

満州事変発生は1931年、翌年には五・一五事件が発生し、それから4年後の1936年に二・二六事件が発生し、そこから陸軍の暴走が止められなくなりましたが、太平洋戦争の敗戦は二・二六事件からわずか9年後のことでした。
五・一五事件と二・二六事件で決起した将校がやったことは同じなのに、当事者に対する処分の重さが全く違う結果になっています。しかも、五・一五事件に対する天皇の考えは全く伝えられていないのに、二・二六事件では詳細に伝えられています。
そして、決起部隊も鎮圧部隊も全員が天皇に反旗を翻すことなく、全ては天皇のために動いていました。これは太平洋戦争の敗戦まで軍部に一貫しており、そして全国民もまた天皇のために一致団結して戦争へと突き進んだ印象を受けます。
NHKのBS1スペシャル全貌二・二六事件完全版は2020年2月に放送されたそうですが、今年2月27日にも再放送され初めて見ました。
その番組の中で、昭和天皇の忘れられない出来事として、終戦時の自らの決断と二・二六事件を上げたそうです。
それに対して、名古屋大学大学院准教授 河西秀哉さんは、
「戦後天皇がもしこの事件を思いを持っていたとすれば、後の戦争に突き進んで行くようなひとつの契機になった事件、自分が起こした強い行動は戦争に進んでしまった要因のひとつではないか、ということで戦後いろいろな思いを持った可能性も考えられる。」と述べています。
私もそう思いました。
皆さんはどう思いますか?

No.7ベストアンサー
- 回答日時:
Wikiより五・一五事件を起こした、古賀清志は1938年に特赦を受け山本五十六海軍次官と風見章内閣書記官長へ挨拶。
それぞれ千円ずつ貰う。その後、中国華北青島の海軍特務部新民会等勤務。また、失業者増・農村疲弊への不満が反乱の一般的原因見解だが、大川周明を知る渡部悌治氏は、単なる株価操作による資金集めと指摘する。
ニ・ニ六事件は、竹田恒泰氏・茂木誠氏指摘の如く、皇統派による統制派への最後の抵抗であった。武田氏は、皇統派の面々は数日後に左遷先への赴任が、決まっていたと指摘している。その後の人事は皇統派が握る。
1932年05月15日五・一五事件。
1933年03月04日FDR大統領就任。
1933年03月27日国際連盟脱退通告。大角人事で軍縮派中央から排除。
1936年02月26日日ニ・ニ六事件。
1936年11月25日日独防共協定締結。
1936年12月12日西安事件が発生。蒋介石国共合作を合意。
ここに日華事変の幕は降りた。
結果として、
1937年07月07日盧溝橋事件。1937年07月29日通州事件。1937年08月09日大山事件。1937年08月13日第二次上海事変。1937年12月10日南京城総攻撃と中国大陸戦へとのめり込むこととなり、最終的に1941年12月8日真珠湾攻撃に至る。1940年09月27日日独伊三国同盟は意味が薄い付け足し。
米内光正、山本五十六らの統制派は、ニ・ニ六事件で政権中枢を固め、次の近衛内閣で風見章、尾崎秀実ら共産主義者による敗戦革命が推し進められた事は、知る人ぞ知る事実。仮に、ニ・ニ六事件が無く皇統派が政権内に残っていたならば、日華事変の泥沼化は避けられた可能性はある。しかし、1936年02月時点で、統制派側に大勢は決しており、事件は切羽詰まった皇統派による最後の足掻きであったと思う。つまり、この時には、既に日本破滅への道筋は完成していたと見る。
本当に天皇陛下が、二・二六事件を終戦と共に、心に残る事件と指摘したのであろうか?私的には甚だ疑問。当時の共産主義者に取っては、記念すべき大事件と考えるだろう・・・ではNHKもその流れを汲むのか・・・
従って「二・二六事件の昭和天皇の対応がその後の陸軍の暴走の引き金となった」とは思えない。
明確に、そうは思わない、と回答していただき、ありがとうございます。
質問に対するズバリの回答をいただき、非常にスッキリです。
私のこだわりなのですが、最後の部分を結論として冒頭に記載したあと、何故なら・・・、と続くと、なお良かったかな、と思います。
No.8
- 回答日時:
追記します。
>驚いたのは、海軍は事件の一週間前に殺害ターゲットを
>把握しているだけではなく、実行犯まで把握していたことでした。
一般的に、陸軍の暴走と言われますが間違いです。暴走ならば海軍が正しい。日米開戦に引き釣り込んだのは、明らかに海軍です。「機密戦争日誌《全二巻》―大本営陸軍部戦争指導班―」でその事実が証明されます。
参考資料:https://nccur.lib.nccu.edu.tw/bitstream/140.119/ …
この資料では、陸軍・海軍共に英米戦争では、負けるとの認識が開戦前にあった事を確認できます。
しかしながら、海軍は「英米不可分論」を強行に主張し、1941年09月06日御前会議にて10月下旬開戦を決定させまます。この日、天皇陛下は「よもの海みなはらからと思ふ世になどなだ風の立ちさわぐらむ」と有名な一句を読み上げます。この時に日米開戦の大勢は決しました。その後の努力は、左程大勢に影響を与えず、NHKはその後の事件を針小棒大に報道するが、結局は9月6日の決定は覆えらず、この日の決定の重大さを物語ります。従って、9月6日以前の事件を見なければ、本質は見えないと思います。
さて有ろうことか、この9月6日に決したにも関わらず、海軍はその後「英米可分論」を言い出し、1941年10月06日「・・・1年で2140万沈没セラレ自信なし」とまで言い出す始末。機密戦争日誌には「誠に言語道断海軍の無責任、不信、正に国家を亡ぼうするものは海軍なり」との記述があります。
当時軍隊は、強力な情報機関を有し、2.26事件の情報を事前に把握していた事は普通にあり得ます。また、海軍は陸軍を敵(ライバル)として見ていた為に、この活動は当然かも知れません。特攻発案者の大西瀧治郎に至っては「米国とは力半分だが、陸軍とは全力で戦った」という記録まで書籍にはあります。また、米内光正ソ連スパイ説や山本五十六スパイ説、戦後の極東軍事裁判で海軍軍人が誰も起訴されなかった事実などが、この闇の深さを物語ります。海軍側や陸軍暴走支持側にとって、2.26事件は陸軍(皇統派)が全部悪いというシナリオとして、好都合の題材である事も事実。
機密戦争日誌は、平成20年5月1日編纂され一般公開されました。
【参考書籍:米内光政と山本五十六は愚将だった 三村文男 (著)】
追記の回答ありがとうございます。
満州事変から始まった中国との戦争を無視した開戦論は無意味だと思いました。なんとなく、海軍が自身の利益だけを追い求めた結果が米国との開戦を後押しした・・・というのが単純な事実ではないかと思います。
No.6
- 回答日時:
二・二六事件における天皇の行動という質問者さんの認識・問題意識が全然分からないけど、もうその時の政治家は問題解決能力が皆無だった。
だからこそ昭和天皇がクーデター鎮圧の為に乗り出さざるを得なかったのだ。それのどこが問題なのですか?質問に対する質問・・・質問本文に記載していなかったため、無駄な回答をさせたみたいで申し訳なく思います。
BS1スペシャルの番組内容です。
事件から80年ぐらいたって海軍が詳細な記録をとっていた一連の文書が発見され、その記録をもとに二・二六事件を振り返った番組でした。
陸軍幹部は当初、説得により鎮圧できると楽観視していたようですが天皇の強硬な言動により雲行きが怪しくなっていったその後の反乱側と鎮圧側の動きを海軍の記録をもとに展開していました。
陸軍側のレコード盤に記録されていた反乱側と説得側の電話の会話も現代技術で鮮やかに蘇っており、最後の会話は何とも言えない憂鬱な気持ちになりました。
番組の最後に明らかにされたのですが、驚いたのは、海軍は事件の一週間前に殺害ターゲットを把握しているだけではなく、実行犯まで把握していたことでした。
No.5
- 回答日時:
陸軍暴走の契機は明らかに満州事変。
法令と命令を無視して暴走を主宰した関東軍参謀の石原莞爾一派が死刑になるどころか英雄となって凱旋帰国。石原莞爾は作戦の神様と称えられて参謀本部作戦部長という、実質的な陸軍のトップに大栄転する始末だった。
そして、石原莞爾は、日本がアジアの盟主となって中国と同盟し、欧米の覇者となるであろう米国と世界の覇権を巡って争う。そういう彼の壮大なビジョンに日本を導こうとした。
ところが、彼の居なくなった関東軍参謀・武藤章(後にA旧戦犯で死刑)等は、これまた石原の命令に反して日中戦争を拡大。焦った石原は急いで関東軍司令部に飛んだが、武藤章に「我々はあなたと同じことをしているだけだ」と他の参謀たちと一緒に哄笑され、何もできずに帰るしかなく、帰国後は閑職に左遷される始末だった。
その間に515事件、226事件が起こった。
515事件は青年将校だけのテロ事件だったが、226事件は青年将校が兵を率いて起こした大事件だ。226事件の方が処罰が重かったのは、昭和天皇が急変を聞いて主要閣僚が全員殺されたと誤認し、自ら鎮圧しなければ大変なことになると近衛師団を動かそうとするなど、天皇の怒りの凄まじさを陸軍がしったからだが、陸軍青年将校たちの暴発体質が顕在化したのは、明らかに満州事変であると思う。226事件以降の天皇は内閣から輔弼されて動くという大原則を固守したということだろう。
回答ありがとうございます。
的を射た分析力に感服いたしました。
確かに、満州事変が歴史の大きな転換点であって、二・二六事件の天皇の言動がその後の軍上層部へ与えた影響はないのかもしれません。
No.4
- 回答日時:
陸軍というのは陸軍省であって官僚です。
官僚が暴走したのは、政治が統制力を失ったからに他ならない。幣原外交が満州事変の収拾に失敗したことに象徴されるように政治家が内外の政治課題を解決する能力を失ったと判断した国民が軍部に期待をかけるようになったという時代背景を忘れてはならない。回答ありがとうございます。
歴史の流れの中において、二・二六事件における天皇の行動は無視できる些細なことであり、それよりも政治家に問題があったとのお考えですね。
この時代の政治はまだまだ未熟だったのかもしれませんね。
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番組の最後に明らかにされたのですが、驚いたのは、海軍は事件の一週間前に殺害ターゲットを把握しているだけではなく、実行犯まで把握していたことでした。
№7の回答をベストアンサーにします。
理由は単純です。
私の考えは違いますし、その理由にも確信に近い自信を持っていますが、唯一、私の質問に回答した答えだったから。