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1. 信仰は われと神とのカカハリであり 宗教は オシへを問題にする人と人とのマジハリである。

2. 次のごとく タテの関係とヨコの関係とでまったく別だ。


 タ   神      神      神
 テ・・・|      |      |・・・:信仰
 の   |      |      |
 関   |      |      |
 係   |      |      |
     われーーーーーわれーーーーーわれーー:各主観
         ❙      ❙
         ❙      ❙
      ヨコの関係  ヨコの関係    :社会関係における宗教



3. 信仰にあっては 非思考の庭なる神であり(それは 霊性であり) 宗教においては オシへの中に神を観念としておさめているからには――ほんとうは――考えるべき思想たる神観(すなわち 知性)の問題なのだから。

4. 宗教は――考えるべきものを 無条件に心に受け容れる(つまり 信じる)ようにと説くなら 思考停止(お寝んね)を推奨する――寝技であり 屁の河童である。


5. なんで 仏《教》を信じるだの キリスト《教》を信じないだのと 知性にさからう表現が後を絶たないのか?


☆ ご見解をどうぞ。

質問者からの補足コメント

  • №9つづき

    ★ 仏の知恵への気づきは、人間の知恵性の為せる技ですから。
    ☆ ブッダは 超自然・超経験なる絶対性であり 普遍神の一つのあり方として神です。その《知恵》というのは 具体的には信じる人の――非思考の庭(霊性)にあって――ヒラメキがあたえられたときのその知恵を言うのです。


    ☆☆ 宗教の変化というのは 組織内で支配欲をどのように満たそうかというその流儀やあるいは金儲けの仕方を変えてみるといったことぐらいでしょう。
    ★→ 残念ながら、そういう方もおられるのでしょうね。
    ☆ 組織宗教で オシへを神とあおぐ宗旨なら それ以外はありません。
     

    ★ イエスが悪霊を豚に込めたことが原因で、
    ☆ イエスに向き合って 悪魔憑きの人びとの心の中にリセットが起きたのでしょう。



    つづく

    No.9の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2021/01/13 20:03
  • №9つづき2

    ★ 金儲けでの集まりでは、卓袱台をひっくり返して追い払った聖句もありますよ。
    ☆ 神殿を清めたときのことですかね。暴力は いかんです。


    ★ 仏教にも、十善戒が
    ☆ 律法――倫理規範――は 人に罪のあることを気づかせるだけのものです。


    ☆☆ 即身成仏
    ★→ つまりミイラね。
    ☆ それは 即身仏のことです。即得往生は 信じることの始動において世界との和解が成るという観想です。《わたしがわたしである》われに還ることです。


    ☆☆ 人間のほうから同化するというのでは ただの経験思想でしょう。道元。
    ★→ ではなくて、元々は唐で学んだ空海から広まったオシエです。( ´艸`)
    ▲ 道元:現成公案 ~~~
    自己をはこびて万法を修証するを迷とす
    万法すすみて自己を修証するはさとりなり。
    ~~~

    つづく

      補足日時:2021/01/13 20:04
  • №9つづき3

    ☆ 人と神とは絶対の隔たり
    ★→ ギリシャ神話でいう神々の世界では、絶対的な隔たりがあるとも言えませんし、日本的な神話も同様です。
    ☆ ギリシャ神話は 擬人化をともない 物語化していて 何とも言い難い。

    記紀神話は 普遍神の分身として八百万の神々があると理解します。

     
    ☆☆ しかも聖霊が人にやどるというんですから そのかぎりで《同化》でもあるのです。
    ★→ 聖霊は、神という奥義に気づくためのものであり、
    ☆ いいえ。聖霊が 神です。三位一体論は 光のタトへで 父なる神が 光源。子なる神が 発耀。明るさ・暖かさが 聖霊なる神。として説明するものです。


    ★ 無教会派・聖書主義の信仰力の強さと脅威をご存じですか
    ☆ 信仰のチカラは ① 聖霊として神よりあたえられるもの。② 強い弱いは 関係ありません。その人にとってその情況に必要なだけ 聖霊のチカラが与えられます。

      補足日時:2021/01/13 20:08
  • あっ:
    ★ 生き仏
    ☆ ですか。それなら 生きているあいだの成仏ですね。失礼しました。

    要するに 信仰とともに 一発でしかるべき人間性のわれに立ち還るという思想です。
    即身成仏は 空海。即得往生は 親鸞。

    No.17の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2021/01/14 05:08

A 回答 (26件中21~26件)

#5



私はキリストの教えに忠実にいたいと思いますが、信徒になる意志はありません。
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この回答へのお礼

相手――つまりわたし――との対話ではないのですね。

お礼日時:2021/01/13 13:15

酔生夢死で生きられるほど、財力に私は恵まれていないと思います。

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この回答へのお礼

★★ 自己の死に対してもあまり、驚かない精神
☆ これでは ほめられません。酔生夢死の場合にも 死に驚かないでしょう。


論点のズラシが 得意ですね。

お礼日時:2021/01/13 12:04

#3


私は宗教界に属している人間ではないですから。

死に対して、特に、自己の死に対してもあまり、驚かない精神、自己の死と対峙しても、尚、冷静さを保てるような精神状態に自己があるのであれば、最早、一つの完成された、境地に自分というものもあるのかもしれません。


諦観
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この回答へのお礼

ダメ。何も考えない人も 酔生夢死になり得ます。

お礼日時:2021/01/13 11:46

全くの無音状態で、自分と自分が対峙するのは苦しい作業だと思います。

そもそも、苦しい作業をするのも、自己を鍛錬し、なるべく、自然環境と自己の生活というものを一体化させるのが本来の修行体験の目的なのでしょうが。

私のように、自室に籠もって、暖房をつけ、パソコンを叩いているような怠惰な生活を送っている者には、修行者としての厳しく、素朴な生活を送られていらっしゃる方々の心中の厳しさは伝わってこないのかもしれませんが。

いずれにしても、娑婆との関係性を絶ち、自らが自然環境と溶け込んで、その中で電気も水道もガスの提供の難しい中で、生活する厳しさとは筆舌に尽くしがたいのかもしれませんが。

そういった、厳しい環境の中で自らの生活を律し、修行僧が何を思うのかは私では想像だに出来ませんが。
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この回答へのお礼

★ 修行
☆ は 人間性の安定した成就にとって 無関係です。

修行したことが 間接的にさとり あるいは すくひに寄与したという場合もありましょうし まったく何の効果もなかったという場合もあるはずです。




★ 怠惰な生活を送っている者
☆ やはり自己を誇っておられる。《怠惰》でも やって行けると。



★ 娑婆との関係性を絶ち、自らが自然環境と溶け込んで
☆ まったくの間違いです。娑婆即浄土あるいは煩悩即菩提だという命題が 提出されています。

わが身わが心は もともと 自然本性として生まれて来ています。




★ 厳しい環境の中で
☆ にしろ めぐまれた環境においてにしろ どんな境遇にあっても おのが文体――人生の歩き方――が安定して 人間性の発揮に支障がないというのでなくては いけません。



哲学のはき違えが 目立ちます。

お礼日時:2021/01/13 10:10

個人崇拝で良いと思えます。



宗教組織になると、胡散臭いです。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。


偶像崇拝の欠点は 偶像が神本体ではないのに そうだとして無条件で心に受け容れられているとしたら その状態がそうです。

偶像は このとき オシへのこととして捉えると うんと現実的になります。

オシへが 神本体の仮りの姿――すなわち 偶像――であるのに しかも神そのものであると見なされています。宗教にあっては。

お礼日時:2021/01/13 09:41

宗教があるから信仰が産まれ、信仰があるから宗教となるのであって、別物ではない。

信仰が変われば宗教心も変わり、宗教が変われば信仰も変わる。だからその教義も変わる。従って、具現化された祈り方も、祀り方も変わる。但しそのどれもが、宗教を顕す信仰心でもあり、信仰を顕す宗教観(宗教心)でもある。

 また、キリスト教と仏教は、同化と異化の関係のようなもの。
仏教は観念的には即身成仏であり、修行をした人間=仏という同化の考え方が基本。
 これに対してキリスト教は、人間に精霊が宿ることはあっても、人が神になることは無く、人とは隔絶した神の世界を前提にする絶対神という異化の考え方が基本である。

 尚神道(日本の神々という考え方)には、現人神(あらひとがみ)の信仰があって,生きた人間に神霊が憑依(ひようい)すれば,その人間はその身そのまま神になるという、異化の部分合成(同化の特殊型)のような考え方がある。但し偶像化(神格化)された他国の神話(神々の世界)には、どうような考え方も多々見られる。

 しかもその大前提として、キリスト教は父なる神の存在を示し、万物の存在を想定しており、仏教も経典で、自然や宇宙の存在を示している。
 また神話の世界も、同様な宇宙観がある。

 従って、部分的な無で生きようが、有で生きようが、整えられた有の世界の絶対無で生きようが、不可思議に生きようが、生きる魂には変わりは無い。だから知性に逆らうという宗教観の違いの主張は、実は、大智の部分的な顕現としての宗教心の表出であり、信仰心の表出であり、時には、そのいずれでもない無心の表出でもあるだけだ。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。


★ 宗教があるから信仰が産まれ、
☆ あり得ません。

超自然・超経験の何ものかをけっきょく《かみ》としていだいた。その信仰の経験から 観想を得たり恥ぢの意識が作られますが そこに共通の要素または規則性のある因果関係を捉えこれを整理して 命題としやがてはオシへとした。

宗教は やっとこの時点でさらにオシへの団体を作ろうとした人間がいたということです。


★ 信仰が変われば宗教心も変わり、
☆ 信仰そのものは 思考に非ずです。非思考の庭〔なる動態〕として成り立っています。

しかも 生活経験をとおして 先ほど触れたヒラメキや観想などの命題を得ます。ここから オシへがつくられて行きます。

人それぞれその主観・価値観は違いますから オシへも或る程度はことなっていましょう。



★ 宗教が変われば信仰も変わる。
☆ 宗教の変化というのは 組織内で支配欲をどのように満たそうかというその流儀やあるいは金儲けの仕方を変えてみるといったことぐらいでしょう。



★ だからその教義も変わる。
☆ まぁ 解釈は変わりましょう。

★ 従って、具現化された祈り方も、祀り方も変わる。
☆ それは どうでもよいと考えます。儀式は オシへ以上に 糞くらえです。


★ 仏教は観念的には即身成仏であり、
☆ 仏性を立てたなら 観念的ではありません。その仏性の顕現のことを言うのですから。

★ 修行をした人間=仏という同化の考え方が基本。
☆ 人間のほうから同化するというのでは ただの経験思想でしょう。道元。


★ これに対してキリスト教は、人間に精霊が宿ることはあっても、
☆ 聖書の神の霊性は 聖霊という漢字であらわします。

★ 人が神になることは無く、人とは隔絶した神の世界を前提にする絶対神という異化の考え方が基本である。
☆ ダメ。人と神とは絶対の隔たりがありますが しかも聖霊が人にやどるというんですから そのかぎりで《同化》でもあるのです。

★ 現人神
☆ 主観の内部においてのみ そういう神観をいだくことは ゆるされています。それだけのことです。




★ キリスト教
☆ とキリスト信仰とをごっちゃにしています。

★ 宗教心
☆ とは 支配欲と金銭欲のことです。それ以外のものではありません。

お礼日時:2021/01/13 09:37

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