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平家の人達と足利将軍家の人達は、京都にいたので武家であると同時に公家でもあったと思うのですが、公家としての教養レベルはどちらが上でしたか?

A 回答 (3件)

平家の人たちが、どんなに頑張っても、公家にはなれない。



そもそも公家の『血』は流れてませんからね。

公家擬き(もどき)をやったとしても、

『公家の血』は流れていない。

平清盛が、白河上皇の「落とし胤」なら、話はまた違って来ますが、、、。
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武士はただのガードマンです


京都に住んだと言っても町中からそれた場所にしか住めません。
娘を公家の養女にしてからその娘を公家に嫁がせた。
それで初めて娘の親として御所に行くことができた
というもので公家ではありません
当然公家の教養は学んでも真似をする程度です。
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> 公家としての教養レベル



何を問うているのか、どのような視点で見ようとしているのかが、分かりません。

教養 = 個人の人格や学習に結びついた知識や行い

> 平家の人達と足利将軍家の人達

伊勢平氏正盛流、足利将軍家、それぞれでいえば、「和歌」への傾倒では、新後拾遺和歌集、新続古今和歌集を企画提案実現させた足利将軍家の方が強いとも言えるのでしょう。 
ただ、伊勢平氏正盛流は短期に滅んでしまったので、足利将軍家のような実績を残すことは出来なかったものの、忠盛にしても、宗盛にしても、和歌への傾倒は強かったようですし、重衡などはとてもの教養人であったようです。

> どちらが上でしたか?

見る人によるのでしょうが、個人的才能で教養のようなことを"想う"のであれば、北山文化・東山文化を華やかにした足利将軍家よりは、伊勢平氏正盛の系統の方が資質的に"教養に傾倒"しがちなように想います。イメージングです。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。大変勉強になりました。目からウロコが落ちました。

お礼日時:2022/01/30 10:31

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