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未だに謎の多いい邪馬台国とヤマト王権国家ですがこの二つの国家はそれぞれ日本のその後に繋がる政権の開祖となったという話はよく聞きますが2つの勢力の関係性は今現在でも謎が多いいです。西暦266年。卑弥呼の後継者である壹與が魏に朝貢をしたのを最後にして、150年近く中国の史書に倭国に関する記録が無くこれを空白の4世紀とされています。こんかいはこの謎に関して質問させていただきます。

邪馬台国の元首、弥呼は西暦238年(景初二年)六月、大夫・難升米を長とする使節を初めて魏に送り「親魏倭王」の金印と「鏡百枚」を下賜されたことが中国の
史書にはっきりと書き残されておりこの時点で卑弥呼は日本の国家となる基盤となる倭国の「王」の地位に就いたのは確実とされています。五世紀半ばに成立した後漢書・東夷伝には「桓帝、霊帝の治世下、倭国が大いに乱れた」となっており凡そ彼女の生まれた年は西暦175年とされその後「180~190年」頃に卑弥呼は各地域(国)の実力者たちの合意の許で若干5歳の若さで「王」の地位に就いたのではないかと思われます。

一方のヤマト王権国家の元首、崇神天皇は祭祀、軍事、内政においてヤマト王権国家の基盤を整えたとされており彼の誕生は西暦150年と日本の史書に書きつづられておりそのご没年が西暦275年とされており。卑弥呼の後継者である壹與が魏に朝貢した西暦266年は崇神天皇はもっとも大きく活動していた時代と言われておりこの頃にヤマト王権国家の基盤が出来たと言われています。しかし崇神天皇の史書のほとんどが伝承な物であり本当にほんとうにこれだけ生きていたとすれば推定160歳。はっきりと100歳近く生きていたことが史書に残されていた卑弥呼とは大違いでこちらは伝承でしか残っていません。しかし卑弥呼が100歳近く生きていたのは事実ならばすくなくとも崇神天皇も100歳以上生きていたことはおかしくはありません。ヤマト王権国家は国家の基盤が確立されたのが266年ころとなっていますがそれ以前にも既に存在しており事実日本の史書にも崇神天皇の先代の天皇が存在しており天皇という存在は代々血脈として受け継がれており崇神天皇はこの時すでに10代目。このことからして崇神天皇という人物が存在していたのは事実。つまり歴史の空白になる直前の西暦266年ごろは邪馬台国とヤマト王権国家の二つの政権があった可能性がありこの後の歴史は5世紀の義熙9年(413年)倭の五王(雄略天皇などヤマト王権の五天皇)の朝貢まで150年近く中国と日本の両方の史書に倭国に関する記録はないのです。西暦266年の時点ではヤマト王権国家元首壹與が倭国の王として政権を担当していたのは事実。この後の空白の期間は素人の誰が見ても明らかにおかしく何者かが人の手で空白にしたようにも見えてなりません。二つの政権の元首の二人がほぼ同時に存在していた期間は確実にあり空白の直前は邪馬台国とヤマト王権国家が同時に存在していたのはほぼ確実。しかし空白から明けた西暦413年にすでに邪馬台国は存在すらしておらず政権の担当は天皇がおこなっていました。しかもヤマト王権国家には邪馬台国の伝承すら残っていないのです。つまりこの空白の150年はやはり何者かの手により空白にされた可能性はかなり高いと言えます。この空白の期間で邪馬台国とヤマト王権国家が覇権をかけて戦い邪馬台国が滅ぼされたとなれば何かしらの伝承なりとものこっているはずで150年も空白になるのは明らかにおかしいです。つまり突如として邪馬台国は国家事消滅したことになります。何かしらの真実をしているであろう崇神天皇ですがかれの経緯を調べようにも重要なデーターが残っているであろう彼の墓地は今現在でも天皇家の墓地という事で一切の立ち入りは出来ず今でも立ち入りは禁止となっており調べようがありません。この空白の150年は天皇と巫女の関係を知られては困るため「黒幕」によって空白にされたのではないでしょうか?なぜ邪馬台国は突如として消えたのでしょうか?もしかして今現在の天皇公家はこの事実を知っているのでしょうか?はたして空白にした「黒幕」はだれなのでしょうか?憶測でもいいので詳しくお願いします

A 回答 (5件)

邪馬台国をある学者が「やまたいこく」と呼んだところから、


歴史界に百家鳴争いや迷走ともいう形で誤った方向に動いたのです。

もともち中国が当てた翻字。

邪馬台国は日本式は書き下し文にして「やまとのくに」と読むべきです。

今は多くのエセ学者が都合のいいように文意を曲解して
好きな地に誘導解釈していますね。
あれはただの村おこしのご当地ソングですね。

崇神天皇とか日本書紀・古事記には多くの100才大王が出てきますが、
あれは日本を神様の住む歴史の古い國と
自国を誇るための
偽装というべきで

あれは聖書でアダムが900歳とか、
中国なら史記が昔の王様、夏以前の王を長寿に見える
ようなもので、一つの流行みたいなものですな。

卑弥呼は巫女で天皇ではありませんよ。
崇神天皇時代に今でいう宮内庁の長官みたいな役職にいた
人と解釈すればいいでしょうね。

あの、注文なのですが、
質問文は適当に
間を開けるとかしてもらえると読みやすいです。

改行が少なすぎて読む方が大変でした。

それから天皇陵の多くは古いものほど当てになりません。
日本は戦争が長く、江戸時代になってようやく太平になり、
元禄時代から古代遺跡の捜索が始まりました。

今のように多くが定め終えたのは昭和19年頃と聞きます。
だから、崇神天皇陵とか神武天皇陵とか向こうの現地遺跡に行っても
あの下に看板通りの神が本当に眠っているかは
実はかなり疑わしいのです。

まゆにつばをつけて手を合わせるというべきか。
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空白にした黒幕が居るとすれば、それは記紀編纂の事実上の実行者だった藤原不比等しかいないでしょう。

彼が稀有の詐欺師・策謀家であったことは間違いなさそうですし。

少なくとも、彼は記紀を通じて藤原氏の家格を上に持ち上げ、恒久的な権力基盤強化を施しているほか、仕えていた女帝達のために天照大御神を女性であることにし、彼女たちの権威を高めている可能性は高そうです。
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この回答へのお礼

空白になる直前の西暦266年の時点では政権担当をしていた壹與と崇神天皇が存在していたのは日本の記録と中国の記録を見れば事実。黒幕が藤原氏なのはかなりなっとくいきますが一般の素人が見てもこの空白直前と空白期間150年を存在させたのでしょうか?まるで狙ってやったとしか思えませんね。真実を調べようにも崇神天皇の墓はいまだに立ち入り禁止。まるで真実を隠しているようにも思えます。現在の天皇公家は真実を知っているのでしようか?

お礼日時:2021/04/10 15:33

邪馬台国(連合)は、魏志倭人伝にも書かれているように、南の狗奴国と戦っていました、というより南の狗奴国からの侵攻に脅かされていました。

そのため、魏に助けを求めたことまでもが魏志倭人伝に書かれていますが、魏にとってはそんな遠くの他人のことなど知ったこっちゃないという関心の無さだったのですw

なので、邪馬台国(連合)は狗奴国に滅ぼされたと考えるのが順当でしょう。

次に日本書記ですが、こちらには九州討伐は熊襲討伐です。つまり九州を支配下に置いた”狗奴国”を、熊襲として討伐したわけです。

これが日本書記に直接的に邪馬台国(連合)が出てこない直接的な理由です。

ところで、日本書記には直接的には出てきませんが、間接的には書かれていると考えています。それが神武天皇の東征です。東征と言いながらも、実際には日向の国から追い出された話です。彼らを日向から追い出したのは、これもやはり”狗奴国”です。追い出された神武天皇たちは北九州の国に保護されますが、これが邪馬台国(連合)です。神武天皇たちは吉備国まで行って、そのさらに東はうちらの領地じゃないから土地をうばって国を作ればいい、と厄介払いされます。ここから邪馬台国(連合)が、北九州から吉備(岡山あたり?)までの範囲の勢力だったのだろうと想定しています。

大雑把に言えばこんなところだと考えています。

ちなみに邪馬台国(連合)の範囲と、古代山城(神籠石などで有名なやつね)の範囲はおおむね一致します(ただし鞠智城だけは狗奴国のものですが)。古代山城は白村江の戦の敗戦の後、ヤマト朝廷が大急ぎで造ったのが(文献にもあり)有名ですが、その時に作られたと書かれている小数の古代山城を除いて、ほぼ全てが邪馬台国(連合)の範囲と見えます。

あと他人がどうこういうことではないかもしれませんが、西暦175年に誰かが生まれたとか、崇神天皇がいつ頃の人物だとか、まったく根拠のないことを信じ込んで、それを前提として考えておられるようですが、それではファンタジーにしかならないと思いますよ。
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> 崇神天皇は祭祀、軍事、内政においてヤマト王権国家の基盤を整えたとされており彼の誕生は西暦150年と日本の史書に書きつづられており



あまり見かけない生年ですが、「彼の誕生は西暦150年と日本の史書に書きつづられており」は、具体的に、どれですか。

崇神天皇の誕生は西暦150年と書いている史書があるのならば、その後の100年間も不記述・無記術・無記載というコトはないのではないでしょうか。

邪馬台国という名で、国・邦・鄕・村などのことを、8世紀までに記述し完成していたものは、日本の史書の類いにはないのではないですか。
そういう意味では、空白期間は150年間どころではないのではないですか。
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まず、邪馬台国の存在は魏志倭人伝にしかない。


その魏志倭人伝が果たして正確に日本のことを伝えているか、疑問が残っている。
なにしろ書かれているとおりに地図を辿ると、邪馬台国ははるか太平洋上になってしまう。
距離か方角かが間違っているからである。
九州説と近畿説に分かれているのはこのためである。

当時の日本に文字はなく正確な史実を後世に残すことはできない。
古墳とか銅貨とか銅鐸とかの発掘資料に託すしかないが、しかしそれらの資料は土を掘らないと出てこない。
そして掘り返されるのは、たいてい都市開発の折である。
そうでないところに眠っていれば、発掘の可能性は低い。

伝承として残る可能性も100%ではない。
我々は本能寺の変がなぜ起こったかも知らない(どのように、ではない)。
太平洋戦争がどういう経緯で起こったのかも正確なところを知らない。
すべてが後世に伝わるなど、歴史の世界にはないのである。
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