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これまで自分は相対的な考えで生きてきました。
"ソレはソレ、アレはアレ"
という考え方や、
"物事に絶対はない"
という考え方が有名ですよねww

自分は20歳なんですが、
親父は逆に絶対的な考えをしている人です。
よく言われる『昔かたぎ』って言葉が当てはまるような
職人っぽい会社員やってます。
「~~とはこういうモノだ。
だから××しなくてはならない」
って感じのコトをよく言ってます。

両者は考え方が真逆なのでよくケンカになります。
とはいえ、相手自分を扶養してもらっている親なので
勝ち目はありませんけど(笑)

今の世の中は
「価値観の多様化」
「プライバシーの尊重」
といわれているような相対的な考えが主流だと思います。

自分としては
相対的な考えの欠点が、
善悪全てを"ソレ"として認めてしまうが故に
「目的」や「成長」の意味がなくなってしまうことだということに最近やっと気づきました。

この欠点に気づいて今混乱しています(悩)


結局今を生きるにはどちらがいいんでしょうか?

今は若さのピークなのに「目的」や「成長」がなかったら
若さの浪費でもったいない思います。
しかし、いまさら親父のような人間にはなれないような気がするのも事実です。

こんな自分になにかアドバイスを下さい。
よろしくお願いします。

A 回答 (18件中1~10件)

難しいですよね。



私が思うに、物事には、「不変の事象」と「変化する事象」(とでも言えばいいのかなぁ)があると思います。

前者は例えば、「光の速さは秒速30万Km」などのような、"自然界の摂理"というか法則というかそういうものや、数学や物理やプログラム言語の記述の規則などの"人間が作ったルール"です。

変化する事象というのは、"モノの考え方"のようなモノです。これは例が多すぎて挙げるのが難しいのですが、「男は外で働き、女は家庭を守る」といった考えや、はたまた「経営論」や「哲学」や「思想」などが変化するモノだと思います。

私は理系の人間なので、自分が知っている、もしくは信用する事が出来る根拠を持つ「自然の摂理」は、絶対的なモノで、誰がなんと言おうと、それに対する私の考え・信頼は変化しません。1+1=2であって、3ではありません。

しかし、"モノの考え方"の方については、私は、自分の中で変化します。人の話を聞いたり、読んだり、気づいたり、感じたりして、「AはBだ」と思っていたのが「AはCかもしれないなー」という感じです。若い頃はアメリカという国が好きでしたが、今は様々な情報によって、それほど好きな国ではなくなってきたり。
性に関しても似たように、昔ほどの貞操観念はないように思います。

"モノの考え方"は、様々な過程を経て、いずれは「信念」や「確信」に変わるのだと思いますが、これはこれでよいのではないでしょうか。人として、確固たる信念に基づいて行動している人は、なかなか魅力のある場合もあります(その信念が多くの人からみておかしければ滑稽にみえるかもしれませんね)。
でも、その「信念」にこだわりすぎると、それは「意固地」に見えるのだと思います。

人の話を聞くときには、相手の言わんとしていることを良く理解し、よく吟味し、自分の考えを変化させる柔軟さも必要ですし、自分が話をする時には、相手が自分と違う考えを持っている可能性があり、また、自分の意見に賛同してくれない可能性がある、という事を踏まえた上で話をするとよいのではないでしょうか。

議論をする場合には、特に大事だと思います。(説得、する時にはがんばって自分の意見を相手に納得してもらうように努力しますがw)

難しいですねw

伝わらなかったらゴメンナサイ><
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

>「不変の事象」と「変化する事象」
この例はとても分かりやすかったです。

自分の「絶対」と「相対」の考えに置き換えてみて
納得できる所が多々ありました☆

arventさんの回答を読んでいて、
"~に見える"という表現が少し気になりました。
やはり社会に出ると、
【他人が見る自分】というのも重要なのですね~。

お礼日時:2005/02/20 00:27

質問者様は現在お悩み中のようですが、老婆心により気になりましたことをいくつか指摘させて頂きます。


私ももっと若い頃、似たような悩みを抱えていたことがあったので、参考までに・・。

まず、あなたの言う「相対的考え」についてですが、
果たしてあなたは本当に相対的に物事を考えているのでしょうか?
「物事に絶対は無い」と絶対的に思っていませんか?
あなたの言いたいような相対的考え方というものは決して目的意識や成長の意味を無くしてしまうものではないはずです。
むしろ柔軟に物事を捉え、自分自身の存在価値を見つめ、本当に自分にとって価値のある成長を遂げることが出来る考え方だと思います。
また、絶対的考えというのはとても秩序立った素晴らしいものであります。
しかし、「絶対」と決め込んでいる分こちらの方がかえって「目的」「成長」に関しては分が悪いのではないでしょうか?

仮に結論を出すとすると双方は相反するものでは無いということが言えると思います。
相対的なものの中に絶対が存在する。
つまり、相対的考えの元に導きだした絶対性というものはあり得るということです。
逆もまた然り。
決して対義語では無いということです。

あなたはどうもお父上の考えに反抗するがために、
相対的というより「反絶対的」の様な物事の捉え方を身につけたのではないかと思います。
>両者は考え方が真逆なのでよくケンカになります。
とある様に、あなたとお父上は同じ次元にいますよね?
ベクトルが反対向いているだけで。
別の次元にいるのであればそれは「別のもの」「違うもの」であり、「逆」という表現にはならないはずです。

今悩んでいるのはたぶんそのことに気付き始めたからではないでしょうか?
ハタチ前後というのはそういうお年頃なのでしょう。
ホントの意味での自我の形成がなされる頃です。
きっとお父上もその時分は大変悩まれたことでしょう。
そして「絶対的考え」が固まっていったのではないでしょうか?
あなたも悩んだ末に自分自身の法則を導きだして、お父上のような考えに至るやもしれません。
悩むからこそ人間は成長して行くものだと思います。
そしてそれぞれの時点での考え方はそのときどきで移り行くものでもあります。
考える葦です。
大いに悩んで下さい。
それでは。。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

>「物事に絶対は無い」と絶対的に思っていませんか?
思っていましたww
そのセイで物事に行き詰まると、
よく自分に対する言い訳として使っていた気がします…

「物事に絶対はないんだ。
"できない"ことが絶対的に悪いことではない。
ソノ一つの物事ができなくたって、
俺の人生においてなんの影響があるものか!
きっと俺に向いているモノが他にあるハズだ!!」
という感じに。

親父はこんな自分に対して
『一事が万事』
とよく言います。

>相対的というより「反絶対的」の様な物事の捉え方を身につけたのではないかと思います。

これは、なるほど!と思いました。
この考え方はとても新鮮です!
この驚きを例えるならば、
平面体が立方体になったカンジですね(笑)
これを基に日々の生活をもう一度考え直してみます。

>同じ次元にいる
コレは説明がややこしいです(困)
確かに自分と父親は考え方が別次元にいると思います。

しかしそれでも同じ次元に属してしまうのは、
2つの理由があります。

(1)「考え方が違う」という理由で
肉親の父親を他人のように別の次元に切り離していいものか?
という後ろめたさから。

(2)親父は絶対的な考えをするので、
親父が自分に対して話をしているとき、
自分が親父にしている態度で
『お前は~~だと思っているに違いない』
と勝手に決め付けます。
そして、↑の考えを発展させて自分を非難するので
「ちょっと待ってよ?(怒)」
と同じ次元に踏み入ります。
--------------------------

他人なら"可哀相な人"として割り切るようにしますが、
毎日顔を合わせる親父にやられると自分はストレスがたまるだけでいいことがありません。
こういうワケで答えの出ないケンカによく至りますwww

お礼日時:2005/02/20 23:55

どちらかに決める必要はないのでは?


要するに臨機応変というか、柔軟に対応できることが今を生きるのに必要なスキルでしょう。
親子では育った時代・環境が違う為、意見の食い違いも多いと思いますが、親から学ぶべき事も多いと思います。
今現在の自分の個性やこだわりと、周りの人からの意見やアドバイスをうまくミックスさせていくことで成長していくのが理想ではないでしょうか。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

そうですね~、
決める必要は・・・ないのかなぁ?(笑)

自分は物事を考える時は、マイナス面から考えてしまいがちです。
これって、結局自分に自信がないって事の裏返しかもしれません。
そして、
自分は変に生真面目な性格をしています。
それによって、【臨機応変】や、【柔軟】っていう言葉が
あんまり好きになれないんです(困)
それを使うと物事に対して深く考えず、
その場しのぎ的な軽薄な対応してしまう気がするので。

次に、「絶対」「相対」という考えの根底にあるモノは
コロコロ変えてしまうと周囲の人が戸惑ってしまうと思います。
朝令暮改のようなことはしたくないのです。

これらの意見はマイナス面から
この問いを考えたモノです。
ingramさんはプラス面から回答してくださったと思います。
決して非難しているわけではないのでご了承ください。

お礼日時:2005/02/21 11:49

例えば、一般的には大悪人のヒットラーだって、もしかすると家に帰れば、すごく良いパパだったかもしれないですよね。


物事すべて、それを見る人の立場や視点によって変わって来るのは当然の事であり、それが良いとか悪いとかいうこととは全く別の事だと思います。
いずれにしたって、人それぞれ、自分の視点でものを見るしかないわけです。
ちなみに、私は優柔不断な性格なので、自信満々に、これはこうだと言い切っている人を見ると、なんでそんなに自身満々に物事を判断できるのかなぁと、いつも不思議でしょうがありません。
私の場合は、基本的に、あなたと私の考えは違って当然というスタンスですので。
すみません、ちょっとでも御参考になれば。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

>なんでそんなに自身満々に物事を判断できるのかなぁ
これは自分もよく思いますね。
でもどっちかっていうと、プラスの意味で考えてます。

リーダーや上司のような人がそういってくれると
部下としては動きやすいと思うし、
友達とかなら
歯切れが良くって素敵だわ♪って感じです(笑)

お礼日時:2005/02/22 10:42

「あれはあれ、これはこれだもんね。

ああ、あなたはそうなのね。」
 という相対的な観点に立てば自らは傷つかないように見えます。
 しかし、あなたがたとえば「xxxではなくxxxの方を選ぶ」という人生の切所に立てば事態は一変します。
 その選択が「人生の伴侶」を選ぶ、あるいは「一生の仕事」を選ぶ
 というような重大なものであればあるほど、あなたはその選択に対する
 リスクを負って生きてゆかねばならないからです。
 他のすべては相対化できても、あなたという存在は相対化できません。
 なぜならあなた自身は「絶対」だからです。
  
 そこで回答ですが、まずあなたの中に「絶対の価値基準(答)など
 世の中にあるのだろうか?」という疑いがあるはずです。
 それに対する答は簡単で、絶対の価値基準(答)はあります。
 たとえば詰め将棋を解く瞬間を考えてみてください。
 それは「あれでもなく、それでもなく、これでしかありえない」
 という形を取ります。
 個々の人間にとって絶対の答が現れる瞬間とはそのようなものです。
 
 つぎに、ではあなたにとってその答はどのように見出せるか?
 これも答自体は簡単です。あなたの内面の深いところに
ある
 「直観」と、あなたが迷っている表面上の利害とを一致させる
 ことです。
 そこから先は個別の事情に応じて迷いの種類や対処の方法が
 違ってきます。
 
 それについてはよかったらまた別スレッドを立ててご質問ください。


 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

む~、なにやら詰め将棋のような回答ですね。
【無駄なモノを削ぎ落としていく消去法】
って印象をarakanさんの回答から感じました。

自分の考え方としては、
全体から無駄を省いていくより
核をつくってそこに肉付けしていく考え方なので
arakanさんの回答に違和感を感じてしまうようです。

自分としてはどうも素直に聞けません。

キャパが狭くてすいません(><)

お礼日時:2005/02/22 11:00

えっとー


確かに人間の能力では絶対を認識できないことになります。
だから一番近いというものにグループとして分類して日々すごしています。

例えば、

  ジョーダンはひげがある。
 
  男にはひげがある

  従ってジョーダンは男性である。

ぶぶーー。

  ジョーダンはかわいらしいメスネコちゃんでした。

どうしてメスネコを男性だと判断したのかは、情報不足だから。

人間は今得ている情報を元に判断しますが、それに別な情報が加わると、それは別なものに変化します。



『わっきゃーうちは遊びほうけず勉強をしっかりやれ~
年取ってから勉強しようと思っても、時すでに遅しや
鉄は熱いうちに打て。』

確かに鉄は熱いうちに打つのがいいですが、鉄と人間を一緒にして果たして真理は導き出せるのか。

わっきゃーうちには学問だけやってたって外のこと知らなけりゃ、その限られた場所じゃあ問題ないだろうけど、外出るとやわらかい考えが持てず柔軟性に無い発展性の乏しい人間になるんじゃなかろうか


という意見で覆すことができる。
よく若いうちにとてつもない苦労をした人が晩年幸せになっていたりするし。

したがってオヤジとやりあうとき、親父の中の理論に不足はないか吟味して、「それって限定条件の元に成り立つ理論だよね」ふふん・・・ってつっこみを入れるとか。


『俺のようになってもらいたくないから言っているのがわからんのか』って言われたら「親父だって若いときは理解できなかったので人に言われてもわからなかったんでしょ?何年たったらわかったの? その時まで待ってもらうしかないよ」というとか。


オヤジの経験値から経験の少ない人もそうであれって言ってもしょうがないじゃないね~。
だって体験したことないものを信じろって言われて、それがカルトだったら他人さまを不幸にしちゃうよね。
だから自分の判断でやって失敗した経験を積み重ねて、ある種の理解を深めて行動に結び付けたいよね~。

だから鵜呑みにしちゃう必要はないし、あとで、「おやじの言っていたことはこんなことか」って再度出会うことも奥行きある人生になると思うよ。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

共感できるところが多々ある回答で
ニヤニヤしながら読ませていただきました(笑)

家の親父は理屈で色々いってくるのですが、
俗に言う「語るに落ちる」ってやつで
しゃべればしゃべるほど、矛盾が出てきます。

そしてソコをつっこむと
『揚げ足を取るな』
と言われるので困ったものです(笑)

つっこみ過ぎると、
『だったらこの家から出て行け!!』
とよく言われるので(笑)
やりすぎない程度にストレス発散してます☆

>自分の判断でやって失敗した経験を積み重ねて、ある種の理解を深めて行動に結び付けたい

これは同感です。
知ったかぶりはしたくないですよね~。
体の無理が利くうちにいろんなムリをやっておこうと思っています(笑)

お礼日時:2005/02/22 11:18

こんにちは。


20歳ですか、今 まさにグングン成長しているときですですね。

さて、相対的な考え方と絶対的な考え方を対比させて お考えのようですが、他の方の回答にもありますが、決める必要はないように感じます。

例えば、ご自信が絶対的な信念にもとずいて、『○○はこうです』と言う時、それは絶対的な考えからきています。
でも、『ぼくは絶対○○はこうだと信じてるけど、きみは違う考えだね』と言った場合、絶対的な考えと、相対的な考えが同居していませんか?

相対的な考えの欠点の意味が良く分からないのですが、私は逆に、物事絶対的に考える方が、成長しずらい用にも感じます。

へんな言い方ですが、沢山悩んで、色々経験してください。
目標や成長は若さだけの特権ではありません。
人はそう思えば、死ぬまで成長できると思っています。

変化することを恐れないでください。がんばってね!
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

>『ぼくは絶対○○はこうだと信じてるけど、きみは違う考えだね』

ここから議論が始まると思います。
「自分は○○は△△な考えからこうだと思うんだけど、きみはどういう理由でそう考えるの?」
といった具合に。
もう一つの絶対を論破することで
絶対性は崩れないと思います。

だから何だってわけじゃないんですけどね(苦笑)
すいません。


>相対的な考えの欠点の意味が良く分からない…
相対的な欠点はですね、
こういうことです。

成長っていうのは、
"できなかったことができるようになる"
ってことですよね?

絶対的な考えでは、
"できない"ことを否定するから
”できる”ことが肯定できると思います。

相対的な考えでは
"できない"事も”できる”事も
「ソレ」として肯定してしまうので
両者の価値(?)の差がなくなってしまうのです。
これはつまり、
「成長」っていう意味がなくなってしまうことじゃないでしょうか?

目標も同じような考え方です。


>変化することを恐れないでください。がんばってね!
ありがとうございます♪励まされるのってうれしいです。

お礼日時:2005/02/23 12:57

キーワードは主体性ではないでしょうか。

いわゆる絶対的というのは主体性を放棄している状態で自分以外の権威に全てを預けているので楽なのではないですか。自分の主体性をもつというのは自分を権威とするわけですから楽ではないと思います。ただ目的とか成長などという概念が信じられているということは、それこそ絶対的な権威があればのことですから、あなたはやはり絶対的な考え方をしていると思います。主体性を保つというのは大変難しいことだと思います。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

>いわゆる絶対的というのは主体性を放棄している状態

不勉強でどうも主体性と絶対的が結びつきません(困)
なにか理解できるようなサイトや、
OKWebの回答などがありましたら教えてください。

>絶対的な考え方をしている
どうやら、そのようですね(苦笑)
みなさんの回答のお礼を見返してみると
自分でもそう感じました。
「親も親なら子も子」ってやつでしょうかね~。結局。

お礼日時:2005/02/23 13:16

stateof--- 様こんばんわ。



まぁ誰もが、両方の思考法を持って生まれ
そして両方使ってるんだから、
どっち寄りが良いか?
自分に向いてるか?
って問題になりますよね。(相対的ですね)

あくまで傾向ですが

絶対的な人の・・・
良いところ
 (1)さっぱりしてる
 (2)行動力がある
だめなとこ
 (1)実にうっとーしい(そばによるな!)
 (2)たいくつ(変わらないから)


相対的な人の・・・
良いところ
 (1)思慮深い
 (2)革新的
だめなとこ
 (1)実にうっとーしい(じめじめじーめじめ)
 (2)たいくつ(行動力がないから)


個人的意見で恐縮ですが、
相対君も絶対君もあんまそばには、いてほしくないですね。嫌いではないのですが。

「妥協」
これです。しましょう妥協。みつけよう妥協点。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

>しましょう妥協。みつけよう妥協点。

妥協ですか~、う~む。
自分に自信がないんですよ~、妥協するには。

自分ではうまくバランスをとっているつもりが、
傍から見たら、どっちつかずで使い物にならない

ってことになりそうで怖いのです。

とりあえず自分の考え方は統一していたいと思ってます。

ごめんなさい(×_×)

お礼日時:2005/02/24 11:40

とても興味深いご質問ですね。

回答、長くなりそうなのであらかじめお断りしておきますね。

結論からいわせていただくと、若いときには大いに「絶対」的でよいと思います。

両者は二律背反ですね。私のメインテーマです。両者は合わせ鏡のようなものなので、「絶対」性から「相対」性をみることができ、逆に「相対」性から「絶対」性をみることができます。

たとえばお坊さんと軍人がいます。お坊さんは「聖」と「俗」でいえば、「聖」の世界の住人です。また軍人は「俗」世界にいますよね(これはあくまでも一般的なイメージ、職業的イメージです)。「聖」は「俗」をみてより高次なものへ集約しつつ定義を考え思想を残します。「俗」は煩悩の具体化された俗世界ですから、「聖」世界の人はそこから一線をひいて、神や仏につかえ、自分が少しでも聖人となるよう精進します。そして「俗」世界の煩悩に疲れた人はしばし「聖」世界に人生の道しるべを求めます。両者はまったく反対のイメージ、仕事、そして生き方ですが、両者なくしてその世界は成立しないと思います。はじめから聖人はいないでしょうから、多様な俗にまみれて聖域にアイディンティティや教えや、生息を求めに来るのでしょう。そしてそれら両者のいる世界が森羅万象、と言葉の上でも包括されています。

とすれば、「相対的な考え方・生き方」も、聖俗いずれの世界と対応できるかと思います。もっとも「聖」=「絶対」的、「俗」=「相対」的と決め付けることはできません。それぞれの世界にもその「二項対立」は確実に存在するからです。またそれなくして存在することもできません。でもあえてこのように定義するのは、宗教や「高次な教え」が、「~である」「~しなさい」という強調に特徴があるからです。つまりあなたのお父様と同じようなものですね(笑)。でもお父様は何かを悟っているかもしれませんが、あなたにとっては「聖人」ではないですよね(この言い方はお父様には失礼ですが)。しかし私も長い家族戦争下でのソルジャーです(笑)。それはそれは旧世代の女性差別的な親父とは長い対立をしてきましたし、今は表面上かろうじて理性で抑えている冷戦状態ですが、お互い酒が入るとだめですね(笑)。

そうやってお互い「絶対」的な価値観を固持しているわけですから「絶対」と「絶対」の対立になるんです。しかしその外側には「絶対」も「相対」も存在しています。自分の「絶対」を、いかに相手に相対化していくか、また相手の「絶対」をいかにの「絶対」に組み込ませていくか、しかし頑として「絶対」を崩さないかで社会の様々な特徴が成立するのではないでしょうか(しかし私は親に関しては「絶対」は崩しませんが。これは肉親と子という「血の濃さ」ゆえの深い問題ですから、対外的な柔軟性はちょっと用えません。ここに親と子の悲劇があるのでしょう)

あなたはその若さである程度の「絶対」性を形成しているということはある意味すばらしいことだと思います。私は30代前半ですが、ときに最近の若者は…とコンビの入り口でふにゃふにゃしている身体とそれに応じているかのような思考力を嘆くこともありますが(ああ年取ったなあ(笑))、このようなカテでしっかりご質問なさっていますからね、あなたは大丈夫だと思ってます。
またその悩みは思春期から青年期への過渡期独特のもの、ではなく、生涯背負っていくものです。それは今だけのものではなくあなたがそのような真摯な問いを一度もったからにはいつでもどこでもつきまとう…うーん、ウイルスのようなもの?(今帯状疱疹わずらってまして、これは潜伏していた水疱瘡のウイルスが免疫低下によって浮上してきたものらしいと初めて知りましたが、まあそんなイメージでしょうか。ヘンな例えでスミマセン)。

「絶対」なるものは、時に「生きづらさ」に通じます。しかしフィクション、ノンフィクションの世界にはヒーローと呼ばれる人がいますね。長いものに巻かれず、誰も踏み込めなかった恐れに対し堂々と挑んでいく。それは信念という絶対性がなければ成しえない業です。それが万人に受けたのならばまさにヒーロー誕生です。それは彼(彼女)にとってのつまらない「相対」性になど惑わされない強さがなければなりません。
現に存在した偉人たちはそのような強さを持ち続けた人たちです。「相対」性とても混沌としていて、時に純粋な「絶対」性を惑わし、その圧倒的な力で踏み潰すこともあるかもしれません。かつての世の中は「封建時代」などに「絶対」者による絶対的政治で人々は権力者の「絶対」性を反映させて身に着けなければ生きていけませんでした。しかしその中で「それも絶対」と信念を持つレジスタンスが世の中を変えてきました。そのとき世は新たにその「絶対」的なヒーローによって「相対」化されてゆきます。そのようにして「絶対」と「絶対」の争いによって、「相対」も生じるのですから、これは政治的、時代的、または歴史的な化学反応です。そのように価値観の対立は自身の中に、また対外的に新たなものを生むこともあるのです。

東洋人は「対人関与的」、西洋人は「対人脱関与的」な特徴をもつと言われています。それは人との協調性かまたは自分の誇りなどに価値を見出すことですが、それはまた東洋、西洋それぞれ「相対」性「絶対」性と対応させることができましょう。東洋人はしばし主体性のなさを問われますが、他国の多様な文化や宗教まで取り入れて発展してきたのはその「相対」性による強さゆえかもしれません(これにはまた意識と無意識との西洋人、東洋人との興味深い見解も心理学の領域からあるのですが割合します)。
そのように、「相対」化される現象というのは、多様なものをそのまま取り込む、そしてその中で多岐にわたって生きる個人が、それぞれの「絶対」を取り込んでいくわけです。先の「聖俗」で述べましたが「絶対」の中に価値を見出していく場合もある。いずれの存在なしでは価値観ひとつとっても成り立たないのです。

ところで「>昔かたぎ」というのは私は好きです。特に今の時代のような何でも機械化、オートメイション化、短略化されている時代に、こつこつと時間をかけてひとつの作品を作り上げていく存在は希少です。が、その世界観が家庭内などの密度の濃い関係に持ち込まれるとそれは「頑固」「旧世代」の価値観になるのもその特徴にあるでしょう。IT時代の申し子のようなあなたはこれからの時代を担っていく人ですし、「>価値観の多様化」とすでにその任務を背負っていくことを自覚なさっているのですから世代交代は自然なことです。お父様の絶対的な価値観は今はぶつかるでしょうが、あなたが新世代を体現していく中で気がつかれると思います。ビックバンによって宇宙が誕生したように、あなたのパッションによってあなた自身の多様な価値観を誕生させていってください、

さて、「>相対的な考えの欠点」というのは、柔軟的に「絶対」的な価値観を譲ることができないということでしょうか?であれば、それは社会に出たとき否応なく思い知らされるでしょう。向こうから挑まれるはずです。それが社会というところです。そのとき柔軟にせざるを得ない、目的をもたざるをえない、ということになります(そこで大人たちは「昔はよかった…」とため息をつき、晩酌にしばし憩いを求めます(笑))。

その欠点ゆえに「>善悪全てを"ソレ"として認めてしまうが故に「目的」や「成長」の意味がなくなってしまう」。これは(考え方が固まってしまわないか?)という危惧でしょうか?前の「目的」が否応なしに持たされてしまう、例えば既成の価値観なるものならば、これだけは譲れないという主体性や情熱によって「ろ過」されたとき、本当の自分が現れてくるのではないでしょうか。だとしたら…個人的には若い人たちには現実を蹴飛ばすよい意味での情熱を失わないでいてほしいと願うのです。

>親父のような人間にはなれないような気がする

これは正解でしょう。被扶養者という身分に控えてらっしゃいますが、いずれ独立するのであればそんなの一過性のことと思ってください。いや、それ以前に親にはその義務があります。しかし自らの中に確固として感じるその「絶対性」はあなた自身の固有の個性です。それこそ第二次生徴期特有のみずみずしさです。その自我の芽吹きを自ら摘み取らないでください。またそれを阻むような教育に自ら挑む、それが若さゆえの特権ですし、反抗することによって守られるべきものがあるのです。今は大いに反抗してください(これは「グレる」ことと同義語ではないので誤解しないでね♪)そうすれば取り返しのつかなくなることはないでしょう(←経験者は語る)。

>若さの浪費

いえいえ、立派な若さの証です。若さの浪費とは、鍛えられない思考力が他者(「相対」的な)に単に流されるまま無駄に時間をやり過ごすことです。
また「若さ」は「若い人(年齢的に)」の特権ではありません。死を迎えるまで心という原動力が錆びついていないのであればいつまでたっても「若人」でいられます。この第二次生徴期はその時期特有のものではなく私のようにしばしずっと続いている場合もあります。だからあまり時期的なカテゴリにとらわてしまうのもつまらないと思います。無用の長物と化した「絶対」的基準や指標、マニュアルをゆうゆうとその柔軟な「絶対」性でのりこえてってください。期待してます。

長文失礼しました。最後まで読んでくださり感謝いたします。

この回答への補足

( お礼欄では1000文字しか書けなかったので
こちらの欄でお礼とさせてください<(_ _)> )

回答ありがとうございます。
>つまりあなたのお父様と同じようなものですね(笑)。

これはうまい例えですね(笑)
宗教に理屈を求めてもしょうがないように、
親父に理論をぶつけてもしょうがないかもしれません。
"なぜそうなのか"と対立するより、
"そういうモノ"と受け入れて対応した方が
家族戦争において建設的ですね。

>相手の「絶対」をいかにの「絶対」に組み込ませていくか
これはつまり相手の「絶対」を
自分の「絶対」で組み伏せるってことでしょうか?
今話題のライブドアとフジテレビの対立を彷彿しました。

あっ!!
つまりこれが
>頑として「絶対」を崩さないかで社会の様々な特徴が成立する
ってことですね。よく分かりました(笑)

>「絶対」なるものは、時に「生きづらさ」に通じます。
そうですね。親父を見ていてそう思います。
絶対性を好きになれない最大の理由は
今の親父の姿にあるんですよ。

あくまで自分の「絶対」を通したがゆえに
役職は長年係長止まり。
そして長年勤めた製造の「係長」も
去年、全く経験のない営業の「平」に左遷(?)されました。

俺はこうはなりたくないです。
うちの親は
お金の余裕がないと心の余裕もないように感じます。

親父は家の仕事(?)をまったくやりません。
『俺は稼いでるからいいんだ』
と仰いますが、親父の今の収入では家計は毎月赤字です。
母親も必要に迫られてパートに出ています。

そして、最近の親父はなれない営業の仕事が大変らしく
仕事のストレスを家族(特に対立している俺ww)にぶつけます。
自分が招いた結果ともいえるコトで
他人に不快感を与える親父を尊敬できません。

親父自身の矛盾をなくそうとする努力、
家族に協力して現状をよりよいモノにしようとする向上心
がない人を
自分は受け入れることができないのです。

ここから、A NO.3の方が回答してくれたような
「反絶対的な考え」に至ったんだと思います。


>情熱を失わないでいてほしいと願うのです。
情熱・・・、今の自分には残念ながら見つからないのです。
今の日本の世の中は、
"こうはなりたくない!"という人はたくさんいるのですが、
”こんな人になりたい!!”と憧れる人が少ないと思います。

それに加えて有り余る食べ物、電化製品、情報などに囲まれているおかげで、「欠乏感」というのが感じられません。

「価値観の多様化」によって理念は喪失し、
「モノ」の氾濫によって欲求も喪失してるように思えます。

情熱・・・、欲しいなぁ…(苦笑)


>そうすれば取り返しのつかなくなることはないでしょう
むむむ、何やら意味深な言葉ですねww

>えられない思考力が他者(「相対」的な)に単に流されるまま無駄に時間をやり過ごすことです

どっかの有名な哲学者が
【哲学を持たない人々の哲学とは、有力な多数が行っている一切のことに従うという哲学であり
つまり、より簡単にいえば、現行権力への服従の哲学なのである】
って言ってますね。
誰なのかは思い出せませんでしたが・・・。

回答ありがとうございました☆

補足日時:2005/02/24 14:43
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