていない。ここで「実体表現」とは、三浦がそう言っているだけの「何か」であり、そこに何の論証もない以上、逆に何の有効な反論もできない。空論である。

三浦は、副詞に「の」がついたものはどう考えるのだろう? 「ゆっくりの」とか「べたべたの」とか。

   属性を実体的にとらえた<名詞>ではなかろうかと思われてくる

のだろうか? そう「思われてくる」のは勝手だが、その論証が必要なのである。

それにしても、まだ三浦の論は、ここが間違いだ、ここに問題がある、と指摘できるような議論にはなっている。
それに比べ、No.67は、またぐちゃぐちゃの(な?)論に戻ってしまっている。
具体的な言語事実を一つ一つおさえ、それに基づいて議論する、という基本がまったくできていない。
大仰な空理空論を繰り返すばかりである。

時枝の、

  「事実を山ほど集めて、そこから素晴らしい結論が出るだろうなんて期待するのは、学問の邪道」

という「警告」には反対しないが、

  事実を集めもせず、素晴らしい結論が出せるだろうなんて期待するのは、学問ではない

ということも言っておこう。

saburoo
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No.66 の補足です。



このように見てくれば、<名詞>とは何か、<格助詞>「の」の意義、「の」による比喩用法<助動詞>「な」の意義、そして<形容動詞>という誤り。さらに属性表現の語から実体表現の語である<名詞>への転成という事実を理解しなければ、質問の回答にはならないことが理解できます。

 これまでになされた次のようなコメントが単なる現象論でしかなく、未だに事例収集などというピンボケの対応しかできない記述文法という発想の限界を露呈していることが理解いただけるものと考えます。

>>前にも書いたことだが、「品詞」は文法を記述するための便宜的な呼び名に過ぎない。(No.44)

品詞とは語の意義に基づく分類でなければならず、「便宜的な呼び名」では何の約にも立たないということです。

>>名詞とは何か、ということ。
  1 ガ・ヲなどがついた格になることができる。
  2 「~の」の形で連体修飾になる。また、連体修飾される。
  3 「~だ」の形で述語になる。
この三つの用法が[名詞であること]の基本だと思うのですが、この三つをすべて同じように持つ名詞ばかりではないところが問題です。(No.29)

これは、<転成体言>で指摘された教科研文法や学校文法と同じ誤りで、

形式主義者の逆立ち論である。これらは「動作や性質を表す」のではなく、【動作や性質をものごと的にとらえて表す点で、<名詞>と共通した内容を持っている】からこそ、文法的な形式や機能の特徴も<名詞>と同じになるのである。//

ということです。

>>ずいぶん前に書いたように、「自由の女神」と「自由な女神」ははっきり違うのですが、「特別の事情」と「特別な事情」は意味的に同じであると。
それと同様に、「最上・最小・最強」なども「の」と「な」で意味が変わるわけではない。つまり、「の」でも形容的。(No.64)

これも、「意味的に同じ」ではなく、語の意義と意味の相違と関連を考えたこともない人では、そう理解するしかないということになります。

ここでは、やはり時枝の下記警告を三度提示しておくのが適切かと考えます。

正しい方法を持たないのに、「事実を山ほど集めて、そこから素晴らしい結論が出るだろうなんて期待するのは、学問の邪道」(時枝誠記『国語学への』)■
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No.63 のお礼に応えて



>何か参考になりましたか?
 
No.65 の
>>まずはそれぞれの大きなリスト(と実例集)を作ることが基礎的作業かなあ、と。

などという、お粗末な記述文法信者の単なる現象提示の何が参考になったのでしょうか?

この問題は、三浦つとむ『日本語の文法』(勁草書房)で〔時枝文法の「の」<助動詞>説の吟味〕として取り上げられ、問題を解決しています。当方の回答もこれに依拠したものですが、ご理解いただけないようなので、以下に『日本語の文法』「第4章 単語の活動状態としての<名詞>への転成―<転成体言の問題」の「三 時枝文法の「の」<助動詞>説の吟味」を引用しておきます。<形容動詞>の誤りも理解できず、<名詞>とは何かも理解できないような「記述文法」では問題の糸口さえ掴めないことが良く分かると思います。

 時枝誠記の『日本文法 口語篇』では、<指定の助動詞>「だ」の活用として、「連体形」に「な」と「の」があげられている。このような扱いかたは他の文法書にはないから、これまでも問題にされて来た。「僅か【の】お礼しかできない」「心な【の】こと」「玉【の】男御子」などの「の」は、通説では<格助詞>と説明しているが、時枝は<助動詞>だと主張するのである。青木玲子はこれらを吟味して、「の」を判断の表現ではないと判定し、<助動詞>説を否定した。私の結論もやはり否定論であるが、ここにはただ否定するだけではすまない問題がふくまれていて、時枝が<体言>や<用言>の内容の特殊性に立ち入ることをしないで形式的に扱っていることや、<転成体言>の問題を積極的にとりあげようとしないこととの結びつきを考えなければならない。

 「滝【の】汗」「花【の】生涯」「玉【の】男御子」「露【の】命」などからは、ある実体とその属性を読みとることができる。機能主義で解釈するならば、この場合の「滝」は実体「汗」の属性を示す【役割を果たしている】ということになろう。だが、なぜ「滝」「花」「玉」「露」などがそんな役割を果すのか、どうしてこの語でなければならぬのかは、機能主義では説明できない。「汗」の属性をそのまま対象にすれば、「流れる」と表現すべきところを、同じように「流れる」と表現することのできる【別の実体を持ち出して、その実体の属性を想像させるための】「滝」なのである。つまりこれらの語は「汗」「生涯」「男御子」「命」などの持つ属性と共通した属性を持つまったく別の実体を観念的に持ち出して、【比喩によって対象の属性を間接的に連想させようという方法をとった】ことから、選ばれたのである。

「滝」が直接に「汗」の属性を示していると錯覚すると、<動詞>「流れる」が判断辞を伴っているように、「滝」も判断辞「の」を伴っているという結論にもなってくる。けれどもここでの「の」は<格助詞>で、観念的な別の実体のありかたを対象の実体のありかたに重ね合わせるとき、両者を結びつけることを示している。つまり、ダブルイメージによる属性の連想である。

 つぎに、同じ語に「な」を使ったり「の」を使ったりする事実が、これらは同じ性格のものと解釈されている。『日本文法・口語篇』で時枝はいう。

 「な」「の」は、屡々共通して用ゐられるが、語によって、「な」の附く場合と「の」の附く場合とがある。「駄目の」「僅かな」とも云うことが出来るが、「突然」「焦眉」「混濁」等には「の」がつき、「親切」「孤独」「あやふや」等には、大体「な」がつくようである。

 「僅か【な】」とも「僅か【の】」ともいうし、「な」を「の」に変えても【意味は変わらない】と時枝は考えて、これを「の」<助動詞>説の一つの根拠にした。果たしてそうか? 「自然」という漢語は、「自然【な】ポーズ」「自然【の】法則」 のようにどちらもつけられるが、この場合「自然」の意味は同じだろうか? 意味のちがいに気づくのは、それほど困難ではない。「自然なポーズ」は属性をとらえているのであって、「不自然」ということもできるが、「自然の法則」は実体をとらえているのであるから「不自然」ということはできない。この場合「な」と「の」の意味もこれまた同じではない。

 <用言>から<体言>への転成や転用は、<用言>の活用の形式いかんと直接の関係を持っていない。連用形のときもあれば終止形の時もある。これは、活用が語の内容と直接の関係を持っていないことから、当然である。しかしながら、この問題をさらに論理的に押しすすめると、<動詞><形容詞>以外にも同じように属性表現の語があることや、それらにもやはり同じように対象の属性を実体的にとらえて<体言>化する可能性のあることに、気がつくのである。【漢語あるいは<副詞>などの中に、活用のないまま同じ形式のままで、属性表現の語から実体表現の語へと転成することが起こるのではないか】、山田のことばを借りるなら、これは「如何なる天魔鬼神といへども」形式からは説明できないのではないか、と思えてくる。いま引用した、「な」と「の」との使いかたについての時枝の説明を、この観点から吟味してみると、同じ「親切」という語でも、「親切【な】友人」という場合には属性表現の語であろうが、「親切【の】押し売り」という場合には属性を実体的にとらえた表現ではなかろうか、と思われてくりる。「僅か【な】光が差した。」という場合には<副詞>で属性表現の語であろうが、「僅か【の】お礼しか出来ない。」という場合には属性を実体的にとらえた<名詞>ではなかろうかと思われてくる。それならここでの「の」も<助動詞>ではなく、<格助詞>である。
 山田もすでにこの問題に当面していたことは、『日本文法学概論』の「連体格」の章が語っている。

 副詞にして連体格に立つをうるものは、属性の副詞を主とし、その他のものにては慣例あるものは往々この格に立つことあり。この時は助詞「の」を伴うを常とす。さてこれらの副詞にては情態副詞最も多く用ゐらる。その情態副詞は国語のものも漢語のものも同様にこの格に立つなり。程度副詞も亦然り。それらの例

  【わづかの】迂路をせざるが為に名勝を見残すことあり。
   そは実に【尤もの】事なり。
   (これは「尤もに」といふをうべき情態の副詞にして「尤も」といふ陳述副詞にあらず、紛るべからず。)
   官吏として【重要の】職にありき。 
  【非常の】用に備え給へ。
  【自然の】道理なり。
従来の文法家何を基として論をなせるかは知らねど、とにかくかくの如き場合のものは誤謬なりとして排斥し、みな「なる」という語につづけて

  重要なる職  非常なる用  自然なる道理  わづかなる迂路  尤もなる事

の如くせざるべからずといへり。然れどもこの例を見て知る如く、「非常なる用」「自然なる道理」は【妥当ならぬ感を吾人に与ふる】が上に、上に例示せるものは普通文に汎く用ゐらる々ものにして決して破格にも違例にもあらざるものなり。(中略)されば又平安朝の語に存せぬものなればといふ人もあらむ。されど、平安朝の語にもその例甚きことは既に十六章にあげたるところなるが、なお二三をあぐ。

  【ただの】人に見えず。 (宇都保、吹上下)
  【つひの】たのみ所にはおもひおくべかりける。 (源、帚木)
  【まづの】人々おわす。 (源、若菜上)
  【かりそめの】かくれがとはたみゆめれば。 (源、夕顔)
  【おほよその】なびく尾花にまかせてもみむ。 (蜻蛉日記)
  【あはれの】事や。 (源、帚木)
  【とかくの】事いとたふとき老僧のあひしりて侍りけるに。 (源、夕顔)
   わりなき【まれの】細道をわけ給ふ程。 (源、帚木)
  【さての】御かたがたにも皆たてまつれ給ふ。 (宇都保、蔵開下)

かくの如く例甚だ多きものなるが、これらをすべて否定しうべき勇気あるものにもあらずば本書の所説を否定しうべきものにあらざるなり。(【】は引用者)

 この種の表現の正当性について、山田は平安朝以来ひろく使われている事実と、文法学者の主張するような表現では妥当でないという感じがすることを、あげている。学者が「何を基として論をなせるか」を見ぬいて、理論的に反駁はしていない。けれども読者は、なぜ文法家がこの種の表現を誤りと見なしたか、すぐに推測できたはずである。これらは、属性表現として通常使われる語を、実体表現として<名詞>として使っている。それで、属性表現として使われる場合にばかり接してきた文法学者が、実体表現として「の」が使われていることに異常な感じを受け、【属性表現の場合に加える「なる」を使うべきだという、やぶにらみの主張】に出たのである。
 教科研文法での<名詞>にも、<転成体言>が入っている。『文法教育』の序論にいわく

 名詞は、ものごとを表わし、基本的に、主として「が・を・に・で・と・へ・から・まで・より・の……、は・も……、だ・です……」などをつけた形で、主語・述語・対象語・状況語・独立語などになることができる品詞である。
 (註) 動作や性質を表す単語でも、歩行・読書・勉強・動き・赤・青・白・大きさなどは、右の特徴をそなえているから、名詞である。

 この註での、<転成体言>の規定は形式主義者の逆立ち論である。これらは「動作や性質を表す」のではなく、【動作や性質をものごと的にとらえて表す点で、<名詞>と共通した内容を持っている】からこそ、文法的な形式や機能の特徴も<名詞>と同じになるのである。//

記述文法などというお念仏が、いかに非科学的、非論理的で無内容かご理解いただけると思いますが?■
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「最-」の例文集の続きです。



No.57では、「最上・最小・最強」などは、国研・筑波の書きことばコーパスでは「~な」の例が少なかったので問題にしていませんでした。
しかし、yahoo の検索で見てみると、それぞれけっこうあります。

(1)「最上な」の実例集:yahoo検索で得られた約160例の中から。

・あなたの音楽ライフを最上なものに。
・スタイロフォームのパッドを使用し、最上な天然皮革と手縫いのパーツと融合された1足になっています。
・江戸前鮨「秀徳恵」。秀徳最高の江戸前鮨で最上なおもてなしが出来ればとスタッフ一同が、
・アナタにとって最適で最上な施術計画を提案させて頂きます
・スピード感とフロー感を与えあなたのレトロフィッシュを最上な乗り味にしてくれます
・まさしく次の段階に進むように全てにおいて最上な物を追及し進化し続ける店である
・自分史上最上なロロ・ピアーナのベビー・カシミアコート
・最上な仲間たち1 ~ 斯波兼頼 ~
・2011/5/1 -最上なネイル.
・クラシック(最高の、最上な意味)な装いを好む多くの方々を募り、.
・忙しい日常に最上な癒しのひと時を. 県都・那覇にありながら、都会の忙しさを忘れさせてくれる
・より最上なものを求めて、歯を食いしばって頑張りぬく」
・最上な喜び? という意味だったような二次熟語を求む. 「最上の喜び、 この上ない喜び」、みたいな意味の、日本語の二次熟語を探してます。
・それぞれの土地で最適な収穫期を知っており、最上な状態の茶葉だけを選択することができます。
・麻酔科医師自身の手で成されることが最上な ことは論を待ちませ ...
・最上な空間で上質な眠りへ導く 最新の空気清浄機を体験
・簡単に言ってしまうと最上級というのは字のごとく最上な物、事につくものなので
・全てはお客様の為に. 最上な店舗環境で. 最上のおもてなしと技術で. 安心・安全・快適を支えます
・建築とインテリアが一体となり、 至極自然な空間=最上な状態が生まれた
・シンプルなのに雰囲気のある最上なナチュラルヘア
・最上な日々をだくだくソースで・・・・*
・最上なお祝いに欠かせない饅頭 in 饅頭。

▽両方使っている人は、どういう感覚なのか。

   最上な喜び? という意味だったような二次熟語を求む. 「最上の喜び、
   この上ない喜び」、みたいな意味の

   最上な店舗環境で. 最上のおもてなしと技術で

ごく自然に、こういう使い方をしているのでしょうねえ。

(2)「最小な」の実例集:yahoo検索で得られた約130例の中から。

・重さわずか6.5kgの最小な自転車となっており、
・2008/6/8 -最小なLispの処理系(インタプリタ)です。
・諸経費が大きな金額になる店が多い中必要最小な諸経費とわかりやすい表記にお店の誠実さがつたわりました
・『世界最小な犬チワワ!!!』。
・本来、各階のF指標のうち最小なF指標を採用すべきところ、
・P(x0,y0) ∈ R2 とすると, P と l 上の点の距離の中で最小なものが存在し,
・その経路をとったときの作用を計算し、最小なものを選べば、F=maは
・2018/8/6 -片耳難聴に適した最小な補聴器【最新のおすすめ!】
・最大項目露出率が最小な複数等質テスト群を構成します。
・被害が最小なことを願うばかりです。
・「業界最小なドライブレコーダー GARMIN GDR E560」
・一家に1台!? 超最小な家庭用3Dプリンターがスゴい ...
・面積が最小な包絡を計算します。
・C2とC3の交点のx座標で最小な正の値をr、C1とC4の交点のx座標で最小な正の値をsとする。
・2012/4/24 -象を含む最小なσ-集合体を考える.
・$2$ つ以上の数の最小な公約数は常に $1$ であり,最大の公倍数は存在しません
・デフォルトでは、最初の最適な木は、誤分類コストが最小な木の1標準誤差内の最小の木です。
・体積が一定の四面体の中で,表面積が最小な立体を求める。
・児死亡率の最小な国はスウェーデンで 1000 人あたり3人に過ぎず、
・広大な宇宙と最小な素粒子、大きな世界を紐解く小さな世界を
・その中に多項式があれば,式は自動的に最小な形に約される
・花幅 11.2cm と、歴代最小な月下美人です。
・掘削しようとする斜面の形状から安全率の最小なすべり面を判断する判断ステップ.
・他のゲームはなるべく最小な個々のタイムスライス単位を管理します。
・必要なポジショニング調整が最小なため、本体剛性が高い構造です ...
・このバクテリアが最近まで発見されなかったのは 地球上最小な生命体で
・満たす最小な領域を求める問題は多項式時間で解けることが示されている

▽数学系が多いですね。
 次のようなことを考えました。
 「もの・こと・ため」などが続くと、より自然に感じられる。
 まえにガ格があると、つまり「最小」が述語であると、より自然に感じられる。
   最大項目露出率が最小な複数等質テスト群
   被害が最小なことを
   面積が最小な包絡を
   表面積が最小な立体を
   児死亡率の最小な国は (この「の」は「が」でしょう)
   安全率の最小なすべり面を
   ポジショニング調整が最小なため

(3)「最強な」の実例集:yahoo検索で得られた約140例の中から。

・クイックルワイパーが最強なワケ
・現在のところ、コスパ最強なタブレットは下記でレビューした「 ALLDOCUBE iPlay20」
・【写真】ギャップにドキッ!「金髪でこだし最高・最強!」な武田玲奈.
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▽余談ですが、「憧れの韓国女子になりたい人」というところで、へえー、と思いました。時代は変わっている?


全体として、「~の」から「~な」への移行は、(話し言葉、及びそれに近い文章では)予想以上に進んでいるらしい、という強い印象を受けました。
「~的の」が「~的な」へ変わったように、自然な流れなのかもしれません。

ずいぶん前に書いたように、「自由の女神」と「自由な女神」ははっきり違うのですが、「特別の事情」と「特別な事情」は意味的に同じであると。
それと同様に、「最上・最小・最強」なども「の」と「な」で意味が変わるわけではない。つまり、「の」でも形容的。

それなら、「な」のほうが「わかりやすい」わけで、言語の体系としても「名詞」と「形容動詞」の連体修飾の役割分担が明確になるので「好ましい」と言える?

以上、ちょっと先走ったことを書いてみましたが、どうなんでしょうねえ。
個人的な感覚としては、「最上な・最小な・最強な」というのは、まだちょっと気持ち悪いんですが。

saburoo
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この回答へのお礼

>「憧れの韓国女子になりたい人」
 近年はそうかもしれません。
 韓国女性は女子力が高くて、肥満率が低くて……というイメージがあります。何を書いておる。

「~的の」が「~的な」へ変わったように
 あっ、そうなんですか。でも、話はそう簡単ではない気も。

 当方の記憶では約20年前に「最悪な」はナシと書いた段階では、ほとんどの辞書が「最悪な」は認めてなかったような……。

 個人的には、「最適な」以外は異和感があります。
 どの程度の異和感かと言うと微妙ですが。
「最上な・最小な・最強な」はほぼダメです。仕事のゲラに出てきたら、「の」にします。
 ほかのケースに関しては……わからなくなっています。

お礼日時:2020/10/12 21:32

No.57,No.58,No.59,No.62 の回答について



多くの事例を挙げられていますが、

>>できれば理由を添えていただけるとありがたいのですが。

という質問の回答には全くなっていません。

結局、質問の1)~8)の事例以上の意味はなく、質問者が良く言う「こんな不毛なやり取り」、「スペースのムダなので、(念仏は)今後はお控えください」というレベルではないかと思いますが、いかがでしょうか?

何か参考になりましたか?■
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この回答へのお礼

>質問者が良く言う「こんな不毛なやり取り」、「スペースのムダなので、(念仏は)今後はお控えください」というレベルではないかと思います
 当方が、そういう言葉を使うのは、あまりにも異様なコメントに対してだけです。
 そのぐらいわかりませんか。
 そこまで理解力がないのでしょうか。 

>何か参考になりましたか?
 当方のお礼を読めばわかるはずですが。
 そこまで理解力がないのですね。

お礼日時:2020/10/11 14:27
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