No.1
- 回答日時:
▲ (ヰキぺ:華厳経) ~~~~~~~~
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8F%AF%E5%8E%B3 …
§ 内容
陽光である毘盧舎那仏の智彗の光は、すべての衆生を照らして衆生は光に満ち、同時に毘盧舎那仏の宇宙は衆生で満たされている。
これを「一即一切・一切即一」とあらわし、「あらゆるものは無縁の関係性(縁)によって成り立っている」ことで、これを法界縁起と呼ぶ。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ 低俗だとは思いませんが 《毘盧舎那仏=大日如来》が 安易に日本神話のアマテラスオホミカミに当てはめられて習俗化しているというのかも知れません。
▲ (同上) ~~~~~~~~~~~
「ヴァイローチャナ・ブッダ」という仏が本尊として示されている。
「ヴァイローチャナ・ブッダ」を、「太陽の輝きの仏」と訳し、「毘盧舎那仏」と音写される。毘盧舎那仏は、真言宗の本尊たる大日如来と同一の仏である。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ つまり 華厳宗大本山の東大寺の大仏も そうである。
▲ ( ibid. )
華厳経にも、如来蔵思想につながる発想が展開されている
☆ これは 本覚思想とも言われ 人びとがみなブッダター(仏性=如来蔵)を宿すと説いている。
そして これが昂じると 人生なんの問題も心配もないといった事なかれ主義に落ち入るとも捉えられています。
◆ 俗哲学
☆ なのだろうか?
☆ 《あらゆるものは無縁の関係性(縁)によって成り立っている》といった《世界把握の方法》 これは 《法界縁起》とよぶそうです。おもしろいと思います。
これは《認識法》としては 関係性を軸として世界を把握する構造主義(=関係主義)にも似ています。
むろんそれでは ネットワークの筋のみで社会が成り立っているというだけであり 人間の主体的な意志行為が無に帰してしまう。
《思考法》としては 《一即一切・一切即一》というふうに捉える主体がいるわけです。ネットワークの結び目(結節点)の存在を忘れてはいけない。
《一》は 人びとそれぞれの個別の意志行為でありその現象。
これが 《即 一切》だというのは 世界が全体として 互いに切り結びする関係構造だということでしょうか。
しかも 《〈無 縁 の〉関係性(縁)によって成り立っている》と言っている。つまり 愛と言っても ねちっこさがなくておもしろいかも知れない。さしづめ ユヅリ愛とでも言えるかも知れません。
◆ 日本人の血肉のなかに入っています
☆ か そうではないか どうなんでしょうか。
早速のご回答ありがとうございました。
ご回答になかで、理解でき気になった項目のみ列挙いたします。
1.<《毘盧舎那仏=大日如来》が 安易に日本神話のアマテラスオホミカミに当てはめられて習俗化している>
2.<人生なんの問題も心配もないといった事なかれ主義に落ち入る>
3.<ネットワークの筋のみで社会が成り立っているというだけであり 人間の主体的な意志行為が無に帰してしまう。>
以上3項目を奉じている(普通の・多くの)日本人にとって、仏教(華厳思考をとおして)は安直(厳しさに欠けている―一神教徒の視点から見たら)な姿勢で、司馬のいう俗哲学なのでしょうね。
とも捉えられています。
No.2ベストアンサー
- 回答日時:
おそらく逆です。
縄文以来の日本人の血肉の中に入っていた俗哲学が、華厳の哲学に似ていたということでしょう。
また、違う観点から考察すると、芥川龍之介は敬虔なキリスト教徒でしたが、ある時、日本のキリスト教が、神道など古代からの日本の精神文化によって改変されていることに気付いて愕然としました。
ひょっとしたら、華厳の哲学も日本風に解釈されていたのかもしれません。
いずれにしても、司馬遼太郎の解釈は、方向性が間違っていると思われます。
早速のご回答ありがとうございます。
<華厳の哲学も日本風に解釈されていた>ですね。
ある民族が外部から思想(宗教なども)が吸収する際には、否応なくフィルターが働き、100%元の思想を吸収できませんね。
日本古来(縄文から)のもの考え方・感じ方により、仏教(華厳も)もキリスト教も改変‣変容・俗化がありえますね。
No.3
- 回答日時:
№1です。
№2の春閑さんのお考えに 賛成と半分の批判とをしめします。
賛成から。
たとえば 本覚思想(如来蔵の思想)。
これは 太古の昔から原日本人が 《死んだらだれもが神になる》といったナラハシのような思想として すでに持っていた・・・というように考えるなら 華厳の思想と神道の思想との先行後行について 司馬とは逆であると言うべきかも知れない。
すなわち:
◆ (№2)
縄文以来の日本人の血肉の中に入っていた俗哲学が、華厳の哲学に似ていたということでしょう。
☆ しかるに・そこからひるがえって 半分(90度)だけの批判を 次のようにしめします。
つまり:
▲ (ヰキぺ:華厳経)
「一即一切・一切即一」とあらわし、「あらゆるものは無縁の関係性(縁)によって成り立っている」ことで、これを法界縁起と呼ぶ。
☆ というように 世界観があらわされたとき 前半と後半との二点にわけて考えてみます。
前半ですが 個人たるわが身心の〔将来の〕神性たる《一》が 世界にひろがって《即 一切》であるといった生命観 これを 神道が持っていたか?
後半は:
しかるに その《神即自然》に近いような思想をめぐって 華厳が《あらゆるものは無縁の関係性(縁)によって成り立っている》と言っている。
おそらく神道は この《無縁の関係性》といった見方を潜在性として持っていたのではないか。だから 神話の語る歴史として イヅモがアマテラスのタカマノハラ〔の服属要求〕に対して《くにゆづり》をした。
という意味は 人びとの社会関係として 積極的な友愛や博愛を主張するのではなく それよりは 自由・平等そしてユヅリ愛といった〔シャイな恥づかしがりやの〕倫理観を――思考も意識もせずに――持ち合わせていた・・・のではないか。
再度の御回答ありがとうございました。
折角のご回答の隅をほじるようで、失礼します。
イズモは、<自由・平等そしてユヅリ愛といった〔シャイな恥づかしがりやの〕倫理観を>なのですか。
私は、イズモが弱くタカマノハラに屈服した、単純に思っていました。
No.4
- 回答日時:
★ (№3お礼欄) ~~~~~~~~
イズモは、<自由・平等そしてユヅリ愛といった〔シャイな恥づかしがりやの〕倫理観を>なのですか。
私は、イズモが弱くタカマノハラに屈服した、単純に思っていました。
~~~~~~~~~~~
☆ レアル・ポリティークと言うのでしょうか 国と国とのあいだで チカラのつよさ〔のみ〕によって 支配関係が決まるということでしたら おっしゃるとおり単純な勝敗の問題だと思います。
チベットにしてもウイグル・モンゴルさらには台湾 そしてウクライナにしても そういうチカラ関係でものごとは決まる――となります。
クニユヅリは 次のように始まっています。:
▲ (ヰキぺ:国譲り) ~~~~~~~~
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E8%AD%B2 …
§ あらすじ
§§ 古事記
・ 天忍穂耳命の派遣
高天原に住む天照大御神は、
「葦原中国は私の子、正勝吾勝勝速日天忍穂耳命(まさかつ
あかつかちはやひあめのおしほみみ)が治めるべき国である」
と命(みこと)に天降りを命じた
§§ 日本書紀(巻第二 神代下・第九段)
・ 天穂日命と大背飯三熊之大人の派遣
天照大神の子の正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊(まさかあかつかちはやひあめのおしほみみ)は、高皇産霊尊(タカミムスヒノミコト)の娘である幡千千姫 (たくはたちぢひめ)を娶り、天津彦彦火瓊々杵尊(あまつひこひこほのににぎ)が生まれた。
高天原に住む高皇産霊尊(高御産巣日神)は、自分の孫をよく可愛がり崇めていたので、天津彦彦火瓊々杵尊を葦原中国の君主にしようと考えた。
~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ 復唱するなら 古事記では 《我が子 オシホミミが〔じつはヨソの国であるイヅモは〕治める国である》という宣言から始まり 書紀では 《オシホミミの子のホノニ二ギを〔ヨソの国なるイヅモの〕君主にしようと考えた》ところからです。
前者は タカマノハラの主宰神であるアマテラスの神勅 後者は 同じくタカノハラのであるが別のタカミムスヒノ神のいだいた思わくによる話です。
言ってみるならば あそこに見える島々は わが国の天子がおさめるものと太古の昔から決まっている 統治しなさいと言ってその統治者を任命し実行させるというかたちです。
要するに 帝国主義であり覇権主義でありあるいは戦狼外交だと思います。
再三のご回答ありがとうございます。
<帝国主義であり覇権主義でありあるいは戦狼外交>でしょうね。
大航海字時代、スペインやポルトガルは世界の各地で植民地を獲得し、それを法王に捧げていましたが、記紀側からみたら、イズモは(正当に)獲得したのでしょうし、イズモ側が譲った、ということにもなる(した)のでしょうね。
No.5
- 回答日時:
ここで司馬さんの言う”日本人”、と言うのが、何時代の日本人なのか、どの様な地域、或いは地位の日本人のことを言うのかによると思います。
華厳経はかなり概念的で、文明のある程度発達したところでないと理解できない記述だと思います。
日本人の本来の俗哲学と言うか、世界観と言うのはもっと素朴で、小さきものにも生(命)がある、軽んじてはいけないよ、みたいな感じだと思います。思考法というよりは感性に基づいた世界把握だと思います。
季節感とか自然の移ろいの中で、自らが認識できる範囲のそれぞれを、(仏教的に言うならば)有情と見做して接する、と言う事であり、無限や平等と言った高度に概念的な言葉を必要としないものだと思います。かといって、日本人の感性が有限で単調であると言うのでは勿論ありません。むしろ、心地よい程度に複雑で、穏やかな広がりのある世界観だと思います。
古代よりもさらに遡ると、もっと現実的な、自然に対して現実的な眼差しを持った日本人がそこに居たと思います。何故なら、原始的な技術で海を渡ろうとするなら、感性と言ったあやふやなものでは列島に辿り着けないからです。もっと、身体に依存した、確度の高い、自然世界と親和性の高い世界の捉え方をしていたと思われます。
早速のご回答ありがとうございます。
1.<華厳経はかなり概念的で、文明のある程度発達したところでないと理解できない>ですね。華厳の思想は、文明が進み場所も異なった西域で生まれたようですね。
2.<日本人の本来の俗哲学と言うか、世界観と言うのはもっと素朴で、小さきものにも生(命)がある、軽んじてはいけないよ>ですね。
ところで、その二つは俗哲学にどのように関係しているのですか?
No.6
- 回答日時:
★ (№4お礼欄) ~~~~~~~~
A <帝国主義であり覇権主義でありあるいは戦狼外交>でしょうね。
B 記紀側からみたら、イズモは(正当に)獲得したのでしょうし、イズモ側が譲った、ということにもなる(した)のでしょうね。
~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ このAとBとは 相容れないのではないでしょうか?
《すでにほかの人びとが住んでいるヨソの土地を ゆづれ》と言って――武力を背景にして――奪うことは 《正当に獲得する》ことでしょうか?
度々のご回答ありがとうございます。
正当という意味は、説明不足でしたので、正当という意味を書きます。
<高天原に住む天照大御神は、
「葦原中国は私の子、正勝吾勝勝速日天忍穂耳命(まさかつ
あかつかちはやひあめのおしほみみ)が治めるべき国である」
と命(みこと)に天降りを命じた>
<高天原に住む高皇産霊尊(高御産巣日神)は、自分の孫をよく可愛がり崇めていたので、天津彦彦火瓊々杵尊を葦原中国の君主にしようと考えた。>
高天原系側では、神などの意向に従っているのであるから、正当である、ということです。
No.7
- 回答日時:
司馬さんの言う俗哲学というものが何なのか、その要素として華厳の哲学が深いレベルで含まれているという説ですが、私の考えでは、日本人の俗哲学(そういう言い方をするなら)とは、例えば、次のような文言に含まれるものだと思います。
一寸の虫にも五分の魂
という言い回しです。
2.と近いニュアンスがあるのが分かると思います。
一方、華厳の哲学は、一滴の雨粒に海を見ると言ったようなことで、極限の地点における観の大転換がその骨子だと思います。日本の俗哲学には、その様なことはあまり見られない、つまり華厳の哲学と日本の俗哲学?は、関係が薄いと私には思われます。日本人の感性たる”小さな者の小さな世界”という認識と、華厳の哲学である”極小の中に極大がある”という認識の両者には、大きな隔たりがある。
再度の御回答ありがとうございます。
<日本人の感性たる”小さな者の小さな世界”という認識と、華厳の哲学である”極小の中に極大がある”という認識の両者には、大きな隔たりがある。>ですね。
したがって、両者の間に大きな隔たりがあるから、<俗哲学として日本人の血肉のなかに入っています>は正しくない、ということですね。
No.8
- 回答日時:
★ (№6お礼欄)
高天原系側では、神などの意向に従っているのであるから、正当である、ということです。
☆ 無理強いでもしているかに思えて心苦しいのですが。
その《正当性》は 独り善がりだと思います。
強いてその痕跡を言うとすれば イヅモはスサノヲがたどり着いて そこで村の敵たるヤマタノヲロチを退治した・その結果 ムラヲサに就いた。その今 治めているのも スサノヲの子孫であるオホクニヌシである。
そして スサノヲは 元は タカマノハラを主宰するアマテラスの弟である。その縁で イヅモの統治権を主張しても いいではないか。――といった筋が かすかに見られます。
それでも イヅモ側から見ればもちろんのこと 第三者から公平に見ても ただのごり押しであることは 明らかだと思います。
タカマノハラは スサノヲを国外追放したのです。
プーチンは 国家の元首として――ロシア正教会からの《聖戦》性の認定をもとめつつ―― 《侵攻は 正当である》と言おうとしています。
尖閣諸島は 太古の昔から中華帝国固有の領土であるというふうなことをシーチンピンは言っています。
度々の御回答ありがとうございます。
私も<その《正当性》は 独り善がりだ>と思います。
ブーチンもシーチンピンも独り善がりだと思います。ただし、その国にとっては正当だ、と思っています。そのニのただし、独り善がりでない正当は、(科学などの分野において検証できるもの以外には)(ほとんど)見つけるはできない、と思っています。
No.9
- 回答日時:
>両者の間に大きな隔たりがあるから、日本人は(血肉に)華厳教を受容していない(できない)のですか?
受容できないかどうかはともかく、日本人のオリジナルの精神文化からは華厳の哲学は遠い場所にあるということです。
しかし私も含めて、華厳の哲学を理解する日本人は現代には(昔に比べて)多くいるとは思います。それは何故かと言うと、現代は、昔に比べて文明化が進んでいるから、高度に概念的な哲学を理解することも、比較的簡単だからだと思われます。文明と言うのは世界各地(この場合はアジア)にあって、その様相はローカルではなくグローバルであり、地域性(特殊性)ではなく国際性(普遍性)を持っています。もし華厳の哲学が日本人の俗哲学の血肉にまでなっているとするなら、日本人は深いレベルで変質したと言う事になると思います。しかしそういう事実は私には認められません。日本人は日本人らしさを長きにわたり変わらず持てていると思うからです。
実際どうでしょう、ご自身の持たれる印象として、華厳経に記されている空とか、極小の中の極大とか言った考えや概念が、現代日本における”俗のレベル”にまで浸透していると思われますか?私には思えません。空を理解する人も、華厳経を読んで理解する人も、かなり限られると思います。
一方で、小さきものの小さな世界と言う”感性”は、”かわいい”に代表される、俗に広まる感性に行き渡っていると思います。
ところが、空を言い表す俗語は思いつきません。「うわ、これマジで空だわー」みたいな会話を私は聞いたことも無いし、自身話したこともない。華厳と言う固有名詞そのものにしても、仏教関連以外では話の筋に上がってこない。華厳経を理解している人間においてさえ思考の血肉にされていないのに、理解していない人々の間で、その概念が深いレベルで根付いているわけがない。
現代においても日本人は変わらず日本人であり、その俗哲学も大陸文明のそれとは異なると言うのが私の結論です。
再三のご回答ありがとうございます。
<現代においても日本人は変わらず日本人であり、その俗哲学も大陸文明のそれとは異なると言うのが私の結論です。>ですね。
私も空などという高度な考えは持っておりません。<かわいい”に代表され>る感性は持っていますが。
民族(社会)として古来から引きついだ(ひきずった)感性を、私は消せないし(あえて消したくもない)です。
No.10
- 回答日時:
以前 質問者さんのご質問に書き込んだことのあるエピソードのようなものを 再掲します。
【Q:<すべてのヤマヒは ウソ・イツハリから>に関し、数万年か数千年以前は、ヤマヒが無かった、というエビデ】
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/12912545.html
☆ すなわち:
☆☆ (その回答№5です) ~~~~~~
その昔 アイヌの間でこういうことが起こったそうです。
一人のアイヌの男が 山で遭難した。戻って来ない。
巫女が占なった。この山のどこそこあたりに倒れていると言う。
果たしてその通りであったが そのわけは こうだと説明した。
――わたしが からだ全体で 山になる。その山の全体に
わたしの体を重ねてみる。
そうすると 体の一部が 痛くなる。その部分が 山
のどこにあたるかを考えてみれば そこに男は遭難して
いるはずだ。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ すなわち このような言わば原始心性についての捉え方をめぐって わたしの回答内容を訂正したいと思います。
ちなみに 《一即一切 一切即一》といった華厳の思想にかんするもので これを日本人は血肉化しているかどうかです。
☆☆ (本質問の回答№3) ~~~~~~~~~~
つまり:
▲ (ヰキぺ:華厳経)
「一即一切・一切即一」とあらわし、「あらゆるものは無縁の関係性(縁)によって成り立っている」ことで、これを法界縁起と呼ぶ。
☆ というように 世界観があらわされたとき
・・・
個人たるわが身心から成る存在の〔将来の〕神性たる《一》が 世界にひろがって《即 一切》であるといった生命観 これを 神道が持っていたか?
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ この問いを発して おそらく《持っていなかった》と言おうとしたのですが 必ずしもそうではない・・・と思いました。
初めに掲げたアイヌの話にかんがみてのことです。
日本人もそのような――原始心性における《一即一切》の感覚体験のような――漠然とした思想を持っていたかも知れない・・・と思ったからです。
どうなんでしょう。
テレパシーとかテレポーテーションのような昔話や伝承は たくさんあるように思いますが。
度々のご回答ありがとうございます。
今、一即一切を考えておりますが、以下は、根拠のあることではありませんので、一笑に付してください。
縄文時代には、物や事に不思議や驚きがあった、と思います。
弥生時代にはいると、物や事の背後には神がいる、ということを引っ張り出してきた、と思います。
そして、仏教が入ってきて、しばらくたち、一即一切を思い始めたと思います。この思想は、ヒトが目の前にある世界から抜け出し、抽象的な思索を始めることができるようになってから、だと思います。
アイヌ文化は12・13世紀に北海道に入ってきたのですから、アイヌ人もその時点ですでに一即一切を持っていた、と思います。
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N0.7の月輪雷蔵様へのお礼が間違っておりましたので破棄して頂き、
再度お礼を書きます。
<日本人の感性たる”小さな者の小さな世界”という認識と、華厳の哲学である”極小の中に極大がある”という認識の両者には、大きな隔たりがある。>ですね。
両者の間に大きな隔たりがあるから、日本人は(血肉に)華厳教を受容していない(できない)のですか?