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古代豪族という存在は農業経営者である事に加えて軍の指揮官的な役割も兼務していたのでしょうか?
ある本には、後の天皇となるヤマト王権の大王は諸豪族を武力で制圧した戦闘集団のリーダーであったと書かれていました。
天皇や平安貴族となる彼らは軍事を卑しいものだと放棄していた様に見えますが、元々彼らのDNAは紛れもない戦闘民族だったのでしょうか?

A 回答 (5件)

豪族はいわゆる「領主」で、戦国大名と同じく自分の支配地域の民を支配しています。


それは勧農、徴税だけではなく治安維持や軍事行動も含むものです。
「平安貴族が軍事を卑しいと考えた」というのは嘘です。刀伊の入寇では、太宰府に左遷されていた道長の甥の隆家が陣頭指揮を執っていますし、保元の乱や平治の乱でも貴族が軍事に口出ししています。後鳥羽院は刀剣蒐集で有名ですが、弓などの武芸も好んでいました。時代が下って南北朝時代になると、南朝方では公家が軍事指揮を執る事がしばしば。
公家や朝廷が軍事から完全隔離されたのは室町幕府からです。
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農業経営者とは、どのようなイメージでしょうか。


軍の指揮官的な役割とは、どのようなイメージでしょうか。
例えば、江戸時代の農民は「農業経営者」に該当するのですか。
江戸時代の将軍、老中、大目付、各藩の藩主は「軍の指揮官的な役割」をもっているとお考えですか。
農業もする集団のボスや側近が、農業経営者であるとはならないように思います。 
軍を有する組織のトップなどは、軍の指揮官的役割を担ったりはしないことが普通だと思います。
江戸時代の大きな町人(○○家といえば多くの人が大家と考える商人など)では日常的・経常的な営業運営は、大番頭のような者が担当し、当主は個々の営業の経営には関わってはいないでしょう。

環濠集落があった社会では身分階層はなかったようで、環濠集落が崩壊したのと身分階層ができて、隷属民がでる、農機具鉄器が発達する、侵略戦が増えるのとはセットのようです。 首長(しゅちょう・くびちょう)は選挙や推挙でなるのではなくある家族の系統から系統内の決まりで継承される仕組みです。 このような社会組織で首長という地位・権力は重要ですが、農業経営・軍事戦闘行動の指揮のような具体的活動は、首長の重要な業務ではないです。

> ある本には、後の天皇となるヤマト王権の大王は諸豪族を武力で制圧した戦闘集団のリーダーであったと書かれていました。

武力や戦闘能力は、この時期でも集団間の力を決定づける重要な要因です。その他にも首長の一家相互の婚姻関係も利用されています。当たり前でしょうが、戦闘で勝負を決するより有利不利を考慮して友好関係や服属関係を決めていくというやり方が相当の数になっていたでしょう。
卑弥呼の倭も、畿内のヤマトも、首長が率いる集団の連合体ですから、連合体の内部にそれぞれの集団が地域を画して勢力圏をもっているのですから、戦闘で勝負を決するより有利不利を考慮して友好関係や服属関係を決めていくというやり方が一般的で、武力制圧方式は例外でしかなかったでしょう。
卑弥呼も倭の経営者とか軍事のボスではなかったし、日本書記の武烈天皇の箇所を読むと、ロクでもない人物として描いているものの、軍事行動をしたこともないようです。 日本書紀を編纂した人にとって、「首長・天皇のような地位にあることは、軍事や農産に長けていることは、重要な要件である」とは思えなかったのでしょう。 ボスの地位は、そういう才能や実績とは関係ないと思っていたのでしょう。

> 戦闘民族だったのでしょうか?

戦闘民族って、どのようなイメージですか。 アニメとか、ファンタジーとかの分野で使われる言葉ですか。 
「戦闘民族とは、好戦的で戦闘を重んじる文化を持った民族」
文化だと、数十年も経過すると状況が変わると考えるのが普通でしょう。
「好戦的で戦闘を重んじる文化」といえば、共和制ローマでユリウスカエサルが活躍したころもそういうものでしょう。でも、民族となると、???になります。 日本も1930年~1945年頃は、戦闘と侵略を第一にしていたような時期があります。ナチスドイツでも、、、、 13世紀に勢力拡大が始まったモンゴルでも、戦闘民族と呼ぶのはおかしいでしょう。

> 天皇や平安貴族となる彼らは軍事を卑しいものだと放棄していた様に見えますが、

何を卑しいとみるかは「文化」の大きな側面の一つです。 たいていの文化は興ってしばらくすると武骨・野蛮・粗野を嫌い、洗練・上品・優雅を好むようになります。その好みもまたやがて変わります。 長い期間同じ状態で似たモノだけが好まれ続けることは、分化にはないです。
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>古代豪族という存在は農業経営者である事に加えて軍の指揮官的な役割も兼務していたのでしょうか?



はいそうです。他にも鍛冶集団などを管理する技術指導者でもありましたし、他国(他の豪族など)と貿易を行う事業者でもありました。

農作業というのは、指導者がいればほかの人たちは頭を使わず肉体労働していれば済みます。
 紀元前の時代に「勉強する」というのは大変に手間がかかる作業で、それが出来る人はごく少数でした。

日本の豪族に限らず、世界中の原初的な支配階級というのは「余力を得て、指導力にすぐれ、子弟に統治法や軍事指揮法などを教育した人々」であったのです。

だから豪族の長は、
・暦を読んでカレンダーの無い時代に、いつ種をまけばいいのか、などを指導する必要がありました
・鍛冶集団に鉱石を与え、燃料を取る用地を与え、作られた農具を農民に配り、武器を作らせ管理しました。
・優れた武具を作る地域がある、ならそれを輸入したりしました

これらの結果、その豪族の地域が豊かになれば、流れ者がやってきたり、盗賊がやってきたり、食えなくなった隣の部族が略奪にやってきたりするので、それを防衛する軍隊を持ち、指揮もしていたわけです。

これらの事をしたのが豪族で、その中でもっとも優秀で他の豪族を従えることになったのがヤマト王権、ただ戦闘だけではなく、融和政策も行い、世界的にみれば比較的温和に王権を形作ったとされています。

>天皇や平安貴族となる彼らは軍事を卑しいものだと放棄していた様に見えます

もしそうだとすれば、後醍醐天皇が建武の親政を行うことも、それに従う公家も現れなかったはずです。

世界的にみれば健児の制など「日本は軍備を放棄した」と言える部分がありますが、各個別の家系には軍政や武力をそれなりに残していたといえます。
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縄文時代の人口は最大でも30万人程度と推定されているので、縄文人が戦争をする必要はほぼない。



天孫族が日本に来た頃は、弥生人も多くなっており水稲耕作も本格化していたので人口も増え、おそらく100万人を超え、奈良時代には300万人を超えていたと思われる。
とはいえ、今からみれば大した人口でもないので、戦争は飢饉などの非常時に発生したのだろう。
そのほか、水稲耕作適地や水資源を巡る弥生人同士の戦いもあっただろうか。

いずれにしても、弥生人が渡来して戦争も発生するようにはなったが、基本的に弥生人は農耕民族だ。しかし、人口が増えたとはいえ、それほど戦争する機会は多いわけでもない。

ただ、弥生時代以降の弥生系古代豪族という存在についていえば、「農業経営者である事に加えて軍の指揮官的な役割も兼務していた」ということ自体は間違いないと思われる。
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古代に軍も戦闘もない。

もちろん話し合いだけで万事解決とはならないが現代人が想像するような武器も武力も存在しないのです。言葉の上っ面だけに囚われると歴史は理解できない。
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