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変な質問失礼します。

ふと思ったのですが、人の感情って「これは悲しみ」だとか、「これは喜び」だとか、「これは切なさ」だとか、定義?が分かりません。

定義とまでいかなくても、自分が思っている「悲しみ」と、他の人が思っている「悲しみ」が一緒だとは限らないとおもうんです。

悲しいときに、親からそれは喜びだよと言われて育つとその人は悲しみ=喜びとなって普通の人が悲しいときに喜びを感じるのでしょうか?

意味がわからないですよねすみません。
なんか気になってモヤモヤした気持ちになったので…

皆はどう思いますか?

質問者からの補足コメント

  • そもそも感情自体あるのでしょうか?
    自分が感情だと思っているものが感情ではない可能性もありますよねぇ?
    夜しかねむれません。

      補足日時:2022/04/27 21:20
  • HAPPY

    皆さん回答ありがとうございました
    たしかに言葉と切り離してはいけないのかもしれませんね
    色々考えられたので嬉しいです

      補足日時:2022/05/01 23:45

A 回答 (10件)

「赤信号をみている8人に聞いたところ、8人とも赤であって、青でも黄でもないと答えた」という場合に、同じように赤を感じているのかはわかりません。

 色盲かもしれないし、色のついたカラーレンズのサングラスを掛けていたのであれば、脳内に届いた?信号は違っているかもしれないです。 しかし、8人が全員、「赤」と認識したのであれば、「共通認識」出来たと見なして良いでしょう。
黒人、白人、老人、幼年、壮年者、男、女にかかわらず、動画、写真、イラスト、実物人間、人形などをみても、「笑ってる・楽しそう・嬉しそう・喜んでいる」なのか、「悲しそう・辛そう・苦しそう・切なそう」なのか、50人に聞いても、ほぼ、見解は一致するでしょう。 その場合、《感情の状態》のことであって、《色や大きさのことや、四角・長い・丸いなどの形状のこと、姿勢や傾きのこと》ではないということも、50人の共通認識でしょう。 ということは、色の赤にも真っ赤、明るい赤、赤紫、ピンクなどの違いがあっても、(色覚異常でない人にとって) ある程度の共通認知が出来ているのと同様に、「笑ってる・楽しそう・嬉しそう・喜んでいる」は似た感情で、「怒っている」「悲しんでいる」「辛そう」とは異なるという区別が、自他に共通な面が多いものと認知出来てるということです。

悲しいときに、親から「それは喜びだよ」と言われて育つと、
言葉としては、「悦び・喜び・歓び」を、悲・哀にあたる言葉として学習するだけのことです。  
英語、フランス語、中国語で、言葉を覚えるのと同じです。 
「はい/いいえ」の使い方が、「Yes/No」の使い方とは違うのと似ています。
感情の理解や認知とは別のことです。

映画や動画、小説を見たり、読んだり、人から話を聞いても、それでどのような感情状態なのか、状況から理解できるということは、個々の言葉とは別次元で感情が理解出来てしまい、多くの人でその理解の仕方がほぼ共通しているからです。
「変な質問失礼します。 ふと思ったのですが」の回答画像10
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>自分が思っている「悲しみ」と、他の人が思っている「悲しみ」が一緒だとは限らない・・・


仰る通りです。不幸も錯覚に過ぎないでしょう。狼に育てられた少女の逸話がありましたが示唆的で、喜びも悲しみも後付けであって、本来は無いかも知れません。
この根源を考えたのが、初期の仏教である小乗仏教。説一切有部にて認識器官とその対象の成立ちを説明しています。ただ、十分な読込みが不足と理解不足の為に、下記書籍を推薦します。脳科学とも矛盾しないと思います。仏教の超理論性を、感じれるのではないでしょうか。
【参考書籍:入門 哲学としての仏教 (講談社現代新書) 竹村牧男(著)】
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人間の感情は二つ同時に表れることはありません


縁、環境、境涯とかに応じて、ふさわしい感情が沸いてくるのです

生命の内部世界を、ユングやフロイトが解き明かそうとしましたが
今だ茫漠たる未踏の領域です。
しかし以外にも、天台大師が法華経を元に、見事に解き明かしました
一瞬の生命に3千種類の様相を呈する、と言い(一念三千の法門)と
いいます

その内容は
生命活動を立体的 流動的にとらえた十界互具論や
個別化の原理を解いた十界論、個性化原理や可能性を解いた
十如是論や五陰世間、深層を解明した九識論などがあります

 初歩的な十界論を見ると
生命観と言う生命の我の主体的な実感を柱として成立しています
この点のみを見れば 主観的カテゴリーと考えられます
しかし その生命観と言う主観的なものをとらえた基準は客観的なものです
このように 主観と客観の上に展開されたものであるがゆえに
十界論は いかなる人といえでも その見事さに
心の底から納得せざるを得ない 生命哲理なのです
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同じ色でも、人によって違うかも


しれませんね。

少なくとも、男と女性では、感じ方は
違ってくると思います。

更に言えば、人間は、頭の中で赤
という色を持っている訳です。

血を見たら、それは頭の中の赤で
翻訳された色になるんじゃないですか。




自分が思っている「悲しみ」と、他の人が思っている
「悲しみ」が一緒だとは限らないとおもうんです。
  ↑
違うでしょうね。
ただ、人間という同じ動物ですから
大枠では同じだと思います。



悲しいときに、親からそれは喜びだよと言われて育つと
その人は悲しみ=喜びとなって普通の人が
悲しいときに喜びを感じるのでしょうか?
 ↑
悲しみという負の感情が発生するのは
生存にとってマイナスだからです。
つまり、脳の構造から来ている訳です。



そもそも感情自体あるのでしょうか?
 ↑
脳の構造から言って、あると
されています。
脳幹の要求を感情を司る部分で
増幅しています。



自分が感情だと思っているものが感情ではない
可能性もありますよねぇ?
 ↑
それは言葉の問題ではないですか。
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変な質問との事なので、変な回答させて頂きます。


ナチュラルな感情に対して、それを抑えようとする反ナチュラルな感情があると、プラス、マイナス0で、ノーマルだったり?!!
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悪意があって意図的に洗脳のような教育をされれば、そういう育ち方をするかもしれません。



たいていは、親や友達がどんな時にどんな表情をするか、テレビアニメや絵本を見て、どんな時に嬉しくて笑うのか、悲しくて泣くのか、周りと接しながら感情が育っていくものだと思います。
周りから隔絶されれば、泣くことも笑うことも知らない人間ができると思います。
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追記。



肉声での言葉。
直筆での言葉。
文字コードを介した言葉。

これらは相当に別モノです。
何故かは分かりますよね?

特に肉声の場合はさらにインタラクションの有無およびその形態が重要な意味を帯び、それがすなわち非言語の世界うんぬんという話と繋がってくるのです。
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そりゃ 自分が悲しいと思えば悲しみだし 嬉しいと思えば喜びですよ



いろんな言葉でコミュニケーションしていれば これが悲しみなんだ

これが喜びなんだと何時か気づくでしょう。

日本の場合言葉が二重になることが多いので分かり難いと思います

メキシコやスーダンなんかでは 悲しいものは悲しい 嬉しいものは嬉しいと

自ずと分かるのではないでしょうか。
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言葉は非言語の世界と一体化して機能している。


そして自然言語においては言葉が何を意味しているか、突き詰めると実はよく分からない。そしてそれでも機能してるのが自然言語。

正確に言うと、言葉が存在しているわけではない。存在しているものは言葉以前のありのままの何か。

言葉だけを切り出して考えるから意味がわからなくなるの。
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いや、その親の教え方は単に間違っているだけです。



ただし、「悲しみ」「喜び」がどこまでが範疇なのかは人によるでしょうな。

例えば人(好きな知人友人)が失敗して、悲しむのも悲しみの1つであり、
些細なことでうまくいかないのも「悲しみ」といえば悲しみ。

「喜び」は自分が嬉しいことだけでなく、他人が失敗するのも同じく「喜び」だったりする人もいます。他人の失敗を「喜ぶ」とかね。

これね、同じ喜びではあるんだけど、意味が違うよね(笑)
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