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2.【が】について
構文:「A が B 」
本質的意義: [ 主格補語の指定 ]
ー「が」は A を主格補語として指定する。
意味:
「B について言うならば A だ」(総記)
「A が B だ」(中立叙述)

※※※※※
ここで、「主格補語」の定義についての解説を挿入しておく必要があるだろう。
ここでの「主格補語」とは、

主格であると同時に述語の意味を補う役割を果たす連用修飾語

というものである。
では「補う」とは何ぞや?
と言うと「足りないところに足す。十分な状態にする」という意味。
「栄養の不足を点滴で補う」「説明を補う」などと表現する。
「述語の意味を補う」とは、述語だけでは意味が不十分なところに加えて十分な状態にするという意味であり、そのような役割を果たす連用修飾語が補語である。
実際の例で見ていこう。

・太郎が花子に本をあげた。

という文においては、「太郎が」は主語、「花子に」が補語で「本を」は目的語とするのが一般的かもしれないが、三上章(主語無用論)は

太郎が(連用修飾語) ⇒(あげた):主格補語
花子に(連用修飾語) ⇒(あげた):与格補語
本を (連用修飾語) ⇒(あげた):対格補語

のように、どれも同等の連用修飾語として捉えており、今回はその見解を部分的に踏襲する。
(「部分的に」とは、三上は主格や主語という概念自体を否定しているが、当記事では主格や主語を否定しないまま主格補語という概念自体は踏襲する、という意味)
いずれにせよ、
誰にあげたのか?という意味を補うために「花子に」と補語(与格:間接目的語)を使うように、
何をあげたのか?という意味を補うために「本を」と補語(対格:直接目的語)を使うように、
誰があげたのか?という意味を補うために「太郎が」と補語(主格:主語)を使う、という視点に着目していただきたい。
ここは三上の慧眼が示されている箇所ではなかろうか。
そして、「が」の本質に深く関わってくる視点と言える。

・太郎は花子に本をあげた。

の「太郎」はあくまで主題であり、補語では(むろん連用修飾語でも)ない。
この「太郎」は「花子に本をあげた」という述部が展開されるにあたって主題として提示されたものなのであり、「あげた」という述語の意味を補っているわけではないのだ。
「これから太郎について話しますよ・・・」という主題の宣言にすぎない。
要点をまとめると、

「太郎が」は主格としての役割を果たす以上に、「花子に」や「本を」と同じく、あくまで《(「あげた」という)述語の意味を補う連用修飾語としての役割》を果たす。

ということだ。
※※※※※
以上を踏まえた上で次に進む。

(ア)
確認だが、「A が B 」は、述語 B の意味を補うために A を主格補語(連用修飾語)として指定している構文である。
指定とは「指して定めること」という意味。
定まってないから定めるのであり、

主格補語 A は、聞き手にとって未知情報でなければならない。

聞き手にとって未知の情報だけが主格補語 A になり得る。
この場合の未知情報とは、あくまで「用言の主格としては未知」という意味である。

(A 以外を意識しながら A を主格補語指定する場合ー排他のための主格補語指定ー)
2-a. (父でも姉でもなく)私が社長だ。
2-b. (他の花ではなく)桜が咲いた。
2-c. (鮫ではなく)鯨が哺乳類だ。

2-a. 「私が」は「私について」言っている文ではないという点が重要だ。
では何について言っているのか?
といえば、述語の「社長だ」という内容について言っているのである。
「私」の他に父や姉が同席している状況などで、誰かから「社長はどなたですか?」と尋ねられたときの回答として成立する構文であるから、《述語=「社長だ」》となる点に関しては確定しているということに気づかなくてはならない。
つまり「社長(だ)」について「それは誰か?」という意味を補うために、(それは誰かと言えば)「私が(そうだ=社長だ)」と言っているのである。
「排他」とは《そのシチュエーションで求められている答えを(抜き出して)提示する》という用法である。

(父でも姉でもなく)という前提で発話したい状況にある場合、「私について言えば~」を意味する「私は」という構文は使わない。
「父でも姉でもなく、私について言えば社長だ」
こんな構文はあり得ないだろう。
( [ 社長は ] 父でも姉でもなく)という意味なのだから社長について述べようとしている文であり、「社長だ」という述語を補う形で「私が」と主格補語を指定すればよいのである。
「私が社長だ」と「社長は私だ」は同値である。

連用修飾語であるから「私が」は「社長だ」を直接的に修飾している。
(※「修飾」:文法で,ある語句が他の語句にかかって,その意味をくわしくしたり限定したりすること)
直接的に修飾することで「社長だ」という述語の意味を補っている。
前述したように、これは述語が「社長だ」という点に関しては確定しているシチュエーションである。
この述語に対して、当然のこととして想定される「誰が?」という暗黙の疑問に対応する答えとして「私が」という主格が補われているわけだ。
それゆえの「主格補語」である。

1ーa. (父は会長、姉は専務だが)私は社長だ。
1ーe. (単純な自己紹介などで)私は社長だ。
のように言う場合、「私は」は「社長だ」を直接的に修飾しているわけではない。
つまり、「私は」には「社長だ」という述語の意味を補おうとする意図はないのである。
「私について言うならば」という主題提示は、あくまで独立しているのであり、単に主題(話題)を提供しているだけなのだ。
「私は」の後に、「社長とは名ばかりで、姉の専務が実権を握っております」といった文が続いてもまったく自然だ。
「社長とは名ばかりで、姉の専務が実権を握っております」という内容が、「私について言うならば」すなわち「私は」という主題提示に引き続いて陳述された私に関する情報なのである。
「私は」は述語に対する連用修飾語ではない。

(イ)
ここで、
(対比用法)

(排他用法)
と比較してみると、対比・排他の区別はあれ、どちらも「A 以外を除外する要素」を伴なっていることがわかる。
要するに用法の意図が酷似している。
どちらも《A 以外を意識して》主題提示したり主格補語を指定したりしているのだから。
この意味で日本語学習者にとって、

1ーa. (父は会長、姉は専務だが)私〇社長だ。
2-a. (父でも姉でもなく)私〇社長だ。                                          

といった穴埋め問題で戸惑いが生じるのではないか。
この場合、対比か排他かという二義的な問題から離れて、主題提示と主格補語の指定という本質的差異に思考を巡らせると良いだろう。

1ーa. (父は会長、姉は専務だが)という前提は「次は私について言ってみれば~」という「私」の主題提示を導いているし、
2-a. (父でも姉でもなく)という前提は( [ 社長は ] 父でも姉でもなく)という意味なのだから「社長だ」についての表現であることは確定しており、(父でも姉でもなく・・)⇒では何なのか? に対する意味を補うべく「私」を主格補語として指定してやればよい。
ということに気づきやすくなるのではないか。

(ウ)
さて、
2-a. (父でも姉でもなく)私が社長だ。
という文に関して、《「社長(だ)」について「それは誰か?」という意味を補うために、(それは誰かと言えば)「私が(そうだ=社長だ)」と言っているのである。》
と述べた。
ここでは、

(A 以外を意識せずに A を主格補語指定する場合ー中立叙述のための主格補語指定ーー)
2-d. (散歩の途中でふと気がついて)桜が咲いた。

と述懐する構文についても触れておかねばならない。

2-b. (他の花ではなく)桜が咲いた。(排他)

という場合は、
《「咲いた」について「(それは何かと言えば)桜が(そうだ=咲いた)」と言っている》構文になるのであるが、

2-d. (散歩の途中でふと気がついて)桜が咲いた。

の場合は、あくまで、
「桜が咲いた」という命題全体について言っている構文である。
ただ、「桜」が「咲いた」の主格補語である点は変わらない。
つまり「咲いたこと」について言っている点は同じであるが、桜以外の排他を意識しているわけではないため、(それは何かと言えば)のように桜を取り立てる構文にはならない、ということである。
前述したところの《そのシチュエーションで求められている答えを(抜き出して)提示する》という排他の意図は全くない。
取り立てられなかった(抜き出されたわけではない)「桜」は、「咲いた」の主格補語として添え物のようにひっそりと付き従うしかなくなる。

これが中立叙述であるが、
「A が B 」という構文において、
A 以外を意識した主格補語指定(排他)と
A 以外を意識しない主格補語指定(中立叙述)
という違いがあるだけである。
いずれにしても、「が」は主格であると同時に述語の意味を補う役割を果たす連用修飾語であり、 [ 主格補語を指定する ]というのが本義であることさえ押さえておけば、A 以外を意識しようがしまいが「主題提示」の「は」と混同することはなくなるはずだ、と期待しておきたい。

質問者からの補足コメント

A 回答 (93件中51~60件)

No.45 のピーマンな応答に応えて



>>それが分かるのが日本語が分かる人と言うのじゃないですかねー。

だから何なの。ヴェン図式は???

>>「が」は同値を示す

なので、どう同値なのか説明せい!!
この奴阿呆が!

科学的ということが理解できんのか???
何が、ヴェン図式じゃ!

>>何の意味もありません。妄想するのは勝手ですのでご随意にどうぞ。

人が意味の無い語をどうして伝えたり使用したりできるのじゃ??

それができないから、概念化し、規範化して感性的、普遍的な形として表現しておるのじゃが。この言語表現の本質が全く理解できておらんではないか!!

「は」「が」は単なる絵や物理的音声ではないことぐらい分からんのか???
音韻とは何かが全く理解できておらんな!

「機能語」「非自立語」などという戯れ事を並べている限り、これらは理解できんぞ!

機能は宙には浮いておらん。それを実現する実体と、法則があろう!

科学的な思考ができんのか???

もっともらしい出鱈目な言説を放っておくことは出来んのでしつこく摘発しておるのじゃ!!

「皆さん」などと聞いた風な口を叩くな!!
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>No.43


>なんで、「が」なの?
>呆け!
まさに罵倒観音ですね。
この人いつも、罵倒するか詭弁を弄するか、はたまたその両方かのどちらかですね

1.「今日は、私が東京に住んで10年目です。」
2.「今日は、私は東京に住んで10年目です。」
3.「今日が、私が東京に住んで10年目です。」
4.「今日が、私は東京に住んで10年目です。」
それぞれ意味が違います。それが分かるのが日本語が分かる人と言うのじゃないですかねー。

>俺が行く。

「俺は行く人、かつ、行く人は俺。」となるから、「が」は同値を示す働きをしているのです。
「が」という語そのものに意味はありません。働きがあるだけなので「機能語」と言うのです。小学生でも分かる道理です。

><助詞>は客体を表す詞ではなく、話者の主観を客体化することなく直接に表す語である辞だ

この人は、何かの念仏のように唱えていますが、何の意味もありません。妄想するのは勝手ですのでご随意にどうぞ。

>「機能語」「非自立語」などという戯れ事を並べている限り、これらは理解できません。

理解できないのはあなたくらいのものです。理解しようという気がない人は理解しなくていいのです。そうでないと思うなら、罵倒しないでほっといてもらえばいいと皆さん思っておいでですよ。
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>当方などは、「エリザベス女王」は集合ではなく「私」と同値の対象としか捉えられません。



集合の定義を数学的に理解するのが得意でない人がいます。日常会話レベルで「エリザベス女王」の集合なんて使いませんものね。でもこの世に存在するものは何かの集合ですし、何かの部分集合なんです。そこが集合の面白い点であり、強力な概念なんです。バートランド・ラッセルのよって矛盾が指摘されて集合から離れていく傾向はありましたが、それでもまだまだ利用すると便利な武器であることは確かだと思います。
また「カテゴリー」と言うのは「集合を要素とする集合」という概念であり、集合はカテゴリーに属するのです。
私は「集合」「カテゴリー」は日本語教育に大いに利用・使用すべきだと思います。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>集合の定義を数学的に理解するのが得意でない人がいます。

日本語学習者の方は得意な方が多いのかもしれませんね。
いずれにせよ、それで理解しやすいなら、それもひとつの方法だと思います。
否定するいわれはありません。
ただ、自分自身が理解できないものを他人に勧めるわけにはいきませんからね。

・鯨は哺乳類だ。

などという例は、たしかにわかりやすいです。
しかし、集合という概念が適用しづらい例というのは案外多いように思う次第。

・私は佐藤太郎です。
・富士は日本一の山。

>また「カテゴリー」と言うのは「集合を要素とする集合」という概念であり、集合はカテゴリーに属するのです。

それはわかります。
上記例で言うなら、

・鯨は、「生物の種」というカテゴリーの中の「哺乳類」という集合の要素だ。

といった解釈になりますかね。

>私は「集合」「カテゴリー」は日本語教育に大いに利用・使用すべきだと思います。

《集合の定義を数学的に理解するのが得意でない人》に、

どのような表現で解説するか?

これこそが焦点となるのでしょうね。
ほんの一語の表現、ほんの一つの切り口、あるいはちょっとした一図などが、相手の目の鱗を落とすことを目指したいものです。
これは、どんな手法であっても共通しているでしょう。
それぞれの有意性を総合したものが集約できれば強いでしょうな。

お礼日時:2022/10/04 19:24

No.42 に応えて



>>「私【が】東京に住んで10年目」の「日」に属すのですよ。

なんで、「が」なの?
呆け!

「は」でしょうが???

>>*誰が、「今日と日に分離」などと言いましたか。

⇒「今日」が「日」と言う集合に属す

この一連のあなたの回答から分かることは、あなたが「は」と「が」のことを全く理解できていないということです。

「が」が「同値」の関係を示す語であるなどと寝言をならべるようでは救いようがありませんね!

定義

ある集合 S において、以下の3つの性質をすべて満たす二項関係 ∼ は S 上の同値関係であるという。それらの性質とは S の任意の元 a, b, c に対して、
反射律: a ∼ a.
対称律: a ∼ b ならば b ∼ a.
推移律: a ∼ b かつ b ∼ c ならば a ∼ c.
上の3つをまとめて同値律ということがよくある。∼ が同値関係であるときに、a ∼ b であることを、a と b は同値であるという。
<出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』>

  ★ 俺が行く。

この「が」がどんな同値関係を表していますか??

<助詞>は客体を表す詞ではなく、話者の主観を客体化することなく直接に表す語である辞だという本質が全く理解できていませんね。

「機能語」「非自立語」などという戯れ事を並べている限り、これらは理解できません。■
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

1.
>  ★ 俺が行く。

この「が」がどんな同値関係を表していますか??

横やりですみません。
おそらく、

「俺」=「行くの(行く人)」

という同値関係かと。

2.
>「は」でしょうが???

いやいや、

「今日は、私が東京に住んで10年目です。」

ですから、その指摘は勘違い。

3.
>「今日」が「日」と言う集合に属すことを表しています。

この場合の「日」は、昨日・明日・明後日・3日前などを表わす「日」の集合、と捉えればわかりやすくなるかと。
「今日は、私が東京に住んで10年目です。」
「今日」は、そんな「日」の集合を形成する要素である。
という意味で、これなんかは集合論がわかりやすい例文だろう。
しかし、わかりやすい場合もある、というだけでは困るからなあ・・・。
集合を理解できる人がどの程度いるのか、という問題になるのかもしれん。

お礼日時:2022/10/04 19:36

No.41さんは


>「今日は」一語で、今日と日に分離し、「今日」が「日」と言う集合に属すなどというのは全くのナンセンスです。

*誰が、「今日と日に分離」などと言いましたか。「私が東京に住んで10年目」の「日」に属すのですよ。
この一連のあなたの回答から分かることは、あなたが「カテゴリー」のことを、集合のことをご存じないということです。
また「が」が「同値」の関係を示す語であるということも理解できていませんね。
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No.39 の応答の初歩的誤りについて



>>*「は」はそれが付いた語がそのカテゴリーに属することをしますものです。
 「今日は、私が東京に住んで10年目です。」の「今日は」と言うのは、「今日」が「日」と言う集合に属すことを表しています。

いいえ。
「今日は」一語で、今日と日に分離し、「今日」が「日」と言う集合に属すなどというのは全くのナンセンスです。

「今日は」の「は」は昨日、明日などとの比較対照による今日という日の特殊性の認識を表すもので、「今日」が「日」のカテゴリーに属することを表すものではありません。

>>「象は鼻が長い。」の「は」は、「鼻が長い」ものの集合に「象」が属していることを示しているのです。

いいえ。
「象は」の「は」は馬や猿などとの比較対照による象という種の特殊性の認識を表すもので、「は」が「鼻が長い」ものの集合に「象」が属しているなどというのは因果を逆転した単なる結果論に過ぎません。

>>「私はうなぎだ。」と言うのは「私」は「うなぎ」を注文する・注文した方の側に属しますということです。

いいえ。
全くの初歩的な誤読です。

「私はうなぎだ。 君は?」のように、私以外との比較対称による君などと異なる「私」という特殊性の認識を表すものです。

<助詞>とは何かが全く理解できずに、こんな出鱈目な説明すれば日本語学習者は全くのチンプンカンプンンで大混乱するだけです。

<助詞>を「機能語」「非自立語」などと言っているようでは、このように箸にも棒にもかかりません。■
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>既に高校生が場の量子論の教科書を書き



「ごくまれな例をとりあげる」と言う詭弁ですね。
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>エリザベス女王という固有名詞は集合だ、という理屈が私にはどうしても理解できないのですよ。



対象が「その集まりの元であるかどうかが不確定要素なしに一意に決定できる」ように定義されていればどんな集まりも集合なのですね。
「エリザベス女王」の集合は、その要素が「エリザベス女王」ですので問題なく集合です。
だからどんな固有名詞も集合なんです。

*「は」はそれが付いた語がそのカテゴリーに属することをしますものです。
例えば、「今日は、私が東京に住んで10年目です。」の「今日は」と言うのは、「今日」が「日」と言う集合に属すことを表しています。
「象は鼻が長い。」の「は」は、「鼻が長い」ものの集合に「象」が属していることを示しているのです。
「私はうなぎだ。」と言うのは「私」は「うなぎ」を注文する・注文した方の側に属しますということです。
「は」をこのように説明すれば日本語学習者に簡単に理解してもらえます。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

「私はエリザベス女王だ」という文は、
「エリザベス女王」の集合に「私」が属していることを示している。
と理解するわけですか。
難しいですなあ。

>対象が「その集まりの元であるかどうかが不確定要素なしに一意に決定できる」ように定義されていればどんな集まりも集合なのですね。

それは理解できます。
ただですね、

「エリザベス女王」は《集まり》なのか。

という問題は積み残されていませんか?

>「は」をこのように説明すれば日本語学習者に簡単に理解してもらえます。

ひょっとすると、当方より日本語学習者のほうが頭が良いのかもしれないですね。(笑)
当方などは、「エリザベス女王」は集合ではなく「私」と同値の対象としか捉えられません。

お礼日時:2022/10/04 16:54

先生のノート  2022.03.31


数学に特異な才能のある子どもたちへの寄り添い方

https://same.su-gaku.net/iitaka

参照。■
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この回答へのお礼

はいはい。

お礼日時:2022/10/04 16:26

>>小学生に科学の質問をされても、


相対性原理を読め!
で済ますタイプですな。
ボンクラ教師によくあるタイプ。(笑)

呆け!!
自分を規準に考えるな!!!

既に高校生が場の量子論の教科書を書き、中学生が、

ガウスとオイラーの整数論の世界 ~中学入試算数が語るもの~ (知りたい!サイエンス)【 2011/2/23 吉田 信夫 (著)】

で、

私の長い研究経験に照らしても「こんなことはあり得ないだろう」と思うようなことを、子どもたちがやってのけるのです。たとえば、親が壁に貼っておいた九九の表を見て、2歳のうちにすべて暗唱できるようになってしまったり、やがては高校数学で習う等比級数の公式の一部を自分で導いてしまったり。
また小学1年生で私の講義に参加して内容を理解し、的確な質問を投げかけてくれる方もいますし、現役高校生で私には考えつかなかったような研究内容を提示してくる方もいます。
(「学習院大学名誉教授の飯高 茂先生に、数学に特異な才能のある子どもと接するにあたっての思いや姿勢について話をうかがいました。」)
なのじゃ。

君の頭は大正当たりでで停止しているのでは!!!
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

語るに落ちましたな。(笑)

《数学に特異な才能のある子ども》についてのお話だということを理解しておるのかね???

《日本語に特異な才能のある学習者》以外は相手にせん、と言ってるよなものだということにすら、気づいておらんようだの。
憐れ憐れ。(笑)

お礼日時:2022/10/04 16:25
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