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玉音放送をきいて敗戦したんだ…と泣き崩れる国民の姿は見たことあるのですが、
その玉音放送があることを、国民はいつ知ったのでしょうか?

8/15の正午に天皇からのおことばがあるらしいと、どうやってしったのでしょうか?
それとも現代のテレビと、当時のラジオは同じような扱いで常にかけ流しのような感じだったので、
たまたまその時間につけていたら
あれ?いつもと違うな。天皇が何か言ってるぞ?!みたいな感じだったのでしょうか?

もし、事前にその放送があるのが分かっていたのなら、その告知(?)はいつ頃から、どうやってされていたのでしょうか?
その場合、国民は薄々敗戦を感じていたのでしょうか。
終戦直前の8/15の夜中や、8/14に空襲にあった地域があるようです。
その被害にあった人たちも、明日には終わるはずなのに…と思っていたのならやりきれないなと感じます。

A 回答 (6件)

多分ですが・・・


戦争以前から「五人組」と呼ばれる組織があり、上意下達の仕組みが出来ていました。
これを使って伝達されたものと思われます。
   
但し玉音放送とは言われず「大切な放送があるから聞くように」と言われたようです。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
そういう伝達方法ざ確立していたのですね。

大切な放送とは何だろうとドキドキしますよね…

でも国民に伝わっていたのなら直前の空襲は何なのかと思います。
さすがに相手も知っていたのではないかと…ダメ押しだとしても酷すぎますね。

お礼日時:2020/08/19 19:23

市役所などから連絡があったのでは?



あの頃は、町内会などが全部市役所などの下部組織になって、国民を統制監視しています。
上からの指令が国中に伝わるよう組織化していたはずです。

>国民は薄々敗戦を感じていたのでしょうか。

ガンガン空襲を受けて、ロクに反撃もできない状態で「これじゃ負ける」と感じない人はいないでしょう。
でも、そんなことは口が裂けても言えない言論統制社会だったようです。
今の北朝鮮と似たような社会だったのでしょう。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
今と違ってかなり組織化はされていたのでしょうね。

そうですよね、思っていても口に出せなかったですよね。だから何を思っていたかなんて表には出てこないのかもしれませんね。
玉音放送を聞いて初めて涙を流せたのでしょうか…心が痛みます。

お礼日時:2020/08/19 19:20

14日夜と15日朝の2回の予告放送がありました


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8E%89%E9%9F%B3 …
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この回答へのお礼

ありがとうございます!
予告放送があったのですね。

当時の国民がそれを知って何を思ったのかも気になるところです。

お礼日時:2020/08/19 19:17

ポツダム宣言は、日本時間の7月27日7時から英語で連合国側のラジオにより伝えられ、日本政府や軍の他、報道機関も内容を把握し、翌日の28日は新聞紙上で日本で報道されています。



ポツダム宣言受諾自体は、8月9日に受諾の他の選択肢が無いと日本の最高戦争指導会議で認識が共有されて、その直後から玉音放送の文をどうするのかを検討が開始されました。
正式な受諾決定は、14日に最高戦争指導会議で、陛下のご聖断により決定されて、その後に玉音放送を録音することになりましたが、文章が決まらずに録音予定が16時からでしたが、
実際にレコードで録音開始になったのは14日23時を過ぎていて、翌未明まで掛かりました。
2回、レコード録音したのですが、陛下は、(玉音の)声が聞こえ難いかもしれないから、もう1度取り直しを希望されたそうですが、放送する側が辞退したそうです。

国民は、既にポツダム宣言を知っていたのと、前日14日(14日21時のニュース)でには、15日正午に重大な放送があることは報道され国民全員が聞くように指示されていました。
15日朝の15日7時21分のニュースでその放送が天皇陛下による放送であることが報道されていたので、普通の国民はこの辺りで敗戦の現実を覚悟したと思います。

1945年の春頃から、東京の株価が少し良いような気配を感じ取っている人がいたという証言を、昔のテレビで聞いた事があり、ネットでも昔、その辺の別記事を観たことがあるのですが、
投資する人や企業家の中では、敗戦の気配を春頃に東京の街中で感じ取る人がいたらしいですが、おおぴらにはできなかったようです。
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この回答へのお礼

詳しくありがとうございます!
玉音放送前に国民がポツダム宣言を知っていたとは驚きです。
受諾を決めたのが8/9ということは、長崎の原爆投下を受けて急いでということなのでしょうか…
文章が決まらずにいる間にも何人か犠牲になったかと思うとやりきれないですね。
とりあえず先に相手側に受諾する旨だけでも伝えておく、なんてことはみっともなくてできなかったのでしょうか…。

配線を前にして株価が良くなるものなのですね?戦争が終わりそうだから、で良くなるのでしょうか。少し意外です。
経済の視点から敗戦の気配まで読み取れるのはすごいですね。

お礼日時:2020/08/21 09:28

先の第二次世界大戦は開戦当初から賢い人はこの戦争は負けると分かっていました。

親戚の叔父さんも私の母に「この戦争は負けるよ」と言っていたそうです。また先の見える人は徴集令状いわゆる赤紙が来ても破り捨てて戦争に行かなかったそうです。ある意味では賢い選択で正解ですね。こんな負けが分かっている戦争に行って多くの人が死にました。280万人余の兵隊とが60万人以上も民間人が空襲や原爆で死にました。こんな無謀な戦争に引き込まれた国民は可哀そうです。外国から石油などの資源の輸出禁止で否応なしに戦争に巻き込まれたのです。ともあれ玉音放送は前もってラジオなどで全国民に知らされていたそうです。学校でも疎開先でも先生は生徒に知らせていたはずです。結果的に負けるべくして負けた戦争です。勝っていたら軍人がますます大威張りで国民や農民は大変だと祖母が言っていました。貧しかった小作農民は農地改革で大地主の土地をもらえたのでマッカーサー様さまだったと言っていました。一方ではこの大戦のおかげで東南アジアの国々、インドネシア、シンガポール、マレーシア、ベトナム、ビルマ、フィリピン、インドなどの国がイギリス、フランス、オランダから独立できたのです。これも隠れた日本の功績です。本当に負けたのは植民地を失ったイギリス、フランス、オランダなどの国々ともいわれています。
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この回答へのお礼

当時の状況を詳しくありがとうございます。
国民にはあまり情報がないものと思っていました。
赤紙がきて、破り捨てて戦争に行かないなんてことできたのですね。
当時の軍隊?警察?ちょっと分からないのですかその当時管理していた側に酷い目に合わされる…というか非国民だとして殺されたり、無理矢理でも戦地に送り出されるものかと思っていました。
では大半の国民は周りの目もあるから、といった集団心理で泣く泣く夫や子供を送り出していたのでしょうか。
実際子供が娘しかいなかった人は、子供を戦地にやっていないという理由で立場が低かったようですね。
戦争に行かないという選択肢をした場合は村八分にあったのでしょうか。

当時の国民もやはり、とても口に出せないけれど今の私達と同じ感性で不満はあったのですね…恐ろしいです。

イギリス等が第二次世界大戦で植民地を失ったという観点では見たことがありませんでした。確かにそうですね。

お礼日時:2020/08/21 09:40

母が言うに、疎開地で、事前に今日の正午に重大発表があると、町内長より各家庭に知らされ、町内の集合場所に集結したとのことです。

そこで、正午前に皇居のある方向に並び、ラジオが。途中までさっぱり理解できずとも、最後には、戦争に負けたと理解。

親父は、赤紙くれど徴兵拒否で、大都市であれば、人間が多すぎてバレないと大阪に逃げてきた身。これで、逃亡者として逃げなくといいで、良かったと、涙が出てきたとのことです。2年以内の戦争なら日本が勝つ、それ以上なら負けと思っていたので4年目の赤紙受け取りは逃げるに限ると決心させたようです。
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この回答へのお礼

ご両親の体験を教えていただきありがとうございます。
当時は上から町、国民まで組織化されていたようですので、それを使って伝えられたのですね。

お父様は徴兵拒否されて大都市に逃げられたのですね。
町内を出るとしても、もし見つかれば…と考えると、逃げるのも一大決心ですよね。
大阪に着いたときには緊張の糸が切れたのでしょうね…
強い意志を持って、大変な時代を生き抜いて来られたのですね。

お礼日時:2020/08/21 09:51

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