
No.8ベストアンサー
- 回答日時:
このご質問の本質は「国の支配者とはなにか?どういう権力や権威を持てば《支配者》といえるのか?」という、意外に難しいものが隠れています。
たとえば、他の方も書かれていますが、ヨーロッパでは「ローマ法王が《この者がこの国の王であると神が認めた》と王権神授することが、権力の源だった」という現実があります。
これと対抗したのが「ローマ皇帝の末裔=法皇の許可を必要としない権威」で、皇帝と法皇の対立は19世紀まで続いていました。
これを見るとご質問の「幕府と王朝という二つの体制」という権力構造とよく似ていて《国家の支配者で為政者であるはずなのに、権威による許可が必要」という事が見えています。
なんでこんなことをするかというと「それをすると、軍事力に頼らなくてもその国の様々な軍事勢力を従わせることができるから」です。
逆に中国の歴史は「異民族の強制支配」で、元も清も異民族王朝は支配した漢民族を苛烈に扱っています。もちろん漢民族も「異民族に従いたくない」ので、何度も内戦を起こして、勝った漢民族の実力者が国を作っています。ただ、その場合「実力者が複数いて、国が分裂する」という事も起きます。
つまり中国には「軍事的な力とは別の、民族の心が一つにまとまる(みんなが納得する)《権威》が存在しなかった」わけです。ヨーロッパ以外の国家は割とこの状態なので、たとえばインドなんかもイギリス植民地以前は国家が複数あったりしました。
という比較対象を説明したうえで、日本に戻ります。
そもそもほとんどの人が意識していませんが、日本における「天皇」というのは「他民族国家であったこの島国が《日本》という民族に統合されていくための中心であった」ということです。
縄文・弥生時代のこの島国は、各地に豪族が立ち並ぶ部族国家であったことは知られています。これを統合して一つの国にしたのが「天皇家」であり「ヤマト王権」です。
この時、不思議なのは「天皇家は全部全部を武力で掃討し、各部族を強制的に従わせたわけではないようだ」ということです。
他国の歴史を見たときに「武力でもって、異民族を支配する」以外の方法はほとんど見当たりません。
でも、実は共和制ローマだけは「降伏した部族、又は負けた部族でも《ローマ市民として参加する意思》があるなら、部族の上位階級はローマ貴族になり、部族民はローマ市民に成れた」という歴史があります。
それを保障していたのが「ローマに参加する部族の神々はすべて、首都ローマ市の神々の丘に神殿を作り、ローマの最高司祭が祈りをささげる」というものです。
当時の神は部族ごとに違っていて「戦争に勝つ」ということは「負けた部族の神より、勝った神のほうが優れている=勝った民族が優れている」というのが常識でしたので、負けても首都に神殿を作ってもらって、祈ってもらえる」という事は《ローマに参加する部族はみんな平等である》という保証になっていた、という事になるのです。
これが実は後々、ローマ法王が各地の国王を「神が認めた」と認定する権威の基本になっていくわけです。
で、現在の日本を見ても分かるように、日本では「天皇だけが日本の神々すべてに同時に祈りをささげることができる」とされています。これを行っているのが新嘗祭などをはじめとする、いわゆる「宮中祭祀」です。
鎌倉幕府ができる以前、すでに藤原氏や平氏によって摂関政治が行われています。藤原氏は平安中期には摂政になり、その後平氏などがその方法を真似します。この辺りで政治の実権と政治の権威は分離していったと言えます。
また、鎌倉幕府以前に奥州平泉は事実上の自治領域を作っています。これも摂関政治の亜流であり「朝廷のある京都から離れた場所で地域の摂政になる」やり方です。
このように見れば《鎌倉幕府以前に、王朝の中に自治領域ができていた》と言えます。
このような自治領域がなぜ可能だったかというと、日本国中の実力者(公家や武家)が「天皇が許可したものだから」と考えていたからです。
鎌倉幕府はその仕組みを利用し、奥州藤原氏同様に「鎌倉殿(源頼朝)に東国の自治権を認めてほしい」と天皇にお願いしたのです。もちろん背景に軍事力があったことは間違いありません。
頼朝の軍事力を恐れた天皇は、その自治を認めます。「自治を認める」というお墨付きを与えることは「鎌倉幕府は天皇の権威を認めて、朝廷を温存する」という事を意味します。
頼朝は親兄弟を殺した朝廷そのものを憎んでいたはずですが「平氏を滅ぼし、その軍事力で朝廷に東国支配を認めさせること」を選んだわけです。この時、西国の実力者たちは相当に怒ったはずですが「天皇が認めた」という事実がある以上、なにもできなったわけです。
>なぜ、二つの体制?が両立できたのですか(内戦にならずに)?
いや、内戦になっています。最初の内戦は後醍醐天皇による「建武の新政」です。つまり後醍醐天皇は「鎌倉幕府なんか認めないよ」と宣言したわけで、それに応じた西国の実力者たちと朝廷を牛耳りました。
でも、鎌倉幕府も負けていないので、別の天皇を立てて「こっちの朝廷のほうが正統な朝廷です」としたわけです。これはまさに「内戦」です。
結果的に後醍醐天皇は負けます。負けますが、鎌倉幕府に対する西国の武士たちの恨みはかなり強くなっていったようで、結果的に鎌倉幕府は倒され、室町幕府になります。
室町幕府が京都にあったのは「東国と西国の調整するのが最重要の仕事だったから」です。
だから足利家の将軍は、政治がイヤになって六朝文化にあこがれるようになったわけです。
で、室町幕府の努力もむなしく、日本の中の権力争いはどんどん激しくなっていきます。そして最終的に起きたのが戦国時代、つまり鎌倉幕府VS後醍醐天皇(西国勢力)は400年ぐらいの時間をかけて、だんだんと「本当に日本国を統治できる人物は誰なのか?」という形で決着することになったのです。
つまり鎌倉末期~戦国時代の終了という300年ぐらいは「日本は実は内戦状態だった」といえるわけです。見た目、天皇が権威を保っているので「そうは見えない」だけです。
戦国時代も、最初に書いたような世界の常識(勝った民族による支配)からみれば、実に奇妙です。なぜなら「天下統一=最初に京に上って、天皇から支配者のお墨付きをもらった者が勝ち」だったからです。
つまり戦国時代のルールは当然のように「天皇の権威」が前提だったわけです。
なぜこれが当然のルールだったかというと「武家や公家ではない人たちの生活を脅かさないこと」と「天皇の許可を得れば、遠くの敵も従うので効率がよい」ということです。
これがご質問の一番の趣旨で「なんで日本は朝廷と幕府の二重構造が成立したのか?」というと、それが武力闘争をもっとも効率的に行えて、なおかつ「はっきりした勝ち負けが見えるから」です。
でもそうすると「なんで日本だけは、そういう勝ち負けの付け方ができたか?」という疑問が出ると思います。
それは「ヤマト王権に参加した日本を作る各部族の神々がみんな平等に日本国の神々になり、各部族は天皇を権威と認めることで日本国に参加したから
」です。
つまり当時の人たちは「天皇がいるから日本国が存在し、他国のように異民族戦争が起きないのは、天皇が権威を保っているから」という認識が常にあった、ということです。
だから源頼朝も「自治は欲しいが、日本国の平和な仕組みは壊したくない」と思っていたし、その判断の正しさは元寇という形で現れます。もし鎌倉幕府と朝廷が東国・西国に分離する別の独立国だったら、西国は元に支配されていた可能性もある、からです。
日本という国は、成立の最初から「大陸の脅威に対抗するため」に島国を一つに統一した国であり、その功績は天皇家にあります。
内戦はありましたが、それは「天皇の権威を使って、誰が日本を治めるか」というものであったわけです。
ちなみに、今の立憲民主制の日本も同じです。戦国時代が衆議院選挙に代わっただけで、結局「総理大臣は天皇から任命される」し「国会は天皇が開く」わけです。
このように「一つの民族」である日本人が「島国の中でケンカしすぎないように(喧嘩して分裂すると大陸の脅威に対抗できない)」して権力と権威を分けたので、摂関政治から幕府という仕組みに発展したし、内戦が起きても天皇という権威の力は失われなかったのです。
No.7
- 回答日時:
#3です。
二つの体制が明治維新まで800年間続くのですが・・・
それを調べると本が何冊にもなる事柄で、しかも確かな結論は
出ません。
私は大和民族の優しさから来る曖昧さが狭い国で生きて行く
知恵だと思っています。
諸外国では支配者が代ると前の支配者一族は皆殺しになります、
中国では易姓革命と称して皆殺しを正当化してます、フランス革命
では政略結婚で嫁いだマリー・アントワネットがギロチン台で
死にました。
平家は壇ノ浦で皆殺しになったのでは無いのです、捕縛されて
鎌倉に送られて、その後、流罪になった武者がいますし、女性は
京都近辺の寺で隠遁生活を送っています、マリー・アントワネット
様に殺された人はいません。
誕生したら神社にお参り、結婚式は教会で葬儀はお寺で、外国から
見たら理解不能な事柄が曖昧さと息づいています。
歴史は勝者が造りますので真実は解らないのです、二つの体制が
出来たのは狭い国土で産んだ大和民族の知恵として曖昧のままの
理解??で宜しいのでは無いでしょうか・・・
-----------------------------------------------------------------------
追記の雑談。
歴史の記録は国司などの役人が記録していますが政変などで消失する
場合が多く、鎌倉時代から庶民に広まったお寺が記録の担い手として
大きな役割を持っていますが、鎌倉時代の初期ではお寺の数が少なく
布教に力を入れていて日記は残っていない様です。
水戸光圀に大日本史の編纂を命じられた藩士は資料集めに苦労
した様です、尋ねた、お寺や神社では門外不出として断られ、
比叡山延暦寺では門前払いだったそうです、結局、大日本史が
完成したのは明治に成ってからの事です。
大日本史は水戸光圀の意向を受け継いでいますので、南朝を正統化
しているなどが有り、北朝の明治維新政府とは違う為、封印されました。
現在、全397巻の膨大な物を京都大学総合博物館・文学研究科で
デジタル化して誰でも閲覧出来る様にする作業の最中だそうです。
(ここに税金を使えよ!!)
編纂に携わった水戸藩士の苦労の一端を垣間見る事が楽しみです。
早速の御回答ありがとうございます。
権威というのは<大和民族の優しさから来る曖昧さが狭い国で生きて行く
知恵だ>
前支配者を完全に抹殺するのではなく、曖昧に残しておくのですね。
No.6
- 回答日時:
No2です。
他の方へのお礼の内容も含めて再度回答します。
>鎌倉時代を通じての内戦(二つの体制❔間で、すなわち幕府と王朝間で)が、なぜなかったのかったのか?
三代将軍源実朝が暗殺された時に後鳥羽上皇が幕府打倒の兵をおこしています。承久の変ですね。幕府軍があっけなく朝廷側の兵を鎮圧して、これによって幕府の実態支配が確立します。
>それだけことで、二つの体制?が両立していることが、理解できません。
幕府側としては権威を必要としたのですよ。実際には武力でのし上がってきたのですが形の上での大義名分が必要だったのでしょう。現代の私達が思う以上に中世では大義名分が必要だったのです。ヨーロッパでキリスト教の守護者になることにより王権が認められることと類似しています。
>蒙古来襲では、幕府主導の外交施策(軍事も)が実施された。
蒙古襲来のときには朝廷の行動とはせいぜい神社・仏閣に対して蒙古退散の祈祷を依頼したぐらいですよ。朝廷はすでにこのときには外交施策に口出しできる力はありませんでした。ただただ「うろたえる」だけです。
早速の御回答ありがとうございました。
<形の上での大義名分が必要だった>のですね。
特に成り上がり者には、かっこう付けが必要なのですね、
No.5
- 回答日時:
簡単に今風に言えば、現憲法を廃止して新しい憲法を作ろうとするより、現憲法の解釈を捻じ曲げて、自分たちのやりたい事をできるようにするほうが、楽だからです。
No.3
- 回答日時:
内戦は在りましたよ、平氏と源氏の戦い、承久の乱。
臨時職の征夷大将軍を得て軍事力を把握した事です。
征夷大将軍は大宰府と多賀城の鎮守府将軍の上位に来ます。
その地位を利用して、武士に領地の支配・管理を認めたからです。
武士は国司(受領)の年貢集めの手伝いが国防と共に大事な任務でした。
子孫作りと和歌詠みと蹴鞠に明け暮れている公家に年貢を運ぶ役目に
不満を持ち、自身で領地を管理したくなるのは自然の流れでしょう。
源頼朝は幕府が危うくなった時は馳せ参じれば「一所懸命」の約束で
領地支配の認可をしました。
領地支配が自分で出来るとなれば西国の武士達も従うでしょう。
軍事力で内政の支配体制は出来ましたが、外交面はド素人ですから、
朝廷に委ねるしかなかったのです、公家の収入源の荘園も残しました。
外交は朝廷、国防と内政は幕府の二つの政治体制になったのです。
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荘園制度が完全になくなったのは太閤検地に依ってです。
早速の御回答ありがとうございます。
気になった点
1.鎌倉時代を通じての内戦(二つの体制❔間で、すなわち幕府と王朝間で)が、なぜなかったのかったのか?
2.蒙古来襲では、幕府主導の外交施策(軍事も)が実施された。
No.2
- 回答日時:
そもそも形の上では将軍(征夷大将軍)は朝廷が任命する官職のひとつです。
武家の政治とはいえ名目上は朝廷の支配機構の一員だったのですよ。
武家はいわば力によって支配しているのですが、権威を必要としていたのでしょう。
この権威は朝廷、実態は武家という形態は幕末まで続くことになります。
なお最近の歴史学では平清盛から武家政治が始まったという説が有力になっています。この場合でも平清盛は朝廷の官職である太政大臣に任命されていますね。
早速の御回答ありがとうございます。
<権威は朝廷、実態は武家という形態>ですね。
*
それだけことで、二つの体制?が両立していることが、理解できません。
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