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歴史人物について
足利尊氏や織田信長、豊臣秀吉、武田信玄、その他多くの統率力や軍事力を持ち戦いなどを指揮した人っていますよね。
彼らは宮本武蔵や真田幸村のように実際に戦って強いイメージはありません。
ということは足軽と同じくらいなのでしょうか?
それとも実際に強くてあそこまで権力を持つようになったのでしょうか?
もし足軽と同じくらいなら本能寺の変の時でも、誰か1人明智を討つことができたりしたんじゃないかなあなんて思います。
歴史の知識も浅く歴史にたらればがないのはわかっているんですが、詳しい方いたらご回答お願いします。

質問者からの補足コメント

  • 皆さんすみません最後の質問の意味が分かりづらかったですね。
    本能寺の変で明智光秀が「敵は本能寺にあり」と言ったんですよね(実際言ったかはわからないところですが)
    言ってないとしても、指揮する上で本能寺に行くことは手下に伝えていますよね?
    そしたら、
    え、何で本能寺行くの?信長を討つ?ありえん!
    となって反対する者もいて、明智を討つことはできたのではないかということです。

      補足日時:2021/06/28 15:46

A 回答 (5件)

剣術と戦争は全く違います。



宮本武蔵自身が「10人近くで襲われたら逃げるしかない」と言っていて、一人で多数の相手を倒すことは不可能だとしています。

また真田幸村が剣豪だったかは微妙で、幸村は1対1の勝負はしたことがないでしょう。戦争の中での戦いだと、馬に乗った側が圧倒的に有利で、歩兵をなぎ倒しながら戦場を移動することは難しくありません。

>それとも実際に強くてあそこまで権力を持つようになったのでしょうか?

統率力に優れていた、と言う点では「強かった」です。
軍隊を分かりやすく、会社組織に置き換えてみると足軽はアルバイトです。どれほど能力が高い人でもアルバイトでは組織を動かすことができません。

また、当時は能力があっても生活資金がなければ勉強することはできず、秀吉を除くほとんどの武将が有力家門の出で、つまり子供の頃から勉強し、剣術や弓などを学び、元服する前後には父や身内が指揮する戦争に随行して、軍事学も学んでいたわけです。

だから個人としての能力が足軽程度だったとしても、足軽と違って子供の頃から剣術などを稽古していたので、そこそこまともに戦えたでしょうし、なによりも、彼らは家門とそれに伴う「指揮者」としての能力が高かったから戦争に勝てたわけです。

参考 ヨーロッパの歩兵の戦い


日本とは違いますが、これを見れば「個人の能力が高いのはあまり関係ない」という事が分かると思います。

歩兵同士の戦いの場合、まずは遠距離からお互いに弓や投石で攻撃しあってお互いの戦力をへらすことを考えます。それでも盾があればだんだん近づけるので、最も接近すると槍を一列に突き出して相手が近づけないようにしたわけです。
 この槍と盾で何重にも隊列を組んだ陣形を「ファランクス」と呼ぶのですが「戦争」というのはこういう形で戦うのです。

だから「個人」よりも集団の統率量が大切で、ファランクスだけだと防御はできても相手に攻め込むような攻撃は不得意なので、陣形の後ろに控えている騎馬隊などが側面に回りこんだりして、相手の陣形を崩して防御力が失ったところで一気に決着をつけたりします。

このような集団を指揮するのがヨーロッパなら貴族、日本なら武家です。

足利尊氏や織田信長、豊臣秀吉、武田信玄などが個人の能力として「弱かった」という事なかったでしょう。なにせ男社会で「喧嘩が弱い」のは認められないからです。

しかし剣豪と呼ばれるほど強かったわけでもなく、それ以上に統率力や戦場での戦術指揮能力、恩賞勲功を平等に与える能力、兵站や兵士たちの生活の安堵、さらには領地経営などが上手な人に人々は協力して戦ったといえます。

ただ武将の中でも秀吉は別格でしょう。
出身家「木下」という姓をもつ豪農だったとはいえ、せいぜい足軽身分、戦場で手柄を立てないと引き立ててもらえないぐらいの小役でしたから、そこから天下を取ったのはものすごい実力が有ったのだと思います。
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豊臣秀吉は百姓上がりという異色な人物ですが、他は名家の人物です。



足利尊氏;天皇家の外孫として臣籍降下した清和源氏の本家嫡流である鎌倉幕府第三代将軍の源実朝が横死して、その嫡流が途絶えた後、清和源氏の本家となった足利源氏の嫡流。いわゆる貴種の家柄。

武田信玄;甲斐国に土着した清和源氏の河内源氏系一門である甲斐源氏の嫡流。尊氏の足利源氏ほどの名門ではないが、貴種の家柄であることは間違いない。

織田信長:貴種ではないが、尾張国の守護だった斯波家の被官で清州三奉行のひとつである織田弾正忠家の嫡流。機種ではないにしても、有力な地方豪族の出自であることは間違いない。

上記の三人は、子供の頃から戦では大将として軍の指揮を執ることが義務付けられていた人物です。個人としての武芸も訓練されたでしょうが、それ以上に領国の統治方法、軍の指揮・統率方法などの教育訓練もしっかりやっていたはずです。
信長には「信長公記」という一代の記録が残っていますが、子供の頃からガキ大将として合戦遊びを良くやっており、成人後には、その軍団が信長自身の中核部隊として、弟との内戦などを勝ち抜いています。

<足軽と同じくらいなら本能寺の変の時でも、誰か1人明智を討つことができたりしたんじゃないか>

何を想像しておられるのか分かりかねますが、個人戦と集団戦は全く別物です。数千から1万の兵を率いていた明智光秀でも、明智自身の武芸が大したことが無いのなら、誰か武芸が強い一人で光秀を討てるだろう。そういう意味でしょうか?
集団戦では、鉄砲や弓矢、投石などの撃ち合いから戦いが始まり、相手の備えが乱れたところから、下位の武将が率いる部隊が隊列を組んで突撃という流れになります。光秀のような主将は、普通は前線には出ません。
当時の光秀は年齢不詳ですが高齢であったことは間違いなさそうです。武芸的にはたいしたことは無いと思いますが、宮本武蔵級の武芸者でも光秀軍の組織攻撃の前にはひとたまりもないでしょう。光秀には近づくことさえ不可能です。
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足軽というのは基本的に臨時雇用された農民(庶民)です。


そういう人達は集団戦としての訓練は受けてるでしょうけど、剣術などの個人戦の訓練はしてないと思います。

他方、豊臣秀吉のような庶民出の武将以外は、それなりの家柄に生まれていますから、子供の頃から剣術などはある程度習っていたでしょう。

つまり、多くの武将たちは、宮本武蔵ら“剣豪”ほどではないにしても、足軽よりは個人戦に強かったんじゃないかと想像できます。

ただし、本能寺の変もそうですが合戦は集団戦ですから、いくら個人技が優れていたとしても一人で敵将を打ち取るなんて無理です。一騎打ちを挑んだとしても応じるわけありませんし。

ちなみに、宮本武蔵は島原の乱に、今風の言い方で言えば小隊長ぐらいの立場で出陣していますが、天草四郎を打ち取るどころか負傷してしまっています。
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資料が残っていない人については不明ですが


たとえば 将軍:足利義輝は武芸に秀でていたようで、
1対1の真剣勝負ならかなりの腕前であったようです

他に 後の土佐藩の始祖、山内一豊公は金ヶ崎の戦いでは自らの顔面に矢を受けなが弓の名手である敵の大将を自ら打ち取ったようですし
秀吉にしたがって毛利攻めした時は槍を持って1対1で敵将を打ち取ったようですので、実際に敵と対峙した場面でも負けない武術の使い手であったようです→武芸を買われたわけではないのかもしれませんが徐々に出世して一国の主になりましたよね・・・(長浜城主(およそ2万石)→掛川城主(5万石?)→土佐一国)

武田信玄なども伝説ではありますが、川中島の戦いで上杉謙信と一騎打ちになり軍配で謙信の太刀を3度受け流したようですから
それが事実なら武芸もそれなりでしょうね

信長も強そうなイメージがあります

まあ、総大将と言えども武士ですから
武芸はある一定のレベル以上にあったと思われます・・・

でも中には 今川氏真(今川義元の後継ぎ)のように蹴鞠ばかりしていて武芸はいまいちであろう総大将もいたとは思います(勝手なイメージですが)

でも、戦は集団の戦闘です
武芸者 足利義輝は多くの刺客に取り囲まれ
1対多数となり、なすすべもなく暗殺されてしまいました。
反対に、父を早くに失い、まだ子供なのに一家の党首として出陣
戦場では家臣たちによく守られて無事に戦から帰還したなんていう大将もいます。

本能寺は圧倒的兵力差がありましたから、かりに明智光秀のうでが弱小であったとしても、光秀本陣まで信長方の兵が到達できない
仮に到達できたとしても 本陣で兵たちに手厚く守られた光秀を打つことはできない
というのが容易に想像できます
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#1です。

補足拝見しました。

>え、何で本能寺行くの?信長を討つ?ありえん!
となって反対する者もいて、明智を討つことはできたのではないかということです。

まず、#1でも説明したように兵というのは勉強をほとんどしていません。なので「大局を見通す」能力をもった人は大将クラスにならないと居なかった、といっていいです。

#1の例でいえば「アルバイトの人たちは、経営陣の争いは理解ができない」というようなことです。

また戦国時代までは藩と言う公的な認識はほとんど誰ももっておらず「○○家家来」という所属意識が一般的で、それは「自分の土地を保護してくれる領主さまの家来」と言う意味でした。

だから明智光秀の軍隊は「光秀の家来」であって、信長の家来じゃないので「信長を討つ?ありえん!」という認識は持ちにくかった、といえます。

もちろん、指揮官レベルになると「本当に信長さまを討っていいんですか?」とか「私は反対です」というような意見はしたでしょう。

一応史実を確認すると、光秀は本能寺の近くに一旦兵を止め、明智秀満・明智光忠・斎藤利三・藤田行政・溝尾茂朝の親族や古参の重臣にのみ「信長殿を弑す」と方針を打ち明けていたようで、実際に秀満と利三はかなり強硬に反対したらしいのですが、結局主君である光秀の意志に従ったとされています。

彼らが指揮する兵たちは何も知らずに本能寺を襲ったといっていいでしょう。つまり「信長を討つ?ありえん!」と言えたのは、この5人の家臣たちだけといえます。

で、その後の歴史を知っている私たちからすれば、光秀を始め彼ら5人はすべて死亡していて、本能寺の変は失敗に終わっています。

しかし、自分達の主君の方が信長よりも「土地や財産を守ってくれる人」なので、忠義を尽くすのは当然だったのが戦国時代で、それは領地の殿さまである斎藤利三・藤田行政・溝尾茂朝に従う兵たちもやっぱり「殿は土地や財産を守ってくれる人」で信長よりも重要な人物だったのです。

当時の人たちにとって「自分の土地や領地を守ること」は何の保証もない「自分達の武力で守るもの」、だから集落の代表は足軽として出兵し、集落が集まった地域の国人(国衆)などは彼らを束ねて、大名などに使え、大名は土地や財産を保障する代わりに、戦争に参加することを求めたのです。

そういう仕組みですから、彼らにとって「信長さまが俺らの土地を守ってくださる」と思えるなら光秀を討って、信長に献上するような事もありえたでしょうが、逆に光秀のほうもギリギリまでそういう謀反を起こされないように内緒にしたし、本当の敵を教えたのは身内だけ、と言うやり方をしたわけです。
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この回答へのお礼

あなたに会えてよかった

なるほど…今とは全く違う考え方なのですね。
なぜ光秀ほどの賢人が信長を討つと言う考えに至ったのか、気になるところです。
歴史とはとても面白い。
詳しい解説ありがとうございました。

お礼日時:2021/06/28 18:20

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