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南スーダンって誕生したのは平成のいつだっけ?どなたか南スーダンの歴史について教えてください。お願いいたします。南スーダンの歴史について参考にしたいです‼️

A 回答 (3件)

アマチュア無線のDXCCで


南スーダンが有効なのが
2011年(平成23年)7月14日からですので
私は、その時が南スーダンの誕生だと思います。
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この回答へのお礼

ご協力ありがとうございます。南スーダンが出来たのは結構最近なのですね‼️いつの間にか地図帳読んだらいつの間にか南スーダンが出来てました。でも南スーダンの歴史について参考になります。ありがとうございました。

お礼日時:2020/11/26 19:22

以下がスーダン共和国が独立して以降の南スーダンの歴史です。



スーダンが独立する1年前の1955年に第一次スーダン内戦が勃発した。これは自治権を目的とするものであり、スーダン政府とアニヤ・ニヤ解放戦線の間で17年間戦われた。1971年、元スーダン軍中尉のジョセフ・ラグが数多のゲリラ組織を自らの南スーダン解放運動の元で集結させたが、これは南部スーダンの分離主義運動がはじめて統一された指揮組織を持ったものであった。また、南スーダン解放運動がはじめて南部スーダン全体を代表し得た組織であったため、世界教会協議会や全アフリカ教会協議会の調停もあり交渉が一気に進み、1972年のアディス・アベバ合意の締結と南部スーダン自治区の設立にこぎつけた。

第二次内戦

1983年、スーダン大統領モハメド・アン=ヌメイリがシャリーアを導入してスーダンがイスラム国家たることを宣言、非イスラムが大半を占める南部地域もこれに含まれた。さらに先のアディス・アベバ合意で設立された南部スーダン自治区も同年6月5日に廃止された。これに対しジョン・ガランがスーダン人民解放軍・スーダン人民解放運動(SPLA/M)を組織、ここに第二次スーダン内戦が勃発した。政府側の工作で民族問題を挙げてSPLA/Mを離脱した組織もいくつかおり、そのうち最大のものが1991年に分離したリエック・マチャル率いるナシル派であった。

この「内ゲバ」とも言える様相により、南部出身の住民は北部出身の人々に殺された者より、同じく南部出身の人々に殺された者のほうが多かった。例えば、1991年におきたボル虐殺では平民約2千名がナシル派と武装したヌエル族の者により殺害され、さらに約2万5千人が虐殺を原因とする飢饉で死亡した。この戦争は22年間続き、2005年にようやく終戦し、アフリカにおいて最も長い内戦となった。

2005年、南北包括和平合意が政府間開発機構とそのパートナー国諸国による調停でナイロビにて成立、南部スーダン自治区が再び設立された。この合意は2011年に南スーダンが独立を宣言するまで続いた。

2011年独立住民投票

2011年1月9日から15日まで、南部スーダンの住民たちはスーダンから分離独立すべきかについて投票した。1月30日に開票した結果は98.83パーセントが独立に賛成した。

2011年7月9日の真夜中、南部スーダンは南スーダン共和国という名前の独立国になった。同14日、南スーダンは国際連合の193番目の加盟国になった。また28日にはアフリカ連合の54番目の加盟国になった。

しかし、スーダンとの間には紛争が残っている。例えば、両スーダンの石油による収入のうち80パーセントは南スーダン領からのものであり、その収入の分配によっては両国の経済発展に大きく寄与するものとなる。さらにアビエイの帰属問題も残っており、(北)スーダンか南スーダンかという選択はアビエイ住民投票で決定される予定であるが、この住民投票はまだ行われていない。

独立

2011年6月6日、7月9日に予定された独立に先立ち、北スーダンと南スーダン軍の間に武装紛争が発生した。その後、両軍の間でアビエイから撤退するという合意がなされた。

6月下旬までに国際連合などがエチオピア人兵士4千2百名をアビエイで平和維持軍として駐留させることを提案した。

2012年南北スーダン国境紛争

2012年3月、スーダン空軍がスーダンの南コルドファン州に隣接する南スーダンのユニティ州を砲撃した。南スーダン軍は4月10日にヘグリグ油田を占領したことで応酬した。スーダン軍が反撃に転じたことで南スーダン軍は9日後に撤退を余儀なくされた。4月20日、南スーダンはヘグリグからの段階的な撤退を発表、一方スーダンは武力で奪い返したと発表した。その後、スーダンのオマル・アル=バシール大統領はハルツームで勝利を祝う集会を行った。

4月22日、スーダン軍が戦車と大砲の援護をもとに攻撃を3度も行い、南スーダン領に10キロメートルも侵入した。この攻撃で少なくとも南スーダン軍は少なくとも死者1名、負傷2名の損害を出した[20]。

6月、アフリカ連合のタボ・ムベキによる調停で両国間の交渉が再開された。

9月27日、エチオピアのアディスアベバにおいて、スーダン大統領オマル・アル=バシールと南スーダン大統領サルバ・キール・マヤルディが8件の合意に署名した。これにより、石油の輸出が再開され、両国の国境に10キロメートルの非軍事地帯を設立した。石油の輸出が再開したことで5,600万リットルもの南スーダンの石油が世界市場に戻ることができた。さらに、合意には国境線策定の範囲、経済協力、住民保護などの条項も盛り込まれた。いくつかの問題は先送りされたが、後日改めて討議するとした。同日に行われた第67回国際連合総会における議論(英語版)では南スーダン代表が演説する予定であり、登壇した南スーダン副大統領リエック・マチャルは合意の内容に触れるとともにアビエイ問題の解決案がなかったことを指摘した。

2013年3月中旬、両国軍は国境地帯から撤退して非軍事地帯を形成し、南スーダンの石油生産とスーダンを経由する輸出が再開された。4月上旬には南スーダン産の石油が再びスーダンのパイプラインを通るようになった。スーダン大統領のオマル・アル=バシールはスーダン経由の輸出を禁止すると脅したが、南スーダン大統領のサルバ・キール・マヤルディはアル=バシールが戦争動員を行っていると疑い、石油運輸の問題で戦争を起こさないとした。

反乱と内戦

独立時点では、南スーダンは少なくとも7つの武装組織と戦争状態にいた。国際連合によると、これらの紛争は南スーダン10州のうち9州に影響を与え、数万人が逃亡する結果となったという。ジョゼフ・コニーの神の抵抗軍も南スーダンを含む広範囲で活動していた。反乱軍は政府が永遠に権力を保持しようと目論み、全ての種族を等しく代表しておらず、農村の発展を無視していると疑った。

南スーダン大統領サルバ・キール・マヤルディによると、2013年12月14日にスーダン人民解放軍のうち(ヌエル族が大半を占める)一部がリエック・マチャル元副大統領を支持してクーデターを起こそうとし、それが失敗に終わったという。しかし、戦闘が勃発して南スーダン内戦を引き起こした。マチャルはクーデター計画を否認して逃亡、マヤルディに辞任するよう呼びかけた。マヤルディ側はウガンダ人部隊を戦闘に投入した。また当時国際連合は国際連合南スーダン派遣団を当地に派遣していた。そして、2014年1月に1度目の停戦協定が締結されたが、戦闘は継続し、その後も停戦協定が数度締結されつつ、戦火が鎮まることはなかった。交渉の調停役は「IGAD+」(政府間開発機構の8か国、アフリカ連合、国際連合、欧州連合、アメリカ、イギリス、ノルウェー、中国)が務めた。2015年8月に「妥協平和協議」(Compromise Peace Agreement)と呼ばれた停戦協定が締結されると、マチャルは2016年4月に首都ジュバに戻って副大統領に就任した。しかし、7月にジュバで戦闘が再燃、マチャルは更迭された。彼はスーダンへ逃亡、内戦が再び勃発した。

ディンカ族とヌエル族の間の対立も内戦の一因であった。内戦により平民30万が殺され、また2014年ベンティーウ虐殺(英語版)などの事件も起こった。南スーダンの人口は1,200万ほどだったが、うち200万は国内での逃亡を、100万はケニア、スーダン、ウガンダなど国外への逃亡を余儀なくされた。
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平成23年7月29日です

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