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0. 標題のごとくに自負して考えるのですが なお仮説ですので よろしくご教授ください。
疑問については是非ぜんぶお知らせください。
神論は その問い求めによって 世界におけるわれわれ人間の立ち位置が現実によく分かるようになるのだと思いますが どうでしょう。
神の世界に相い向き合うからだと思われます。


1. 神は 《人間の知性を超えている》。

2. 人間の知性で分かったと主張するその神は 人間がつくった――観念の――神に過ぎない。

2-1. そもそも その《分かったということ》は証明し得ない。その否定も じつは証明し得ない。

3. 人間の知性で分からない(不可知だ)と説く神は これも 人知でそのようにつくっている(決めつけている)。

3-1. 不可知とは 知り得ないと証明し得て初めて言えるもの。知り得ないと証明し得たなら 或る意味で人知の範囲内だ。




4. 人知を超えたところとは 《知り得るか知り得ないかが 知り得ないナゾ:非知 incomprehensible incomprehensibility 》です。

・ 可知(既知&未知)&不可知 に対して 非知

5. 非知なるものは 非経験(その場ないしチカラ)であり 絶対性および無限である。

・ 経験    に対して 非経験
  (自然および経験)  (超自然および超経験)
・ 相対性   に対して 絶対性

・ 有限    に対して 無限


6. 無限とは 二で割っても三で割っても 商はもとのままの無限であることを言う。

6-1. 一神教か多神教かまたは汎神論かの――神の数にかんする――問いは 無意味である。

6-2. すべては――やほよろづの神々はみな――《全体として一つの神・ただ一つの柱で全体をふくむ普遍神》の分身であるゆえ。

7. 絶対性とは 《何ものにも拠ることなく ひとり満ち足りているもの》を言い それと相対世界とは 絶対のへだたりがある。

8. 非経験は たとえば《有るか無いか》という規定が適用される経験的な事象(事物および現象)を超えている。

8-1. 《有る》と《無い》とを超え しかも両状態をおおいつつむ。

8-2. 《有ると無いとが つねに――つねにである――重ね合わせになっている》。

9. 事物が有るか無いか つまり 現象が起きたか起きていないか つまり ものごとの因果の関係として捉えられること(そして その知性)を超えているのが 非経験・絶対性・無限である。


10. 人間は このように《人知を超えているものを人知で推し測っている》。




11. 人知で捉え得たと思っている神について ひとはいろいろ忖度する。

11-1. 余計なことはやめろと言われても 余計か本計かを究めあぐねる。

11-2. 忖度するような対象ではないと考える向きは 端的に言って《無い神〔という神〕》が 心にいだかれている。cf. [8-2]。

12. 忖度のいろいろは こうだ:

① その属性として:
   〔つねに真偽をまぬかれない人間の主観真実を超えた〕真理
   〔善悪を超えた善悪の彼岸としての〕至高の善(スムム・ボヌム)
   〔相対的な美醜を超えた〕美

   〔愛憎を超えた〕愛(アガペー)
   〔真理がすべてにおいてすべてであることを実現させる〕全知全能

② 絶対性からそれを擬人化して:絶対者

③ 全知全能なる絶対者を物語化して:創造主(非経験と経験世界とは絶対の
                  へだたりがあることを言っている)

④ 創造主のチカラのおよぶところとして:摂理(因果律を超えているチカラ
                     による人間への因果応報なる説)

13. 神についての忖度は すべて おのおの心の内面に主観真実としておさめている限りは 自由である。良心・信教の自由。

13-1. 神についての忖度――神観――が 良心・信教の自由のもとに自由であり それとして主観真実におさめられることを 《特殊絶対性》と言う。一般性とは別次元にある。

13-2. 忖度に成る神観を成るたけ避け一般性を問い求め得た神論は 《一般絶対性》なる理論であり これを個人として抱くゆえ 《個別絶対性》とよぶ。

13-3. 神観が 或る種体系的な神学となりこれがオシへとされ得る。さらにしかもオシへが神と同等のものだと説く場合がじんるいの歴史にあった。そのような神学ないし自称神論はアウトである。人間が神をこしらえている。《文字もしくは聖なる書》という偶像が建立される。

13-4. オシへを神と説くシュウキョウというシュウキョウは その説くという発想が無意味であり ぜんぶアホンダラ教である。




14. なお《一般絶対性かつ個別絶対性》の具体的なあり方は 次のように図示できるはずだ。

  A. ブラフマニズム:梵我一如
   梵:ブラフマン・・・・・マクロコスモス。神
   我:アートマン・・・・・ミクロコスモス。霊我(生命性)

  B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(=無神論)
   無梵:空(シューニャター)・ゼロ
   無我:アン‐アートマン;ニルワーナ

  C. ブディズム:仏仏一如(=有神論)
   仏:アミターバ・ブッダ(阿弥陀仏)
      / マハーワイローチャナ・タターガタ(大日如来)
   仏:タターガタ・ガルバ(如来蔵)・ブッダター(仏性)

  D. クリスチアニズム:霊霊一如(生命性‐生命体一如)
   霊:神・聖霊
   霊:《神の宮なるわれ》

  E. (プラトン?):霊霊一如
   霊:宇宙霊魂(プシュケー・コスムー) / 世界霊魂(アニマ・ムンディ)
   霊:《われ》

  F. 《もののあはれを知る》:霊霊一如
   霊:かみ(超自然および〔その依り代としての〕自然)
   霊:われ(自然本性 + α )

  G. ユダヤイズム:霊霊一如
   霊:ヤハヱ―;(エローホ=神)
   霊:われ

  H. イスラーム:霊霊一如
   霊:アッラーフ(イラーハ=神)
   霊:われ

  I. タオイズム:道人一如
   道:タオ(?)
   人:われ


14-1. 個別絶対性とは 信仰である。《非知なるナゾを 無条件で無根拠にてわが心に受け容れること》を言う。

14-2. 《信じる》は 《感じる・考える》を超えている。言いかえると 《信じている》ときに《感じ考える》ことを同時におこなえる。無思考や思考停止ではない。

14-3. 
【梵・仏・霊】  :信じる(生命性):非思考の庭
------------------------
【我(霊の分有)】:考える(知性) :思考の緑野
          感じる(感性) :感性の原野

質問者からの補足コメント

  • 聖書は アダムとエワの物語から語られていますが 神論ないし信仰の問題としてなら 実際じょうは アブラハムから始まります。


    或る日或る時 アブラム(のち アブラハムと改名)がいわゆるお告げを聞きます。

    《故郷の地を離れて 行け》と。

    この声にしたがったのが アブラムぢいさん。75歳のときでした。

    どこへ行くのかは まだ知らされずにその声を発する何ものかに 終始 忠実でした。

    《神を信じた。それで かれは義とされた》のです。バカみたいに。でしょ?


    モーセが 律法のような倫理規範をあたえられ これを守るのだというようになったのは 集団としての秩序と安全のためでした。

    その後 国家(二階建て構造)も 安全保障として必要になり 王も立てられました。

    王の振る舞いに盾突くような預言者も 出ました。

    エレミヤが あたらしい契約を預言するまでにも到りました。

    そして イエス。

    No.6の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2022/10/26 05:26

A 回答 (198件中171~180件)

ですが



韓国独断無断無理矢理一方的 敵認証
日本列島を地図から消し
消したら他で埋めるで 竹島不法占拠
ゴミ韓国アイドルの歌詞などから 日本への口撃
止まりません
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この回答へのお礼

前回のと姉妹編です。

【Q:虚言論:息をするようにウソをつく それでも人の発言は 表現の自由なる範疇に入ると見なされる理由】
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/12662258.html

どちらもややこしい議論になっていますが それとして納得のいけるものとなったかと思っています。

ウリナラ・ファンタジーにのがれゆく理由がわかるように われながら思っています。

虚数人間の閉ざされた独自の世界に入って行っているのではないかと。



あとは ふつうの人間(人間性)に立ち戻るのを俟ちます。

お礼日時:2022/10/28 04:10

粘着韓国人を始末する方法を教えて下さい

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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。


そうですね。

【Q:《息をするようにウソをつく》人間の起こり ――または 《虚数人間》の成り立ちについて――】
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/12663036.html

☆ というようなことを――韓国人について――考えたことがあります。

内容は 《ウソをつく常習犯》であっても  その自己表現は それでもマイナスの自由な意志の発現となっている。

むろん プラスであることがのぞましいけれど ひととおり人間の自由な意志行為であるという体裁を採っている。

とすれば いちおう われわれは人間として向き合わなければならない。という結論です。

基本として 何も――われわれの思うようには――出来ない。となります。


ただし このウソつき人間(虚数人間)の理論を相手に はっきりしっかりと伝えることが出来ます。


というようないまの現状なんですが。・・・

お礼日時:2022/10/27 23:04

私は神を信じない…。

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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。


★ 私は神を信じない…。
☆ と考えることは 自由です。

その神は 言葉であらわされた概念ないし何か感覚の対象となるようなもののない観念となっている。

観念を操作するのは 自由です。



問題は 神が神なら――相対存在である人間のわれが 絶対性に向かっているからには―― そのままで《神とわれとのカカハリ》は 生じています。

この場合は 感じるや考えるを超えているので 信じるという言葉で表わします。

つまり 広い意味で《信じる》が すでに成り立っています。



そこから 具体的に人は 狭義に《有る神》を信じるか または《有る神》を信じないかに分かれます。

後者は 言いかえると 《無い神》を信じるとなります。

つまり 《〈有る神〉を信じない》というのは 《〈神を信じない〉と信じる》ということになっています。

神は 《考える》対象ではないからです。

お礼日時:2022/10/27 22:52

イスラエルとは


アブラハムの別名だよね。
アブラハムとサラの夫婦と
スサノヲと天照大神の夫婦を
比較できますか。

アダムは天御中主神になれますか。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。


アダムは 人間です。


ヤコブ・イスラエル。天使と相撲を取った。


★ アブラハムとサラの夫婦と
スサノヲと天照大神の夫婦を
比較できますか。

☆ ううーん。基本は やっぱりアブラハムらは ふつうの人間です。

いわゆる神の子たちは 基本として アブラハムと長子イサクそして次代のヤコブ そこから 出たということですから この場合は 全イスラエル(ユダヤ)の祖となった。


しかるに スサノヲをアマテラスの場合は オシホミミの子孫が 国家を築き王となる。

スサノヲの系譜と 分断した。

そこが ちがうでしょうね。

お礼日時:2022/10/27 15:27

世界史だろうが日本史だろうが、郷土史だろうが、主役も脇役もないのだと思いますが。



只、此の世が滅ばないために皆さん、懸命なんだと思えますけれど。それだけの兵器力を人類は保持していますね。


「a」 Jesus Power! 2022/10/17 (月) 01:30 現在
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この回答へのお礼

★ 只、此の世が滅ばないために皆さん、懸命なんだと思えますけれど。
☆ 同感です。

お礼日時:2022/10/26 22:28

田中角栄氏が曹操役かどうかは不明ですけれど。

角栄は戦争体験世代でもあったので氏の幼少画像を戦災孤児の写真にしてみたのですがね。氏が実際、戦災孤児ではないのですが。その時代を通って来られた総理だったので。

一方、私の幼少期は自然が豊かだったので、畏れ多くも私の本体をJESUSにかさねあわせてみたのですが。舞台は国会議事堂ですけれど。私に出馬意欲は全くありません。悪しからず。

蒼天航路 2022/10/12 (水) 11:40 現在
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この回答へのお礼

人それぞれについて 世界史における役割があるっていう見方ですか。


そりゃあそうかも知れません。


わたしが言ったのは 歴史に埋もれている人にも しっかりとした役目があってそれを果たしている人がいるって言おうとしたのですが。


それを一般にひろげてみる見方 これもありかも。

お礼日時:2022/10/26 22:13

劇作家のCLUMP先生は天意が読めたのですが。

実は瑕だらけの人生であるということが、ツバサクロニクルで判明していくわけですけれどね。

参考文献

傷ついて今にも死にそうな人へ


CLUMP先生は神ではないのですね。知っている劇作家では神に近い方ですが、人間の可能性をお認めに成られているのがCLUMP先生なのです。

阿弥陀仏は恐らく、天意通りであり。

釈尊は、天意の中に人間の可能性を模索なさったのだと思えますけれど。
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この回答へのお礼

★ 釈尊は、天意の中に人間の可能性を模索なさったのだと思えますけれど。
☆ 《天意の中に》という表現が そのままではわたしには まだあいまいです。



天意に――いやいやながらでも――したがったそのあと かえって人間のちっぽけな自由意志が建てられる。

磔になるのを見越して 《この盃を去らせてください》とねがったあと イエスは 《みこころのままにしてください》と言った。


十字架じょうで 《わが神 わが神 なぜわたしを見捨てるのですか》と言ったとも伝えられている。

イエスは 神に見捨てられた。その見捨てられたことにおいて すくわれた。

(イエスの場合は 特殊です。《見捨てられる》というのが 文字通り死に到るのですから)。




★ CLUMP先生
☆ は よくは分かりませんが おしえられることがあるのでしょうか。

お礼日時:2022/10/26 21:59

私、半生、散々ですけれど。

人間が人間同士で幾ら自由意志を謳ったところで、天の定めでは全く、自由意志ないのですね。

正直、あの世は不明なのですが。

天意は絶対であって、我々は天の操り人形に過ぎないのだと思いますけれどね。
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この回答へのお礼

たしかに アウグスティヌスも言います。

・ 人間の自由意志を神の意志の前に置いて その〔人間のほうの〕意志を〔つよく〕うったえようと弁護したが 勝てなかった。

☆ と。ただし 別のところでは:

・ 人間は いかに自由意志を駆使すると言っても 神の意志には勝てない。したがうしかない。ただし その従属・忠実において かえって神は 人間の自由意志を立てる。

☆ と言っています。

お礼日時:2022/10/26 21:50

故・安倍晋三氏が凶弾に倒れた、三日後位に、東京都に強震が襲ったのですが。



恐らく、安倍さんの霊で、その後、昇天されたのだと思うけれど。
「神論のエセンスは これだ」の回答画像20
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この回答へのお礼

神観――特殊絶対性――として おのおのの主観真実に起き得ます。

お礼日時:2022/10/26 21:29

貴殿は、私はJesusではないけれど。



2021/12/25 までは確実に私の幻覚として続いた、「イエス・キリスト」が私の正体だと私が申せば、貴殿はどう思われますか。


瑕は完全には癒えませんけれどね。
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この回答へのお礼

神観――特殊絶対性――として起きたと捉えます。

お礼日時:2022/10/26 21:28

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