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幕府というのは明治になってからの呼び方になりましたが、鎌倉から江戸までの武家の世に
幕府を開くとか幕府の体制を造らなかったのでしょうか?
頼朝は武家体制を関東に置きました京から遠く平野が広いから。幕府は将軍の住まいの呼び方でした。
足利将軍は花の御所と呼ばれ幕府の呼称はなし。家康も頼朝を参考にし関東に拠点としました。
これも幕府を開くとか徳川幕府の呼称なし。日本の政治システムは中国王朝から影響されてはず。
武家体制には王朝の概念はなかったのでしょうか?

A 回答 (5件)

武家(豪族)の最大の関心事は領地を守る事で、政には関心が無かった。


源頼朝は、その領地を豪族が経営する事を認可したので、年貢を京に運ぶ
任が無くなったのです。
平家の様に朝廷の官位を貰わず、臨時職の征夷代将軍の職を拝領したのが
頼朝さんの凄い処で賢い御方なのです。
臨時職なれど征夷代将軍は鎮守府将軍の上に来ますので、全国の武力を
手中に収めたのです。
朝廷の官位よりも、征夷代将軍の方が豪族の望みをかなえるには、都合
が良かったのです。
豪族が集団化して、戦国大名に発展して行くのは、室町時代です。

豊臣秀吉は太閤検地で公家の領地である荘園を没収して、荘園制度に
止めを刺しました。
徳川家康は武力も財力も失った公家は、お飾り状態なので、好き放題
な事が出来たのです。
この事は、国際的に疎く、外交下手の、今の日本に成りました。
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> 武家体制には王朝の概念はなかったのでしょうか?



武家体制というよりは、日本の文化風土の中に「王朝」とか「○○王朝」というような区分概念が、長らくなかったのではないでしょうか。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8E%8B%E6%9C%9D
ネットには、「王朝の定義や分類方法に世界共通の規則はなく」とか、「王朝とは、歴史家による君主の系列の人工的な分類である。多くの場合は、血族や養子縁組による世襲君主制の君主の系列を分類するために用いられる」とかの説明があります。
日本が中国の影響下にあって、中国から多大なものを学んでいるのですが、「後漢(劉氏)から魏(曹氏)のように、前王朝(とその王族)が徳を失い、新たな徳を備えた一族が新王朝を立てた(姓が易わる)」とか、「政権交代、自政権の支配の正当性を展開し、前政権を寿命の尽きたものとするときに、説明の便宜上"王朝"という用語が利用しやすい」ということはなかったのでしょう。 勝てば官軍という言い方はなくても、下剋上のような実力による権力奪取を当然のように考える風土では、王朝のイメージはもともとないのでしょう。

幕府も、朝廷や城も、場所の名前を利用して象徴的に使っているだけでしょう。 坊主や家、大人、女、子供というような言葉と、王朝は同様です。

足利高氏、徳川家康、睦仁(明治天皇)も、「前政権・前権力者の系統から替わって、自分及び自分の後継者の系統が政権・権力を保持しするのが正当である」とは思わなかったのではないでしょうか。 系統という意識、前の系統にも正当さがあり、それが失われたために系統が替わるという意識もなかったでしょう。
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幕府というのは、外征した軍司令官による、臨時的な占領地統治のための統治機構のことだ。

外征司令官の居所が幕府であり、両者はセットになっている。
例えば、太平洋戦争終結後に日本を統治したマッカーサー将軍のGHQも、日本風に云えば幕府に相当する。

頼朝が征夷大将軍の職位を望んだのは、臨時的とはいえ、征夷大将軍には幕府を設置して統治権を持つ特権が与えられていたからだ。

征夷大将軍の統治権が日本全国に事実上恒久的に及ぶことになったとはいえ、建前上は、あくまでも朝廷の下部組織である征夷大将軍とその幕府という臨時統治機構にしか過ぎない。だから征夷大将軍は代替わりするたびに天皇から任命されなければならなかった。
今現在も現代の征夷大将軍に相当する職位の内閣総理大臣は、天皇からの任命を必要としている。

以上のように、武家には王朝の概念はない。むしろ、天皇・朝廷の権威を借りて統治権の正当性を主張していた。
また征夷大将軍の統治権を象徴する法的根拠が幕府という言葉だった。ゆえに、学問的には幕府という言葉が使われ、現在では日常的になっている。
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追加


頼朝は将門と違って朝廷に服従するという事を強調して朝廷との調和を大事にした事もあり、歴代幕府は朝廷を庇護した。
それが仇となり江戸幕府は朝廷を担ぎ上げた薩長にやられることになりました。
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1185年以降、頼朝は様々な特権や支配権限を段階的に取得してきました。


頼朝の死後、頼家はまず、頼朝が得た諸権利や支配権を丸ごと継承する事を朝廷に求め、それが認められました。
頼家失却後、実朝は「家督」の継承を朝廷に求めると、実朝は征夷大将軍に任ぜられて頼朝の権限も継承しました。これ以降、征夷大将軍の職と頼朝が得た諸権限は一体化したのです。そして、頼朝とその正統な後継者の家政機関は「鎌倉殿」と呼ばれたのです。
元寇で鎌倉殿に御家人以外の全国の武士への軍事動員権が認められと、名実ともに全国支配の武家政権となります。
その後、後醍醐が「鎌倉幕府」を滅ぼしますが、この見解はあくまでも後醍醐からの視点。武士たちからは、「北条一族を滅ぼした」だったので、不満を鬱積させた武士たちは新しい鎌倉殿として足利尊氏を葉立しました。足利尊氏は、「鎌倉幕府」の役人たちを横滑りさせている事からも「足利幕府」は「鎌倉幕府」の継承である事は明白です。
そして、南朝との抗争や観応の擾乱などで、将軍が鎌倉を留守にして京都に常駐するようになり、それが慣例化しました。そのため「室町幕府」と呼ばれるようになったのです。
これに対して江戸幕府は鎌倉幕府や室町幕府とは断絶した全くの別組織です。
関白家であった豊臣家への遠慮や頼朝将軍様マンセー主義者だった家康個人のパーソナリティなどから、信長により歴史のゴミ箱に捨てられた「幕府」を拾い上げたのです。
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