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井伊直政のスピード出世について。
1575年小姓として見出され、1582年本能寺の変の年に22歳でやっと元服。
しかし1586年家康上洛時には家臣団で直政のみ昇殿(従五位下に叙任)、1990年関東移封の際は箕輪12万石を与えられ完全に筆頭家老扱いです。

遠江の名族なので遠江支配に井伊家の名声が必要だったとか、小姓時代から気に入られていたとか、外交上手で使い勝手が良かったとか、いろいろな理由があったでしょうが、三河統一戦や三方ヶ原の戦いを潜り抜けた古参を一気に追い抜いての大抜擢です。異様なスピード出世です。

改めてですが、井伊直政のスピード出世の理由は何でしょうか?

A 回答 (4件)

文武両道に優れていたからでしょう。


徳川家臣団は武が優れていた者は多かったかもしれないが、文、つまり政治力が優れていたのは三河以来の中では内政と外交力を兼ね備えていた石川数正を筆頭として、遠江組の中では明らかに井伊直正だった。
実直謹厳で簡単には信念を曲げない人物ではあるが、だからといって他人の助言を無視するわけでもない。
自分にも家臣にも非常に厳しかったので、領民も安心して暮らせる。しかも武も強い。そういう徳川家臣団では珍しいタイプだからこそ、家康の信頼を早くから得ることが出来たのでしょう。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました

お礼日時:2023/05/27 20:36

有能だったことと、家康のそば近くにいて、家康にどうしたら気に入られるかも理解していたと思うし、家康にとっても使いやすかったのではないでしょうか。

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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました

お礼日時:2023/05/27 20:36

本人の技量・裁量と努力のたまものでしょう。


滅んだ武田家の最強山県昌景の家臣団を配下に組み入れたのも大きいかと。
井伊直政の軍団が「赤備え」なのは、ここから来ています。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました

お礼日時:2023/05/27 20:36

本当の事は


誰にも解りません。
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この回答へのお礼

いつもふざけた回答ですね

お礼日時:2023/05/17 23:02

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